越後国蒲原郡河間村【如澤家】②
先日の如澤家からのお便りによって、如澤家について知ることができた部分を端折って纏めてみたいと思います。
如澤家は、事情は判りませんが江戸時代に西蒲原郡河間(こうま)村(現在の新潟市西蒲区河間)に移り、後に信州より長沼家(後に河間の大庄屋となる)を呼び寄せ、ともに河間を開発したと推測されています。
この如澤家と長沼家にどのような関係があったかは不明であるそうですが、如澤家ももとは信州ではないかと云われています。
また如澤姓の発祥についても判っていないのですが、文化6(1809)年の時点ではすでに使用されていたようで、仏像の箱に「文化六年未八月下旬 如沢兵右エ門 阿弥陀如来の木像及び九字十字の名号を佛光寺より下附せたれたり」と記されているものが残っておられるそうです。
そして、地誌「河間の今昔」では、日本神話によるところの信州諏訪神社に祀られている建御名方神の子孫が「神家」「諏訪家」と称し、その神家である「沢」家(姓氏家系大辞典による)の一族が信州如澤家ではないかとの推測がなされています。
沢という名家があって、「沢の如し」で名乗ったのでしょうか・・・?
以下、地誌「河間の今昔」より転用させていただきますが、
「現在、大字河間に「如沢」が3軒、「長沼」が23軒ある。苗字必唱のとき当然如沢を名乗ることを希望したものも多数であったであろうと想像されるのに、移動があったにしろ現在3軒であって、長沼がはるかに多数であるのは何故であろうか。これは、如沢が「苗字」で、長沼が「名字」であったためではなかろうか。昔は「苗字」は祖先の氏・素性を表すことばで、「名字」は土地と結びついて発生したものを表すことばとされていたのである。如沢が「神家」という特別な素性の出であることをおもんばかって遠慮したのに対して、長沼は信州の土地名であるため名乗りやすかったのではなかろうか。」
現状では推測しかできないようですが、すごく納得させられました。
また、新たに6代前の祖先である鹿嶋モトの父・如澤兵右エ門(1821~1856)は如澤家の便宜上の初代から数えて4代目であり、モトの母・よ衣(1824~1861)は村内の松崎長左エ門の三女ということが判明しました。
そして、家紋は「丸に組み井桁」。
今回お手紙を頂いた如澤家では、「崇敬祖先、維持家紋」を家訓とされているようで、家紋が非常に重要な意味を持つものではないでしょうか。
信州で「井桁」紋というのは何か謂れがあるのでしょうか?
珍しい姓である如澤家。このたびお手紙をいただけたことで、様々なことが判明しました。
このようなお取り計らいを頂けたことは、感謝の念に堪えません。
そして・・・新潟に行ってみたくてしようがなくなりました。
2009/9/27追記:如澤さんに電話でお伺いしたところ、如澤の「如」は阿弥陀如来の「如」であるのではないかとのお答えでした。俄然神職であるという線が強くなりました。