屈斜路開拓時のようす
昭和57(1982)年、屈斜路開拓から80周年ということで、この年は記念事業が多く行われたようです。
明治35(1902)年が屈斜路(現:北海道川上郡弟子屈町屈斜路)開拓の始めとされているのですね。
菊地家の高祖父一家が屈斜路御料地へ入植したのは大正2(1913)年ですから、少し遅めに入ったんですね。
その事業の一環として、記念誌も発刊されました。
そのなかに、屈斜路開拓時のようすを語り合った座談会について記載されておりました。
当時をしのぶ貴重な資料ということで、転載させていただくことします。
屈斜路開拓を偲ぶ
出席者
藤田ミツ
宮崎アキ
藤田松四郎(曾祖母・菊地カツの弟。この2年後に84歳で没)
小野寺源十郎
小浜重郎
大関惣吉
司会 金田勇喜治
記録 道辻文太郎
司会 きょうは、お忙しいところをお集まりいただきまして有難うございます。
きょうお集まりいただいたのは、屈斜路も入植されてから80年になります。今年はそれを記念して80周年記念事業を行っていますが、その中の事業の一環として、記念誌を発刊することにしています。その中に、この屈斜路が開拓されあt当初の方の当時の生活や苦労話を聞いて、屈斜路の歴史の一端を知ると共に、後世へ語り伝えておこうということになったわけです。
きょうの座談会は、そうしたことを中心に話を進めてまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。
はじめに、屈斜路に入地された道程を聞かせていただきたいと思います。
大関 ほとんどの人は、船で釧路まで来て、そこから川舟で標茶に来たね。私も子どもだったが荷物を背負わされたことを覚えています。親は本州から持って来た大きな物を背負ってきたね。
小野寺 私は室蘭さ上がって汽車で釧路に来て、そこから川舟で来た。
藤田ミ 私も釧路まで汽車できました。
司会 釧路から標茶まで川舟で来たようですが、舟を引いたようすを教えて下さい。川の両側で引いたのですか。
小野寺 弟子屈からみて右側は大きな柳があったので引っぱれなかった。左側だけでロープを引っぱったんだ。左側は小さな木だけだったから。
小浜 男の人が5、6人で引っぱったんだ。船頭さんは舵をとるだけ。
藤田ミ 男の人は、みんな引っぱったね。
宮崎 船の上の人が「引っぱれ、引っぱれ」と言うと引っぱり出したね。
大関 片側だけしか引けないから、かかる人は3日位かかって標茶まで来たようだったな。
小浜 夜になると、舟の中で寝たんだ。
宮崎 みんないっしょになって寝たね。
司会 標茶からこちらに来る迄にはどうしたのですか。
宮崎 今の鐺別の苗畑がある所に試験場があってね、そこで3月の雪解けまでいました。食べ物は毎日いもと人参ばかり食べさせられたね。私達子どもは、人参を「金魚だ、金魚だ」って喜んで食べたの。
小野寺 標茶からは、8トンの台車があったというのを聞いているね。更科さんの所にあったらしい。
宮崎 弟子屈に12、3軒しか家がなかったね。お菓子買いに来るの遠かったけれど、毎日買いに来たことを覚えています。
雪が解けて歩けるようになってから弟子屈から歩いてここへ来ました。
小野寺 その頃は、道らしい道も無かっただから大変だったよね。
司会 弟子屈から屈斜路への道程をお聞きしたいですが、初めはどこを通ってきたのですか。聞くところによると、五軒沢(今の大沢)を通って古丹にぬけ、古丹でたまって(集まって)、そして屈斜路に入ったと言うことですが。
小野寺 今の登音頭(ヌプリオンド)の橋(木橋)を渡って古丹に来たんだ。そこで黒滝木材商に寄って、そこから湖水へりを歩いて川口の丸木一本橋を渡って湖水のへりを奔渡側へ歩き、和琴のもとの小浜利男さんがいた所に造材飯場があって、私らはその飯場にずっといて、そこから通って小屋がけをしたんですよ。
大関 古丹には、しょうさくさんの店があって、集まってくる迄、そこに食料貰いに行って生活したんです。
司会 その後、登音頭の山の上を通るようになったのはだいぶ後のようですが、小野寺さんの頃は山の上を通ってたんでしょ。
小野寺 そう。私らは釧路から今でいう発動機舟に乗って五十石まで来て、そこから馬車で標茶の丸井旅館に来て一泊し、次の日は、馬車に荷物を積み、人はみんな馬車と一緒に歩いて磯分内に来て昼食をとって弟子屈に入った。弟子屈で一泊し、次の日「イッテンマ」に荷物と子どもと女が乗って屈斜路に入ったんです。
登音頭の山を下ると、そこに燕麦蒔いてあったから、それを見て「はあ、ここにも畑があるんだな」と思ったね。どこの炭小屋さつれていかれるかと思っていたから、畑を見て農家があるんだと思って、ほっとしたね。
司会 それは、その頃の生活の様子をうかがわせて下さい。
小野寺 私らは、自由移民で親達が労働していたから米の飯は食えた。昔の移住の人は、ソバの種子や五升芋の種子が役所から配給なって、それを植えてとって食べたたしいね。私は5年くらいたってから畑を始めたが、そのころ焼き畑だった。笹原に火防線を切って、その中に火をつけて焼いて、木株や焼枝のない所にソバや五升芋を蒔いたもんです。
司会 松四郎さんにお聞きしますが、大正2(1913)年に入地していますね。そのころ御料からいろいろな物資が配給なったと思いますが、どんな物資が配給になったのですか。また、どこから配給になったんですか。
藤田 古丹で、黒滝が係をしていたから公料をもらいに行って食べた。米はよけい貰えなくて麦だとか、味噌、醤油。それも沢山もらえなんで、20日分くらい貰って食べたね。
司会 食料は配給制だったんだね。
宮崎 それも、働く人だけ貰えたんだよね。子どもの分は当たらなかった。
藤田 とうきびも砕いたのを貰ったな。
小浜 それはいい方だよ。私なんか、見たことなかったよ。
司会 配給にも人数の制限があったようですね。
宮崎 人数の多い家は困ったよね。いくらいても3人分しか貰えなかった。藤田さんのところなど10人いても3人分よ。大人の多い家はいいけれど、子どもの多い家は子どもの分当たらなかったからね。
司会 それでは、大家族の人は苦労したね。
小野寺 宮崎さんが来た頃は、合田さんが一番大家族だったそうだ。そこで2戸分貰ったそうだよ。
司会 足りない分はどうしていたのですか。
大関 芋、そば、豆ひと握りもらって蒔いて増してまかなった。
藤田ミ 私たちは人数が少なかったので芋3俵、ソバ1俵までしか貸してくれなかった。子どももいなかったから、3俵なら3俵全部蒔けた。よその人は子どもがいれば、子どもが焼いて食べたようですよ。
全員 そうだ、そうだ。
藤田 私なんか2人でも3人分借りられたから1人分残ったので、たいして苦労しなかったがね、家族の多い人は難儀したよ。
小野寺 昔の人に聞いた話だけれど、麦を食べてしまった人には、その年は貸してくれなかったらしい。2、3年して麦の種子がきたらしいね。
宮崎 小田切さんが、屈斜路に来て五升芋とソバは採れるから、芋とソバを植えれって言ってたね。
藤田 ソバは、ばら蒔きだったね。
大関 そのころ俺ら子どもは、川に魚釣りに行ってたな。魚釣りが商売さ。
司会 それは、みんなの食料のたしになったね。
全員 そうだったね。カルシュームったら魚しかなかったもんね。
大関 うちの所の川には、ウグイが6月から7月にかけて上がったから、うちの爺さまは、ドウを作ってかけておくと次の朝、石油缶に2つくらい入ってたな。
夕方になるとどんとくるから、野天で火を焚いて、とれた魚を串刺して焼いて、それをオヒョウの皮を細くして一尾ずつ編んでさ、家の中の焚火の上に吊るして干して、それを一年中味噌汁や煮物のだしにしたりしたね。味噌汁の中に入れると骨まで食えるようになるだな。
越年は、山で兎がとれたさ。うちの爺さまは一冬で十羽くらいとってたな。
宮崎 兎はいたものね。
大関 あとは、芋、ソバばっかしで、学校の弁当も芋だった。朝10個くらい持っていくけど、途中で腹へるもんで、その芋を5つ6つ食べちゃってよ。
司会 小浜さんは食べ物について何か。
小浜 私は9人家族で来たもんだから、ここに落ち着いてみたら3人分しか貸してくれない。3人分で9人が食べとおしたのだから、腹一杯なんか食べられない。おまけに米なんか見たことない。よしんば米を買っても量が少ないから麦ばかりさ。とうきびをさやからもいだままのものを炊いて、麦の中に入れて食べたことを今でも覚えているね。
今食ったらとても食えない。豚も食わないな。それでも腹一杯食えなかった。
母親は、どれほど食うことに苦労したかしれないと思うね。今ならああいう事をしたら大変だよ。9人いるのに3人分しか貸さないんだから。少なく借りたことは払うことを考えればよかったと思うけれど、命をつなぐのがようやくだったものね。
司会 開拓当時の食料事情をおうかがいしたんですが、次に、生活していくには畑を耕して収入を得る状態でなかったので、結局は物を買う時は働かなければならなかったですよね。当時は全体で5町歩しかなかった。それは営農するには足りなかったですね。それで畑の収入は無いということですから、収入を得るには他の仕事をしなければならない訳ですよね。
そこで、どんな仕事をされたか、おうかがいしたいと思いますが。
小野寺 山に勤めた人もいるし、出面とりした人もいたね。造材が主だったよね。
小浜 働くのは、父親と母親と一番の兄で、兄は17、8くらいだったかな。3人しか働けない訳だ。
それで、畑を耕すに掘立小屋の軒下から真鍬で熊笹が針ねずみのように生えた所を一鍬一鍬耕すのだから、1ヶ月くらい耕してもどdのくらい耕せたものか。私が小さい時のことだから覚えていないけれど、本当に鼻くそくらいでなかったのではないか。
結局、小遣いなんかも自給自足が原則といっても現金が必要だと思ったね。覚えているのは兄貴がオサッペ川の流送に働きに行くことで、流送につかうトビの竹竿を買う金が無かったと思うだな。それで、いたやの太い枝を削ってトビの柄を作っていたのを覚えているね。
換金作物がないんで、出面とりに出かけて小遣いを稼いだという現状だったと思うんだね。
司会 大変だったね。収入が無いんだから、若い中から働かないとならなかったんだね。
小野寺 私が来た時に金沢さんの畑が一番開けていたね。というのは、金沢さんの家に働き手がいなかったんだね。働き手のある家は山へ働きに行って金をとってきて食わねばなんないから働き手がある家は、畑が開けなかったんだ。
小浜 開墾の仕方はね、昔の畑というのは北海道庁の決めた区画整理をもぐりもぐってやったね。なぜそんなことをしたかと言うと、原則としては家の周りから開墾していくつもりで始まったんだが、うちの場合、家屋を建てる時なるべく日の当たる所を選んで建てたと思うだね。日の当たる所で立木のない所は熊笹がものすごく深かった。兄貴は開墾が始まってどうにもならなくなって、どこかいい場所はとぐるぐる探したら、やっぱり笹の無い所があったと言うだね。そういう所をもぐりもぐって開墾して芋を植えたんだという話を聞いているね。
小野寺 四国の人が第一移住者だがね、その人たちはオサッペ川、エントコマップ川、湖水のふちなどに入ったんだね。というのは、熊笹が沢山伸びていないんだ。草が多く開墾もし易かったので、そんな所にばかり入ったんだよ。川ぶちや湖水ぶちは今考えてもそうだよね。
その後の3次、4次となるにしたがって、山際へ山際へと押し込まれてしまったんだ。
宮崎 そうだね。早く来た人はよかったね。合田さんあたりはよかったものね。
小野寺 早く来たからね。入川さん、和田さん、窪内さん、加藤さんなどは下の川ぶちや湖水のふちの肥沃な平らな所で開け易い所に入ったもんだね。
大関 遅く来たうちの所は一番悪い所なんだ。いまでもそうなんだが。
小浜 一番生活でくろうしたのは俺達の頃だと思うんだ。
水はどこから汲んだかというと、現在喜治郎がいる百間上にあがった小高い所に家を建てて始まったんだ。水はいま俗に言う開拓所の湧水を汲んだものだ。ガンガン(一斗缶)二つに天秤を通して、そして朝1回、晩1回汲んでガンガン4つで1日まにあわせたね。水には随分不自由したもんだよ。
水の使い方はどうしたかと言うと、一番先に麦を洗う。その水は捨てないで樽にあけて沈殿させて、その上澄みで野菜物を洗う。それでなげられる(捨てられる)ならまだいいが、また樽に入れて沈殿させて3回目に足や手を洗うようにして使ったものだよ。
宮崎 私らは、湖水の水を使ったね。
大関 川に水汲みに行った人は遠かったね。途中に畑があったから遠回りしたもの。
司会 水には充分苦労したようですね。井戸を掘った時のことを話してください。
小浜 井戸を掘るのに部落家族総がかりで1ヶ月もかかった。
大関 宮崎さんのところの水はよく出たんだ。
小浜 70尺くらい掘ったんだ。それも今のような掘り方でなく、多勢で掘らないとならないんで、4人が中に入って掘るように始めたから、9尺の枠に掘って下がった訳さ。こんど、水が出たときは嬉しいのと土がくずれないように、早く井戸枠を埋めるのに一苦労したね。
全員 苦労したね。大変だったよ。大仕事だった。
小浜 あれが屈斜路の井戸の第一号だった。
宮崎 前にも掘ったことあったけれど出なかったものね。
司会 深さは。
小浜 70尺。
宮崎 そこに9尺の四角い枠を入れるのが大変だったね。
小浜 井戸枠は、井戸掘り始めると同時に若者がこびきして二寸板で作った。手引きだからこれも大変な仕事だったな。
司会 上西さんの入口の所で、今は道路の下になってわからないけれど十何軒程が利用したようだね。掘るのにも二斗樽をいちいち引き上げたので大変でしたね。
あの井戸は、ずっと後まで使われたようだね。
小野寺 あの井戸は水がよかったから。
宮崎 戦後まで使ったね。
司会 小学校の井戸が出来た時は、オサッペ川の水がなくなると、学校のを使ったね。
宮崎 オサッペ川の水も、今はあるけれど、あの頃はすぐなくなったものね。
小浜 昔は、あばれる時は物凄くあばれて、肝心な時に無くなったもんだ(笑)。
司会 だんだん開墾が進んできまして、木材の仕事をやったり、少しずつ畑が開けるようになってから馬が入ってきたのはいつ頃でしたか。
宮崎 業者のが早くに入っていましたが、農耕馬は、わたしのところの白銀の色白の七金星、それが一番目で大正13(1924)年頃だったと思うね。
学校の生徒が見物に来て、やぶの中だから蚊にさされてこぶこぶになっても見ていたものね。めずらしいから。
小浜 うちのおやじが、その馬を見て「馬を使って一回でもいいからプラオで畑を耕せば助かるな」と言っていたよ。
小野寺 反対にね、ある人が「あんなもの入れて畑を耕してたら畑をふまれるから、あんなものだめだ」って言っていたもんだ(笑)。
司会 いくらくらいで買ったんですか。
宮崎 小田切さんから買ったんですが、何十円もしたと思うね。
小野寺 当時、当歳の雌が7円、雄が5円だった。これは、こまいやつだけど、3才になって畑耕しをやったね。
大関 それで、美幌へ行ってプラオとハローを買ってた。プラオは1頭5分だったが13円だった。
司会 プラオが13円ですか、馬なら4、50円はしたんでしょう。
大関 そんなにしなかった。20円くらいでなかったかな。
小野寺 いや20円はだいぶ後で、そんなに高くなかったよ。
宮崎 馬は安かったね。
大関 道産子だったから、うちのじいさんは、美幌からプラオとハローを背負ってきたものな。びっくりしたよ、あの時は(笑)。
司会 馬車はどうでしたか。
小野寺 馬車は丈夫なので90円。この部落では山本さん、高橋さん、岡田さんとこなど4、5台しかなかった。それで、ビートを作っても運賃にとられて文句を言ったのを覚えている。
大関 美留和に出したけれどね。
司会 私も、屈斜路へ来るとき、山の中を通ってきてどこへ出るもんだかと思っていたんですが、ここへ来たら広くなって安心したんです。
ここへ来られてもう7、80年近くになりますが、何かいい事もあったと思うんですよ。
みなさんが言うんですが、「野天風呂に入るのがよくて、どこへも行かないでここで生活してきた」って。当時は、家に風呂もなく飲み水も不自由したのですから、温泉は有難かったわけです。その当時の半島温泉の話を聞かせてください。
藤田ミ 盆や正月など何かあると半島に集って来たものです。和琴しか行く所ないんですもの。若い娘も年寄りも和琴へ行ってお湯に入って遊んで来るのが一番の楽しみだったですよ。
司会 今でも、野天がいいって言って出かけて行って、みんなで色々な話ができるのが屈斜路の一番いい所だと言われていますね。
昔はあの山を温泉山と呼んでいましたね。和琴は大正11(1936)年に大町桂月が名付けたんです。
小野寺 和琴(半島)に行くのに、前の苗圃の所を下って湖水ぶちを通って行ったんだ。ポントの人たちは高橋嘉藤太君の所、今の和田さんの所へ出て行って、湖水の波打際とやちの間にポコンと高い所があって、そこを通って行った。今でもその道があるね。
司会 そこが和琴の本通りといってたね。和琴の道路というとその道路のことだった。
小野寺 古丹に行くには、今の郵便局の裏から湖水ぶちを通って木の根っこをはねながらきて川口まで行った。そこに一本橋があって、それを渡って行ったね。
大関 私は、古丹(屈斜路教育所)の学校へ行ったけれど、来た年は休んでそのあと2年通った。
尾札部ができてこっちに来たが、その時に加藤唯次先生が来た。一番早く来た先生だった。
司会 古丹へ通った時は一本橋を渡っていったんですね。
大関 そう、ギシギシいっていたな。
司会 その後に板橋が出来たんですが、いつ頃か知りませんか。
大関 私が通っていた時は、一本橋とその後の二本橋だったね。板橋になったのは学校終わって3年くらいしてからだと思うね。
ところで北見道路が出来たのはいつ頃だったね。
司会 私の調べでは、大正9(1920)年の大水で釧路川の橋が全部流されて釧路の方からの物資が入らなくなって、10月に道をつけて美幌から物資を入れるようになったそうです。峠までの道はその時出来んで、それから、米や味噌が美幌から入るようになったようです。
野上峠は明治に囚人がつけています。
屈斜路には当時店がなかったので、物資はどこから入ったのが多いんですか。
大関 北見(美幌)からだいぶん入ったようだよ。
司会 美幌峠が開通したのは、大正12(1923)年頃ですか。
宮崎 それは改良された年で、人が通れるようになったのは11(1922)年頃だったと思うね。私も子どもがおなかにいたので、馬車に燕麦殻を敷いて流産しないようにして行き、一晩泊まって帰ってきたのを覚えているから。
大関 その頃の冬に峠で凍死した人もいたね。大吹雪のために、馬だけ助かって、部落の人が3日がかりで雪かきして死人を出しに行ったこともあった。
小浜 うちのおやじは、美幌から馬にひかせる手造りの除草機を背負って来たもんだ。
大関 さっきも話したけれど、うちのおやじはハローとプラオ2つを背負って10里(40km)の道を来たんだから、たいしたもんだったな。
小浜 塩などは、美幌に買いに行ったけれど、8貫目くらいのを出始めは、このくらいの物なら大丈夫と思って背負って出かけたが、美幌峠に登りかかるとだんだん重くなって、一升投げ、二升投げして家に着いたときは半分も無くなっていたね(笑)。みんな強かったね。
今でも近道残っているけれど、帰りは笹の上をすべって下ったもんだ。
小野寺 大正の飢饉の時どうしてたね。
小浜 凶作もなんもなかったんでないの。年がら年中凶作だったから。
宮崎 食えないということはなかった。
小浜 たいていの人は、いもやふきを食べて1週間や2週間は、麦のできるまで我慢した人が多かったようでだよ。
小野寺 いなきびはよくできたね。焼畑に蒔いたらよくできた。8俵くらいとれたな。
大関 いなきびは、どこもよくとれた。
司会 ちょっと聞いた話なんですが、この地域で畑を耕すようになってから、古丹の人達が芋や麦を貰うのに労力を提供して手伝ったり、魚を持ってきたりしていたと言うですが、みなさんの所ではどうでしたか。
藤田ミ こっち(四、五部落)までは来なかった。
司会 こっちの人は働いてもらうんですが、魚なんか持って来て仕事をやらせてもらって、帰りに芋や麦を貰って行った。お金を貰わないで品物を貰って行ったと言うです。
藤田ミ 来てもらった事はなかったですが、大根が出来ないというので熊送りのとき、大根や豆を持って行って、ばくった(交換した)ことはあるね。
大関 終戦当時は古丹に魚と交換に行った事はあったね。
宮崎 椎茸を持って来て米や麦と交換してくれと言ってきたことはあるね。だから椎茸は不自由しなかったね(笑)。
大関 古丹は魚がなんぼでも取れたからね。
宮崎 和琴でもとれてどうしようもなかったよ。秋味の山ができていたもの。
大関 湖水ぶちの人は、しばらく魚には不自由しなかったのでないの。
小浜 秋味のとれるようになったのは、だいぶん後だったな。
司会 最初はとれなかったの。
小浜 最初にとったのは宮崎さんで、漁師の経験があったから。おれらは山育ちだったから。
大関 舟なんかないととれないからな。
宮崎 湖水ぶちの人達は随分とって山のように積んであったよ。
大関 あの頃は塩をしたのが1本50銭、生は5銭で買えた。
小浜 秋味とれても塩がなかったので、どうしようもなかったな。
大関 あの頃は、秋味を5枚におろして干して冬の食べ物にしたが、おいしかった。木の枝に干すので大根、大根っていっていた。
宮崎 今、それと同じのを売っているね。
司会 古丹では、干したのを専門にやっていた人がいて、シャモと食料をばくったと言っているね。干すのにカラスぼいに大変だったらしいです。
古丹の人も食料に苦労したので、魚をとって結構生活していた人もあったんですね。
小浜 あの頃は魚が安かったけれど、買う人いなかったね。
宮崎 山のように積んであっても、もって行く人はあっても買っていく人はいなかったからね(笑)。
小浜 やはり食うことに苦労したことは、はっきりしているね。
大関 昔は食い物がわるいから1日4回食べた(笑)。3時にも食べたから、いもやカボチャだから4回食わないと晩まで腹へって仕事が出来なかったからね。
小浜 大豆のある家では、大豆の炒ったのを袋に入れ仕事の合間に食べていたのを見て、うらやましく思ったもんだよ。
司会 この屈斜路では、木炭を作らなかったのですか。
大関 大きな木ばかりで炭は焼かなかった。大きな木は昼も夜も燃やして早く開墾しなければ補助金を貰えなかったから。
宮崎 大きな木は全部焼いて、いらない木は横に積んだね。
大関 それでも随分あったな。
小浜 一かかえも二かかもある木なんか持って行ってもらった方が助かったね。
司会 いい木(あお木)は造材業者が切って売っちゃったんだね。
小野寺 真樺は、みんなあんな硬い木どうするだといって売れなかった。今なら大変な貴重品だけれどね。
大関 大きな木は2日がかりで切ったもんだよ。
司会 いろいろ話も出ましたが、何か思い出になる話があったら出してください。
小野寺 関東大震災の時、屈斜路から20万石、美留和から20万石、合わせて40万石を釧路川で流送したんだよ。あの時は、湖水から釧路まで木材が続いていたね。
当時、木の方専門だったようなもので、百姓は片手間にやったようなものだね。
小浜 百姓なんかやる気なかったね。
大関 稼ぎ専門だったな。
小浜 換金作物といえば燕麦ぐらいなものだった。
小野寺 造材馬用の燕麦を作って売ったら45円もとれた。大評判になった。燕麦で45円ももうけたから(笑)。
小浜 食料が少し安心して食えるようになったのは冷凍澱粉を作るようになってからだ。
小野寺 あのだんごは食えなかったな。真っ黒なんだな。それに青エンドウで作った味噌をつけて食ったんだけど、これも真っ黒なんだ。貰っても袂に入れていって、捨てたね。あとで慣れて食べられるようになったけれど。
大関 食い慣れればおいしいよ。
正月には、いなきびの餅が食べられるのが楽しみだったね。白い餅はお供えだけだった。
小野寺 昔は、赤ちゃんにお乳を飲ませるのに、米3升あればいいんだ。お乳飲ませるだけだったから。
大関 そうめんなんか一箱買ってあればいい方で、一箱3円でも買えなかった。
小野寺 大正12(1923)年頃は、年に米は一人1俵、石油1錐、塩1俵あれば生活できた。
司会 その頃の住宅はどうでしたか。
宮崎 シナの皮、ヤチダモの皮を使って、毎日開墾小屋から通って家を建てたもんです。大きな家で、5間に7間もあった。馬も一緒の家に入れました。
小野寺 笹で屋根をふいていた家もあったね。
小浜 燕麦がらやソバがらでふいたものもあったな。
大関 あれは、長く持たなかったね。
司会 柾屋はずっと後のことですね。ガンビ(白樺の皮)で壁をふいた家もあったね。
小野寺 窪屋さんのじいさんの家がそうだったね。屋根も壁もガンビでふいていたんだよ。一回、火事になった事もあったけれど、油と同じようによく燃えるのでどうしようもなかったことがあった。ばあさんに家の中の金出してくれって頼まれたけど、ただ見ているだけだった。
小浜 医療関係のこと話してみたいんだが、昔は病気したらもう自力でなおす体力がなかったら死ぬほかなかった。一回は医者に診てもらうが。
ここでは、弟子屈に長谷部という医者がいるだけだったけれど、この医者は、夜の夜中でも迎えに行けば来てくれたので、本当に助かった。薬代も催促しなかったし、代金を持って行っても受け取らなかった。
ところが変わった医者で、頭でも尻でも何の病気でも胃腸が悪い胃腸が悪いで片付けてしまうだ。考えてみれば、ろくな食べ物を食っていない時だから、それでいかったのかも知れなかった。おかげで死ぬ病人も死なずにすんで助かったね。開拓功労者の一人に加えて欲しいと思うね。
宮崎 あの頃は、よっぽどのことでないと医者にかからなかったね。
司会 いろいろ昔のことを調べていますが、当時の人は3分の2くらいは出て行ったので、いまこうしてお話を聞いておかないと、こうした機会はむずかしいと思いますので、いま聞かせてもらえる話があったら簡単に話して下さい。
大関 うちらが入地した時は開墾料を貰ったが、後で土地を買うようになったので土地を抵当に入れて450円だったと思うが、すぐに払う金がないので35年年賦償還で、年25円ずつ納めて買った。
司会 昭和4(1929)年にみなさんに売りつけられたんですね。開かれた土地は高く、山などのような所は安かったのですが、それで開かれた土地を安くしてもらう運動を私の父も東京まで行ってやっているんですね。大関さんの言われた土地代を払えないから年賦で払うため銀行から金を借りて御料局へ払って、それを年賦で払ったわけです。
大正12(1923)年ころ土地の売買は、使用する権利の売買だけで土地そのものの売買でなくて、1年規約の使用権の売買だったんです。ですから、1年たって自分で使用したい土地があれば権利を買えばよいわけです。ですから、その頃は随分移り歩いた人もいたようです。
小野寺 今は地籍も整っているから、これからの若い人たちは、この土地をしっかり守って現代の方針に従って発展するようにして欲しいね。
私たちはもう終わりなんだから。
全員 そういうことですね。
小浜 野天風呂のことを話したいんだが、我々が入地したころは水がないので、当時の小田切所長が「ここはみずがないんだから洗濯も風呂も野天風呂に行って入れ」と言ってくれたんだ。だからお役所のお墨付きをもらったようなものなんだよ。だから傷や病気に罹ったらよく行ったもんだ。それが環境庁がわり込んできて車止めなんかして、もってのほかだと思うだよ。
司会 今、小浜さんが野天風呂の話をしましたが、温泉があるから残った人もあるですからね。調べてみたら半島を利用できる請願書が出てきたんです。120~130人の連名で印鑑も押してあるものなのです。昭和3(1928)年のことです。それによると半島の野天風呂、神社、付け根の広場などを屈斜路の遊園地にしようという構想なんです。
小浜 私たちの青年の頃に、今の半島の道路を作ったんだ。部落総出でね。やちだった所を木を切ったり、水をぬいたりしながら。
司会 だから、和琴半島から追い出される理由はないんだよ。本当は、野天風呂はここの土地の人の生活には切っても切れないつながりがあるのです。
大関 義経岩を湖の中から上げて今の場所に運んだのも思い出だね。今のような機械のない時だから2日半くらいかかってやったものな。
司会 いろいろなお話をお聞かせいただいて有難うございました。
今日の座談会の内容は整理されて記念誌に掲載されます。今の若い世代の人には昔の方々の苦労を知っていただくことも出来ますし、これからの世代にも語り継ぐことができます。
これからも御壮健でいつまでも屈斜路を見守って下さることをお願いして、本日の座談会を終わらせていただきます。
本当に有難うございました。
昭和57年11月発刊 屈斜路八十年誌より
・・・以上、ローカルな内容にもほどがありますが、北海道の開拓は、おそらくどこも似たような状況だったのではと思います。
ひいばあちゃんの藤田家は、御料地に入ったということで、他の家とは入地の状況が異なったようです。たしか、わりと良い条件で入ったようなことを聞いたことがありますね。そのせいか、松四郎さんの発言がほとんどありません。
菊地家も御料地入植組なので、藤田家と同じ状況だったと思います。
屈斜路に限らず、みなさんそんな苦労の末に北海道へ定着してくれて、ほんとにありがたいことです(*^▽^*)
祖父のアニバーサリー!
きょう3月6日は、
母方祖父である平野政次、96歳のバースデー!!!
戌年生まれなので、今年が8回目の年男ですよ(#^.^#)
昭和14(1939)年、「じさま(高祖父)」の急逝により家督相続。
昭和18(1943)年、陸軍入隊。国境警備という重要な任務に。
昭和24(1949)年までシベリア抑留で死ぬ目に遭い、
小清水に戻ってばあちゃんと結婚。
畑や畜産や木こりの仕事をず~~~っと続けてくれたおかげで、今でもその魂を受け継いでくれた伯父と従兄弟が、連綿と平野家を守り続けてくれています。
じいちゃんが乗っていたクルマは、私が覚えているのだけでいすゞフローリアンや、マルーンのX30/40系コロナマークⅡ。そして千葉のおじさんが乗っていた千葉ナンバーのB11サニーを受け継ぎ、ダークグリーンのT190系ディーゼルコロナ、最後はE100系カローラ。
カローラが事故で無くなったあとも、5年くらい前までは家にあったスターレットを運転して老人会に行ったりしてました。
ばあちゃんが4年前に他界してしまってずいぶんと気落ちしたでしょうが、なんとか気力?で持ちこたえてくれています。
そして子孫は子ども5人、孫17人、ひ孫20人(まだまだ増員中)。
なかなか全員は揃う機会はないですが、強力なDNAです!
ひとつ他愛のないエピソードを。
数年前に私の一家と、同僚一家で芋ほりをさせてもらいに小清水へ行った時のこと。
大阪は枚方出身の同僚と、じいちゃんが話をしていましたが、その内容が以下のような流れでした。
じいちゃん「貴様、どこの生まれよ」
同僚「大阪です」
じいちゃん「なに!内地か」
同僚「そうです」
じいちゃん「内地のどこよ」
同僚「大阪です」
じいちゃん「そうか」
・・・というやりとりを淡々としていたのが、今思い出しても込み上げてくるものがあります。
じいちゃんは誰にでも「貴様」といいます。おそらく本人は丁寧な言葉のつもりなのでしょうが、今の感覚からするとズレているような。
名前の読みは「まさじ」のはずなのですが、読み方が気に入らないのか、自分では「せいじ」と言っていたり、ばあちゃんの葬式での喪主あいさつの時は「まさつぐ」と紹介されていたり、ブレブレです。
いろいろエピソードには事欠かない厳しいじいちゃんですが、まだまだ行けるとこまで行ってほしいです!
▲10年くらい前に撮影。ばあちゃんも元気でした。
藤田家について混乱する
家系を探求していくにつれて、この10年間で、今のところ3系統の藤田家が出てきたわけです。しかもいずれも福島県白河地方。
一つ目は、高祖父の祖母である菊地ヤス(1813~99)の実家・東白川郡東舘村(現:矢祭町東舘)。
二つ目は、曾祖母である菊地カツ(1895~1996)の実家・西白河郡千田村(現:白河市東千田)→東白川郡下山本村松原(現:棚倉町下山本松原)。
三つ目は、前述曾祖母のさらに母である藤田カメ(1872~1942)の実家・西白河郡蕪内村新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)。
地図で示すとこのような感じになります。
上の青いポイントが蕪内新屋敷。
次の赤いポイントが千田孫八。新屋敷から3km(徒歩で約40分)
続いての赤いポイントが下山本松原。孫八から15km(徒歩で約3時間)
一番下の緑ポイントが矢祭東舘。松原から16km(徒歩で約3時間10分)
Googleマップで徒歩での経路を見てみると、このような感じでして、一番遠い新屋敷から東舘は約31km、徒歩で6時間20分と出ました。
今とはもちろん比較はできないのですが、30kmという距離。
昔の人にとってはどのくらいの感覚だったのでしょうか?
全ての藤田家が繋がるわけではないと思いますが、蕪内と千田の藤田家はもしかするのでは・・・?と勘繰っちゃったりしています。
東舘の藤田家は、関係ないような気がしますが。
あんまり僕の頭だと整理できないので、系図にまとめてみました。
ふむ、少し整理できた気分♪
ちなみに超ステキなサイト、「人名力別館」さまによると、藤田姓の割合は以下のような感じらしいです。
全国的に見ても、東白川郡と大子町が藤田さんまみれのようです。
矢祭町下関河内(しもせきごうど)の追ヶ草に至っては、フジタ100%!
白河市の旧東村域でも、
11 福島県 白河市 下野出島万海(71.4% / 約20人)
65 福島県 白河市 下野出島石原(39.3% / 約50人)
82 福島県 白河市 千田明神前(35.7% / 約20人)
・・・と、小地域100位以内に上記がランクイン。孫八も入っています。
全国的に見ると30位と、割りに多めの藤田さん。
なぜ、ここいらに集中しているのか?
まだ調べてません(*´з`)
また、棚倉町史を読んでいると、下山本村についての古文書中に以下のような記述を見つけました。
文政8(1825)年7月
下山本村
百姓代 林蔵
組頭 清右衛門
組頭 長右衛門
庄屋 忠右衛門
この百姓代として名がある林蔵さんというのは、以前も書かせていただきましたが、字松原の地籍簿に出てくる名前です。この方も藤田姓。藤田林蔵さんです。
そして組頭として清右衛門という名があります。
これは、高祖父・藤田松吉の父の名。
姓がないのでなんともいえませんが、文政期には下山本村に住んでいた藤田清右衛門家が、ある時期に15km離れた千田村へ移り、清右衛門亡き後、戸籍上では明治20(1887)年に下山本に戻ったと考えられなくもないですね。
あるいはもしかすると、清右衛門はそのまま下山本村に居たのかもしれません。
そして末吉か松吉の結婚かなにかで千田村に・・・とか、確証がないのでめっちゃ妄想ですけれど。
しかも全然関係ない人かもしれないし。
む~、現地にもう一度行ってみないと、これ以上はわかんない!
元禄7年、越後蒲原郡吉江村検地帳
先月3日、釧路中央図書館がオープン、さっそく相互貸借で母方祖母の実家・皆川家の本貫地である「味方(あじかた)村誌」を取り寄せていただいて舐めるように読んでいたのですが、残念ながら祖先についての事項を見つけることはできませんでした。
皆川家の本貫地は、現在の新潟市南区吉江。
吉江村は明治22(1889)年に吉田新田、山王村、山王新田、大倉村、大倉新田、居宿村と合併して七穂村となり、明治34(1901)年に味方村および白根村と合併した地。
「味方村誌」の内容は、主に合併する前の味方村、そしてもうひとつ合併した白根村についてのことが多く、吉江村についてはわりと少なめの情報量でした。
その中で唯一おそらく祖先であろう名が記載されていた箇所、元禄7(1694)年の吉江村検地帳が以下です。
名請人 | 田 | 畑 | 計 | 坪 | |
1 |
権左衛門 (庄屋) |
23.2 | 30.5 | 53.7 | 16,110 |
2 | 與五衛門 | 21.8 | 15.1 | 36.9 | 11,070 |
3 | 新之丞 | 21.3 | 11.8 | 33.1 | 9,930 |
4 | 新左衛門 | 17.4 | 11.2 | 28.6 | 8,580 |
5 | 善左衛門 | 19.3 | 9.2 | 28.5 | 8,550 |
6 | 七左衛門 | 17.2 | 9.2 | 26.4 | 7,920 |
7 | 庄右衛門 | 13.1 | 9.8 | 22.9 | 6,870 |
8 | 長右衛門 | 14.6 | 7.2 | 21.8 | 6,540 |
9 | 半左衛門 | 10.9 | 9.2 | 20.1 | 6,030 |
10 | 源左衛門 | 9.9 | 9.7 | 19.6 | 5,880 |
11 | 全七 | 12.8 | 6.5 | 19.3 | 5,790 |
12 | 八右衛門 | 11.8 | 7.5 | 19.3 | 5,790 |
13 | 清左衛門 | 11.7 | 7.5 | 19.2 | 5,760 |
14 | 助左衛門 | 17.0 | 2.0 | 19.0 | 5,700 |
15 | 清三郎 | 12.2 | 6.4 | 18.6 | 5,580 |
16 | 高念寺 | 9.9 | 8.6 | 18.5 | 5,550 |
17 | 九郎兵衛 | 10.2 | 7.2 | 17.4 | 5,220 |
18 | 惣助 | 10.3 | 6.8 | 17.1 | 5,130 |
19 | 新右衛門 | 9.6 | 7.4 | 17.0 | 5,100 |
20 | 久三郎 | 10.8 | 5.6 | 16.4 | 4,920 |
21 | 長四郎 | 11.0 | 4.6 | 15.6 | 4,680 |
22 | 惣左衛門 | 10.3 | 5.2 | 15.5 | 4,650 |
23 | 喜三郎 | 7.1 | 5.2 | 12.3 | 3,690 |
24 | 半四郎 | 6.5 | 8.5 | 15.0 | 4,500 |
25 | 久蔵 | 8.1 | 5.2 | 13.3 | 3,990 |
26 | 清八 | 7.2 | 6.0 | 13.2 | 3,960 |
27 | 半三郎 | 9.0 | 3.7 | 12.7 | 3,810 |
28 | 吉兵衛 | 6.9 | 5.4 | 12.3 | 3,690 |
29 | 兵右衛門 | 7.8 | 4.2 | 12.0 | 3,600 |
30 | 與三衛門 | 6.9 | 4.5 | 11.4 | 3,420 |
31 | 仁左衛門 | 7.0 | 3.9 | 10.9 | 3,270 |
32 | 甚蔵 | 6.8 | 3.8 | 10.6 | 3,180 |
33 | 與右衛門 | 6.5 | 3.7 | 10.2 | 3,060 |
34 | 才蔵 | 6.2 | 3.9 | 10.1 | 3,030 |
35 | 清九郎 | 5.2 | 4.5 | 9.7 | 2,910 |
36 | 久作 | 4.4 | 5.1 | 9.5 | 2,850 |
37 | 才三郎 | 4.5 | 3.7 | 8.2 | 2,460 |
38 | 兵七 | 4.5 | 3.3 | 7.8 | 2,340 |
39 | 茂左衛門 | 5.0 | 3.5 | 8.5 | 2,550 |
40 | 勘吉 | 3.7 | 3.6 | 7.3 | 2,190 |
41 | 新吉 | 3.1 | 4.1 | 7.2 | 2,160 |
42 | 三左衛門 | 3.8 | 3.3 | 7.1 | 2,130 |
43 | 甚吉 | 3.0 | 4.0 | 7.0 | 2,100 |
44 | 竹左衛門 | 0.0 | 7.0 | 7.0 | 2,100 |
45 | 全蔵 | 3.3 | 3.6 | 6.9 | 2,070 |
46 | 伴右衛門 | 6.7 | 6.7 | 2,010 | |
47 | 加平治 | 4.0 | 1.8 | 5.8 | 1,740 |
48 | 孫左衛門 | 4.0 | 1.2 | 5.2 | 1,560 |
49 | 津右衛門 | 4.0 | 4.0 | 1,200 | |
50 | 七兵衛 | 2.6 | 0.4 | 3.0 | 900 |
51 | 茂右衛門 | 1.3 | 390 | ||
52 | 七郎兵衛 | 1.2 | 360 | ||
53 | 半右衛門 | 0.7 | 210 | ||
54 | 庄次郎 | 0.6 | 180 | ||
55 | 金蔵 | 0.5 | 150 | ||
56 | 太郎兵衛 | 0.4 | 120 | ||
57 | 仁兵衛 | 0.4 | 120 | ||
58 | 與次兵衛 | 0.3 | 90 | ||
59 | 勘七 | 0.3 | 90 | ||
60 | 與助 | 0.3 | 90 | ||
61 | 九助 | 0.27 | 81 | ||
62 | 藤左衛門 | 0.27 | 81 | ||
63 | 惣右衛門 | 0.27 | 81 | ||
64 | 兵助 | 0.22 | 66 | ||
65 | 喜右衛門 | 0.21 | 63 | ||
66 | 切助 | 68歩 | 68 | ||
67 | 善右衛門 | 41歩 | 41 | ||
68 | 清吉 | 40歩 | 40 | ||
69 | 久左衛門 | 36歩 | 36 | ||
70 | 佐五え門 | 33歩 | 33 | ||
71 | 重蔵 | 20歩 | 20 | ||
72 | 與四え門 | 20歩 | 20 | ||
73 | 惣兵衛 | 10歩 | 10 | ||
74 | 惣次郎 | 7歩 | 7 | ||
75 | 半七 | 4歩 | 4 |
この中の19番目に記載されている新右衛門という人物が、祖先である皆川新右衛門かと思われます。
菩提寺である高念寺もその2つ上にありますね。昔はお寺もこういう風に田んぼや畑を所有していたのですね。どういった人が世話をしていたのでしょうか。
また、吉江村の検地という項には、以下のように記述されています。
「新発田藩は、慶長3(1598)年に溝口氏が入封して以来、度々検地を行っている。新発田藩の検地の方式は、太閤検地の一反三百歩制でなく、従来の慣習どおり360歩の6分の4の240歩を大、6分の3の180歩を中、6分の2の120歩を小という単位で表した。しかも、農民の年貢の軽減を考慮した「七分掛け」という方式を実行したので、検地の際にも、縦の実測に9掛け、横に8掛けをした数(100歩に対して72歩)を野帳に書き込み、公表する面積を実測より少なくした。これを「縦九、横八の法」といって、新発田藩では代々この方式を用いて検地を行った。
吉江村の検地帳についてみると、一筆ごとに縦、横を測り、面積を記し、名請人を確定して、終わりに村の総耕地面積を出し、分米として石高が記載されているが、これは新発田藩においては年貢高を表している。しかし、吉江の検地帳には耕作地の地名が書いていないのが特徴といえる。吉江村は、新発田藩の支配時代に総検地を4回(寛永4(1627)年、慶安4(1647)年、寛文6(1666)年、元禄7(1694)年)、幕府領代官所支配には新田検地を四回(元文5(1740)年、寛延3(1750)年、宝暦7(1757)年、文化7(1810)年、文政8(1825)年)受けているし、元禄7(1694)年の時点の耕地面積は74町歩、石高は673石、名請人75人という実績を示している。
味方と吉江の検地帳の名請人についてみると、吉江村においては二町以上の大農経営者は約3割で一町台の自立経営農家が半数の5割を占め、一町以下の小作(いわゆる水呑といわれる階級)が1割5分しかいないのに比べて、味方村では二町以上の大農者が6割を占め、一町台の自立農家が2割5分、水呑は1割7分となっている。検地帳に名請けされた百姓の中にも所有地の格差があり、本百姓と水呑の階層がみられるから、このほかに名請けされない水呑の階層が相当あったことが推測される。因みに江戸末期における両村の本百姓・水呑の数は、味方村が本百姓113軒、水呑265軒。吉江村が本百姓58軒、水呑30軒である。」
新発田藩の検地は、農家にとって優しい方式をとっていたようですね。
吉江は、味方に比べて水呑の割合が少ないので、恵まれていたのでしょうか?
次はどこの地誌を借りようかしら?
図書館司書の方々にはご迷惑をおかけしております<(_ _)>
平野儀三郎について、一縷の望み断たれる
未だミステリアスな人物、母方の高祖父・平野儀三郎(1866~1939)。
以前、興部に来村された柳原義光伯爵(1876~1946)のお宅に何か伝わっていないかとお尋ねしたところ、伯爵のひ孫様より「戦災で資料が焼失してしまっているので、興部に行ったことも初めて知りました」とのことでした。
非常に残念ではありましたが、こればかりはしかたがありません・・・。
ということでその線はあきらめたのですが、伯爵とともにもうお一方が興部へお見えになっていたのです。
三室戸敬光子爵(1873~1956)。
柳原家から江戸時代に分かれた三室戸家の方。
藁をもつかむ気持ちで、三室戸家には何か伝わっていないかとお手紙をさせていただきました。
本日、三室戸子爵のお孫さまよりお電話をいただくとができまして、やはり三室戸家でも、子爵が本郷にお住まいだった際、家が戦災で焼けてしまったということでした。
憎むべきは戦争。。。
そして子爵がお亡くなりになった際、お孫さまは中学一年生。
離れて暮らしていたこともあり、ほとんどそういったお話を聞く機会がなかったそうで、興部についてもやはりご存知ないということ。
今回お送りさせていただいた興部来村時の写真も、初めて目にされたそうでした。
このような一般庶民へご連絡くださるなんて、非常に光栄で恐縮で上がりまくってしまい、自分でも何をしゃべっているんだろう・・・という感じで、電話を終えてしまいました(;・∀・)無念。。。
三室戸さまは夏場に何度か釧路にお越しになったことがあるそうで、次にお越しになった際は、ぜひともお目にかかりたいと勝手に思うところです。
小4の娘がトランペットを吹いているので、三室戸学園が経営する東邦音楽大学のことを少しうかがうことができたのは嬉しかったです。まだまだ先の話ですけれど。
音楽人口が減っているというお話もされておりました。
確かにその後のことを考えると、音楽で身を立てることができる人はひと握りでしょうし・・・。
・・・と、またもや平野儀三郎について進展はありませんでしたが、こうしてひとつひとつ紐を解いていくにつれ、だんだん焦りが出てきました。
今月6日で儀三郎の孫である、私のじいちゃんは満96歳。
なんとか真実を知り、伝えてあげたいという思いが募る一方です。
そして、想いが強すぎるのか、身分を顧みずに大それた行動をしているのではないかと改めて思案する39歳、大雪が降る釧路の夜。
まだまだこれから降るみたい。雪かきめんどくさい。
息子はインフルで学級閉鎖のうえ、明日は悪天候で臨時休園!
あぁ、これでホントに最後の地籍簿
以前、ご提供いただいた情報のうち、これが最後の地籍簿となってしまいました(*´Д`)
曾祖母の実家のあった福島県東白川郡下山本村字松原(現:棚倉町)。
ここは、高祖父・藤田松吉(1853~1937)が西白河郡千田村から明治20(1887)年に転籍した地。
そして、松吉の妻・カメ(1872~1942)の母・藤田タツ(1846~1917)が西白河郡蕪内村から移り、おそらく娘夫妻と同居していた地。
今のところは千田、蕪内の両藤田家については、つながりがわからないので2系統と考えていますが、もう少しさかのぼることができればもしかすると同じ系統になるかもしれません。
その松原の明治20(1887)年ころの宅地所有者が以下となっています。
所有者 | 総坪数 |
乾源藏 | 352 |
金澤利作 | 330 |
田村弥市兵衛 | 308 |
乾芳藏 | 270 |
田村金四郎 | 264 |
小林喜四郎 | 226 |
堀懿負起 | 207 |
藤田喜重 | 184 |
加藤教藏 | 162 |
藤田林藏 | 161 |
乾源吉 | 157 |
渡邊直一 | 156 |
増子初吉 | 126 |
松下大次郎 | 123 |
松吉が移住した地番の所有者は、藤田林蔵さん。
同姓ですが、戸籍には出てきていない人物です。
そして、この地は旧土地台帳と地籍簿の編纂時期が異なるのか、旧土地台帳では明治45(1912)年時点で藤田松吉が所有権保存というのが最初となっています。
そして大正7(1918)年に手放したのち、再度取得しているみたいです。いつなのかが読み取れませんが、おそらく屈斜路入植後なのではないかと・・・。
松吉の後に所有権移転となっている藤田クニさんも、戸籍上未登場。また謎の登場人物が!
10年経っても、まだまだ未解決な事案が増えてきますね(;'∀')
新編武蔵風土記稿、小榑村部分抜粋
母方平野家について、明治時代に編纂された新編武蔵風土記稿の小榑村(現:東京都練馬区西大泉3~5丁目付近)項で何かわかるかも・・・という思いでちくちく現代仮名に直して入力してみましたが、特に得るものはありませんでした(*´Д`)
せっかく打ち込んだので、読みづらいとは思いますが以下に載せてみます。
つぶれて読みづらい文字がありましたので、間違っている箇所があるかと思いますが~(;・∀・)
新編武蔵風土記稿
小榑村
小榑村は廣澤庄と称し、郷名は伝えず郡の東南の隅にありて江戸を隔てること五里余り。
東は上白子村及び白子川を隔て豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及び郡内上保谷村に境、北は中沢辻爾村に接し、上白子村の西方より土支田村の境、白子川の流れに沿い斜めに西の方へかけ入り、その形半月の如し。
故に北によりたる所は東西一里余り。南の方は縦に十町許。南より北へは五町もあるべし。
人家320軒。川越街道の内、白子の宿へ人夫の定助をつとむ。このあたり用水の便あしければ水田少なく畑多し。米穀は一里許隔てたる黒目側の河岸へ津出しをなし、荒川を経て江戸までえ川路十六里余り。
この村の飛地、隣郡土支田村に二ケ所、本郡中澤村に一ヶ所あり。北條分限帳に小榑深屋98貫860文。太田大善亮知行とあり。染屋は多磨郡染屋村にて、小榑はこの村なれば北條家の時代までは太田氏の知行なりしか。御打ち入りの後、板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは上新倉村に見えたり。板倉氏この地を領せしは、勝重より子息伊賀守に及び寛政3(1791)年の頃までなりと村人の伝うるところなり。されど板倉家系に勝重の子は周防守重宗とあれば伊賀守といえるは誤りにや。
正保(1645~1648)の頃、御代官野村彦太夫爲重が支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり。のち寛文年中(1661~1673)に至り稲葉美濃守正則の領地となり、寛文3(1663)年、同人検地せり。その子丹後守正通、貞享2(1685)年、越後國高田へ所替あり。
のちまた御代官所となり、元禄16(1703)年、江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜り、それより累世今も米津氏の領知なり。
小名
・堤村
村の西北の方を云い、この厥(まがり)の辻に高さ3尺8寸、幅1尺4寸3分、厚さ1尺2分。正面に題目を刻み、側に享保元(1716)年に建てたる由を彫る四面の塔あり。
故に土人ここの小名を四面塔ともいえり
・榎戸
榎の古樹が残っており、故に名づく
・水溜
村の南にあり
・小作
村の西にあり
・中島
土支田村の境にあり
山川
・白子川
この村と土支田村との境て北に流る。川幅2間許
・井頭池
この村および土支田村の境南によりてあり。白子川の源なり
原野
・林場
村の東北隅にあり
神社
・三十番神社
村の鎮守なり。小名中嶋にあり本照寺の背後にあたれり
・稲荷社
小名堤村にあり。鎮座の初め詳しならず。9尺1間許の小稲荷に鳥居あり。村内圓福寺の持なり。
寺院
・妙福寺
村の東、豊島郡土支田村より入口にあり。法華宗。下総國葛飾郡中山法華福寺の末法称山と号す。弘安5(1282)年、法華経寺第二世日高聖人草創の地なれども、のち住める僧もなかりして、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、十七日の説法ありしに、村内天台宗修験大覚寺の住持日延聖人もこの法筳に至り、深くその宗意を帰依し遂に改めてこの宗となれり。
日祐も日延聖人の知識にのってならさるを知り、当寺をこの聖人に譲れり。
今は日祐聖人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す。日延は永和2(1376)年11月11日に寂す。
のち天正年中(1573~93)、御朱印地21石余りを賜りしか、のち回禄(火災)に罹り寺も滅べしに、21世明了院日教聖人、堂宇を再造せしにへ。
これを中興開基とす。この聖人は享保11(1726)年11月1日寂せり。本尊三寶を本堂に安す。
往古大覚寺の本尊は、嘉祥3(850)年創建の時、開眼の釈迦(金佛坐像)今もこの寺に納め置いたりという。金剛は近き頃塗り直し、古色を失うに似たれども容貌この常の像に非ず茜きものと見えたり
・三十番神堂
二間半、四間半、祖師堂に向かって左にあり
・七面妙見相堂
二間半に四間半、祖師堂の丑寅にあり、三間四面この鬼子母神は法華経寺に安せる像の本礼なり。往古日蓮聖人、平日の済経佛なりしを日祐聖人へ伝わり、ついに当寺へ納めたり。本寺には卸して○刻の○を安せり嘗て給わるところの御朱印もこの鬼子母神へ寄付せしと云う
・本堂
九間に八間祖師堂の北にあり
・鐘楼
祖師堂に向かって右にあり、鐘は廻り2尺5寸、高さ3尺5寸許。寛文年中(1661~73)の銘を彫る。その文は後にのす是によれば古鐘をこれ○あらため鋳しと見ゆ。文の終に慈東山大覚寺の文字隠然とあれど、これは○うちけしたりと見ゆれば模糊として、正しくは読みがたし。またそれ故も伝えては詳しならず
・本照寺
境内8畝9歩(249坪)。小名中嶋にあり、本堂五間に七間半。了光山と号す。開山日勇上人、文禄2(1593)年3月20日に寂せり。
・実成寺
村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中(1573~93)創建なり。加藤山実成寺と号すこの寺は、往古より村内妙福寺の末寺にて法性坊と唱えしか。寛政5(1793)年、17世日藤聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ今は法性院と云う。
旧跡
・弁天社蹟
井頭池の中洲に建てり。聖人云う、昔、村の童がこの池の魚を捕りしに怒りき、其の祟りありしかはこの村及び土支田村の人と共に村内妙福寺の住持日忠聖人に請い、弁天の祠をこのところへ勧請したる。時に貞享年中(1684~88)のことなりとされと。正保(1645~48)の頃の絵図、既にここの祠を載せたれはいつの頃よりか廃祠となりして、この時再建せしなるべし。それもまた廃祠となり、今の名のみて残せり。