母方曾祖母の実家・及川家の子孫との邂逅
先月、子どもの夏休み突入と同時に、実家の函館に帰省。
函館には、小清水町に住む母方祖父である平野政次の母・とよみの実家・及川家の子孫の方がいらっしゃることを以前から存じておりました。
曾祖母である平野とよみ(1893~1978)は、宮城県桃生郡鷹来村矢本(現:東松島市矢本)で及川清之進・ちよみ夫妻の12人兄弟の3人目として生まれ、一家で北海道の瀬棚に入植し、そこで曽祖父・平野留五郎(1884~1937)と結婚し、小清水に移住しました。
及川家は、とよみが家を離れたのちに函館市、今金町、札幌市へとそれぞれ分布することに。
今回、函館の本家とついにコンタクトがとることが出来、お会いできることになったのです(^O^)
涼しい釧路から7時間かけて函館に着くと、暑くてゲンナリでしたが(>_<)
7月30日、函館中央図書館で遂にご対面!
その方は曾祖母の兄・及川隆(1889~1947)の孫にあたり、母から見るとハトコになります。
北海道剣道界の重鎮なのですが、こんな私にもフランクに接してくださる方でした。
しかも、ほかにお二人の方、<曽祖母の弟・及川九郎のお孫さん>と、<曽祖母の末の妹・青山十二(とよみの11歳下。最近までご存命でした)の息子さん(祖父・平野政次から見ると、イトコにあたる)>まで同席していただきました。
平野家のイトコたちも剣道をやっており、血を感じさせますが、聞けば曾祖母・とよみの弟である及川弥治郎(1895~?)は札幌で数々の難事件に立ち向かった刑事だったそうで、さらに札幌の剣道史にも名前が出てくる程の人物らしいです。
みんな剣道やってるのは、弥治郎さんの影響なのでしょうか・・・?
集っていただいた中で、一番詳しいのは、祖父のイトコである青山さんでした。
私が事前に送らせていただいていた家系図を基に、いろいろ思い出してくださって、枝葉を広げたものをまとめてくださっていたのです。
そして、曾祖母の父である及川清之進(1871~1935)を看取ったのは、九郎さんのお宅だそうでした。
及川家紋はおそらく「三つ柏」だということです。が、現在はキリスト教だそうで、家紋とかはすっかり忘却の彼方へ・・・。
2時間ばかり絶え間なくお話をさせていただき、祖父がいうところの及川家の優秀な遺伝子をひしひしと感じることが出来ました。
一昔前の札幌市には、部長クラスが数名及川家から輩出されているとか、某大の教授だとか、今回集まっていただいた方も、現在も著名な事業家だったりするわけです。
゜(゜o)っていう気持ちでした。
残念ながら宮城時代など、家系を遡ってのお話はご存知無かったですが、遠縁であるお宅とご縁が出来ただけでも超ラッキーなことです。きっとご先祖さまのお導きでしょう!良い方ばかりでしたし\(^o^)/
一番お詳しい青山さんに、私が用意した除籍謄本や宮城の増子さんという方が調査した下さった墓石や旧村の資料などをお渡しし、これからいろいろ調査をしていくとおっしゃっていただきました。心強いことこのうえありません(*^_^*)
矢祭町出身の有名人?
私の祖先の地である福島県東白川郡矢祭町ですが、ちょっとした有名人の出身地であることを知りました!
その人は「あばれる君」。お笑い芸人です。
http://www.minpo.jp/news/detail/2014061416274
福島日報にしっかりと書いてありました(^O^)
この「あばれる君」ですが、本名は「古張」さんで、これは矢祭町長と同じ苗字で、矢祭には多い苗字です。
なんで有名人になったかというと、少なくとも私は日曜の朝に放送している「ポケモンゲットTV」という子供向け番組でしりました。
その番組の企画で、日本最北端の宗谷から、日本を旅しながらどんどん全国の子どもたちとポケモンを交換していくということをやっています。
まだまだマイナーな人かもしれませんが、矢祭出身では数少ない有名人。しかもこの番組が面白いので、応援します\(^o^)/
ぷららBroachから引っ越し完了
来月いっぱいで、ぷららのブログサービスが終了することになり、こちらに引っ越し。
4月から移行作業を行い、先ほど終了しました。足かけ2か月・・・。もうやりたくない!
ぷららで2008年5月から、約6年超。
ご指南を頂いたり、情報提供を頂いたりと、ずいぶんと助けられましたね。
せっかくいただいたコメントなんですが、移行したところ名前が無くなってしまい、どなたからなのかが判らなくなってしまいましたが・・・。
稀にしか更新しなくなってしまいましたが、まだ続けるつもりですので、よろしくお願いいたします。
2014/5/25 8:30時点のぷららBroachのカウンター
合計 : 163749 (2008.5.11~)
本日 : 19
昨日 : 122
はてなではカウンターが無いんですね・・・。
昨年を振り返って
2014年もすでに松の内が過ぎ、すっかり日常生活に戻りましたね。
昨年を振り返ってみると、まず1月に東京出張がありました。
おかげで、北海道入植前は練馬区にあった母方の平野家について調査することができました。
3月には貯金が底をついたことを知り、しばらく立ち直れませんでした。
んもう家系どころじゃなかったですね。
そのため、金食い虫の通勤用プジョー307(保有期間1年と2週間)を手放し、軽自動車に乗り換え。
外車(というかフランス車)生活に別れを告げました(ToT)/~~~
あとは、可愛がってもらった妻の祖母の兄(佐藤家)が9月に90歳で逝ってしまいました。
骨折して入院するまでは元気だったんですが、入院してしまうと一気にダメになっちゃうんですね。。。
11月以降は、漏れていた戸籍謄本の取得に奔走。
まだまだ課題は残されています。
そして、私的な最大のトピックスは、昨年を以てタバコを卒業したことです!
最後の一服は、12月31日の23時59分54秒に吸い終わりました。
まだ8日ですが、頑張っております\(^o^)/
もう喫煙所探したり、会議中に吸えなくてイライラすることもないです。
タバコ吸っている間って、ずっと禁断症状に苦しんでた気がします。
17年間のニコチン依存症から、いまは解放されてすっきり~♪
探し求めていたものが今ここに\(^o^)/
3週間前、妻の高祖母・湯谷まち(1879~1959)の実家である竹内家の子孫の方にお会いすることができました。
結局、竹内家が北海道釧路郡鳥取村に来る以前のことについては判明しませんでした。
釧路に来てからの、まちの父親である竹内惣次郎の除籍謄本が廃棄されていたことによって、壁に突き当たってから早6年が経過。
もうほとんどあきらめていたところでした。
しかし、先々週より本当に久しぶりに除籍謄本の請求を開始。
しかし、「鳥取から来た」、「サムライだった」という言い伝えしかない状態。
あとは、位牌に記述されていた惣次郎の生年月日が嘉永2(1849)年7月22日だったということ。
そして惣次郎は婿養子で、妻・たよ(1855~1942)の父が竹内儀三郎という名であるということ。
さしあたって、まずは高祖父の実家があった鳥取市に請求してみます。
まちの夫である高祖父・湯谷金蔵(1867~1935)が住んでいた旧・国府町荒舟の近くかもしれません。
また、サムライだったとのことなので、城下町に住んでいたんだろうというのと、結婚相手と近い所に住んでいたのではないかという推測です。
しかし、空振りに終わりました。
最近は結構な数の自治体で戸籍システムを導入していて、旧い除籍でも名前をポンと入力するだけで検索できるようになっています。
電話をいただき、その間にも検索してくれたのですが、鳥取市の除籍には惣次郎も儀三郎も該当はありませんでした。
九分九厘鳥取市だと思っていただけにがっくり。
もう、あとは本当に闇雲に請求しまくるしかありません。
発行されない以上、郵便小為替自体の額面は減らないのですが、切手代がかかります。往復で280円。
家計の関係上、一回にまとめて請求というのはできないので、順番に請求していかなくてはなりません。
あと18もあるのか~(+o+)
そんなとき、ふと思い立ちました。
メールで有るか無いか聞いてみたらいいじゃん!
さっそく実行!
しかし、どこも「ちゃんと正式に請求してくださいね~」と優しく電話やメールで諭してくれるだけ。
そりゃあ、このご時世じゃそうだよなぁ・・・。
仕方がないので、再び正当に請求することに。
すると、鳥取市に次いで、八頭郡の八頭町というところの竹内率が高いです。
次のターゲットは八頭町!
そして先週の金曜日に請求書を投函し、ドキドキ待っていました。
しかし、待てども暮らせども電話が来ません。
たいがいこういうシチュエーションのときは、有っても無くても電話を頂けるのですが・・・。
すると今日、仕事から帰ってみると、八頭町から封筒が帰ってきていました。
ペラペラだったので、やっぱこりゃあダメだったか・・・と思って開封してみると、一枚ペラっと除籍謄本が!!!!!!
おぉぉぉぉ・・・戸主・竹内惣次郎って書いてある!
そうです、ついに竹内家の北海道以前の本籍が判明したのです。
残念ながら、惣次郎の養父にあたる儀三郎は壬申戸籍時代に亡くなっているようで記載はありませんでしたが、本籍地が判っただけでも満腹中枢が刺激されました。
鳥取県八東郡徳丸村に住んでいた竹内儀三郎。
その長女・たよ(1855~1942)の婿養子として、1875(明治8)年に同じ徳丸村民・中嶋藤八の次男・惣次郎(1849~1912)を迎えます。
そして1877(明治10)年に惣次郎が家督相続。事由は不明です。
その後、1898(明治31)年の届出で、北海道釧路郡鳥取村に転籍しています。
言い伝えだとその6年前くらいに釧路に来ているはずですが、だいたいどこの家も転籍手続きは遅いので普通でしょう。
そして、今回入手した除籍に記載されている人物は、全員北海道に入植しています。
果たして徳丸に血を分けた人はいるのだろうか?
徳丸村の変遷は、
徳丸村→逢郷村→丹比村→八東町→八頭町と変遷しており、現在は八頭郡八頭町徳丸として地名が残っていますね。
Googleマップで見てみると、とてものどかな風情の土地のようで、梨が名産みたいです。「道の駅はっとう」もあるよ!
こりゃあ、いよいよサムライじゃない気が・・・。鳥取の中心街からずいぶん遠いし。
でも本籍が判明しただけで、もう鳥取に行きたい気持ちでいっぱいです。
がんばってマイルを貯めないと♪
あと、ようやくクリスマスツリーを飾りましたよ\(^o^)/
祖父の軍歴
家系調査とは離れますが、私の祖父は二人とも兵隊でした。
陸軍に所属していた軍人は、兵籍簿というものが各都道府県の福祉課的な部署に保管されているらしく、申請すれば兵籍簿そのものではないものの、それをExcelで打ち直したものを送付していただけるようです。しかも申請書+対象者から請求者のつながりがわかる戸籍謄本のコピー+返信用切手80円だけで。
ということで、申請してみました。
話によると、東京の写真学校に通っていたために写真班に所属し、かなりやばい写真(中国の人を〇〇してるところとか・・・。おそろしくて書けない)をいっぱい持ち帰ってきたそうです。
全部捨てられてしまったようですが・・・。
また、伯母曰く「太平洋戦争のときは、病気になってすぐ帰ってきた」とのことでした。
結果は・・・。
菊地 幸松 | ||||
大正5(1916)年4月21日生 本籍:北海道川上郡弟子屈町御料地29番通西第105号地 | ||||
年月日 | 任官・進級・昇級 | 記事 | ||
昭和13(1938) | 9 | 14 | 歩兵二等兵 | 臨時招集のため歩兵第27連隊留守隊に応召 |
留守第3中隊に編入 | ||||
12 | 24 | 召集解除 | ||
昭和15(1940) | 9 | 15 | 二等兵 | 勅令第581号により |
昭和16(1941) | 7 | 19 | 充員召集のため歩兵第26連隊に応召 | |
第1中隊に編入 | ||||
7 | 24 | 第24歩兵団司令部整備要員として第7歩兵団司令部に充当 | ||
7 | 26 | 旭川出発 | ||
8 | 1 | 神戸港出帆 | ||
8 | 3 | 釜山港上陸 | ||
8 | 6 | 鮮満国境(図們)通過 | ||
8 | 8 | 東安省密山県西東安着 | ||
第24歩兵団司令部に編入 | ||||
11 | 1 | 一等兵 | ||
12 | 2 | 脚気のため東安陸軍病院西東安分院に入院 | ||
昭和17(1942) | 2 | 12 | 治癒退院 | |
5 | 7 | 脚気のため東安陸軍病院西東安分院に入院 | ||
7 | 16 | 治癒退院 | ||
昭和18(1943) | 1 | 1 | 内地帰還のため西東安出発 | |
1 | 2 | 鮮満国境(図們)通過 | ||
1 | 7 | 釜山港出帆 | ||
下関港上陸 | ||||
1 | 12 | 旭川着 | ||
第7歩兵団司令部に転属 | ||||
1 | 17 | 召集解除 | ||
昭和20(1945) | 3 | 25 | 臨時招集のため第7師団司令部に応召 | |
独立歩兵第460大隊第1中隊に編入 | ||||
5 | 22 | 移駐のため帯広出発 | ||
根室着 以後同地の警備 | ||||
8 | 18 | 召集解除 |
確かに2回も脚気になっています。戦中の栄養不足の最中、さぞかし恐ろしい病気だったのでしょう。
最終的には北海道の警備だったのはラッキーだったんだと思います。
母方平野の祖父は、太平洋戦争のみ従軍。
こちらは、不本意な結果でした。
平野 政次 | ||||
大正11(1922)年3月6日生 本籍:樺太恵須取郡恵須取町大字上恵須取字布禮二線69番地 | ||||
年月日 | 任官・進級・昇級 | 記事 | ||
昭和18(1943) | 4 | 1 | 二等兵 | 現役兵として歩兵第25連隊歩兵砲中隊に入営 |
同日より国境警備勤務に服す | ||||
4 | 17 | 脚気のため上敷香陸軍病院に入院 | ||
4 | 27 | 兵役法第21条により現役免除 | ||
同日国境警備勤務を離れる | ||||
以降、兵籍簿滅失により不明 |
わずか27日分しかない(+_+)
そしてやはり脚気の魔の手が・・・。
現在も元気な祖父・平野政次ですが、終戦時は樺太に兵籍をおいていたために、戦後の樺太ロシア占領の際、昭和19年以降の兵籍簿が樺太に置き去りになってしまったと思われます。
終戦を陸軍一等兵で迎え、シベリア抑留も4年間経験して命からがら帰国した祖父。
その証が残っていないのは、非常に無念です。
それにしても、二人とも無事に帰ってきてくれたために私が今存在しているわけです。
軍事や戦争には疎いので、「おぉ!第〇連隊はこんな功績が・・・」とか「あんな作戦に参加してた部隊だ!」とかは全くわかりませんけど、この行間で、数々のドラマがあったのでしょうね。
しかも現代では考えられない、人の生死を左右する出来事が毎日のようにそこかしこで起こっていたのでしょうし・・・。
北海道の職員の方がExcelで打った無機質な表でしたが、二人の祖父が命をかけてかいくぐってきた歴史です。感慨深く見入ってしまいました。