真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

茨城県久慈郡生瀬村→福島県東白川郡豊里村【石井家】

今回は高祖母の実家・石井家です。

高祖母・菊地すゐ(1874~1931)は、明治7年に石井庄衛門(1837~1902)、ふゆ(1839~1909)夫妻の二女として茨城県久慈郡生瀬村大字小生瀬(現:大子町小生瀬)で生まれました。

明治26(1893)年に19歳で福島県東白川郡豊里村東舘(現:矢祭町東舘:ほとんど隣町)の菊地幸吉に嫁ぎ、5男1女をもうけます。その間、届出上は大正2(1913)年ですが北海道川上郡屈斜路村(現・弟子屈町屈斜路)に入植。桶屋の妻として頑張り、昭和6(1931)年に亡くなりました。

高祖母が生まれた小生瀬という地では、慶長7(1602)年の話(諸説あり)だそうですが村民が全滅させられるという惨劇(生瀬騒動)があったということです。おそらく石井家はその後に小生瀬に住んだのではないでしょうか。

石井家で判明するのは、庄衛門の父・重四郎という名前が最古です。長男であった庄衛門は嘉永6(1853)年、16歳のときに家督相続しており、重四郎は早世であったのかと思いましたが、その庄衛門も明治17(1884)年、48歳のときに当時22歳の長男・石井酉次郎(1861~1938)に家督を譲り隠居しておりますので、早めに世代交代する風習があったのかもしれません。

祖父の弟によりますと、石井家についての伝承があり、
久慈郡一帯の庄屋庄左ヱ門(註・庄衛門の誤りか?)として代々つとめ、のちに石井の苗字を許された」
とあり、そのまま鵜呑みにすると結構な家柄であるようにおもいますが、真偽のほどは不明です。

庄衛門はその後の明治29(1896)年、59歳のときに長男・酉次郎より分家!?し、新たに福島県東白川郡豊里村東舘・・・、二女・すゐの嫁ぎ先、菊地家の近くに移ったようです。

その際、戸籍の名前が「石井庄右衛門」と変わってしまっています。

その2年後、庄衛門は再び隠居し、二男・石井鐵之助(1867~?)に東舘の石井家を託した後、その4年後の明治35(1902)年に65歳で亡くなりました。

また、庄衛門→庄右衛門と戸籍の名が変わったあと、さらに鐵之助の家督相続時に「石井正右衛門」と名前が変わっており、意図的なのか、ただ間違っていただけなのか知りたいところです。

ちなみに庄衛門の妻・ふゆも、東舘に転籍の際にフユと片仮名表記に変わっており、二女・すゐも、嫁いだときにスヱと片仮名表記になった上に、すい→すえと、読み方まで変わってしまっています。ただ、屈斜路の墓碑には菊地スイと記名されていますので、スヱというのは届出の間違いのような気がします。

庄衛門の没後、東舘の石井家は茨城県那珂郡大宮町(現:常陸大宮市)に移り、また元々の本家、生瀬の石井家も西茨城郡岩間町下郷(現:笠間市岩間下郷)に移っているようで、もう庄屋をつとめていたという久慈には誰もいないのかもしれません・・・。

岩間に移った酉次郎に男子はありませんでした(1人いたが夭折)が、大宮に移った鐵之助には男ばかり5人の男子(一、仁、武男、正清、三郎)がおりましたので、石井家の手がかりがつかめるとするなら、この5人の子孫の方しか頼れないのかな?と思います。


<石井家直系系譜>
石井重四郎→長男:石井庄衛門→二女:石井すゐ(菊地スイ)・・・。
家紋:不明