真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

果たして同一人物だろうか?

家系のインデックス

 

母の実家である平野家については、これまでもいろいろ綴ってきたところです。

平野家 【東京都練馬区西大泉】<丸に抱き茗荷>

2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】

2010/08/14 高祖父・儀三郎

2010/09/29 続:高祖父・儀三郎

2011/01/16 樺太に渡ったという歴史

2011/05/28 小榑村のこと

2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報

2012/09/22 じーちゃんが新聞に載った!

2013/02/03 平野家のルーツを訪ねて①

2013/02/04 平野家のルーツを訪ねて②

2016/10/15 ずっと勘違い・・・

 

その調査の中で、2年ほど前より新潟県村上市の方と高祖父・儀三郎についてのやりとりをさせていただいておりました。

その方は北海道紋別市の北、興部(おこっぺ)町出身。

どうやら、興部に平野儀三郎という名が知れているというのです。

 

それは米田御殿という、興部町文化財の建物にまつわるお話。

大正11(1922)年に、当時の貴族院議員・柳原義光伯爵(大正天皇の従兄弟)が興部町にお越しになるということとなりました。

興部の実業家であった米田常作は、当時の粋を集めた住宅を築き、柳原伯爵をおもてなししたということです。

その住宅は米田御殿と云われ、現在もそのたたずまいを現代に残しております。

 

そこで、なぜ柳原伯爵が興部に来ることになったかということですが、そこで平野儀三郎という名が出てきます。

以下、興部町史より。

『柳原義光が興部にくることになったのには、平野儀三郎という人とのかかわりがあった。平野は米田の長男が東京の学校に通い、寄宿舎生活をしていた10歳のころ、学校の火事で大火傷をしたときに助けてくれた米田の恩人で、それが機縁となって両家の交際が続いていた。その平野は柳原との交わりがあり、柳原が「北海道に行ってみたい」と言ったとき、「それなら興部というところに知人がいるので」と、平野がすすめたという経緯があった。
 来村の報を受けた米田は、平野への恩返しの意も込めて、一世一代のもてなしをと、何カ月も無い期間に建物を建て、庭を整え、築山を配した池を造って鯉を放したりと万全を尽くしたのであった。』

・・・ということで、平野儀三郎と柳原伯爵は、どういうわけか関わりがあったようなのです。

 

しかしながら、この平野儀三郎が、私の高祖父と同一人物なのかははっきりわかりません。

確かに、東京と北海道(現在の平野家がある小清水と興部は、距離はそれなりにあるものの、同じオホーツク地方)という共通項はありますが・・・。

 

そして、村上市の方からは、いろいろ情報を矢継ぎ早にいただいたりしておりました。

たとえば、こんな資料。

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興部の興隆寺という浄土真宗のお寺を建立する際のもの。

発起人総代の名が連なっている中に、米田氏とならんで儀三郎の名。

さらに賛助員として、柳原伯爵の名もあります。

ちなみに興隆寺の建立年代はわかりません(+o+)

 

あまりにも同一人物なのかの確証がないので、思い切って興部の図書館に連絡してみました。

すると、図書館の所蔵資料では特に何も進展がなかったそうなので、興隆寺に直接確認してくださったそうです。しかし、興隆寺の昔を知る方はおらず、2年ほど前にいらっしゃった住職さんは何もご存知ではないそうです。

さらには米田御殿を管理されている子孫(常作の孫の奥さん)の方に連絡を取ってくださいました。すると、話の中で儀三郎の名が出てきたそうで、「米田さんに菊地さんから連絡とってみたらいかがですか?」とのご返事をいただきました=^_^=

かつて、村上市の方からも米田さんの連絡先をうかがったことがありましたが、その時は躊躇して連絡できずじまいでした。

今回は図書館の方の仲介もありますから、ぜひとも連絡しないと!ということで、早速連絡をさせていただきました。

するとその米田さんは、20代で夫を亡くし、いきなり相続手続でたいへんな目にあったことや、常作さんとその奥さんが資産を遺してくれたおかげで、いま生活できていること、北見北斗高校(オホーツク管内では、一番賢い高校(^O^))時代の先生が、村岡花子NHK花子とアン」のモデル)と旧知の仲だったということなどをお話させていただきました。

ちなみに、「花子とアン」には、花子の友人として仲間由紀恵が扮する「蓮子」という女性がいましたが、その蓮子のモデルは柳原燁子。いわゆる柳原白蓮ですが、白蓮は柳原義光伯爵の異母妹にあたります。なにかいろいろと不思議な関わりが出てきました。

1時間以上にもわたる電話の結果、米田さんよりいろいろと資料を送っていただけることとなり、本日その資料が到着したのです。

 

次の写真は柳原伯爵が興部に来村された際の記念写真。

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前列の左から3人目が柳原伯爵、4人目が伯爵と共に来村された三室戸敬光子爵。2人目が米田常作。5人目が常作の父で、興部に入植した久三郎。

前列は伯爵や米田家の方々なので、儀三郎が写っているとすると、後列のどこかかな?

 

こんな雰囲気だったんだなぁ、という写真も。

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そして、今回のキモとなる平野儀三郎から米田常作に宛てた手紙。

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私の祖先・儀三郎は練馬西大泉の人ですが、この差出人欄には下谷区とかいてあり、さらには消印も「下谷」となっています。そして消印の日付、「2・11・25」と読めますが、これが大正なのか昭和なのかがわかりませんでした。

このデザインの切手は大正2(1913)年~昭和12(1937)年まで使われていたものらしく、郵便料金もその間はずっと3銭のままだったようです。なんか、この判断はかなり難しいようで、切手の素材を見ればその筋の人ならわかるらしいんですけど・・・なにしろコピーなのでなんともいえません。どちらかが日曜日だったら!とも思ったんですが、大正2年も昭和2年も11月25日はド平日でした(^_^;)

ちなみに、儀三郎の住所は下谷区のどこなのか(「下谷区残尿」と見えますが、絶対違う)、さらには内容に関しても読めなくて難儀しているところです(T_T)

※後日、下谷区龍泉寺町350であることをご指摘いただきました。樋口一葉明治26年ころに10か月だけ住んでいた場所の近くみたいです。内容に関しては、「米田さんのご隠居が、儀三郎に香典的なものを御前様に届けてもらったことの報告」のようです。御前様とは・・・?伯爵?また、米田さんによると、お姑さんがこの手紙を昭和2年のものだと言っていたという記憶があるとのお話。

 

そして、いちばん見てみたかったのは筆跡。

かつて新倉家より儀三郎の直筆と思われる画像をいただいていたのです。

それが明治26(1894)年3月14日に、新倉庄蔵(儀三郎の兄・茂助の子)を分家させるときの書面です。

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う~ん。判断つかん(@_@;)

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左が明治26年、右が大正or昭和2年

左の分家届のころは儀三郎28歳。形式ばった書類だから、きっと普通なら丁寧に書くでしょうね。

右は普通の手紙。大正2年なら47歳、昭和2年なら61歳。そんなに丁寧に書いていない?印象ですが・・・。

果たして同一人物の筆跡だろうか?少なくとも20年以上は経てるので、多少なりとも変わるでしょうが。。。

住所が練馬付近ではなくて下谷(今の台東区あたり)なのですが、祖父・政次曰く、「じさま(儀三郎)は北海道と東京を行ったり来たりしてた」とのことなので、絶対違うとも言い切れないところもあります。

村上市の方が推測するには、前述の米田氏の長男救出劇の舞台は、大正9(1920)年の北豊島郡西巣鴨村(当時)のようで、ますます居所が不可解に。

北海道の方も、小清水と興部は車でも2時間くらいかかるので、わりと遠いのです。鉄道も無いですし。

まだまだ謎は深まったままですが、もし最初の写真をじいちゃんに見せて、「おぉ!これじさまだ!」とか言ってくれるのを祈っています(=^・^=)

 

※2016/11/6追記

さっそく小清水に行って、じいちゃんに写真を見せてみました。

後列真ん中の、一番背が高い人の右隣の人が、雰囲気が似ているとのこと。

でも、この写真が撮影されたのはじいちゃんが生まれた大正11(1922)年なので、儀三郎じいさんなのかはっきりわからないそう。ただ、「この写っている人はおやじ(=私のひい爺ちゃんの留五郎)と同じような顔つきだ」とは言っていましたが・・・グレーのまま終わってしまいました。じいちゃんの記憶の中の儀三郎爺さんは、頬がこけて、ホントにじいさんだったそうなので。

確証がとれず、無念すぎてもうどうしていいかわからない(+_+)

柳原伯爵のお宅で何か手がかりが残ってないかしら?接触すらできないだろうけど・・・。