真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

除籍謄本請求に失敗した話

家系のインデックス

 

こないだ、除籍謄本の請求に失敗した話を記しておきます。

 

宮城県桃生郡矢本村(現在の宮城県東松島市矢本)にかつて住んでいて、明治36(1903)年に北海道へ転籍した私の母方祖父の母の、またさらに母の父の父・及川藤右エ門(1843~1912)は、石垣家から及川家に養子に入った人物。

その実父は石垣竹蔵という名で、藤右エ門は竹蔵の次男にあたります(除籍謄本の情報)。

 

次男である藤右エ門の年齢を考えると、竹蔵はおそらく1815年くらいに生まれた人物だと推測。

だとすると明治19年戸籍が編製された1886年には70歳ちょっと。

 

もしかすると長生きしていれば除籍謄本が残っているかも・・・と考え、その竹蔵の除籍謄本をゲットすべく東松島市へ請求をかけてみました。

 

2日後、東松島市からお電話をいただきました。

「石垣竹蔵さんの除籍はないですねぇ。もう少し探しては見ますけど」・・・とのこと。

 

電話を切り、やっぱりないかぁと思って諦めかけたのですが、もう少し足掻くことに。

 

もう一度電話をして、「もしかして竹蔵の妻が記載された次代の戸籍は無いですかね?」という質問を投げかけて電話を切ります。

 

ご返事は、「やっぱり無理ですねぇ。石垣竹蔵が戸主っていう除籍はあるんですが、次男には藤右エ門さんとは違う名前があるんですよ」

 

なんですって!?

 

その竹蔵さんの生年月日は聞いても教えてくれませんでした。

 

おそらく次男である藤右エ門は明治19年戸籍が編製される以前に婿入りしているので、石垣竹蔵の戸籍には存在しないでしょう。

東松島市の担当さんがおっしゃる石垣竹蔵が戸主の戸籍謄本は、石垣竹蔵の息子である、長男・石垣竹蔵(藤右エ門の兄)の戸籍ではないかと想像します。

 

生年月日が判れば、藤右エ門の父か兄かを判断できたもんなんですけど。

 

私が知る限りでは、藤右エ門の母親の名前は不詳。

もし、その戸籍に竹蔵・藤右エ門兄弟の母親が記載されていたとしても、名前が判らないために確定はできません。

 

矢本町史に記された壬申戸籍の目次には石垣竹蔵の名は1軒しかなかったので、この家で間違いはないとは思うのですが、もう自分の力はこれ以上ムリです(ToT)/~~~

 

何かゲットできる方法はないものか・・・。

竹内家の子孫宅にお邪魔

家系のインデックス

 

今日は久々に家系に関係する行動を起こしました!

 

妻の父の母の母の母(高祖母)のさらに実家である竹内家

 

大正元(1912)年に私が知る上での最古のご先祖・竹内惣次郎が亡くなり、釧路市では除籍後80年で引っかかってしまって平成18(2006)年に廃棄・・・。

惣次郎の妻であるたよ(1855~1942)が次代の戸籍に入っていたため、その次代の除籍は入手できたのですが、残念なことに釧路郡鳥取村に入植して以降の事項しか判明せず。

 

近い親戚から竹内家は鳥取県から来たということは教えてもらったんですが、果たして鳥取県のどこから来たのかまでは判りませんでした。

鳥取市ならば、明治19年戸籍から発行してくださるので、鳥取県時代の本籍地さえわかれば請求できると思っていました。

 

もう戸籍で追えない以上、子孫の方々に聞いてみるしかありません!

 

かねてより子孫の方が同じ釧路市内にいらっしゃることは知っていたのですが、あまりにも遠い血縁だったのでなかなかお会いできる機会がありませんでした。

 

そんな折、今日は妻が午前中は仕事で、その際に私と子どもたちは家の大掃除で出たゴミをゴミ処理場に持っていく予定でした。

その道中にそのお宅があるのです。

 

そして、そのお宅の大正10(1921)年生まれのおばあちゃん(惣次郎の長男の長女)がご健在なことも、親戚である仕事仲間から聞いておりました。

 

・・・ということで、乏しい勇気を振り絞り、子ども2人を連れてアポ無しで突撃することに!

 

まずは、おばあちゃんと同居しているという情報をもとに、そのおばあちゃんの長男のお宅を訪ねます。

するといらっしゃいました!すごく話しやすそうな雰囲気の男性です。

事情を説明すると、さっそくお宅にあげていただいちゃいました。

 

どうやらおばあちゃんはお姉さんのお宅に行っているらしく、長男の方しかいらっしゃらないご様子。

しかしながら仏壇に位牌があり、それで惣次郎の生年月日が判明しました♪

嘉永2(1849)年7月22日生まれだそうです。行年63歳。位牌に生年月日書いてあるのは珍しいですけど。

 

さらに、惣次郎が鳥取県から持ってきたといわれる絵皿がありました。

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なんか高そうな雰囲気です。

 

そしていつの間にか、子どもたちは出していただいたお菓子を食いつくしておりました。遠慮というものを教えなきゃなんないなぁ(+o+)

 

その後、おばあちゃんがいらっしゃるという近くのお姉さんのお宅を教えていただき、お宅を後にしました。

 

そしてお姉さんのお宅に1分ほどで到着。

 

インターホンを押しますが、全く音が聞こえません。

先ほどの長男さんに電話をしてみると、電話番号を教えていただけました。

その電話番号にかけてみると、そりゃあもう怪しまれまして、「弟に電話してみるからねっ(怒)!」といって切られました。

 

しばらく待っても何も起こらず、仕方なくもう一度長男さんにかけてみると「電話なんか来てないわ」と・・・。

 

こりゃあもうおばあちゃんに会うことは難しいなぁ・・・と諦めムード。

 

もう一度お姉さんに電話。

「さっきは(弟は)電話出なかったんだよ。今度携帯にかけてみるわ。そこで待ってて(ちょっと怒)」と、まだまだ不穏なムード。

こんなご時世ですから仕方ありません。いかに信じてもらうかが最大の難関です。

 

5分ほど待つと、遂に門戸が開かれました!

 

前述の経緯から、勝手に怖そうな人を想像してしまっていましたが、優しそうな女性。

こんな怪しい人間を信じてくださって、お宅にお邪魔させていただきました~♪

 

中には、惣次郎の孫であるおばあちゃんが!

すごく優しそうなおばあちゃんです。

 

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さっそく竹内家のことについて聞いてみますが、残念ながら鳥取県のどこから来たかまではご存知ないとのこと・・・。

 

得られた情報としては、

 

 ・サムライだった(!)

 ・惣次郎が勲章を何個も付けた写真がどこかにある。

 ・惣次郎は婿養子(たよの父欄に「竹内儀三郎」とあったので、うすうすは感じていた)。

 ・釧路に来たころは、大層裕福だった。

 ・宗派は禅宗

 ・家紋は曰く、「丸が付いた桐」とのこと。

 

・・・という感じでした。

鳥取時代の本籍はわかりませんでしたが、サムライだったということは、もしかすると鳥取藩の分限帳とかに名前があるかもしれません。

でもそれを見るには鳥取県に赴かなくちゃなりませんね・・・。

 

「いずれ鳥取県にいって確認してくるから、おばあちゃんそれまで元気で長生きしててね!」というお話をしてきました。

 

結果的には大きな情報こそ得られませんでしたが、竹内家の暖かい方々とお会いできたことが大きな収穫。

そして、ラッキーな出来事でした(^O^)

 

今後は竹内儀三郎と竹内惣次郎について、鳥取県で調査です!

果たしていつの日か・・・?

ブログほっぽり期間最長記録

あぁ・・・、前回の更新が2月頭なので、7か月半もブログをほっぽってしまった(+o+)

その間、いつの間にか貯金が無くなっていた(生活費に消えていた)ことが判明。

家長として3人の家族を養わなくてはなりませんので、責任重大です。

家計とのにらめっこばかりしていて、気持ちに余裕もなく、正直家系どころじゃありませんでした。

てっきり給料でやっていけてると思っていたんですが・・・。そーいうの把握しとかなきゃなりませんでしたねorz

きっと高度成長期以前の人たちも、こんなふうに日々の生活に追われて過去を顧みることなんかなかったんですね。

今回の一件でそれを思い知らされました。。。

車検で大金持っていかれそうだった愛車のプジョー307とさよならして、新車の軽四ステラを買ったりしました。6年ローンですが。

・・・ということで、最近は何も家系についての動きはありません。

今年の2月は菊地家が福島矢祭から屈斜路に入植して100周年のアニバーサリーだったんですが、何もできず。

記念誌でも作ろうかと思ってたりしてたんですが、先立つものが無ければどーにもなりませんね。

菊地家再興の目途がたったら、また本腰入れたいです。

そんな中、来月は義妹の結婚式が千葉県舞浜で行われるので行ってお祝いしてきます。私に弟ができます♪

男兄弟は(義弟だけど)初めてなので、とても嬉しいのです。

青森市出身なので、また青森に親戚が増えました。

平野家のルーツを訪ねて②

家系のインデックス

 

出張2日目。この日は午後から虎ノ門で会議があるので、家系に関する動きはナシです。

午前中は、兼ねてから行きたかったお台場のMEGA WEBというトヨタショールームへ。

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子どもが一緒だったらなかなかのんびり廻ることができなかったので、いい機会です。

中でもクラシックカーが飾ってあるトコはとても良い雰囲気。

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映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でおなじみのデロリアンが!初めて見ました♪

 

その後は虎ノ門へ行き会議に参加し、夕飯は島根県松江市役所の方とご一緒させていただきました。

職場や電算システムが非常に似通った境遇の松江市釧路市。熱く語りながら、非常に濃い時間を過ごせました。

 

そして最終日を迎えます。

この日は平野家のルーツである練馬区へ向かいます。

 

ここでひとまず今までのことを整理してみます。

 

北海道平野家の祖は新倉家からの婿養子である平野儀三郎(1866~1939)、その妻はいち(1863~1953)。この夫婦が北海道に入植しました。

いちの父は平野丑松(1827~1903)といい、母は下田家から嫁いだたつ(1819~1910)。

 

小清水町の戸籍になぜか東京時代に分籍したはずの丑松夫妻の記載もなされていたために生年が判ったのです。

練馬区の除籍は廃棄されていましたので、これは奇跡的でした。

あと、丑松の父欄には「仙之助」という名も記載されていました。

 

儀三郎の妻・いちは丑松の長女であり、次女である「かの」(1866~1932)も婿養子として上土支田の加藤音五郎(1862~1931)を迎えています。

子孫の手がかりを求め、4年前にダメモトで音五郎の除籍を請求しました。音五郎が除籍80年廃棄の対象年以降に没していて、丑松かたつが籍に残っていれば取得できるはずです。

すると、見事にゲットできました。ギリギリである昭和6(1931)年に音五郎は没していました。丑松の名も隠居として載っています。しかしなぜか父欄は空欄。小清水の戸籍に載っている「仙之助」の名がありません・・・?

さらに、そこには音五郎の息子である忠右衛門(1895~1979)の名や、孫の名前が記載されていました。やった~♪

 

戸籍で判明している入植前の地番は「北豊島郡大泉村大字小榑」。土地台帳には字名があり、「西堤」と記されていました。

これは現在の西大泉2丁目か5丁目あたりだそうです。

そして電話帳で調べても平野本家らしい家はみつからず、そのまま手紙作戦も行っていませんでした。

 

そしてある日蓮宗のお寺にお手紙をしたところ、「ウチの檀家には平野姓はいません」とのご返事。

あきらめずにもう1件のお寺、本照寺にもお手紙。するとなんとお電話をいただき、「妙福寺というところがその家の檀家ですよ。子孫は健在で、大きいお宅ですよ。」と教えていただけました。

その後、その妙福寺にお手紙をしましたが、なしのつぶてでした。これが2年前のこと。

 

今回出張が決まってから、ある程度情報を掴んでおこうということで、とりあえず戸籍の地番が今のどこに当たるかを正確に知っておきたいと思いました。

まず法務局に聞いてみましたが、法務局ではそのようなことはわからないとのこと。

 

今度は練馬区役所の資産税課に電話してみると、住居表示係ならわかるかも?ということで、電話を回していただきました。

そしたらば、「この地番だと、西大泉2丁目〇〇番地あたりだと思います。たぶん・・・」というご返事をいただけました!

 

んもう、興奮しましたね。さっそく電話帳を繙き、そこの平野さんを探しますが、・・・やっぱり無い。

しかしながら近い番地の平野さんが居りましたので、いてもたってもいられずにさっそく電話!

奥さんらしき方が出られ、「ウチじゃあそんな昔のことはわかんないです~」と言われて終了。やっぱし、こんな突然の電話じゃあ怪しいしなぁ。もし知ってても教えてくれないだろうな。。。

 

・・・というこれまでの感じでした。

 

宿泊地の池袋から、まずは除籍謄本を求めて練馬区役所へ向かいます。

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しかし、やはりこれ以上の除籍謄本は取れず・・・。

 

ぱっぱとあきらめて、大泉学園駅へ。

 

まずは本照寺へと歩を進めます。この間迷いまくって40分くらい・・・。

ここいら辺の日蓮宗のお寺の元締めとあって、さすがに立派なお寺でした。

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ご住職にお会いして、以前のお礼をしようと思いましたが不在とのことで、妙福寺へと向かいます。

 

さらに細い道を車に轢かれそうになりながら歩くこと30分。ついに妙福寺に到着!保育園が併設されていて、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきます。

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おぉぉ・・・でけえ!すごい迫力を感じました。

 

そしておそるおそる門をくぐって右を見ると、石碑がありました。どうやら檀家の名前が彫ってあります。

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よくよく見てみると・・・

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おぉ!平野忠右衛門の名が刻まれている!間違いなく、平野家はここの檀家!

 

興奮しつつ受付へ向かい、ご住職に会えないか尋ねましたが、生憎お客様がいらっしゃるようででした。

対応してくださった女性の方に事情を説明すると、子孫の方を探してくださいました。

 

すると、檀家の名簿には忠右衛門の息子にあたる方(大正11年生まれ)の名前があったんですが、横線で消してあるとのこと・・・?

おそらく檀家じゃなくなったんだろうけども、理由は判らないとのことでした。

そして、お墓も寺内には無いとのこと。家でお墓を持ってるのではないでしょうか?とおっしゃられました。

いちおうその方の住所を伺い、今度はその住所へと向かいました。

 

40分ほど歩き、やっとその住所に到着するも、そこには違う名字の表札が掲げられています・・・。

あぁ、どっと疲れが・・・。これまでか!?

 

仕方なく近くのファミリーマートでお昼を食べようと思いましたが、もう汗だくなので昼食はアイスモナカに。

ファミマの駐車場で汗だくでアイスモナカを食べる不審な男。もう通報されてもおかしくないレベルですよ。

 

モナカを食べ終わり、タバコの煙を燻らせながら考えました。

そうだ!こないだ電話した家に行ってみよう!もうダメモトだけど!

 

さっそく行ってみると、とんでもなく大きな農家です。

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運よく外で農作業している方がいらっしゃったので、声をかけてみました。

事情を説明すると、「あぁ、北海道に行ってクマに食われた人かい?」と、予想外の答えが!

 

なんと、その方は平野家から江戸時代に分家をなさった家の方でした。なんという幸運でしょう!

 

その方から、いろいろな情報を得ることができました。

 

本家である忠右衛門の息子さんは一人暮らしで近くに住んでいるということ。

さらにその息子さんはちょっとはなれたところのマンションに住んでいるということ。

かつては屋敷があったが、近年すべて人手に渡ってしまったということ。

書けませんが、平野家が妙福寺の檀家ではなくなってしまった理由・・・。

 

そして、墓地の場所も教えていただきました。すぐ近くにあるセブンイレブンの駐車場の片隅にあるそうです。

最後に本家のお孫さんの連絡先と住所をゲット!

 

丁寧にお礼を言って、分家の平野家を後にお墓に向かいます。

 

お墓は、近くのセブンイレブンの敷地内に本当にありました。

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なんという場所にあるのでしょうか。平野さん曰く、お墓の土地は売れないから・・・とのことでしたが、なんかすごいです。

そして家紋は北海道平野家と同様、「丸に抱き茗荷紋」。なにか感激。

 

手を合わせ、ラッキーが重なってここに来れた奇跡を感謝し、子孫は北海道で繁栄してることを報告しました。

墓地には10基ほどの墓石がありました。確認できるところでは、天明元号が彫られたものもあります。

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墓誌には、丑松の一世代前からの戒名がずらりと刻まれていました。丑松以降は日蓮宗の戒名なのですが、俗名の記載のない丑松の父母?は日蓮宗の戒名ではありませんでした。

そして写真を撮りまくりました。やはり風化して読めない墓石が多く、さらには戒名しか彫られていない墓石が多いので、誰の墓石かわからないものばかり・・・。

そんな中で、名前が見つかったのは、音五郎や丑松の他に、施主として「宗右衛門」や、「想右衛門」という名でした。韻が同じなので同一人物かな?

中には「施主 平野牛松」と彫られていたものもありましたし。

 

戸籍上丑松の父として記載されている「仙之助」の名は見つかりませんでした。「そうえもん」がそうなのかなぁ?

 

ひととおり写真を撮りまくり、「また来るね!」と心の中で言って立ち去りました。

 

最後に、忠右衛門のお孫さんに電話したところ、残念ながらお仕事に行ってらっしゃいました。そりゃあ平日ですから・・・。

後日、電話を頂けるとのことなので、今回の調査はここで終了です。もう羽田に向かわなくてはなりません。

 

そんな最終日でした。まさかここまで辿りつけるとは思っておりませんでしたし。

ご先祖さまが導いてくださったとしか思えない展開になりました。

 

ちなみに後日、忠右衛門のお孫さんから連絡をいただいたのですが、過去帳墓誌と同じことしか書かれていないらしく、これ以上さかのぼることはできないとのこと。むむむ残念。

むしろ知らないことが多いので、教えて欲しいとのことでしたので、近いうちに資料をお送りします。これがきっかけで、なにか掘り返すことができればとの期待を込めて・・・。

結局、撮った墓石の写真を見返しても読めないものが多かったですし・・・。

 

でも百年以上も疎遠だった本家とご縁ができたことをとても嬉しく思います。

早く小清水のじいちゃんに報告したいな♪

平野家のルーツを訪ねて①

家系のインデックス

 

私の母方は「平野」という姓でして、家系を調べ始めた5年半前に、除籍謄本によって初めて北海道入植以前の土地が判明した家でした。

現在は北海道オホーツク地方、斜里郡小清水町に居を構えて農家を営んでおりますが、そもそもの地は「東京府北豊島郡大泉村大字小榑」。現在の練馬区西大泉付近に当たります。

 

なかなか現地に訪れるチャンスが無かったのですが、先月末、2泊3日の東京への出張命令が出ました!これは大チャンスです。逃すわけにはいきません。しかも一人と身軽ですし。

 

出張自体の目的は2日目の午後の会議です。

初日と3日目は移動日ということになります。せっかくなので朝一番の飛行機で東京へ向かい、最終日は最終の飛行機で帰ることに。

スケジュールをいろいろと勘案した結果、初日は西東京市の田無へ向かうこととしました。

 

田無。それは北海道に入植した平野家の祖、私から見ると高祖父である平野儀三郎(1866~1939)の実家・新倉家の地であります。

儀三郎は1866(慶応2)年に田無芝久保の新倉治兵衛の次男として生まれ、1886(明治16)年に小榑村・平野家の長女の婿養子となりました。

 

新倉家とは4年前にお手紙で連絡を取らせていただいた際にご返事をいただきました。儀三郎の実家を発見できたのです。

さらには分家の方にメールでの情報提供をしていただいたり、Facebookでのお付き合いもさせていただいております。

 

新倉家は、西東京市の図書館に文書を寄贈してくださっていたりしまして、図書館司書の方にいろいろとお世話になって儀三郎の卒業証書などをコピーして送ってくださったり、田無の明治初期の資料を探し出してくれたりしました。

 

・・・ということで、新倉家については基礎的な部分は、釧路に居ながらにしてある程度把握していたところです。

 

今回、もちろん西東京市には初めて訪れるわけです。西武線にもはじめて乗りました。

宿泊地の池袋から、西武線で約30分。乗り換えなしで行けました。着いた時にはもう16:20。夕暮れが始まる時間です。

 

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急いで新倉家に向かいますが、道に迷いまくりました。地図も印刷して、ケータイのナビもあるというのに!自分の方向音痴に改めてびっくりです。

しかも、東京は暑い・・・。もちっとライトな服装にすればよかった・・・などと考えながら、知らない道を歩き続けます。

まともに行けば10分もかからないであろう道を30分ほどさまようと、新倉さんから電話が!あまりにも遅いので迷ってると心配いただいたようです。その通りでした。

なんとか誘導してもらい、ヘトヘトで辿りつきました。

 

ハーブで有名なニイクラファームを営む新倉家のたたずまいは、荘厳たるものでした。こちらの新倉さんは分家なのですが、分家でこんなでかいの?っていう感じです。さすがハーブ界に名をはせる家!サザエさんの家を彷彿とさせました。北海道の造りとまるで違うんですね。

 

仏間にお邪魔し、新倉さんとそのお父さんと一緒にいろいろなお話をさせていただきました。

 

北海道に渡ったのち、しばらくして音信不通となった儀三郎はクマに食われたことになっていたこと。

こないだお祖父さんが亡くなってしまったが、儀三郎の子孫である私の連絡がきっかけで、色々昔のことを聞くのになんとか間に合ったということ。

儀三郎の父である治兵衛以前については、よくわからないこと。ただ、次兵衛という名前であったことは判明。

いつのことかわからないが、ニイクラという名から、もともとはおそらく大陸から来たのだろうということ。

家紋は「丸に違い鷹の羽」だが、本家は「五三の桐」だということ。

 

そして、お祖父さんが亡くなった後、行政書士に依頼して家系図を作成されたのを見せていただきました。

戸籍から判明したことしか記載がありませんでしたので、お墓とかでもう少し情報を引き出せると思いますが、もうその日は暗くなってしまったので墓地調査はあきらめました。

 

また、儀三郎は次男で、この分家の新倉さんは長男・茂助の系統。

長男が早くに亡くなり、次男が養子に行ってしまったために、三男が本家を継いでいます。

 

しかし、新倉家の方々は儀三郎が平野家に婿養子に行ったことをご存知ありませんでした。

消息不明となった後も、新倉家の方々は儀三郎のことを気にかけてくださっていたそうです。

消息不明となった儀三郎のために、治兵衛は本家の庭の一角に祠をたてていました。

 

分家の新倉家を後にし、その祠があるという本家に向かいます。

途中でハーブ畑を横断しましただが、東京都内とは思えない広大な土地でした。すごいなぁ。

 

そして、最初にお手紙のご返信をいただいたのは本家のおばあちゃん。

 

本家に到着し、まずは夕闇に包まれてしまったお庭で祠に手を合わせます。

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そして造園業をなさっている本家の事務所的なところで本家のおばあちゃんを交えてお話させていただきました。

 

とにかく新倉家の方々は温かかったです。

こんな怪しい人物に時間を割いていただき、優しく迎えてくださいました。

見知らぬ土地で心細かったところ、本当に嬉しかったです。

 

おばあちゃんにお別れの挨拶をし、田無駅に向かいます。

途中で新倉家が経営している駐車場などがあったり、驚きの連続でした。

 

帰りに田無駅前の黒潮というお店で夕飯をごちそうになりながら、またいろいろなお話を伺うことが出来ました。

 

新倉家の親戚には、ハワイやパリにお嫁に行った人がいるそうです。

「血縁全員調べるの無理」!と感じた瞬間でした。

 

全部調べるとなると大変なので、新倉さんに「いまのうちにまとめておいてください!あとお墓の写真とって送ってくださいね♪」とお願いしました。

 

胸がいっぱいで、せっかく御馳走していただいたのにご飯を半分くらい残してしまったのが申し訳なかったです。

 

最後に田無駅北口のきれいなイルミネーションを見ながら、戦中は田無も大爆撃を受けたという歴史を新倉さんにお聞きしました。

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残念ながら新倉家について遡ることは叶いませんでしたけど、田無の空気や、新倉家の温かい人柄に触れられて大満足の一日目が過ぎていきます。

 

つづく

2012年も暮れていく

家系のインデックス

 

いよいよ2012年も終わりの日。

今年もいろいろなことがありました。

 

家系と関係ないところでは、愛車ルノー・ルーテシアが壊れ、悩んだ結果プジョー307に買い換え。

買った時点ですでに10年落ちだったので、わりに安かったです。それについに念願のマニュアルシフトです!

 

そして逆流性食道炎の発症。春先は日常生活が送れないほどひどい状態でした~。

つねに吐き気がする状態で、それに伴って激しい体調不良。

救急車で搬送されたり、買ったばっかりのプジョーの中で運転中に嘔吐したり・・・。思い出したくないぃぃ。

未だに完治してないんですが、だいぶ症状は緩和されました。

 

子どもたちはそれぞれ5歳と1歳に。

娘は幼稚園の年中に進級し、とてもお姉さんになりました。ワガママや口答えもレベルアップ!

息子はやんちゃ盛り。片づけるそばから散らかしてくれたり、なんやかんやひっくり返したり、もう大変です。

大病も無く過ごしてくれたのがなによりです。

 

仕事のほうは、数年がかりの一大仕事がようやくひと段落した年でした。長かったなぁ。

 

家系探求もいろいろなことがありました。

夏には初めて祖母の実家である女満別太田家を訪ねたり、秋には妻の実家・山田家のルーツである青森県むつ市を訪ねました。

青森は1泊2日の強行軍でしたが、忘れられないことばかり。

情報としては収穫はあまり無かったですが、現地の親戚の方々と触れ合えることができましたし。

 

あとは、宮城の方から膨大な情報を頂きました。まだ整理しきれてないですが・・・。本当にありがとうございました!です。

 

さらにはFacebookで改めて遠戚の方々と友達になりました。

そういえば、こないだ妻の母方曾祖母の実家である相木家の子孫の方がこのブログを読んでくださって、Facebookで友達申請してくださったのです!

なかなかコンタクトが取れない家でしたので、非常にありがたいことでした。

 

・・・と、ぼちぼちな1年だったかなぁ。

 

来年は良いことばっかりな年になりますように・・・。

 

みなさまも良い年をお迎えください=*^-^*=

 

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今年10月、函館奉行所での一コマ。新選組のコスプレ~。

この家紋は・・・?

家系のインデックス

 

以前、宮城県の方から有り難くも地籍帳などの膨大な資料をいただいたのですが、未だに整理できないでいる私です。

 

その資料の中で、わざわざ蔵王町岩沼市の墓地(妻の祖先)まで赴いてくださり、さらに写真を撮ってきてくださったものがありました。

 

私のブログ内で見つけた名前や地名を基にお墓を探しだしてくださったのですが、とんでもなく苦労をおかけしたと思います。広大な墓地からお墓を探すのは非常に難しいことは、こないだ青森県むつ市で経験しましたから・・・。

 

しかも墓地は数多くありますし、その中からよくぞ見つけてくださった!!と感服するとともに、本当に感謝していたところです。

 

その方は、自分の探求が行き詰ったところで、力試しで私の家系を調べてくださったそうです。

現地になかなか赴けない身としては、なんという幸運でしょうか。

 

しかし、私はその方の力になれそうにはないので、歯がゆかったりします・・・。何か恩返ししたいとおもいつつ、日々が過ぎてゆきます。

 

・・・と、そんな中、初めてみる家紋がありました。

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これは、妻の祖母の祖母にあたる佐藤よの(1869~1937)の実家、岩沼市志賀の大久保家の紋です。

 

初めて見る紋ですが、なんという紋なのでしょう・・・?

 

何となく藤のような気はするのですけれど。あと、大久保の「大」でしょうかね?