真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

私の育った地

家系の探求も、ずいぶん行き詰ってしまいました。苦し紛れに私の育った地のことを少し書いてみたいと思います。

私は、北海道釧路市白樺台という地区で生まれ育ちました。
昭和30年代の後半に造成されたいわゆるニュータウンです。

私の父は弟子屈町出身ですが、今話題の北海道開発局の職員として釧路に勤務しており、当時は開発の官舎に両親と妹と4人で暮らしていました。

近所には従兄妹や祖母も住んでおり、同年代の子供達もうじゃうじゃおり、とても活気があった地区でした。地区の運動会やお祭りなど、楽しいイベントもたくさんあったように思います。

当時の私はずいぶんといじめられっ子でしたが、辛くも楽しい日々でありました。

しかし平成5(1993)年、中学校3年生の夏休みを迎えたときに父の転勤で網走市へ引っ越しました。なんちゅう時期に転校せにゃならんのか・・・、と当時は思いましたが、網走ののんびりとした空気もまた心地よいものでした。そのせいか、成績はガタ落ちしましたけど。

網走の高校を卒業した後、再び釧路に戻ることにしたのは、やはり釧路に対する望郷の念からでした。

一人暮らしとなって緑ヶ岡という地区に住み始めたころ、故郷である白樺台に足を運び、少なからずショックを受けたものです。

当時あれほど居た子供達は少なくなり、警察の派出所が駐在所に!ずいぶんと寂れた雰囲気になってしまっていました。交通の便が悪い地区ということもあり、過疎化していたのです。

さらにそれから10年以上経ち、その間にどんどん私の思い出の場所が姿を消していきました。

家族ぐるみでお世話になっていた自転車屋さん。

丘にあった官舎のてっぺんの公園。

いつもおつかいに行っていた相長さん。

たまにツケで本を売ってくれた第一書房

中学校の帰りにゲームセンターに入り浸っていた生協。

オンボロで、雪の日には廊下に雪がつもっていた白樺台小学校。

そして、一家で15年間楽しく暮らしていた開発官舎・・・。

官舎については、しばらく板が打ち付けてあって、いつかは壊されるのかな・・・と思っていました。

数年後、私が結婚するために引越しをするとき、母が函館から手伝いに来てくれたのですが、そのときにたまたま白樺台の母の旧友の家に行ったところ、なんというタイミングか、官舎の解体工事真っ最中でありました。

母はあまり見ないようにしていた様子でしたが、私はしばらく呆然と工事を眺めていました。

悲しい風景でしたが、たまたま函館から来ていた母と一緒であったのは、この官舎が最後のお別れを言いたかったからではないかと感じています。

野球のボールをぶつけられて壁がへこんだり、電球を割られたり、花火をあてられて焦がされたりしても、あの賑やかだったころが一番楽しかったなぁ、と思いながら・・・。

時に平成17(2005)年3月12日。この官舎を離れてから11年でありました。

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