真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

新編武蔵風土記稿、小榑村部分抜粋

家系のインデックス

 

母方平野家について、明治時代に編纂された新編武蔵風土記稿の小榑村(現:東京都練馬区西大泉3~5丁目付近)項で何かわかるかも・・・という思いでちくちく現代仮名に直して入力してみましたが、特に得るものはありませんでした(*´Д`)

せっかく打ち込んだので、読みづらいとは思いますが以下に載せてみます。

つぶれて読みづらい文字がありましたので、間違っている箇所があるかと思いますが~(;・∀・)

 

新編武蔵風土記稿

小榑村
小榑村は廣澤庄と称し、郷名は伝えず郡の東南の隅にありて江戸を隔てること五里余り。
東は上白子村及び白子川を隔て豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及び郡内上保谷村に境、北は中沢辻爾村に接し、上白子村の西方より土支田村の境、白子川の流れに沿い斜めに西の方へかけ入り、その形半月の如し。
故に北によりたる所は東西一里余り。南の方は縦に十町許。南より北へは五町もあるべし。
人家320軒。川越街道の内、白子の宿へ人夫の定助をつとむ。このあたり用水の便あしければ水田少なく畑多し。米穀は一里許隔てたる黒目側の河岸へ津出しをなし、荒川を経て江戸までえ川路十六里余り。
この村の飛地、隣郡土支田村に二ケ所、本郡中澤村に一ヶ所あり。北條分限帳に小榑深屋98貫860文。太田大善亮知行とあり。染屋は多磨郡染屋村にて、小榑はこの村なれば北條家の時代までは太田氏の知行なりしか。御打ち入りの後、板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは上新倉村に見えたり。板倉氏この地を領せしは、勝重より子息伊賀守に及び寛政3(1791)年の頃までなりと村人の伝うるところなり。されど板倉家系に勝重の子は周防守重宗とあれば伊賀守といえるは誤りにや。
正保(1645~1648)の頃、御代官野村彦太夫爲重が支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり。のち寛文年中(1661~1673)に至り稲葉美濃守正則の領地となり、寛文3(1663)年、同人検地せり。その子丹後守正通、貞享2(1685)年、越後國高田へ所替あり。
のちまた御代官所となり、元禄16(1703)年、江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜り、それより累世今も米津氏の領知なり。

小名
・堤村
村の西北の方を云い、この厥(まがり)の辻に高さ3尺8寸、幅1尺4寸3分、厚さ1尺2分。正面に題目を刻み、側に享保元(1716)年に建てたる由を彫る四面の塔あり。
故に土人ここの小名を四面塔ともいえり
・榎戸
榎の古樹が残っており、故に名づく
・水溜
村の南にあり
・小作
村の西にあり
・中島
土支田村の境にあり

山川
・白子川
この村と土支田村との境て北に流る。川幅2間許
・井頭池
この村および土支田村の境南によりてあり。白子川の源なり

原野
・林場
村の東北隅にあり

神社
三十番神
村の鎮守なり。小名中嶋にあり本照寺の背後にあたれり
・稲荷社
小名堤村にあり。鎮座の初め詳しならず。9尺1間許の小稲荷に鳥居あり。村内圓福寺の持なり。

寺院
・妙福寺
村の東、豊島郡土支田村より入口にあり。法華宗。下総國葛飾郡中山法華福寺の末法称山と号す。弘安5(1282)年、法華経寺第二世日高聖人草創の地なれども、のち住める僧もなかりして、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、十七日の説法ありしに、村内天台宗修験大覚寺の住持日延聖人もこの法筳に至り、深くその宗意を帰依し遂に改めてこの宗となれり。
日祐も日延聖人の知識にのってならさるを知り、当寺をこの聖人に譲れり。
今は日祐聖人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す。日延は永和2(1376)年11月11日に寂す。
のち天正年中(1573~93)、御朱印地21石余りを賜りしか、のち回禄(火災)に罹り寺も滅べしに、21世明了院日教聖人、堂宇を再造せしにへ。
これを中興開基とす。この聖人は享保11(1726)年11月1日寂せり。本尊三寶を本堂に安す。
往古大覚寺の本尊は、嘉祥3(850)年創建の時、開眼の釈迦(金佛坐像)今もこの寺に納め置いたりという。金剛は近き頃塗り直し、古色を失うに似たれども容貌この常の像に非ず茜きものと見えたり
三十番神
二間半、四間半、祖師堂に向かって左にあり
・七面妙見相堂
二間半に四間半、祖師堂の丑寅にあり、三間四面この鬼子母神法華経寺に安せる像の本礼なり。往古日蓮聖人、平日の済経佛なりしを日祐聖人へ伝わり、ついに当寺へ納めたり。本寺には卸して○刻の○を安せり嘗て給わるところの御朱印もこの鬼子母神へ寄付せしと云う
・本堂
九間に八間祖師堂の北にあり
・鐘楼
祖師堂に向かって右にあり、鐘は廻り2尺5寸、高さ3尺5寸許。寛文年中(1661~73)の銘を彫る。その文は後にのす是によれば古鐘をこれ○あらため鋳しと見ゆ。文の終に慈東山大覚寺の文字隠然とあれど、これは○うちけしたりと見ゆれば模糊として、正しくは読みがたし。またそれ故も伝えては詳しならず
・本照寺
境内8畝9歩(249坪)。小名中嶋にあり、本堂五間に七間半。了光山と号す。開山日勇上人、文禄2(1593)年3月20日に寂せり。
・実成寺
村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中(1573~93)創建なり。加藤山実成寺と号すこの寺は、往古より村内妙福寺の末寺にて法性坊と唱えしか。寛政5(1793)年、17世日藤聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ今は法性院と云う。

旧跡
・弁天社蹟
井頭池の中洲に建てり。聖人云う、昔、村の童がこの池の魚を捕りしに怒りき、其の祟りありしかはこの村及び土支田村の人と共に村内妙福寺の住持日忠聖人に請い、弁天の祠をこのところへ勧請したる。時に貞享年中(1684~88)のことなりとされと。正保(1645~48)の頃の絵図、既にここの祠を載せたれはいつの頃よりか廃祠となりして、この時再建せしなるべし。それもまた廃祠となり、今の名のみて残せり。

いろいろ不明な森井家年表

家系のインデックス

 

とりあえず年表つくるのはひと段落。妻の母方森井家です。

和暦 西暦 出来事
江戸期

森井家、加賀国江沼郡菩提村(現:石川県小松市菩提町)に居住。菩提寺浄土真宗本願寺派「牛鼻山興宗寺」。もとは月津村(現:小松市月津)の寺だが、昔々に福井市松本地区へ大谷派が同名で分離建立されたらしい。
現在判明の最古の祖先は、森井半四郎(便宜上初代とする)・志な夫妻と、父と同名の長男・半四郎(2代目)。どちらの半四郎かは不明だが、土木関係の仕事をしており、那谷寺から菩提村までの道路を造り、その功績で大きなお墓を建ててもらった。
半四郎(2代目)、坂下スエと婚姻。
半四郎(2代目)、スエの長男・半四郎(3代目)誕生。

嘉永 1853 6月3日、半四郎(2代目)、スエ夫妻の二男・半左エ門誕生。
慶応4 1868 8月12日、半四郎(2代目)逝去。
明治9 1876 6月21日、スエ逝去。
明治10 1877 3月15日、半左エ門(23)、菩提村の別番地へ分家。
明治15 1882 5月25日、半左エ門(28)・髙谷タケ(36・未婚)?の長男・半次郎誕生。
この間? ※小太郎の母がタケであることは恐らく事実であるので、少なくとも明治19年以前に半左エ門は北海道に入植していたと思われる。
明治19 1886 7月15日、半左エ門(33)・髙谷タケ(40・未婚)の二男・髙谷小太郎誕生。
明治26 1893 6月17日、半左エ門(40)、石川県江沼郡那谷村菩提より北海道茅部郡落部村字野田追無番地(現:二海郡八雲町東野)に転籍届出。
明治39 1906 1月25日、半次郎(23)・相木ユキ(19・未婚)の長男・相木勝次郎誕生。
10月23日、半左エ門(53)・タケ(60)が婚姻届出。二男・小太郎(20)も森井姓となる。タケは前夫・髙谷重太郎との間の長男・髙谷福松(42)戸籍からの入家。
明治41 1908 10月1日、半次郎(26)・相木ユキ(21・未婚)の二男・相木勝美誕生。
明治43 1910 10月11日、小太郎(24)・髙野タキ(19・未婚)の長男・幸十郎誕生。
明治44 1911 1月25日、半次郎(28)・相木ユキ(24・未婚)の長女・相木ミサヲ誕生。
明治45 1912 半左エ門(59)、明治40年に発足した落部村漁業組合の3代目組合長に就任。
大正2 1913 3月15日、半次郎(30)・相木ユキ(26・未婚)の三男・相木勝雄誕生。
5月8日、小太郎(26)・タキ(24)の長女・チヨ誕生。

半次郎一家、茅部郡落部村野田追から山越郡八雲村大字山越内村字ガンビ岱無番地(後にガンビ岱52番地→八雲町大字山越内村字野田生へ地名改正)へ転居。

石川県の森井本家、那谷村菩提より山中町山中温泉(現:加賀市山中温泉)に移住。

大正4 1915 9月9日、小太郎(29)・タキ(23)の次女・ツナ誕生。
大正5 1916 2月1日、半次郎(33)・相木ユキ(29・未婚)の次女・相木イサヲ誕生。
3月17日、ツナ(0)、落部村字野田追29番地において夭折。
7月26日、チヨ(3)、落部村字野田追29番地において夭折。
大正6 1917 1月24日、小太郎(30)、髙野タキ(26)と婚姻。落部村字野田追1番地に分家。
大正7 1918 1月14日、半次郎(35)・相木ユキ(31)が婚姻届出。同時に勝次郎(11)、勝美(9)、ミサヲ(6)、勝雄(4)、イサヲ(1)の5人も森井姓となる。
2月28日、半左エ門(64)隠居。半次郎(35)が家督相続。
4月30日、隠居したばかりの半左エ門(64)・タケ(72)が分家し、翌日廃家届出とともにタケの前夫・髙谷重太郎との二男・髙谷玉蔵(42)家に入家。
7月24日、半次郎(36)・ユキ(31)の四男・貞雄誕生。
大正10 1921 2月12日、半次郎(38)・ユキ(34)の五男・義雄誕生。
大正11 1922 2月6日、タケ(76)、茅部郡落部村字野田追29番地・髙谷家にて逝去。
2月17日、半左エ門(68)、茅部郡落部村字野田追29番地・髙谷家にて逝去。
大正12 1923 4月11日、半次郎(40)・ユキ(36)の三女・トヨ誕生。
大正13 1924 8月15日、勝次郎(18)、山越郡八雲町大字八雲村字遊楽部108番地にて逝去。
昭和2 1927 1月5日、半次郎(44)・ユキ(40)の六男・武義誕生。
昭和4 1929 3月10日、半次郎(46)・ユキ(42)の七男・秀雄誕生。
昭和6 1931 9月22日、ミサヲ(20)、石川県金沢市成瀬町・浅川榮治と婚姻。
昭和7 1932 1月7日、半次郎(49)・ユキ(45)の八男・武雄誕生。
昭和10 1935 10月2日、勝美(27)・田中キクノ(19・未婚)の長女・澄子、山越郡八雲町大字八雲村字砂蘭部無番地において誕生。
10月2日、勝美(27)、田中キクノ(19)が婚姻届出。田中家のある山越郡八雲町大字八雲村字砂蘭部無番地に居住。
昭和12 1937 7月18日、勝美(28)・キクノ(21)の長男・訓治誕生。
    12月17日、半次郎(55)一家、落部村字野田追29番地より釧路市春採231番地へ転籍。ともに勝美(28)一家も釧路市へ転住。
昭和14 1939 8月15日、勝雄(26)、釧路市春採259番地・柿﨑チヨ(18)と婚姻。
勝雄夫妻、八雲町大字山越内村字野田生へ転住。
昭和16 1941 1月17日、勝雄(27)・チヨ(19)の長女・美智子誕生。
5月25日、美智子(0)、亀田郡亀田村字赤川通にて夭折。
昭和17 1942 8月13日、勝雄(29)、チヨ(21)の次女・トシ子、八雲町大字山越内村字野田生にて誕生。
昭和18 1943 6月18日、貞雄(25)、河東郡士幌村中音更・小林タカオ(21)と婚姻。
9月18日、イサヲ(27)、栃木県下都賀郡寺尾村・細川麻三と婚姻。
昭和19 1944 2月19日、トヨ(20)、釧路市・井上光雄(23)と婚姻。
4月26日、義雄(23)、南方方面にて戦死。
11月12日、勝雄(31)・チヨ(23)の三女・照子、釧路市春採231番地にて誕生。この時点で勝雄一家は釧路市に再度転住している。

石川県には森井姓がごく少ないことから、本貫地は他所であると考えていますが、それがどこなのか・・・、関西地方ではないかと推測しておりますが。

加賀時代は土木もやっていたようですが、妻の高祖父にあたる半左エ門は漁組の組合長になるほどだったので、おそらく船乗りの素養があったのでしょう。

以前も記述しましたが、北前船があやしいのではないかと睨んでいるからこそ、そう思っているのですけれど。

兵庫県豊岡市出石町に森井という地名がありますが、ほかにも消えてしまった小字などで森井という地が存在したりするのかしら?

下北時代の山田家年表

家系のインデックス

 

前々回の菊地家前回の母方平野家に続いて、今日は妻方山田家の年表を・・・

和暦 西暦 出来事
慶長20 1615 大坂夏の陣で豊臣方について敗れた山田、畑中、舘(たて)、田中、安藤、倉田の諸氏が、陸奥国下北半島の高梨地区(現:青森県むつ市高梨川目)に落ち延び、集落を形成。主に稲作を生業とする。
文政7 1824 7月5日、山田三之亟の二男・善四郎出生。
年代順序不明
この間の出来事
善四郎、舘半右エ門の長女・みのと婚姻。
善四郎、畑中由蔵を養子に迎える。
由蔵、舘半六の養女・みゑと婚姻。
明治元 1868 7月12日、善四郎(44)・みの(44)の長男・留蔵出生。善四郎夫妻にとっては望外の跡取り男児出生だったため、養子である由蔵の立場が微妙になる。
明治8 1875 4月15日、由蔵・みゑ(18)の長男・菊松出生。
明治12 1879 4月25日、善四郎(54)、三之亟家より分家。
10月8日、由蔵・みゑ(22)の長女・きくの出生。
この間に由蔵が死別、もしくは離縁
明治17 1884 4月7日、善四郎(59)が退隠。長男・留蔵(15)が家督を継ぐ。
明治18 1885 5月7日、鳥山丑松(28)・みゑ(28)の長男・万次郎出生。
明治19 1886 現存最古の戸籍作製される。戸主は山田留蔵。本籍地は青森県下北郡関根村150番戸。
明治20 1887 8月5日、鳥山丑松(30)・みゑ(30)の二男・伊與松出生。
12月13日、みゑ(31)が奥内村・鳥山万右エ門の二男・丑松(31)を婿養子として迎える。
明治22 1889 明治の大合併により、関根村は田名部村大字関根となる。
明治26 1893 5月7日、丑松(37)・みゑ(37)の三男・多三郎出生。
明治27 1894 2月28日、留蔵(25)が畑中丑松の長女・しゆん(16)と婚姻。
明治28 1895 11月10日、留蔵(27)・しゆん(18)の長男・善太郎出生。
明治29 1896 3月31日、菊松(20)が田名部町金谷・杦山治郎左衛門の二女・をれ(19)と婚姻。
4月19日、きくの(16)が田中善之助の長男・福太郎と婚姻。
明治30 1897 8月6日、善四郎(67)逝去。
明治31 1898 10月1日、留蔵(30)・しゆん(21)の長女・セン出生。
明治32 1899 1月15日、菊松(23)・をれ(22)の長女・イソ出生。
8月1日、イソ(0)夭折。
明治33 1900 8月25日、菊松(25)・をれ(23)の長男・市太郎出生。
8月29日、市太郎(0)夭折。
10月25日、留蔵(32)・しゆん(24)の二女・マン出生。
明治34 1901 9月27日、菊松(26)・をれ(24)の二女・つな出生。
明治36 1903 6月13日、留蔵(34)・しゆん(26)の三女・オノ出生。
明治37 1904 8月3日、菊松(28)・をれ(27)の二男・綱吉、高梨にて出生。
9月22日、オノ(2)夭折。
明治38 1905 10月、丑松(49)一家、菊松(30)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地(現:釧路市北斗)に入植。
明治40 1907 4月10日、菊松(31)・をれ(30)の三男・綱次郎、鳥取村にて出生。
大正元 1912 11月26日、万次郎(27)が田名部中通の柳澤辰五郎の三女・キソ(15)と婚姻。
11月28日、万次郎(27)・キソ(15)の長女・マサ、柳澤家にて出生。
大正4 1915 5月7日、万次郎(30)・キソ(17)の長男・政太郎、高梨にて出生。
大正5 1916 12月1日、丑松(60)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地へ分家届出。
大正7 1918 8月15日、菊松(43)一家、丑松と同番地へ分家届出。
大正8 1919 8月14日、万次郎(34)一家、丑松と同番地へ分家届出。

赤文字部分は推測、もしくは口伝となっております。

 

釧路市で発刊された「山花・美濃80年誌」という集落の冊子には、美濃に移住した山田伊與松について記載された項があり、それによると入植したのは明治38年10月となっています。伊與松は当時12歳ですので、おそらく丑松とともに入植したのは間違いないでしょう。菊松は一緒ではなかったかもしれませんが。

 

そして畑中由蔵、妻から見て高祖父・山田菊松(1875~1934)の父という非常に重要な人物なのですが、今のところ名前しか判明しておりません。

おなじ集落の人物ではあるとは思うのですが、畑中家とは未だにコンタクトを取っておりませんので、推察するのにもそれが叶ってからとなりますね。

高祖父の母・みゑ(1856~?)についても、丑松が大正12(1923)年に隠居した際の戸籍が釧路市では80年廃棄されており、隠居後相続した多三郎の戸籍にはみゑが居ないことから、大正7~12(1918~1923)の間に没していると思いますが、詳細は不明となっています。

万次郎の息子の奥さん、多三郎の息子さんにうかがっても、お墓すらわからない状況。

丑松夫妻はいったいどこに眠っているのか・・・?

万次郎だけは、両親が北海道に渡った後も何年かは下北に居たようです。

 

あと、初っ端にある慶長時代の部分は、山田本家に伺ったお話を、私が拡大解釈したものですので、妄想入ってます。

推測し過ぎの平野家年表

家系のインデックス

 

きのうの菊地家に続きまして、母方の平野家にも多くの謎が残っていることから、こちらも年表にしてみました。

年月日 情報源 場所 出来事
時期不明 口伝 小榑 平野家祖先、義を以って人を殺め、名も故郷も捨てて山窩となる。その後、武蔵国豊島郡小榑村字西堤に移り、神社を建立したと伝えられる。菩提寺日蓮宗西中山妙福寺。
宗右衛門(想右エ門)出生。
宗右衛門の子、仙之助出生。
1778 安永7 4/22 墓石 小榑 宗右衛門の身内が逝去。法号は「圓理」。施主・平野想右エ門
    10/29 墓石 小榑 宗右衛門の身内(母?)が逝去。法号は「日乗院妙玄信女」。施主・宗右衛門
1783 天明3 2/21 墓石 小榑 宗右衛門の身内が逝去。法号は「妙淨」。施主・宗右衛門
1786 天明6 1/22 墓石 小榑 宗右衛門の身内が逝去。法号は「妙永」。施主・平野想右エ門
1787 天明7 10/11 墓石 小榑 宗右衛門の身内(父?)が逝去。法号は「深入順信士」。施主・宗右衛門
1819 文政2 1/2 戸籍 田無 武蔵国多摩郡田無村、下田忠蔵の長女・はつ出生。
1827 文政10 9/30 戸籍 小榑 仙之助の長男・丑松出生。
時期不明   小榑 宗右衛門が逝去。法号は「圓誠宗喜信士」。
宗右衛門の妻が逝去。法号は「能持妙臬信女」
丑松と下田はつが婚姻。
1856 安政3 6/20 墓石 小榑 仙之助逝去。法号は「夢覺頓悟信士」。
1862 文久2 11/8 戸籍 上土支田 武蔵国豊島郡上土支田村、加藤長蔵の長男・音五郎出生。
1863 文久3 8/30 戸籍 小榑 丑松(35)・はつ(44)夫妻の長女・いち出生。
1866 慶応2 5/25 戸籍 田無 武蔵国多摩郡田無村、新倉治兵衛・フジ夫妻の次男・儀三郎出生。
    7/3 戸籍 小榑 丑松(38)・はつ(47)夫妻の次女・かの出生。
1875 明治8 4/1 墓石 小榑 仙之助の妻逝去。法号は「情存妙悟信女」。
1879 明治12 3月 資料 田無 新倉儀三郎(12)が田無学校下等小学第四級を卒業。
1883 明治16 4/24 戸籍 小榑 いち(19)と新倉儀三郎(16)が婚姻。儀三郎が平野家に入婿。
1884 明治17 1/24 戸籍 小榑 丑松(56)が隠居。儀三郎(17)が平野家の家督相続。戸籍は小榑1583番地。
    4/6 戸籍 小榑 儀三郎(17)・いち(20)の長男・留五郎出生。
1886 明治19   戸籍 小榑 明治19年式戸籍編製。戸主は儀三郎(19)。本籍地は東京府北豊島郡小榑村1583番地。
    12/20 戸籍 小榑 儀三郎(20)・いち(23)の次男・朝次郎出生。
1890 明治23 4/28 戸籍 小榑 儀三郎(23)・いち(26)の三男・峯吉出生。
1893 明治26 4/18 戸籍 小榑 儀三郎(26)・いち(29)の四男・三蔵出生。
    5/21 戸籍 埼玉 かの(26)が埼玉県入間郡三芳村の忽滑谷家へ嫁入り。
1894 明治27 3/27 戸籍 小榑 かの(27)が約10か月で離婚し、小榑に戻る。
    7/31 戸籍 小榑 かの(28)が加藤音五郎(31)と婚姻。音五郎が平野家に入婿。
    11/19 土地台帳 小榑 丑松(67)、所有の土地の一部を儀三郎(28)に贈与。
    12/9 戸籍 小榑 儀三郎(28)が失踪。
    12/26 土地台帳 小榑 丑松(67)、所有の土地(宅地)を田無町・下田忠左衛門に売却。
1895 明治28 2/17 戸籍 小榑 約3ヶ月間の空白ののち、儀三郎(28)が復帰届。
    2/19 土地台帳 小榑 儀三郎(28)、所有の土地を留五郎(10)に贈与。
    2/23 戸籍 小榑 丑松(67)・はつ(76)夫妻と音五郎(32)・かの(28)夫妻が小榑1582番地に分家。儀三郎一家を独立させた形となる。
    11/30 戸籍 小榑 音五郎(33)・かの(29)夫妻の長男・忠右衛門出生。
1896 明治29 7/17 戸籍 小榑 儀三郎(30)・いち(32)の五男・五郎出生。
1898 明治31 3/3 土地台帳 小榑 留五郎(13)、所有の土地を音五郎(37)に売却。
1899 明治32 7/10 戸籍
口伝
利別 儀三郎(33)・いち(35)の長女・喜代、北海道瀬棚郡利別村字メップ南岸番外地にて出生。
利別以前に瀬棚に入植したものの先人に遅れをとっていて、良い場所が無く失敗。結局、利別へ移ったという話があるので、実際の渡道はこれ以前と考えられる。
1900 明治33 4/22 戸籍 小榑 音五郎(37)・かの(33)夫妻の長女・テツ出生。
1901 明治34 4/8 戸籍 利別 儀三郎(34)一家、北海道瀬棚郡利別村字メップ南岸番外地(現在の今金町種川)に転籍届出。
    4/26 戸籍 小榑 丑松(73)が二度目の隠居。音五郎(38)が平野家の家督相続。
1902 明治35 3/6 土地台帳 小榑 音五郎(39)、下田忠左衛門より元の宅地を譲り受ける。
    7/23 戸籍 利別 儀三郎(35)・いち(37)の次女・ちゑ出生。
1903 明治36 3/11 戸籍 小榑 丑松(75)逝去。法号は「融岳院教法日聴信士」
1904 明治37 4/17 戸籍 利別 ちゑ(1)夭折。
    6/25 戸籍 小榑 音五郎(41)・かの(37)夫妻の次男・弘造出生。
1905 明治38   地誌 小清水 小清水町史に、「明治38年入植 平野儀三郎」の記載あり。
1907 明治40 11/12 戸籍 利別 儀三郎(41)一家、利別村字メップ番外地に転籍届出。
1909 明治42 6/7 戸籍 小榑 音五郎(46)・かの(42)夫妻の三男・政義出生。
1910 明治43 6/26 戸籍 利別 留五郎(26)と瀬棚郡東瀬棚村・及川とよみ(16)が婚姻。
    10/3 戸籍 小榑 はつ(91)逝去。法号は「本理院妙融日鶯信女」。
1911 明治44 10/23 戸籍 利別 朝次郎(24)、瀬棚郡利別村字メップ番外地・滝谷徳太郎の婿養子となる。
1912 明治45   地誌 利別 今金町史に、「明治45年入植 平野儀三郎」の記載あり。
  大正元 11/11 戸籍 利別 留五郎(28)・とよみ(19)夫妻の長女・マツ出生。
1913 大正2 8/11 戸籍 小榑 音五郎(50)・かの(47)夫妻の次女・ナカ出生。
1915 大正4 7/10 戸籍 利別 留五郎(31)・とよみ(22)夫妻の長男・正治出生。
1916 大正5 6/13 戸籍 小清水 儀三郎(50)一家、斜里郡斜里村大字止別村字止別18線2号12番地に転籍届出。
1917 大正6 7/26 戸籍 小清水 正治(2)、網走郡網走町大字北見町南通4丁目の網走病院において夭折。
    10/22 戸籍 利別 朝次郎(30)、滝谷徳太郎と離縁。平野家に復籍。
1918 大正7 1/12 戸籍 利別 朝次郎(31)、瀬棚郡利別村字メップ番外地に分家。
    7/24 戸籍 小清水 留五郎(34)・とよみ(25)夫妻の次女・亀子出生。
1920 大正9 4/19 戸籍 小清水 留五郎(36)・とよみ(27)夫妻の三女・髙美出生。
    7/6 戸籍 小榑 忠右衛門(24)と埼玉県北足立郡片内村・石井そよ(23)が婚姻。
    8/11 戸籍 小榑 忠右衛門(24)・そよ(24)夫妻の長女・君子出生。
    10/25 戸籍 小清水 峯吉(30)、小清水村大字止別村字止別原野16線36番地に分家。
    米田 巣鴨 儀三郎(54)、西巣鴨の学校寄宿舎火災より、北海道興部村出身の米田久興を助け出す。
1922 大正11 2/1 戸籍 小清水 喜代(22)と小清水村大字止別村字止別原野161番地・竹村菊治が婚姻。
    3/6 戸籍 小清水 留五郎(37)・とよみ(29)夫妻の次男・政次出生。
    8/13 戸籍 小清水 忠右衛門(26)・そよ(26)夫妻の長男・勝出生。
    12/2 戸籍 埼玉 テツ(22)と埼玉県北足立郡美谷本村・中村澄冶が婚姻。
    米田 興部 儀三郎(56)が縁を取り持ち、柳原義光伯爵(46)と三室戸敬光子爵(49)が興部来村。儀三郎が同行したかは不明。
1923 大正12 4/9 戸籍 小清水 三蔵(29)、小清水村大字止別村字止別17線35番地に分家。
1924 大正13 3/15 戸籍 小清水 留五郎(39)・とよみ(31)夫妻の三男・慶治出生。
    12/2 戸籍 小清水 五郎(28)、小清水村大字止別村字止別16線29番地に分家。
1925 大正14 1/15 戸籍 小榑 忠右衛門(29)・そよ(28)夫妻の次男・正平出生。
1926 大正15 1/30 戸籍 小清水 留五郎(41)・とよみ(32)夫妻の四女・チヨミ出生。
1927 昭和2 11/25 米田 竜泉寺 儀三郎(61)、東京市下谷区竜泉寺350に居住。土地所有者は近所の松永榮次郎氏。興部の米田常作氏に手紙を出す。
1928 昭和3 1/15 戸籍 小清水 留五郎(43)・とよみ(34)夫妻の五女・菊惠出生。
    5/16 戸籍 小榑 忠右衛門(32)・そよ(31)夫妻の次女・正江出生。
1930 昭和5 3/12 戸籍 小清水 留五郎(45)・とよみ(37)夫妻の六女・ジヤウ出生。
    8/10 戸籍 小榑 忠右衛門(34)・そよ(33)夫妻の三女・好子出生。
1931 昭和6 1/19 戸籍 小榑 音五郎(68)逝去。
1932 昭和7 5/19 戸籍 小清水 留五郎(48)・とよみ(39)夫妻の七女・富美子出生。
1933 昭和8 6/26 戸籍 斜里 マツ(21)と山形県米沢市南町・山田清巳が斜里村において婚姻。
1934 昭和9 7/28 戸籍 小清水 留五郎(50)・とよみ(41)夫妻の八女・武子出生。
1935 昭和10   口伝 樺太 儀三郎(69)と留五郎(51)一家、樺太恵須取郡恵須取町へ移住(届出は3年後)。
いち(72)は小清水村に残り、長女・喜代(36)の嫁ぎ先である竹村家に身を寄せた。
1937 昭和12 10/3 戸籍 樺太 留五郎(53)、罠にかかったヒグマを処分しようとして返り討ちに合い、急逝。
1938 昭和13 6/4 戸籍 樺太 亀子(19)と樺太豊原市大字豊原字西3条1-1、山本秀勝が婚姻。
    8/20 戸籍 樺太 平野家、樺太恵須取郡恵須取町大字上恵須取字布札南2線69番地へ転籍届出。
1939 昭和14 2/22 戸籍 樺太 儀三郎(72)が脳卒中で急逝。政次(16)が平野家の家督相続。
1943 昭和18 4/1 兵籍 樺太 政次(21)、現役兵として歩兵第25連隊歩兵砲中隊に入営(二等兵)。国境警備に着任。
1945 昭和20 8月 口伝 樺太 太平洋戦争終結後、ソ連軍が樺太への侵攻開始。恵須取もソ連軍の侵攻を受ける。平野家はなんとか帰国するも、政次(23)はソ連の捕虜となり、シベリア抑留生活を余儀なくされる。
1949 昭和24   口伝 小清水 政次(27)が帰国。
    10/16 戸籍 小清水 平野家、斜里郡清水村大字蒼瑁村字北砥草原番外地へ転籍届出。
    10/25 戸籍 小清水 政次(27)が樺太時代に近所であった、空知郡北村の皆川ゆき(20)と婚姻。
1953 昭和28 9/5 戸籍 小清水 いち(90)が竹村家において逝去。
      戸籍 小清水 政次(31)一家、小清水町東野に住居を新築(現在も居住中)。

気になるところとしては、

〇丑松夫妻の子ども二人については、妻・はつの出産時年齢(44歳と47歳)が不自然に感じる。絶対違うとは言い切れないが・・・。

小清水町史と今金町史の儀三郎入植時期の記述が、言い伝えや戸籍と食い違っている。

〇小清水の家は、既に築65年!新築の際は、じいちゃんも手伝ったり、職人に道具を貸したりしたそうだ。

〇ばあちゃんは、じいちゃんとの結婚の際に「こんな毛むくじゃらな人いやだ~(>_<)」と思ったらしい。←年表関係ない!

〇赤文字の部分について、未だ高祖父・儀三郎と同一人物なのかが特定できていない。なにか新たな切り口はないものか・・・。→いまのところはこんな状態

福島時代の菊地家年表

家系のインデックス

 

きのうは平昌オリンピック、女子団体パシュートで金メダル!

これでフィギュアの羽生選手、スピードスケート500mの小平選手とともに3つの金メダルをリアルタイムで見ることができました(#^.^#)

時差が無いのが嬉しいですね!

おそらく生中継でオリンピックの金メダル獲得を観戦したのは、1988年のソウルでバサロ鈴木大地選手の時以来、30年ぶりです(!)

 

女子パシュートの髙木姉妹は浦幌町豊頃町を挟んで3つ隣の幕別町出身。佐藤綾乃選手は釧路町を挟んで2つ隣の厚岸町出身。しかも佐藤選手は釧路北陽高出身ということで、妻の後輩にあたります(#^^#)

そして女子カーリングロコ・ソラーレは青春時代を過ごした網走市から女満別町美幌町を挟んで3つ隣の北見市出身。

もちろんわが釧路市出身者が多い女子アイスホッケーも、オリンピック初勝利などの大健闘!

身近な地の選手ばかりなので、うれしさもひとしおっす(*^▽^*)

そしてパシュート菊池彩花選手は同姓のうえ、祖先の家のひとつである相木家が発祥したと伝わっている長野県南相木村。なんかすごい~!

 

そんな折、未だに多くの謎が残されている矢祭時代の当菊地家

年表にしてみればなにか整理できるかも・・・と思い、まとめたものが以下の表です。

 

和暦 西暦 出来事
文化7 1810 9月25日、儀右衛門孝昭、菊池友元の二男(第三子)として関岡村飯野に誕生。
年代順序不明
この間の出来事
儀右衛門が関岡村もしくは東舘村、菊地本家・藤兵衛の養子となる。
少なくとも儀右衛門は東舘村に移住。
儀右衛門、東舘村・藤田傳五右衛門の長女・ヤスと婚姻。
藤兵衛逝去。
嘉永 1852 6月27日、儀右衛門(41)・ヤス(39)の長女・ハツ誕生。
文久 1862 東舘愛宕神社祭の連名簿に儀右衛門の署名あり。当時51歳
元治元 1864 儀右衛門(54)、天狗党の乱に尊攘派の大発勢として参加。投降後は下総関宿藩久世氏へ他250名余りとともに預けられる。
慶応2 1866 11月16日、儀右衛門(56)・ヤス(53)の三女・シモ誕生。
ハツ、上関河内村仲町・近藤數右衛門義冨の五男・儀平を婿養子に迎える。
明治3 1870 9月7日、儀平(25)・ハツ(18)の長男・初太郎誕生。
明治7 1874 1月13日、儀平(29)・ハツ(21)の二男・幸吉誕生。
儀右衛門隠居。儀平が家督相続。
明治19 1886 現存最古の戸籍作製される。戸主は菊地儀平。本籍地は福島県東白川郡東舘村字舘本40番地。同時期に作製された土地台帳の記載は「菊池儀平」。宅地を5畝11歩(161坪)所有。地租(税額)は26銭。
明治22 1889 明治の大合併により、東舘村は豊里村大字東舘となる。
明治23 1890 4月20日、初太郎(19)が茨城県久慈郡袋田村久野瀬・植田庄三郎の養女・シモ(21)と婚姻。
12月6日、儀右衛門(80)逝去。喪主は儀平(46)。
明治24 1891 6月25日、儀平(46)・ハツ(38)の長女・シナ誕生。
9月25日、初太郎(21)・シモ(22)の長女・サク誕生。
明治26 1893 11月24日、幸吉(19)が茨城県久慈郡生瀬村小生瀬寺地・石井庄衛門の二女・スイ(19)と婚姻。
12月10日、幸吉(19)・スイ(19)の長男・幸太郎誕生。
明治28 1895 12月13日、シモ(29)、茨城県久慈郡小里村徳田、菊池市之右エ門に嫁ぐ。
明治29 1896 12月26日、スイ(22)の父・石井庄衛門(59)一家が小生瀬から東舘字舘本53番地(土地所有者は小室守夫)に転籍。
明治30 1897 5月24日、幸吉(23)・スイ(22)の二男・髙雄誕生。
9月28日、儀平(53)逝去。喪主は初太郎(27)。
明治31 1898 2月18日、初太郎(27)が菊地家の家督相続。
11月24日、初太郎(27)が舘本40番の土地を藤田嘉市郎に売却。
明治32 1899 9月3日、ヤス(86)逝去。喪主は初太郎(28)。
明治33 1900 7月、石井庄衛門(62)一家が東舘字石田11番地の土地を購入し転籍。旅館を開業。
明治34 1901 8月17日、初太郎(30)・シモ(32)の長男・新太郎誕生。
明治35 1902 9月17日、新太郎(1)夭折。
この間に、初太郎一家が東舘を離れる?
明治39 1906 5月11日、ハツ(53)逝去。喪主は幸吉(32)。
9月20日、初太郎(36)・シモ(37)の二女・タツ誕生。
明治41 1908 4月21日、幸吉(34)・スイ(33)の長女・キク誕生。
明治42 1909 3月25日、幸吉(35)・スイ(34)の三男・勝一誕生。
明治44 1911 8月2日、幸吉(37)・スイ(37)の四男・義郎誕生。
大正元 1912 12月23日、鈴木清次郎・サク(21)の長女・タキ誕生。
12月30日、幸吉(38)一家が豊里村東舘字舘本33番地(土地所有者は上田豊松)に分家。
大正2 1913 3月、幸吉(39)一家が、東舘の他9戸とともに北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第105号地に入植。
大正4(1915)年
3月以前
初太郎一家が幸吉一家と一番違いの北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第106号地に入植。転籍は大正6(1917)年3月17日。
大正4 1915 3月5日、屈斜路村御料地29番通西第107号地乙において、鈴木清次郎・サク(23)の二女・ハナ誕生。

 

以上のうち、元治元(1864)年の「天狗党の乱」の項は、とあるサイトにて「菊池儀衛門」と記載されていたのを拡大解釈したものです。

明治35(1902)年、新太郎が夭折した地は東舘ですが、その4年後にハツが逝去した際の喪主は儀平。初太郎はその間どこにいたのか?

国会図書館デジタルライブラリーの「茨城県公民要艦(M35)-上」という、選挙権を持った人たちをまとめた本には、茨城県久慈郡宮川村の項に「菊池初太郎」とあったりするのが気にかかりますが、「初太郎」という名は1ページに二人は居るような非常に多い名前のようですので、ちょっと参考にはならないか?

そして、やはり慶応2(1866)年のシモ出生については年齢的に戸籍のとおりでは無いのかと推察したいところ。まだ未婚だった当時14歳、ハツの子ではないのかしら?

・・・と、いろいろ思いを巡らせるものの、やっぱりモヤモヤは晴れません。そだねー

福島県西白河郡東村史を改めて読んでみる

家系のインデックス

 

6年前にも記しているのですが、曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の両親系統(千田村藤田家蕪内村藤田家岡部家角田家)が固まっている福島県西白河郡東村(現:白河市東地区)の村史を相互貸借で借りたことがあります。

このたび、改めて読み直してみて、気になった部分を抜粋してみます。

 

千田館(孫八館)
大字千田字孫八にあり、結城孫八郎左兵衛義綱(結城家第12代)住すという。法名は明舟院と号し、第11代顕頼の長男といい、また一説に仙台白河政頼の子ともいう。大永4(1524)年、仙台の藤田(伊達郡ならん)から来たともいわれている。字の名を孫八と云い、一族藤田を姓として現存している。

高祖父、藤田松吉(1853~1937)の実家がおそらく孫八かと推察しています。だとすると、もとは伊達郡(やっぱり福島ですね)だったのかも。

調べてみると、今は伊達郡国見町になっておりますが、過去に藤田村という村があったようですね。今も国見町藤田は国見の中心部として名前は健在なのですね。

 

嘉永2(1849)年の庄屋
『・千田 喜右衛門
 ・蕪内 次左衛門』

・・・うむ、誰ともつながらない。

 

姓氏について

明治5(1872)年、戸籍簿が作成され必ず苗字(姓と名前)をつけることになった。庄屋、名主が廃止され、太陽暦が採用された。同じ苗氏だから同族かといえば、そうでもない。苗氏が異なっていても、血のつながる分家もある。もう一つ、たと同族部落のようでも、祖先がただ一戸移り住んできて開発定住し、そこから漸次分家して、現在何戸かの村もある。
 旧釜子村は大字釜子字北町の野崎、我妻姓や、若栗新田、舘新田、大字千田字孫八の藤田姓、大字形見字宿の佐藤姓、字東地の我妻姓、大字栃本字尺阿見の水野谷姓、字下寺内の斉須姓、大字蕪内の岡部、飛知和姓、大字深仁井田の小松、吉田姓、大字上野出島字大竹の鈴木姓、中ノ作の深谷姓、大字下野出島字坂本の佐久間姓、字板倉の本宮姓、字石原の大平姓、藤田姓、字岩井戸の藤沢、上遠野姓、藤田姓、字坂口の遠藤、菊地姓など血族関係のなかにも同志をつのり土地を分配して、集団開発していると思われる同族の多くは、分家、ワカサレ、マケともいうが、また隠居分家、全く血縁がなくとも長く奉公をしていた人に世帯をもたせ、独立させたような場合もある。そのようなときには、苗氏のちがう「ワカサレ」も出来る。
 また結婚により同じ村に住みついているものもある。また同族部落のように見えても漸次移り住む人も戸数も増していったが、土地所有、分配の関係から系統の異なった数族がある。このような同族的組織は村落社会のなかに根強い形態をもっている。
 古い村の開発の家の系統は、たとえ一部に系図書のようなものが残っていても、その最初に村に落着いた祖先までたどれる場合がまれえ、多くは後世に作製された系図が多いようであり、実際には明確でない。従って完全な同族部落とは断じられない。また、不明(1783~88)の凶作やその他の洪水や火災の災害などで興亡をたどった処もあろうと思われる。

家臣の関係
・結城義綱公の家臣
 鈴木、我妻、市川、佐川、藤田、渡辺
・釜子長者として
 吾妻、豊田、市川、斉須、辺見、藤田、緑川、鈴木、佐川、中根、渡辺
・榊原の家臣
 吉田、石野、富田、富山、高橋、矢吹、山田、緑川、島村、藤田、関口、久保田、橋本
・白河結城の家臣
 辺見、深沢、深谷、佐藤、白岩、鈴木、大越、青木、渡辺、高橋、富山、岡部、穂積、芳賀、秋山、角田、大塚、森
・古代八十姓
 渡辺、穂積、山辺
・石川昭光の家臣
 近内、矢吹、辺見、坂本
・平家
 小松、小野、熊谷
・源氏
 辺見、飛知和、菊池、宍戸
上杉景勝の臣
 有賀、河合、外山、山口
白河城
 林、深沢、志賀、大谷、高野
藤原氏の後裔
 遠藤、近藤、佐藤、斉藤、加藤、武藤、山田』

藤田は結城義綱家臣として挙がっていますね。岡部、角田は白河結城家臣となっています。なにが違うのか?

 

東村の姓と氏
『古代に関する本村の姓氏については現在の処、調査困難であるが、姓氏紋章等を研究すれば更に判明するであろうが、徳川時代より明治初年までは、公儀即ち藩の役所へ提出する書面には農民一般には姓氏を名乗ることを許されず、明治4(1871)年に至って、姓氏を名乗ることが出来ることになった。しかし姓氏は許されていないとは云え姓氏を持っていた。またその当時他郷から来たものには、故郷の名を忘れ難く出生の土地の名を記念して姓としたもの、また移転して来たその土地や、ある人は親分子分の関係や主家の姓を貰って改めたもの、ある人は屋敷養子となって変えたものなどがあり、現在の子孫はこれらの姓を受け継いでいる。
 終戦前の民法による本家分家による姓氏の継承が行われていた。昭和23(1948)年の改正民法と戸籍法等により、結婚すると直ちに一家創立して本籍より離脱して別に本籍を取得することになって居り、此の結果姓氏の数は年々増加を見ることになった。
 本村における昭和45(1970)年12月31日現在の「姓氏」について調べた処、村全体で1,083の「姓氏」があり、この内鈴木姓が162で最も多く、藤田53、我妻40、野崎35、小松33、本宮32、佐藤31、矢吹25、大平25、菊地24、斉須21、藤沢21、八代17、角田16、飛知和16、吉田16、大竹15、橋本15、等が主な姓の順位となっている。従って今後学術的に詳細に調査研究すれば興味ある問題とも云える。

これはなかなかリアルな調査ですね。このまま突き進んでほしかった!

 

大正3(1914)年 釜子村議会議員
 角田儀三郎 大字千田
 岡部慶蔵  大字蕪内
 岡部丑蔵  大字蕪内

大正8(1919)年 釜子村議会議員
 岡部嘉蔵  大字蕪内
 藤田文治郎 大字蕪内
 藤田栄寿  大字千田

やはりこの年代になるとつながりは見出せないです。

 

ブラジル移民
昭和の初期は第一次世界大戦後の不況時代で、特に農村は戦時中、米一俵20円まで上昇したが6円台に暴落したので、多くの農家は多額の負債になやまされた。
 政府は人口問題と農村不況対策として、民族の海外雄飛を旗印にブラジル移民を奨励した。
 昭和6~9(1931~34)年にかけて、旧釜子村より多くのブラジル移民を送った。この移民は渡伯後、種々の困難に出会ったが、悲惨な結末を告げた満州移民と異なり、現状では皆順調に発展し、現在もブラジル国の住民として活動している。
 特にパラナ州アサイ市近在には、釜子出身者が集まり、毎年12月中旬頃に踊大会が催され、故郷をしのんで釜子盆踊が盛大に行われている程である。

①藤田千代治家
 大字釜子字北町出身 パラナ州アサイ市グルカイア地区在住、妻ヨシ、六男二女あり。昭和6(1931)年10月、ブエノス丸にて渡伯。グルカイア日本人会の学務委員及び組合理事をつとむ。
②藤田米吉家
 大字千田字孫八出身 昭和22(1947)年死亡。妻ミヤ 昭和16(1942)年死亡。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。サンパウロ州で農業を営む。
③藤田恒要家
 大字千田出身(藤田頼光弟)、妻トミヨ。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。ソロカバナ線オウリンニオス在住。精肉販売を営む。
⑥藤田佐平次家
 大字釜子字北町出身。パラナ州アサイ市グルカイア地区で死亡。妻コヨ 昭和9(1934)年8月リオ丸にて呼び寄せ渡伯。①の千代治氏は長子。藤田家一族の世話はもとより、アサイ地区に集合した釜子出身者の相談相手としてその発展に尽くす。

けっこう多くの藤田さんが東村からブラジルに渡ったようです。今もブラジルに藤田の血族がいらっしゃるのでしょうか?

 

・・・と一通り読み直してみましたが、ピンポイントに祖先を探すのではなく、改めて視野を広く時代背景なども考慮して読んでいくと、いろいろなことがわかってきた気がします。

さらに蕪内村

家系のインデックス

 

先日、福島県西白河郡蕪内村(現:白河市東蕪内)字新屋敷の地籍簿について統計をとってみたところですが、同じ蕪内の字南屋敷というところについてもご提供いただいておりました。

ここは、ひいばあちゃんのばあちゃんである藤田タツ(1846~1917)の実家、岡部家があった地ではないかと推察している場所です。

戸籍上判明しているのは、タツが蕪内村の岡部弥七(文献によっては岡部彌七という記述もあり)の次女であることのみ。弥七といえば、水戸黄門に出てくる風車の弥七を思い浮かべてしまいます。

おそらく隣の字であろう新屋敷の藤田家に嫁いだタツは、夫・藤田定藏(1840~1903)との間に少なくとも四男二女の子どもたちがいます。

 

ちょっと話は逸れますが、新屋敷の藤田家。

定藏の没後は長女・リヨ(1867~1911)と、その夫である千田村の角田家から婿養子に迎えた藤田忠吉(1861~1944)に任せたのでしょう。

タツは、少なくとも二男の藤田延太郎(1880~?)とともに東白川郡近津村大字下山本字松原へ転住して、そこで晩年を過ごしたようです。

その下山本松原の没地は、次女・カメ(1872~1942)の夫である藤田松吉が千田村から移り、屈斜路に渡る前の本籍地。

千田村の藤田家も同姓なため、なかなか複雑な状態ですので、ちょっと表にしてみます。

f:id:dotouttan:20180219195239j:plain

松吉一家と、義母にあたるタツは同居していたフシがありますね。松吉にとっては、19歳下の妻よりも義母であるタツのほうが歳が近い…

いまのところ、清右衛門と定左エ門、もしくは定藏との間に今のところ関係が見いだせないですね。

 

千田村孫八と蕪内村新屋敷というのは、地理的には▼こんな感じですね。

f:id:dotouttan:20180219195206j:plain

上の赤い部分が新屋敷で、下の赤い部分が孫八。孫八めっちゃ広い!

徒歩で約3km、40分弱あれば着く距離です。

親族かどうかの判定は、これ以上さかのぼることができるかどうかにかかっています。

 

・・・と、話を戻して、今も岡部家があるであろう南屋敷。

以下が宅地の所有者一覧です。

所有者 総坪数
橋本久七郎 884
岡部冨藏 619
飛知和忠左エ門 570
渡辺勇吉 471
小松平十 458
渡辺作治郎 440
渡辺廣右エ門 352
岡部林蔵 336
飛知和重左エ門 331
渡辺龍藏 271
観成院 156
一村総持 100
岡部重吉 95

一番土地持ちの橋本家は、蕪内の庄屋さんです。

岡部さんが3人。まだ岡部弥七との関わりは見出せません。

ちなみに4坪ですが、初めて見る地目「掲示場」というのがありました。村のいろいろな情報が共有されていたのでしょう。井戸端会議をしている村民たちの風景が目に浮かぶようです。

岡部姓に関しては過去にも記述しましたが、「東村史」によると「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」

・・・とのことで、さっぱり理解ができません。ググってもピンポイントではヒットしませんが、鴨武津身命は山城国鴨長明とか、あとは静岡の浜松?

どういうことかしら?と思って「浜松市 岡部」で検索してみると、浜松市中区にある「伊場」という地名がでてきました。

Wikipedia曰く、「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」

ここ浜松、そして京都がさらにルーツなのかも?賀茂だけに。<(_ _)>