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真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

福島旅行記②

旅行の2日目は、いよいよ私と娘の祖先の地・矢祭町へ向かいます。
朝はなるべく早く出ようと思ってはいたものの、結局9時半に出発となりました。 もうその頃にはハワイアンズに遊びに来る車が長蛇の列を作っており、なかなか駐車場から出ることが出来ませんでした。 宿泊客でも、チェックアウトしてからクロークに荷物を預けて、その日は遊んで帰るという人も多いようです。
娘がもう少し大きくなったらまた来たいなぁ。空いてるときに。
ホテルを出て、まず湯本インターから茨城の高萩インターまで高速道路を走り、高萩で娘のオムツやデジカメ用のSDカードを買ったりしました。 高萩のショッピングモールはいろいろなお店が揃っていて、とても混んでいました。見たことがないお店ばかりでしたが、「あかちゃん王国」や「ベイシア電器」は、とても品揃えが良く、好印象でした。どうやらベイシアグループのお店が固まっていたようです。
その後は大子町へ向かいました。今まで私が本州で運転した経験があったのは、東京や横浜などの街中だけでしたので、本州の普通の道を走行することは初めてでした。 高萩から大子の間に猪鼻峠というところがあり、北海道には無い狭さとぐねぐねっぷりで、嫁は酔ってしまいました。峠以外でもセンターラインが無いところが多く、「北海道の道路は何と素晴らしいことか!」と初めてはっきりと認識したものです。
大子町に到着しまして、ここは高祖母・石井スイの生まれた「小生瀬」という地があります。さっそく小生瀬へ向かいましたが、道に掲げられたいろいろなお店の看板にはほとんど「石井○○店」というようなことが書いてあり、石井率の高さに呆然としました。 それでなくても高祖母の実家は、大正期にこの地を離れていますので、手がかりはつかみにくいと感じていたのに・・・。
近くの商店で戸籍謄本の写しを見てもらったものの、やはり判らないようでした。それでも突然の訪問であったのにもかかわらず、いろいろ文献を調べてくださったりして、大変ありがたかったです。 結局何もわからず、迷惑だけかけてその地を後にしました。
近くには袋田の滝という名所があったので、見てみようと思っていたのですが、嫁が車酔いでダウンしていたので、トイレだけ寄って矢祭に向かうことにしました。
再び福島県へ入り、同時に矢祭町にも到着。道沿いでゆずソフトクリームというものが売っていたので、食べてみるととてもさっぱりして美味しかったです。嫁の車酔いもいくらかすっきりしたようでした。
最初は、兼ねてからコンタクトをとっていた関岡飯野の遠い遠い親戚の方のお宅にお邪魔しました。なんと道沿いで待ってくれていました。
その方は父上が亡くなってから新たに家を建てたようでしたが、裏に大変立派な旧家が残っており、しばらく呆然と眺めておりました。
私から見て6代前のご先祖である菊地儀右衛門は、戸籍上では「文化7(1810)年 関岡村菊池友輔三男」として生まれたと記載されていまして、その後に我が菊地家の祖である藤兵衛の養子となりました。今度はその菊池友輔を祖先に持つ方のお宅(本家)に連れて行っていただきました。
その本家には蔵があり、非常に威厳のある佇まい。 本家を守っておられる方は、矢祭や隣の棚倉で校長先生を歴任されていたそうで、83歳ながらも大変お元気で、風格がにじみ出ていました。そして、大叔父にそっくりだったのです。偶然じゃないよね!
家にお邪魔してお話を伺うと、「丸に並び鷹の羽」を家紋とするその本家の方の祖先「菊池友輔」は、「神医の如し」と謳われた医者でした。
家の古い写真(明治期?)を見る限り、まるで大きなお寺のような家でした。病院や薬局も兼ねていたようです。しかし、友輔はお墓に刻まれたとおりだと明治18(1885)年に74歳で没しており、数えで考えると文化9(1812)年生まれ。どうやら私の祖先・儀右衛門の父としては年代が合致しないのです。むしろ友輔の弟として考えたほうが合っているような年代です。さらに、友輔の推定生年は儀右衛門より2年後です・・・!
何やら雲行きが妖しくなってきました。
友輔の父である友元は、本名「菊池三寿道恒」といい、天明元(1781)年関岡の農家に生まれましたが、医師を志し、後に漢法医師として大変地域に貢献しました。二男二女をもうけ、長男友輔は医師として家業を継ぎ、二男孝昭は、家を出て本家を継いだ・・・以上は友元の墓碑に刻まれている漢文を訳したものです。
この孝昭という人物が儀右衛門なのか?養子に行った先の藤兵衛家がさらに本家なのか?・・・あるいは墓や戸籍の何かが間違っているのか?謎は深まりました。
最悪のシナリオだと、全く関係が無いということもありますが、これ以上のことはわかりませんでした。ただ、本家の方と大叔父が似ているという心の拠り所があるので、少し安心です。
そして、戸籍上祖先が住んでいた「東舘舘本40番地」を案内していただきました。現在は食堂になっているようで、当時の面影は無いようでした。
ここで親戚の方と別れ、ひとまず宿をとる「滝の湯旅館」さんにお邪魔しカマキリの歓迎を受けました。釧路には寒くてカマキリは居ないのでしばらく見入ってしまいました。そして矢祭山久慈川を観光した後、儀右衛門の娘婿(私の5代前の祖先)儀平の実家・近藤家があった上関河内(かみせきごうど)に行ってみましたが、どの家にも表札が無く、人影もなかったのであきらめて再び東舘に向かいました。
東舘にはスインピア矢祭という大きなプールがあり、プール道具を持った小学生がたくさん歩いていました。
最後の日暮れ目前に山の中腹に大量のお墓を発見し、慌てて向かってみると、そこはお寺でした。しかも「曹洞宗東慶寺」の看板が!我が家は曹洞宗ですので、なにか手がかりがあるかも!動悸が激しくなりました。
日暮れが近いので、とりあえず全てのお墓をチェックします。東舘から私の祖先を含む10戸が入植した、屈斜路の墓地にあるお墓と同じ苗字が多かったので妙に感動したものです。
雨が降り出した中、で1基(1区画)だけ「菊地家」の名をみつけました。家紋も同じ「丸に違い鷹の羽」。しかし、知っている名の記載はありませんでした。
ここで日暮れを迎えてタイムアップ。車で嫁と娘を待たせているので、もう帰る事にしました。
この地で6代前の儀右衛門・ヤス夫妻、5代前の儀平・ハツ夫妻が眠っているはずですが、古いお墓には戒名しか書いてないことが多いので、もしお墓があっても気づかなかったのかもしれません。
最初にお世話になった方と関岡の「藤の家」という食堂で夕食をとりました。その食堂のお孫さん(生後2ヶ月)と娘(生後11ヶ月)のふれあいに癒されてから旅館に戻りました。
「滝の湯旅館」の温泉はぬるぬるしていて、これは初めての感触でした。お肌すべすべ。三十路の肌に染み入ります。しかも、親子三人で一緒にお風呂に入るのはこれが初めてでした。記念ずくめの旅行です。
ご先祖さまに頭の中で語りかけながら眠りましたが、夢枕には立ってもらえませんでした。
下の写真は、東慶寺の墓地から矢祭市街を望んだ風景です。 

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