真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

続:高祖父・儀三郎

先週、高祖父・儀三郎の実家である新倉家の方よりご連絡をいただきました。

新倉治兵衛には三人の男子(長男と次男(高祖父)と三男)があり、

高祖父の兄、本来であれば新倉家を継ぐはずであった新倉家長男系統の方からです。

しかしながら、その長男は早世。遺された子も幼かったことから、末弟である三男が新倉家を継がざるをえなかったということがあったそうです。

その長男系統の子孫の方のおかげで、さらにさまざまな歴史を教えていただくことができました。

高祖父・儀三郎が平野姓になっていたことが伝わっていなかったこと、

渡道後は故郷と音信不通となり、故郷でも心配していたこと、

新倉の家に、儀三郎の塚?みたいなものがあったということ、

儀三郎の妹・まつは器量が良く、明治天皇が田無を訪れた際にお茶の相手をしたということ、

妻となった小榑村・平野いちは、親戚であったのでは?ということ・・・。

ほかにも沢山のことを教えていただきました。

また、悪い出来事があって以降、

長男系統では「次」、新倉を継いだ三男系統では「治」の字を名前に入れる慣わしがあったそうです。

そのお話を受けて改めて儀三郎の子供たちの名前を見てみると、

長男・留五郎(曽祖父)以下、特にその傾向はありませんでしたが、

留五郎の子供たちは、正治・政次・慶治!

ばっちり新倉の風習が引き継がれていました。

しかも長女は、儀三郎の妹と同じく「まつ」という名。

儀三郎が命名したかは定かではありませんが・・・。

北海道に渡ったあと、故郷との連絡を絶っていた儀三郎でしたが、

このことを知ったことで、故郷への念と、連絡できなかった複雑な気持ちが垣間見え、

なんかとても切ない気持ちになってしまいました。

新倉家でも儀三郎の消息については気にされていたそうで、

姓が平野に変わっていたことで、ますます判る術がなかったんだとおもいます。

今回、私の起こした「高祖父の実家への手紙」というアクションによって、

永い年月を経てやっと判明したとおっしゃっていただきました。

こういうこともあるんだなぁ・・・と、とても不思議な気持ちです。

もしかすると、儀三郎は望んでいなかった展開なのかもしれませんが、

子孫達は胸を張って立派に生活を営んでおりますし、

今回のことも、きっと儀三郎が導いてくれたのではないかと勝手に解釈しています。