真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

きょう

現在3台のクルマがある我が家。

1台はステップワゴン。壊れたヴォクシーからおととしレンタカー3年落ちの個体へと乗り換えました。

実家の家族全員で乗れることが大前提なので、8人乗りは必須です。

 

2台目は軽四のステラ。主に妻の通勤や子どもの送迎に必須です。

 

3台目は昨年購入した5速マニュアル+4WDの軽四ラピュタSターボ。

これは完全に趣味のクルマ。

他に趣味が無いぼくにとって、このクルマは大事なおもちゃ。

 

3台もクルマが家にあるので、まるでお金持ちのようです。

 

そんな折、町内会の雑務のひとつである新年度班長さんへのおねがい行脚をしていたきのう。

おとといに会合の中で新年度の班長さんについて諮り、すぐ来週の総会に向けて議長さんへ総会資料を渡さなくてはならないことから、その結果を以て新年度の班長さんへのおねがいへあがるのはきのうが唯一のチャンスでした。

本来であれば、ことし小学校に上がった息子の入学祝のお祝い返しをすべく遠方へ行こうとしていたのですが、それを犠牲にして町内会の雑務をしなくてはならなくなりました。

 

きのうの朝は雪から雨に変わって激悪な天候。

新しい班長さんへは5個パックのティッシュを渡すことにしているので、ステップワゴンで9班分のティッシュを買い込み、一家でおねがい行脚を開始しました。

 

いらっしゃらないお宅もあってなかなかスムーズに進まない中、班長は忙しいからムリだと罵声を浴びせられたお宅もありました。

タイミングが悪かったということもあるのでしょうが、会長とも話し合った結果、ことしはそのお宅を飛ばすこととしました。

何度か行き来して、やっと残り1軒というところでお昼になり、お昼ご飯を買った帰り、先ほど罵声を浴びせられたお宅へお詫びのお手紙を出そうと思い、その文面を考えながら、残り1軒に一応寄ってみるといらっしゃいまして、なんとかひととおりおねがい行脚を終えることができました。

頭の中ではまだ謝罪文の文面をかんがえながら、最後のお宅から家に帰ろうと道路にでようとしたときです。

死角のうえに雪で隠されたブロック塀で造られた花壇に、ステップワゴンをフロントからつっこませてしまい、バンパーは破壊され、ラジエーター、エアコンもひしゃげてしまいました。

 

自宅はすぐそこだったので、そのまま帰ってステップワゴンをみると、たいへんな惨状。

みぞれが降る中、我を忘れて号泣しながらバンパーを嵌めようとしているぼくがいました。

 

10分後くらいに妻になだめられて自宅へもどり、あんぱんを食べてすぐ町内会の会計担当のお宅へ向かい、町内会で加入している保険について聞いてみようと思いましたが、あいにく不在とのこと。

奥様が会長ならなにかわかるかもということで、びしょ濡れになりながら会長宅へ向かいまして、一連のお話をしたところ、自動車に関しては保険の対象にならないんじゃないかという回答。

いちおう連合町内会に聞いていただけるということで、一縷の望みを以て本日を迎えました。

 

しかし、連合町内会に確認していただいたところ、やっぱり対象外とのこと。

なんで自動車は対象外なのか。

町内会の活動に自動車を使うなとは一言も言われたことはありません。

どんな状況でも歩いて行けということなのでしょう。

 

連合町内会の部屋で大暴れして多大なご迷惑をかけたうえ、なだめていただき、落ち着きを取り戻して職場にもどりました。

 

ひとまず保険屋さんに連絡し、保険を使用する手配をしました。

保険を使用すると、3等級下がるうえ、3年間は事故を起こした人用のペナルティ保険料となります。

計算してもらうと、だいたい3年間で9万5千円。プラス免責が5万円なので、合わせて14万5千円の損失となります。

 

なんでこんな目にあわなくてはならないのか。

俺がいったい何をしたというのだ。

町内会の役員じゃなかったらこんなことにならなかったのに。

班長さんをお願いして回るという仕事はものすごい気苦労。

それでなくてもいろいろ犠牲にして町内会活動しているのに。

大借金生活なので14万5千円なんて大金どこにもない。

我慢して我慢して節約してるのにこの仕打ち。

誰のせいでもないので頭の中はずっと自責で気が狂う。

 

もう心が無理だったので、申し訳なくも早退させていただきました。

そこでひとつひらめき、修理の見積もりが14万5千円以下だったら保険を使わないほうが良いのではないかということで、バンパーを養生テープで何とか固定して自動車工場にステップワゴンを持って行ったところ、見積もりは30万円弱。

もう保険を使う以外にはありません。

 

市役所勤め=金持ち

クルマが3台ある=金持ち

 

みんなそんな風におもっています。

でもぜんぜん給料はあがんないし、賃貸住宅だったら補助がでるけど持ち家だったら補助ほとんど出ないし、昔のいい時に役人だった人のイメージがそのまま残っちゃってるからすげぇ損してるきがしてならない。

団塊の世代の人たちは子ども達とのかかわり方も今と違うし、お金の感覚も今と違うし、同じ尺度で語られるのがめちゃめちゃ腹立つ。

 

えらいと思われる順が サービス残業多い人>>残業多い人>>普通に帰る人・・・とかになってるし、土日でたらえらいような風潮だし、日中がんばって普通の時間に帰ったら使えない人間みたいになってる。

 

公務員たたきはひどすぎるし、他の業種はそんなことないのに。

 

そしてぼくが買った3台目のラピュタは、23万円。

ほかにまったくお金を使わないぼくにとっての唯一の趣味。

ランニングコストは車検やタイヤ代を含めて均して月5千円強くらい。

こづかいは自分で家計をやりくりして全部わかってるから、出ないのは明白。

せめて月5千円くらいのクルマの趣味くらい許されてもいいじゃないかと思う。

だめなの?ただめだってるだけでお金はそんなにかかってないし、小遣い5千円なのとおんなじなのに。

パチンコで1回負けたり、飲み会に1回行ったくらいの金しかかかってないのに、バーンと家の前にあるから目立って余計にそう思われる。ほかになんにもぜいたくとかしてないのに。なんでこんなに周りの目からの視線を損してるんだ。

どうせわかってもらえないけど

 

会長もステップワゴン修理の免責の5万を「たった5万」とぬかしやがる。

もうラピュタ売ろうかと思って、買取サイトに登録しようと全部入力して決定ボタンのところで手がとまった。

こんななんの楽しみもなく町内会のボランティア活動を何年もがんばってやっているのにこんな目に遭わなきゃならないなんて理不尽すぎる。

だれも周りにぼくの状況を分かってくれる人がいない。

子育てがどれほど大変か。子どもに救われることはたくさんたくさんあって、いっぱい思い出作ってあげたいのに、それがぜいたくととらえられるし、あんまり理解されないし。

ぼくがずっと大好きなTUBEが釧路に来るのに、仕事だしおかねもないし我慢しなきゃならない。

もうあたまがぐるぐるよくわかんなくなって破裂しそうだ。

 

そもそも精神がおかしいのは、8年前に同僚の先輩が死んじゃって、その仕事が全部のしかかってきたのがそもそもの原因で、そのときにろくに解決策を講じてくれなかったのがにくい。

お金についてはほんとは若い時の浪費がひどかったせいでいまそのツケがきてるんだけど、今は心を入れ替えてまじめにやってるのに一向に上昇しない。

昔のことはもうどうにもならないから今はもうずっとがんばってるのにどうにもならない。

実家もまったく頼れないから、頼ってる人にとやかくいわれる筋合いもない。

よのなか理不尽なことだらけだ。公務員はどんなにがんばっても給料あがるわけじゃないし、おかねがなかったらどうすればいいのさ。

 

さっき、罵声を浴びせられたお宅に真心を込めて謝罪したお手紙を投函してきました。

 

お金が無いとなにもならない。真心とかだってだいじだけど、どうしてもうけいれられないときもある。ひとりならいいけど、ぼくには大事な家族がある。ぼくしかまもってあげられないんだ。

ヤクルト風張、プロ入り初勝利!

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きのうのヤクルトx巨人戦は乱打戦となりました。

そんな試合で勝利投手となったのは、プロ入り4年目、岩手県九戸村長興寺出身の風張蓮(かざはり・れん)

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おそらく、妻のひいばあちゃんの実家である千葉家の近所で育ったのではないかな~と思われる風張くん。

これをきっかけに自信をつけて、大きく飛躍していってほしいです!

 

私の応援する横浜は、相変わらずのスロースタートですけれど(*´з`)

じいちゃんとか平野家についてとかのなんやかんや

家系のインデックス

 

母方平野家のじいちゃんが居なくなってから半月。

そろそろ心の整理もついてきたので、重い腰を上げてここ最近のお話を綴ってみようかなと。

 

平野家の調査について、数年前からずっと鍵になるであろうと思っていた本がありました。

その本は「大泉今昔物語」。

母の実家である平野家は現在北海道斜里郡小清水町で農業を営んでおりますが、もともとは明治38(1905)年ころに今は東京都練馬区の大泉地区となっている北豊島郡大泉村から入植しております。

その大泉村が合併する前の小榑村、橋戸村、上土支田村についての歴史を上土支田の郷土史家、加藤惣一郎氏がまとめてくださり、自費出版で作製された本。

昭和50(1975)年、加藤氏が58歳のときに初版600部を刷ったそうですが、その後も復刻され、ある程度の数はあるのかと思います。

きっとほとんどが地元にあるのでしょうけれど。

 

その本の存在を知った数年前に、図書館の相互貸借で借りようと試みたことがありましたが、その時は残念なお返事でした。

大きな市の市史などとは事情が異なり、小さな村のさらに昔の郷土史ともなると、禁帯出の本が多くなってしまうので、これは仕方のないところではあります。

さらにはたとえば国会図書館の相互貸借だと、釧路の図書館までは来るけれど図書館外には持ち出せないとか、色々制約があるそうです。

しかし地元の図書館には、たまに帯出可の本があったりします。

でも、相互貸借となるとまた事情が違ってくるようで・・・。

 

そして先月2月3日、釧路市の図書館がリニューアルオープンしたときに改めてチャレンジ!したものの、やっぱりダメ~。

練馬まで行かないと読めないのか~(-_-;)

しかし3月3日、もう一度粘り腰で司書さんに、なんとか貸してくれるところを探していただけないでしょうかと頼み込みました。もうモンスターユーザーです<(_ _)>

図書館外へ持ち出しできなくても仕方ないので、せめて読めるだけでも・・・という想いでした。

 

すると、3月8日、館外持ち出し可能な状態で練馬の図書館から釧路の図書館に届いたのです!

その待ち焦がれた本には、いままで仕入れていた情報がかすむほど、まばゆい情報がてんこ盛りでございました。

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貪り読んだ結果、平野家についてだけをかいつまんでまとめてみます。

 

・大泉の平野氏は、もともとは房州仁右衛門島(千葉県鴨川市太海)の平野家の出である

・応長元(1311)年に日蓮の弟子である日高(にちこう)上人、そして野瀬氏という人とともに、小榑村へ日蓮宗布教のためやってきた

・小榑に来た理由は、法華経寺(千葉県市川市中山)のある地の有力者だった高橋氏が、親戚のある武蔵国新座の小榑へ布教に行ってくれと頼んだため

・布教の結果、嘉祥3(850)年創立の天台宗大覚寺が、日蓮宗妙福寺となった

・平野家の本家は南大泉にあったが、総本家は既に絶家となっている

・総本家から分家した平野家は、江戸期に名主であった平野源吾右エ門や、大正期に大泉村会議員であった平野嘉平を輩出

・そこから西大泉の平野家がさらに分家し、西大泉の本家であった平野儀三郎家が北海道へ渡った(結果、分家が本家となり、現存)

・旧大泉村域から北海道に渡ったのは、平野家のみ

 

・・・と、平野家分だけをかいつまむとこれくらいの量なのですが、ここからいろいろな推測(妄想)が頭を駆け巡るわけですね。

 

鴨川市にある「仁右衛門島」は、代々平野仁右衛門という方が所有している島。
現在は38代目の平野仁右衛門さんが守っておられます。

伝説では治承4(1180)年に小田原での「石橋山の戦い」で平氏に敗れた源頼朝が、真鶴から房総半島へ敗走。

紆余曲折の末に当時は蓬島と呼ばれた島へ逃げ、平氏の追っ手から島民の仁右衛門さんに匿ってもらったということです。

蓬島から巻き返しを図った頼朝は、房総半島から兵力や援軍を募り、最終的には平氏を破って鎌倉幕府を創設したということとなっております。

 

蓬島の仁右衛門さんは、どのタイミングかはわかりませんが、頼朝から「平野」の名字と、島まるまる一つと、漁業権を賜ったというお話。

それから蓬島は仁右衛門島と呼ばれるようになったのでしょうが、江戸初期の洪水によって文献等が失われており、詳しくは不明とのこと。

また、仁右衛門島には日蓮(1222~82)が訪れたという史跡、神楽岩も遺っているそうです。

なぜ頼朝が恩人へ敵の名が入った「平野」という姓を与えたのかは知れません。

実は3月15日、NHKの「日本人のおなまえっ」という番組で、敗走中の頼朝が名字を与えまくったという話題がたまたま放送されたのです。NHKでも平野の由来についてはわからないようです。 

落ち着いたときに録画した番組を見て、なんちゅうタイミングか!と驚愕でした。

 

これらの情報をもって、ここから妄想ストーリー(*^_^*)

わが平野家の祖先は、仁右衛門島を訪れた日蓮の誘いにより、仁右衛門島を離れて法華経寺(千葉県市川市)へ入ります。

そして日蓮および弟子の日高(にちこう、1257~1314)上人と生活をともに。

寺領地である中山村の有力者は高橋氏であり、仲間には安房国金杉もしくは夏見(ともに現:千葉県船橋市)付近出身の野瀬氏(←電話帳サイトでの野瀬姓分布により推測)がいる。

その後、郷士高橋氏の要望により、日高上人および野瀬氏とともに高橋氏の親類がある武蔵国小榑へ日蓮宗布教のために向かいました。

日高上人の21日間におよぶ説法の末、天台宗であった大覚寺(850年に慈覚大師が創立)を日蓮宗へ改宗させ、妙福寺と名も改まりました。山号は「西中山」となりましたが、これは法華経寺の建つ中山村に対して西の方角にあたるからでしょう。

平野家祖先および野瀬氏は、寺檀那として土着したようです。

そして現在の南大泉に平野家は連綿と続いておりましたが、江戸初期に総本家は絶家。

しかし、分家の平野源吾右エ門家が江戸時代に長らく名主を務め、大正時代には大泉村村会議員となる平野嘉平を輩出しています。

その平野源吾右エ門よりも以前の代で、わが平野家は西大泉へ分家。

高祖父・儀三郎の代で、儀三郎の義弟となる音五郎(上土支田、加藤長蔵の二男)が婿入りして西大泉平野家を継ぎ、跡継ぎであるはずの儀三郎は北海道へ渡り、現在に至っています。

 

・・・という流れを、本の情報と妄想を織り交ぜつつ、あまり不自然な感じなく?まとめあげることができました。たぶん。

これまで源頼朝日蓮聖人など歴史上の偉人が登場しまくってますが、これだけさかのぼると仕方のないことでしょう(*´з`)

 

また「平野」という名字ですが、妻の予想だともともと「平」は違う字だったんじゃない?とのこと。

ふむ。一考の価値はあります。

 

また、リンク先はPDFですが、このように研究もなされています。

アイヌ語で「崖」を意味するピラという語に万葉仮名で「平」という漢字があてられているのでは?という研究です。

確かに仁右衛門島は崖、傾斜地だらけのような島ですから、あてはまるかもしれません。

アイヌ語といえば北海道。そんな思い込みが崩れ去りました。

はるか昔をさかのぼれば、アイヌ語は日本各地に散りばめられているのかもしれません。

でもやっぱり頼朝が「平」をくれるのはなぁ、と思いますが。

 

よし!この線でじいちゃんに話をしに行こう!と思った矢先。

3月11日の日曜日。函館の実家から妻と娘あてにホワイトデーが届いたのでお礼の電話をしたところ、じいちゃんが入院していることを聞いたのです。

どうやら肺の検査入院だそうでしたので、週末土曜日の17日にでもお見舞いがてら話をしに行こう!と思っていたところでした。

入院したのは3月8日。

きっと、セブンスターを嗜み、お酒も呑み、しょっぱい食べ物を好んだじいちゃんは、病院の薄味の食事や、タバコも酒もダメ、しかも水も制限されて・・・というのがイヤになってしまったんでしょう。

検査入院からわずか5日後の3月13日、じいちゃんは96年、35,072日の生涯に幕を下ろしてしまいました。

あっという間に魂だけが病院を抜け出していってしまいました。

 

亡くなる前日までは自分で歩いてトイレに行っていたそうですが、やはりしんどそうだったようで、

「俺はもうダメだ」とか、

「16からだぞ・・・」とかつぶやいていたようです。

そう、じいちゃんは16の時分に父も祖父も失い、平野家の家督を相続して家長となったのです。それから80年もの間、平野家を守り続けてくれました。

 

最期については、また聞きなので間違っているかもしれませんが、以下のようだったそうです。

ベッドに横たわり、最後の力を振り絞ってなにやら伝えたかったらしいじいちゃん。

何かを話していたそうなのですが、もはや力がないうえ、もともとバリトン級に低い声だったので誰も聞き取ることができず、みんなが??という顔をしていると、

「なんで俺の言っていることがわからねぇんだ、馬鹿野郎!」

・・・と言い、そのまま息を引き取ったということです。

 

じいちゃんは最後までじいちゃんだったという、まさにレジェンドとして後世に語り継がれるべき存在でした。

最期に何を伝えたかったのかは、もう知る術はありません。

 

また、じいちゃんの「政次」という名ですが、ずっと「まさじ」が正しいのに気に入らないから「せいじ」とか「まさつぐ」とか名乗っていたと思い込んでおりました。

しかし、じいちゃんの一番上の姉が「まさつぐ」と呼んでいたとか、一番下の妹は「まさじ」だと思っていたりとやはり一定しなかったのですが、しかもプライベートと仕事で使い分けていたらしいという情報も。

結局なんやかんや情報をまとめた結果、叔父曰く「まさつぐ」で決定したそうです!

今後遺していく資料は「まさつぐ」で統一することとします。

 

・・・じいちゃんがもう居ないなんて、寂しい。

平野家の歴史を優先的に繙いていたのも、じいちゃんにいろいろ教えたり教えられたりしたかったからでしたし。

これでもう、重要な記憶が天に昇ってしまいました。

あとは、じいちゃんがうまいこと私を歴史的真実へと導いてくれるといいなぁ・・・と思いにふけったりしている年度末。

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2011年5月、娘が撮影したじいちゃんの最高の笑顔。私はこんな顔見たことないです。

平野政次、逝去。

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さきほど10時35分、

母方祖父である平野政次、満96歳にて逝去。

最後に会ったのは、昨年1月4日の正月休みのとき。

 

その後は、娘の部活や妻の仕事でタイミングが合わず、盆も正月も行けずにいました。

こんなに行かなかったことは今までなかったんですが・・・。

 

今月6日に誕生日を迎えたばかりでしたが、最近は小清水日赤病院へ入院していたそうです。

 

2月8日に釧路市内に住む父の2番目の姉(満73歳)、3月5日にも和歌山有田市に住む父の3番目の姉(満68歳)と、おばさんが立て続けに亡くなったばかり。

 

もう、悲しすぎて何が何だかわからなくなってきました。

 

でも金曜日は息子の卒園式なので、そこになにか儀式があっても卒園式優先ですね。

 

じいちゃんが逝ってしまったことにより、私と妻のじいちゃんばあちゃんは、みんな二度と会えぬ人となってしまいました。 

 

じいちゃんいままでありがとう。

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▲2016年11月27日撮影

屈斜路開拓時のようす

家系のインデックス

 

昭和57(1982)年、屈斜路開拓から80周年ということで、この年は記念事業が多く行われたようです。

明治35(1902)年が屈斜路(現:北海道川上郡弟子屈町屈斜路)開拓の始めとされているのですね。

菊地家の高祖父一家が屈斜路御料地へ入植したのは大正2(1913)年ですから、少し遅めに入ったんですね。

その事業の一環として、記念誌も発刊されました。

 

そのなかに、屈斜路開拓時のようすを語り合った座談会について記載されておりました。

当時をしのぶ貴重な資料ということで、転載させていただくことします。

 

屈斜路開拓を偲ぶ

出席者
 藤田ミツ
 宮崎アキ
 藤田松四郎(曾祖母・菊地カツの弟。この2年後に84歳で没)
 小野寺源十郎
 小浜重郎
 大関惣吉
司会 金田勇喜治
記録 道辻文太郎

司会 きょうは、お忙しいところをお集まりいただきまして有難うございます。
 きょうお集まりいただいたのは、屈斜路も入植されてから80年になります。今年はそれを記念して80周年記念事業を行っていますが、その中の事業の一環として、記念誌を発刊することにしています。その中に、この屈斜路が開拓されあt当初の方の当時の生活や苦労話を聞いて、屈斜路の歴史の一端を知ると共に、後世へ語り伝えておこうということになったわけです。
 きょうの座談会は、そうしたことを中心に話を進めてまいりたいと思いますので、よろしくお願いします。
 はじめに、屈斜路に入地された道程を聞かせていただきたいと思います。
大関 ほとんどの人は、船で釧路まで来て、そこから川舟で標茶に来たね。私も子どもだったが荷物を背負わされたことを覚えています。親は本州から持って来た大きな物を背負ってきたね。
小野寺 私は室蘭さ上がって汽車で釧路に来て、そこから川舟で来た。
藤田ミ 私も釧路まで汽車できました。
司会 釧路から標茶まで川舟で来たようですが、舟を引いたようすを教えて下さい。川の両側で引いたのですか。
小野寺 弟子屈からみて右側は大きな柳があったので引っぱれなかった。左側だけでロープを引っぱったんだ。左側は小さな木だけだったから。
小浜 男の人が5、6人で引っぱったんだ。船頭さんは舵をとるだけ。
藤田ミ 男の人は、みんな引っぱったね。
宮崎 船の上の人が「引っぱれ、引っぱれ」と言うと引っぱり出したね。
大関 片側だけしか引けないから、かかる人は3日位かかって標茶まで来たようだったな。
小浜 夜になると、舟の中で寝たんだ。
宮崎 みんないっしょになって寝たね。
司会 標茶からこちらに来る迄にはどうしたのですか。
宮崎 今の鐺別の苗畑がある所に試験場があってね、そこで3月の雪解けまでいました。食べ物は毎日いもと人参ばかり食べさせられたね。私達子どもは、人参を「金魚だ、金魚だ」って喜んで食べたの。
小野寺 標茶からは、8トンの台車があったというのを聞いているね。更科さんの所にあったらしい。
宮崎 弟子屈に12、3軒しか家がなかったね。お菓子買いに来るの遠かったけれど、毎日買いに来たことを覚えています。
 雪が解けて歩けるようになってから弟子屈から歩いてここへ来ました。
小野寺 その頃は、道らしい道も無かっただから大変だったよね。
司会 弟子屈から屈斜路への道程をお聞きしたいですが、初めはどこを通ってきたのですか。聞くところによると、五軒沢(今の大沢)を通って古丹にぬけ、古丹でたまって(集まって)、そして屈斜路に入ったと言うことですが。
小野寺 今の登音頭(ヌプリオンド)の橋(木橋)を渡って古丹に来たんだ。そこで黒滝木材商に寄って、そこから湖水へりを歩いて川口の丸木一本橋を渡って湖水のへりを奔渡側へ歩き、和琴のもとの小浜利男さんがいた所に造材飯場があって、私らはその飯場にずっといて、そこから通って小屋がけをしたんですよ。
大関 古丹には、しょうさくさんの店があって、集まってくる迄、そこに食料貰いに行って生活したんです。
司会 その後、登音頭の山の上を通るようになったのはだいぶ後のようですが、小野寺さんの頃は山の上を通ってたんでしょ。
小野寺 そう。私らは釧路から今でいう発動機舟に乗って五十石まで来て、そこから馬車で標茶の丸井旅館に来て一泊し、次の日は、馬車に荷物を積み、人はみんな馬車と一緒に歩いて磯分内に来て昼食をとって弟子屈に入った。弟子屈で一泊し、次の日「イッテンマ」に荷物と子どもと女が乗って屈斜路に入ったんです。
 登音頭の山を下ると、そこに燕麦蒔いてあったから、それを見て「はあ、ここにも畑があるんだな」と思ったね。どこの炭小屋さつれていかれるかと思っていたから、畑を見て農家があるんだと思って、ほっとしたね。
司会 それは、その頃の生活の様子をうかがわせて下さい。
小野寺 私らは、自由移民で親達が労働していたから米の飯は食えた。昔の移住の人は、ソバの種子や五升芋の種子が役所から配給なって、それを植えてとって食べたたしいね。私は5年くらいたってから畑を始めたが、そのころ焼き畑だった。笹原に火防線を切って、その中に火をつけて焼いて、木株や焼枝のない所にソバや五升芋を蒔いたもんです。
司会 松四郎さんにお聞きしますが、大正2(1913)年に入地していますね。そのころ御料からいろいろな物資が配給なったと思いますが、どんな物資が配給になったのですか。また、どこから配給になったんですか。
藤田 古丹で、黒滝が係をしていたから公料をもらいに行って食べた。米はよけい貰えなくて麦だとか、味噌、醤油。それも沢山もらえなんで、20日分くらい貰って食べたね。
司会 食料は配給制だったんだね。
宮崎 それも、働く人だけ貰えたんだよね。子どもの分は当たらなかった。
藤田 とうきびも砕いたのを貰ったな。
小浜 それはいい方だよ。私なんか、見たことなかったよ。
司会 配給にも人数の制限があったようですね。
宮崎 人数の多い家は困ったよね。いくらいても3人分しか貰えなかった。藤田さんのところなど10人いても3人分よ。大人の多い家はいいけれど、子どもの多い家は子どもの分当たらなかったからね。
司会 それでは、大家族の人は苦労したね。
小野寺 宮崎さんが来た頃は、合田さんが一番大家族だったそうだ。そこで2戸分貰ったそうだよ。
司会 足りない分はどうしていたのですか。
大関 芋、そば、豆ひと握りもらって蒔いて増してまかなった。
藤田ミ 私たちは人数が少なかったので芋3俵、ソバ1俵までしか貸してくれなかった。子どももいなかったから、3俵なら3俵全部蒔けた。よその人は子どもがいれば、子どもが焼いて食べたようですよ。
全員 そうだ、そうだ。
藤田 私なんか2人でも3人分借りられたから1人分残ったので、たいして苦労しなかったがね、家族の多い人は難儀したよ。
小野寺 昔の人に聞いた話だけれど、麦を食べてしまった人には、その年は貸してくれなかったらしい。2、3年して麦の種子がきたらしいね。
宮崎 小田切さんが、屈斜路に来て五升芋とソバは採れるから、芋とソバを植えれって言ってたね。
藤田 ソバは、ばら蒔きだったね。
大関 そのころ俺ら子どもは、川に魚釣りに行ってたな。魚釣りが商売さ。
司会 それは、みんなの食料のたしになったね。
全員 そうだったね。カルシュームったら魚しかなかったもんね。
大関 うちの所の川には、ウグイが6月から7月にかけて上がったから、うちの爺さまは、ドウを作ってかけておくと次の朝、石油缶に2つくらい入ってたな。
 夕方になるとどんとくるから、野天で火を焚いて、とれた魚を串刺して焼いて、それをオヒョウの皮を細くして一尾ずつ編んでさ、家の中の焚火の上に吊るして干して、それを一年中味噌汁や煮物のだしにしたりしたね。味噌汁の中に入れると骨まで食えるようになるだな。
 越年は、山で兎がとれたさ。うちの爺さまは一冬で十羽くらいとってたな。
宮崎 兎はいたものね。
大関 あとは、芋、ソバばっかしで、学校の弁当も芋だった。朝10個くらい持っていくけど、途中で腹へるもんで、その芋を5つ6つ食べちゃってよ。
司会 小浜さんは食べ物について何か。
小浜 私は9人家族で来たもんだから、ここに落ち着いてみたら3人分しか貸してくれない。3人分で9人が食べとおしたのだから、腹一杯なんか食べられない。おまけに米なんか見たことない。よしんば米を買っても量が少ないから麦ばかりさ。とうきびをさやからもいだままのものを炊いて、麦の中に入れて食べたことを今でも覚えているね。
 今食ったらとても食えない。豚も食わないな。それでも腹一杯食えなかった。
 母親は、どれほど食うことに苦労したかしれないと思うね。今ならああいう事をしたら大変だよ。9人いるのに3人分しか貸さないんだから。少なく借りたことは払うことを考えればよかったと思うけれど、命をつなぐのがようやくだったものね。
司会 開拓当時の食料事情をおうかがいしたんですが、次に、生活していくには畑を耕して収入を得る状態でなかったので、結局は物を買う時は働かなければならなかったですよね。当時は全体で5町歩しかなかった。それは営農するには足りなかったですね。それで畑の収入は無いということですから、収入を得るには他の仕事をしなければならない訳ですよね。
 そこで、どんな仕事をされたか、おうかがいしたいと思いますが。
小野寺 山に勤めた人もいるし、出面とりした人もいたね。造材が主だったよね。
小浜 働くのは、父親と母親と一番の兄で、兄は17、8くらいだったかな。3人しか働けない訳だ。
 それで、畑を耕すに掘立小屋の軒下から真鍬で熊笹が針ねずみのように生えた所を一鍬一鍬耕すのだから、1ヶ月くらい耕してもどdのくらい耕せたものか。私が小さい時のことだから覚えていないけれど、本当に鼻くそくらいでなかったのではないか。
 結局、小遣いなんかも自給自足が原則といっても現金が必要だと思ったね。覚えているのは兄貴がオサッペ川の流送に働きに行くことで、流送につかうトビの竹竿を買う金が無かったと思うだな。それで、いたやの太い枝を削ってトビの柄を作っていたのを覚えているね。
 換金作物がないんで、出面とりに出かけて小遣いを稼いだという現状だったと思うんだね。
司会 大変だったね。収入が無いんだから、若い中から働かないとならなかったんだね。
小野寺 私が来た時に金沢さんの畑が一番開けていたね。というのは、金沢さんの家に働き手がいなかったんだね。働き手のある家は山へ働きに行って金をとってきて食わねばなんないから働き手がある家は、畑が開けなかったんだ。
小浜 開墾の仕方はね、昔の畑というのは北海道庁の決めた区画整理をもぐりもぐってやったね。なぜそんなことをしたかと言うと、原則としては家の周りから開墾していくつもりで始まったんだが、うちの場合、家屋を建てる時なるべく日の当たる所を選んで建てたと思うだね。日の当たる所で立木のない所は熊笹がものすごく深かった。兄貴は開墾が始まってどうにもならなくなって、どこかいい場所はとぐるぐる探したら、やっぱり笹の無い所があったと言うだね。そういう所をもぐりもぐって開墾して芋を植えたんだという話を聞いているね。
小野寺 四国の人が第一移住者だがね、その人たちはオサッペ川、エントコマップ川、湖水のふちなどに入ったんだね。というのは、熊笹が沢山伸びていないんだ。草が多く開墾もし易かったので、そんな所にばかり入ったんだよ。川ぶちや湖水ぶちは今考えてもそうだよね。
 その後の3次、4次となるにしたがって、山際へ山際へと押し込まれてしまったんだ。
宮崎 そうだね。早く来た人はよかったね。合田さんあたりはよかったものね。
小野寺 早く来たからね。入川さん、和田さん、窪内さん、加藤さんなどは下の川ぶちや湖水のふちの肥沃な平らな所で開け易い所に入ったもんだね。
大関 遅く来たうちの所は一番悪い所なんだ。いまでもそうなんだが。
小浜 一番生活でくろうしたのは俺達の頃だと思うんだ。
 水はどこから汲んだかというと、現在喜治郎がいる百間上にあがった小高い所に家を建てて始まったんだ。水はいま俗に言う開拓所の湧水を汲んだものだ。ガンガン(一斗缶)二つに天秤を通して、そして朝1回、晩1回汲んでガンガン4つで1日まにあわせたね。水には随分不自由したもんだよ。
 水の使い方はどうしたかと言うと、一番先に麦を洗う。その水は捨てないで樽にあけて沈殿させて、その上澄みで野菜物を洗う。それでなげられる(捨てられる)ならまだいいが、また樽に入れて沈殿させて3回目に足や手を洗うようにして使ったものだよ。
宮崎 私らは、湖水の水を使ったね。
大関 川に水汲みに行った人は遠かったね。途中に畑があったから遠回りしたもの。
司会 水には充分苦労したようですね。井戸を掘った時のことを話してください。
小浜 井戸を掘るのに部落家族総がかりで1ヶ月もかかった。
大関 宮崎さんのところの水はよく出たんだ。
小浜 70尺くらい掘ったんだ。それも今のような掘り方でなく、多勢で掘らないとならないんで、4人が中に入って掘るように始めたから、9尺の枠に掘って下がった訳さ。こんど、水が出たときは嬉しいのと土がくずれないように、早く井戸枠を埋めるのに一苦労したね。
全員 苦労したね。大変だったよ。大仕事だった。
小浜 あれが屈斜路の井戸の第一号だった。
宮崎 前にも掘ったことあったけれど出なかったものね。
司会 深さは。
小浜 70尺。
宮崎 そこに9尺の四角い枠を入れるのが大変だったね。
小浜 井戸枠は、井戸掘り始めると同時に若者がこびきして二寸板で作った。手引きだからこれも大変な仕事だったな。
司会 上西さんの入口の所で、今は道路の下になってわからないけれど十何軒程が利用したようだね。掘るのにも二斗樽をいちいち引き上げたので大変でしたね。
 あの井戸は、ずっと後まで使われたようだね。
小野寺 あの井戸は水がよかったから。
宮崎 戦後まで使ったね。
司会 小学校の井戸が出来た時は、オサッペ川の水がなくなると、学校のを使ったね。
宮崎 オサッペ川の水も、今はあるけれど、あの頃はすぐなくなったものね。
小浜 昔は、あばれる時は物凄くあばれて、肝心な時に無くなったもんだ(笑)。
司会 だんだん開墾が進んできまして、木材の仕事をやったり、少しずつ畑が開けるようになってから馬が入ってきたのはいつ頃でしたか。
宮崎 業者のが早くに入っていましたが、農耕馬は、わたしのところの白銀の色白の七金星、それが一番目で大正13(1924)年頃だったと思うね。
 学校の生徒が見物に来て、やぶの中だから蚊にさされてこぶこぶになっても見ていたものね。めずらしいから。
小浜 うちのおやじが、その馬を見て「馬を使って一回でもいいからプラオで畑を耕せば助かるな」と言っていたよ。
小野寺 反対にね、ある人が「あんなもの入れて畑を耕してたら畑をふまれるから、あんなものだめだ」って言っていたもんだ(笑)。
司会 いくらくらいで買ったんですか。
宮崎 小田切さんから買ったんですが、何十円もしたと思うね。
小野寺 当時、当歳の雌が7円、雄が5円だった。これは、こまいやつだけど、3才になって畑耕しをやったね。
大関 それで、美幌へ行ってプラオとハローを買ってた。プラオは1頭5分だったが13円だった。
司会 プラオが13円ですか、馬なら4、50円はしたんでしょう。
大関 そんなにしなかった。20円くらいでなかったかな。
小野寺 いや20円はだいぶ後で、そんなに高くなかったよ。
宮崎 馬は安かったね。
大関 道産子だったから、うちのじいさんは、美幌からプラオとハローを背負ってきたものな。びっくりしたよ、あの時は(笑)。
司会 馬車はどうでしたか。
小野寺 馬車は丈夫なので90円。この部落では山本さん、高橋さん、岡田さんとこなど4、5台しかなかった。それで、ビートを作っても運賃にとられて文句を言ったのを覚えている。
大関 美留和に出したけれどね。
司会 私も、屈斜路へ来るとき、山の中を通ってきてどこへ出るもんだかと思っていたんですが、ここへ来たら広くなって安心したんです。
 ここへ来られてもう7、80年近くになりますが、何かいい事もあったと思うんですよ。
 みなさんが言うんですが、「野天風呂に入るのがよくて、どこへも行かないでここで生活してきた」って。当時は、家に風呂もなく飲み水も不自由したのですから、温泉は有難かったわけです。その当時の半島温泉の話を聞かせてください。
藤田ミ 盆や正月など何かあると半島に集って来たものです。和琴しか行く所ないんですもの。若い娘も年寄りも和琴へ行ってお湯に入って遊んで来るのが一番の楽しみだったですよ。
司会 今でも、野天がいいって言って出かけて行って、みんなで色々な話ができるのが屈斜路の一番いい所だと言われていますね。
 昔はあの山を温泉山と呼んでいましたね。和琴は大正11(1936)年に大町桂月が名付けたんです。
小野寺 和琴(半島)に行くのに、前の苗圃の所を下って湖水ぶちを通って行ったんだ。ポントの人たちは高橋嘉藤太君の所、今の和田さんの所へ出て行って、湖水の波打際とやちの間にポコンと高い所があって、そこを通って行った。今でもその道があるね。
司会 そこが和琴の本通りといってたね。和琴の道路というとその道路のことだった。
小野寺 古丹に行くには、今の郵便局の裏から湖水ぶちを通って木の根っこをはねながらきて川口まで行った。そこに一本橋があって、それを渡って行ったね。
大関 私は、古丹(屈斜路教育所)の学校へ行ったけれど、来た年は休んでそのあと2年通った。
 尾札部ができてこっちに来たが、その時に加藤唯次先生が来た。一番早く来た先生だった。
司会 古丹へ通った時は一本橋を渡っていったんですね。
大関 そう、ギシギシいっていたな。
司会 その後に板橋が出来たんですが、いつ頃か知りませんか。
大関 私が通っていた時は、一本橋とその後の二本橋だったね。板橋になったのは学校終わって3年くらいしてからだと思うね。
 ところで北見道路が出来たのはいつ頃だったね。
司会 私の調べでは、大正9(1920)年の大水で釧路川の橋が全部流されて釧路の方からの物資が入らなくなって、10月に道をつけて美幌から物資を入れるようになったそうです。峠までの道はその時出来んで、それから、米や味噌が美幌から入るようになったようです。
 野上峠は明治に囚人がつけています。
 屈斜路には当時店がなかったので、物資はどこから入ったのが多いんですか。
大関 北見(美幌)からだいぶん入ったようだよ。
司会 美幌峠が開通したのは、大正12(1923)年頃ですか。
宮崎 それは改良された年で、人が通れるようになったのは11(1922)年頃だったと思うね。私も子どもがおなかにいたので、馬車に燕麦殻を敷いて流産しないようにして行き、一晩泊まって帰ってきたのを覚えているから。
大関 その頃の冬に峠で凍死した人もいたね。大吹雪のために、馬だけ助かって、部落の人が3日がかりで雪かきして死人を出しに行ったこともあった。
小浜 うちのおやじは、美幌から馬にひかせる手造りの除草機を背負って来たもんだ。
大関 さっきも話したけれど、うちのおやじはハローとプラオ2つを背負って10里(40km)の道を来たんだから、たいしたもんだったな。
小浜 塩などは、美幌に買いに行ったけれど、8貫目くらいのを出始めは、このくらいの物なら大丈夫と思って背負って出かけたが、美幌峠に登りかかるとだんだん重くなって、一升投げ、二升投げして家に着いたときは半分も無くなっていたね(笑)。みんな強かったね。
 今でも近道残っているけれど、帰りは笹の上をすべって下ったもんだ。
小野寺 大正の飢饉の時どうしてたね。
小浜 凶作もなんもなかったんでないの。年がら年中凶作だったから。
宮崎 食えないということはなかった。
小浜 たいていの人は、いもやふきを食べて1週間や2週間は、麦のできるまで我慢した人が多かったようでだよ。
小野寺 いなきびはよくできたね。焼畑に蒔いたらよくできた。8俵くらいとれたな。
大関 いなきびは、どこもよくとれた。
司会 ちょっと聞いた話なんですが、この地域で畑を耕すようになってから、古丹の人達が芋や麦を貰うのに労力を提供して手伝ったり、魚を持ってきたりしていたと言うですが、みなさんの所ではどうでしたか。
藤田ミ こっち(四、五部落)までは来なかった。
司会 こっちの人は働いてもらうんですが、魚なんか持って来て仕事をやらせてもらって、帰りに芋や麦を貰って行った。お金を貰わないで品物を貰って行ったと言うです。
藤田ミ 来てもらった事はなかったですが、大根が出来ないというので熊送りのとき、大根や豆を持って行って、ばくった(交換した)ことはあるね。
大関 終戦当時は古丹に魚と交換に行った事はあったね。
宮崎 椎茸を持って来て米や麦と交換してくれと言ってきたことはあるね。だから椎茸は不自由しなかったね(笑)。
大関 古丹は魚がなんぼでも取れたからね。
宮崎 和琴でもとれてどうしようもなかったよ。秋味の山ができていたもの。
大関 湖水ぶちの人は、しばらく魚には不自由しなかったのでないの。
小浜 秋味のとれるようになったのは、だいぶん後だったな。
司会 最初はとれなかったの。
小浜 最初にとったのは宮崎さんで、漁師の経験があったから。おれらは山育ちだったから。
大関 舟なんかないととれないからな。
宮崎 湖水ぶちの人達は随分とって山のように積んであったよ。
大関 あの頃は塩をしたのが1本50銭、生は5銭で買えた。
小浜 秋味とれても塩がなかったので、どうしようもなかったな。
大関 あの頃は、秋味を5枚におろして干して冬の食べ物にしたが、おいしかった。木の枝に干すので大根、大根っていっていた。
宮崎 今、それと同じのを売っているね。
司会 古丹では、干したのを専門にやっていた人がいて、シャモと食料をばくったと言っているね。干すのにカラスぼいに大変だったらしいです。
 古丹の人も食料に苦労したので、魚をとって結構生活していた人もあったんですね。
小浜 あの頃は魚が安かったけれど、買う人いなかったね。
宮崎 山のように積んであっても、もって行く人はあっても買っていく人はいなかったからね(笑)。
小浜 やはり食うことに苦労したことは、はっきりしているね。
大関 昔は食い物がわるいから1日4回食べた(笑)。3時にも食べたから、いもやカボチャだから4回食わないと晩まで腹へって仕事が出来なかったからね。
小浜 大豆のある家では、大豆の炒ったのを袋に入れ仕事の合間に食べていたのを見て、うらやましく思ったもんだよ。
司会 この屈斜路では、木炭を作らなかったのですか。
大関 大きな木ばかりで炭は焼かなかった。大きな木は昼も夜も燃やして早く開墾しなければ補助金を貰えなかったから。
宮崎 大きな木は全部焼いて、いらない木は横に積んだね。
大関 それでも随分あったな。
小浜 一かかえも二かかもある木なんか持って行ってもらった方が助かったね。
司会 いい木(あお木)は造材業者が切って売っちゃったんだね。
小野寺 真樺は、みんなあんな硬い木どうするだといって売れなかった。今なら大変な貴重品だけれどね。
大関 大きな木は2日がかりで切ったもんだよ。
司会 いろいろ話も出ましたが、何か思い出になる話があったら出してください。
小野寺 関東大震災の時、屈斜路から20万石、美留和から20万石、合わせて40万石を釧路川で流送したんだよ。あの時は、湖水から釧路まで木材が続いていたね。
 当時、木の方専門だったようなもので、百姓は片手間にやったようなものだね。
小浜 百姓なんかやる気なかったね。
大関 稼ぎ専門だったな。
小浜 換金作物といえば燕麦ぐらいなものだった。
小野寺 造材馬用の燕麦を作って売ったら45円もとれた。大評判になった。燕麦で45円ももうけたから(笑)。
小浜 食料が少し安心して食えるようになったのは冷凍澱粉を作るようになってからだ。
小野寺 あのだんごは食えなかったな。真っ黒なんだな。それに青エンドウで作った味噌をつけて食ったんだけど、これも真っ黒なんだ。貰っても袂に入れていって、捨てたね。あとで慣れて食べられるようになったけれど。
大関 食い慣れればおいしいよ。
 正月には、いなきびの餅が食べられるのが楽しみだったね。白い餅はお供えだけだった。
小野寺 昔は、赤ちゃんにお乳を飲ませるのに、米3升あればいいんだ。お乳飲ませるだけだったから。
大関 そうめんなんか一箱買ってあればいい方で、一箱3円でも買えなかった。
小野寺 大正12(1923)年頃は、年に米は一人1俵、石油1錐、塩1俵あれば生活できた。
司会 その頃の住宅はどうでしたか。
宮崎 シナの皮、ヤチダモの皮を使って、毎日開墾小屋から通って家を建てたもんです。大きな家で、5間に7間もあった。馬も一緒の家に入れました。
小野寺 笹で屋根をふいていた家もあったね。
小浜 燕麦がらやソバがらでふいたものもあったな。
大関 あれは、長く持たなかったね。
司会 柾屋はずっと後のことですね。ガンビ(白樺の皮)で壁をふいた家もあったね。
小野寺 窪屋さんのじいさんの家がそうだったね。屋根も壁もガンビでふいていたんだよ。一回、火事になった事もあったけれど、油と同じようによく燃えるのでどうしようもなかったことがあった。ばあさんに家の中の金出してくれって頼まれたけど、ただ見ているだけだった。
小浜 医療関係のこと話してみたいんだが、昔は病気したらもう自力でなおす体力がなかったら死ぬほかなかった。一回は医者に診てもらうが。
 ここでは、弟子屈に長谷部という医者がいるだけだったけれど、この医者は、夜の夜中でも迎えに行けば来てくれたので、本当に助かった。薬代も催促しなかったし、代金を持って行っても受け取らなかった。
 ところが変わった医者で、頭でも尻でも何の病気でも胃腸が悪い胃腸が悪いで片付けてしまうだ。考えてみれば、ろくな食べ物を食っていない時だから、それでいかったのかも知れなかった。おかげで死ぬ病人も死なずにすんで助かったね。開拓功労者の一人に加えて欲しいと思うね。
宮崎 あの頃は、よっぽどのことでないと医者にかからなかったね。
司会 いろいろ昔のことを調べていますが、当時の人は3分の2くらいは出て行ったので、いまこうしてお話を聞いておかないと、こうした機会はむずかしいと思いますので、いま聞かせてもらえる話があったら簡単に話して下さい。
大関 うちらが入地した時は開墾料を貰ったが、後で土地を買うようになったので土地を抵当に入れて450円だったと思うが、すぐに払う金がないので35年年賦償還で、年25円ずつ納めて買った。
司会 昭和4(1929)年にみなさんに売りつけられたんですね。開かれた土地は高く、山などのような所は安かったのですが、それで開かれた土地を安くしてもらう運動を私の父も東京まで行ってやっているんですね。大関さんの言われた土地代を払えないから年賦で払うため銀行から金を借りて御料局へ払って、それを年賦で払ったわけです。
 大正12(1923)年ころ土地の売買は、使用する権利の売買だけで土地そのものの売買でなくて、1年規約の使用権の売買だったんです。ですから、1年たって自分で使用したい土地があれば権利を買えばよいわけです。ですから、その頃は随分移り歩いた人もいたようです。
小野寺 今は地籍も整っているから、これからの若い人たちは、この土地をしっかり守って現代の方針に従って発展するようにして欲しいね。
 私たちはもう終わりなんだから。
全員 そういうことですね。
小浜 野天風呂のことを話したいんだが、我々が入地したころは水がないので、当時の小田切所長が「ここはみずがないんだから洗濯も風呂も野天風呂に行って入れ」と言ってくれたんだ。だからお役所のお墨付きをもらったようなものなんだよ。だから傷や病気に罹ったらよく行ったもんだ。それが環境庁がわり込んできて車止めなんかして、もってのほかだと思うだよ。
司会 今、小浜さんが野天風呂の話をしましたが、温泉があるから残った人もあるですからね。調べてみたら半島を利用できる請願書が出てきたんです。120~130人の連名で印鑑も押してあるものなのです。昭和3(1928)年のことです。それによると半島の野天風呂、神社、付け根の広場などを屈斜路の遊園地にしようという構想なんです。
小浜 私たちの青年の頃に、今の半島の道路を作ったんだ。部落総出でね。やちだった所を木を切ったり、水をぬいたりしながら。
司会 だから、和琴半島から追い出される理由はないんだよ。本当は、野天風呂はここの土地の人の生活には切っても切れないつながりがあるのです。
大関 義経岩を湖の中から上げて今の場所に運んだのも思い出だね。今のような機械のない時だから2日半くらいかかってやったものな。
司会 いろいろなお話をお聞かせいただいて有難うございました。
 今日の座談会の内容は整理されて記念誌に掲載されます。今の若い世代の人には昔の方々の苦労を知っていただくことも出来ますし、これからの世代にも語り継ぐことができます。
 これからも御壮健でいつまでも屈斜路を見守って下さることをお願いして、本日の座談会を終わらせていただきます。
 本当に有難うございました。


昭和57年11月発刊 屈斜路八十年誌より

 

・・・以上、ローカルな内容にもほどがありますが、北海道の開拓は、おそらくどこも似たような状況だったのではと思います。

ひいばあちゃんの藤田家は、御料地に入ったということで、他の家とは入地の状況が異なったようです。たしか、わりと良い条件で入ったようなことを聞いたことがありますね。そのせいか、松四郎さんの発言がほとんどありません。

菊地家も御料地入植組なので、藤田家と同じ状況だったと思います。

 

屈斜路に限らず、みなさんそんな苦労の末に北海道へ定着してくれて、ほんとにありがたいことです(*^▽^*)

祖父のアニバーサリー!

家系のインデックス

 

きょう3月6日は、

 

母方祖父である平野政次、96歳のバースデー!!!

 

戌年生まれなので、今年が8回目の年男ですよ(#^.^#)

 

大正11(1922)年、北海道斜里郡清水村生まれ。

昭和10(1935)年、樺太恵須取町布札に移住。

昭和14(1939)年、「じさま(高祖父)」の急逝により家督相続。

昭和18(1943)年、陸軍入隊。国境警備という重要な任務に。

昭和24(1949)年までシベリア抑留で死ぬ目に遭い、

小清水に戻ってばあちゃんと結婚。

 

畑や畜産や木こりの仕事をず~~~っと続けてくれたおかげで、今でもその魂を受け継いでくれた伯父と従兄弟が、連綿と平野家を守り続けてくれています。

 

じいちゃんが乗っていたクルマは、私が覚えているのだけでいすゞフローリアンや、マルーンのX30/40系コロナマークⅡ。そして千葉のおじさんが乗っていた千葉ナンバーのB11サニーを受け継ぎ、ダークグリーンのT190系ディーゼルコロナ、最後はE100系カローラ

カローラが事故で無くなったあとも、5年くらい前までは家にあったスターレットを運転して老人会に行ったりしてました。

 

ばあちゃんが4年前に他界してしまってずいぶんと気落ちしたでしょうが、なんとか気力?で持ちこたえてくれています。

 

そして子孫は子ども5人、孫17人、ひ孫20人(まだまだ増員中)。

なかなか全員は揃う機会はないですが、強力なDNAです!

 

ひとつ他愛のないエピソードを。

数年前に私の一家と、同僚一家で芋ほりをさせてもらいに小清水へ行った時のこと。

大阪は枚方出身の同僚と、じいちゃんが話をしていましたが、その内容が以下のような流れでした。

 

じいちゃん「貴様、どこの生まれよ」

同僚「大阪です」

じいちゃん「なに!内地か」

同僚「そうです」

じいちゃん「内地のどこよ」

同僚「大阪です」

じいちゃん「そうか」

 

・・・というやりとりを淡々としていたのが、今思い出しても込み上げてくるものがあります。

じいちゃんは誰にでも「貴様」といいます。おそらく本人は丁寧な言葉のつもりなのでしょうが、今の感覚からするとズレているような。

 

名前の読みは「まさじ」のはずなのですが、読み方が気に入らないのか、自分では「せいじ」と言っていたり、ばあちゃんの葬式での喪主あいさつの時は「まさつぐ」と紹介されていたり、ブレブレです。

いろいろエピソードには事欠かない厳しいじいちゃんですが、まだまだ行けるとこまで行ってほしいです!

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▲10年くらい前に撮影。ばあちゃんも元気でした。

藤田家について混乱する

家系のインデックス

 

家系を探求していくにつれて、この10年間で、今のところ3系統の藤田家が出てきたわけです。しかもいずれも福島県白河地方。

 

一つ目は、高祖父の祖母である菊地ヤス(1813~99)の実家・東白川郡東舘村(現:矢祭町東舘)。

二つ目は、曾祖母である菊地カツ(1895~1996)の実家・西白河郡千田村(現:白河市東千田)→東白川郡下山本村松原(現:棚倉町下山本松原)

三つ目は、前述曾祖母のさらに母である藤田カメ(1872~1942)の実家・西白河郡蕪内村新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)

 

地図で示すとこのような感じになります。

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上の青いポイントが蕪内新屋敷。

次の赤いポイントが千田孫八。新屋敷から3km(徒歩で約40分)

続いての赤いポイントが下山本松原。孫八から15km(徒歩で約3時間)

一番下の緑ポイントが矢祭東舘。松原から16km(徒歩で約3時間10分)

Googleマップで徒歩での経路を見てみると、このような感じでして、一番遠い新屋敷から東舘は約31km、徒歩で6時間20分と出ました。

 

今とはもちろん比較はできないのですが、30kmという距離。

昔の人にとってはどのくらいの感覚だったのでしょうか?

全ての藤田家が繋がるわけではないと思いますが、蕪内と千田の藤田家はもしかするのでは・・・?と勘繰っちゃったりしています。

東舘の藤田家は、関係ないような気がしますが。

 

あんまり僕の頭だと整理できないので、系図にまとめてみました。

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ふむ、少し整理できた気分♪

 

ちなみに超ステキなサイト、「人名力別館」さまによると、藤田姓の割合は以下のような感じらしいです。

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全国的に見ても、東白川郡大子町が藤田さんまみれのようです。

矢祭町下関河内(しもせきごうど)の追ヶ草に至っては、フジタ100%!

 

白河市の旧東村域でも、

11 福島県 白河市 下野出島万海(71.4% / 約20人)

20 福島県 白河市 千田孫八(62.5% / 約20人)

65 福島県 白河市 下野出島石原(39.3% / 約50人)

67 福島県 白河市 釜子日向(38.9% / 約30人)

82 福島県 白河市 千田明神前(35.7% / 約20人)

・・・と、小地域100位以内に上記がランクイン。孫八も入っています。

 

全国的に見ると30位と、割りに多めの藤田さん。

都道府県別だと福島県は22位なのに!

なぜ、ここいらに集中しているのか?

まだ調べてません(*´з`)

 

また、棚倉町史を読んでいると、下山本村についての古文書中に以下のような記述を見つけました。

文政8(1825)年7月
下山本村
百姓代 林蔵
組頭  清右衛門
組頭  長右衛門
庄屋  忠右衛門

この百姓代として名がある林蔵さんというのは、以前も書かせていただきましたが、字松原の地籍簿に出てくる名前です。この方も藤田姓。藤田林蔵さんです。

そして組頭として清右衛門という名があります。

これは、高祖父・藤田松吉の父の名。

 

姓がないのでなんともいえませんが、文政期には下山本村に住んでいた藤田清右衛門家が、ある時期に15km離れた千田村へ移り、清右衛門亡き後、戸籍上では明治20(1887)年に下山本に戻ったと考えられなくもないですね。

あるいはもしかすると、清右衛門はそのまま下山本村に居たのかもしれません。

そして末吉か松吉の結婚かなにかで千田村に・・・とか、確証がないのでめっちゃ妄想ですけれど。

しかも全然関係ない人かもしれないし。

む~、現地にもう一度行ってみないと、これ以上はわかんない!