真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

貴重な情報をいただいて

先月末のことでした。

旦那さまのお母さんが落部村出身で旧姓「相木」の方であり、相木の系図をお持ちの方からご連絡をいただきました。

 

その方が古文書を読み解いて系図を送ってくださったのです。

 

拝見させていただくと大変な力作で、

古文書を読み解きながら作成するのは非常に難儀したのではないだろうかという一品。

とってもありがたくて、興奮を抑えながら眺めました。

 

それは、現在は八雲町となっている落部に、

1764(宝暦14)年に最初に入植した倭人3人のうちの1人といわれる津軽根岸「相木仁三右衛門」の系統の系図でありました。

この系統は、落部の戸長や局長などを多く輩出している名家なのです。

 

落部の相木家350年。かなり膨大な系図・・・。

しかし、その膨大な中にも妻の祖先「相木要作」の名は出てきませんでした。

 

実は落部に最初に入植した3人のうちの2人が「相木」姓で、もう一人は佐井の「相木久右衛門」という名です。

 

落部村内でも落部は大きな集落ですが、相木要作は「野田追(のだおい)」という、これもまた大きな集落に住んでおりました。

この野田追は、倭人が定住する前から「ノダオイ場所」として、時期になると本州からの出稼ぎ漁業の人々で賑わうところでした。

 

まったく確証はないですが、

「仁三右衛門」家は落部、「久右衛門」家は野田追でそれぞれ繁栄したのではないだろうか?というのが、

今回いただいた系図で得た大きな推論です。

 

ちなみにかつての野田追は、野田追川を挟んで山越内村の「野田生」という地と隣接しておりました。

その後、ともに合併で八雲町となり、同じ音の地名だと紛らわしかったのか、1970年ころに野田追は「東野」と改名されてしまいました。漁港も落部(東野)漁港となってしまったようです。

 

もう野田追という地名はないですが、野田追川はそのままの名で現存しています。

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あ、野田追橋もありました。

かつてのこの橋は、落部村の野田追から山越内村の野田生に至る、村と村を結ぶ重要な役割の橋だったのでしょう。