真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

小出家と新潟市江南区嘉瀬のあゆみ

突然ゆうべから調べ始めた、母方祖母のさらに祖母(ひいひいばあちゃん)の家・小出家

きのうはひいひいばあちゃんのお婿さん、小出福松が校長先生を務めていたと聞いていたのが真実だったのが判明。満足して眠りにつくことができました。

きのうの資料は国会図書館のデジタルコレクションの中の「中蒲原郡誌 上編」。その本には、嘉瀬村が合併ののちに属していた「両川村」は収録されていませんでした。

上編があるのだから、下編もあるのだろうと思って探してみると、なんとデジタルコレクションの中には存在しないではないですか!

嗚呼、無料なので文句は言えないけど、無念なことには違いありません(*´Д`)

 

しかし、かつて図書館の相互貸借で借りた本がありました。それは昭和30年に発刊された「両川村のあゆみ」という本。

嘉瀬村は小出家が加賀より移住後、明治34(1901)年に4ヶ村の合併により両川村大字嘉瀬となり、昭和32(1957)年に新潟市へ編入され、平成19(2007)年に新潟市政令指定都市に移行してからは、江南区に属しています。

せっかくあるのに今までまともに読んでいなかったのですが、「両川村のあゆみ」は新潟市への編入直前に編纂された資料。非常に重要な情報が記されていました。

 

以下、引用させていただきます。

 

〇嘉瀬
『村史に「本村は誰開発ナルヤ不詳 天文年間(1532~1555年)開発の由云伝フ」とある。
古老の言によれば、一応の開墾もでき、村の体裁も整ったので、時の18軒で嘉瀬八町(村の長さ)を平等割にして(間口は30間、奥行きは丸潟まで)、各自の持地にしたという。

そのうち今も明らかなものは次の12軒である。

新茶屋(江部)、太治右衛門(豊岡)、平左衛門(坂井)、小八(豊岡)、助右衛門(小出)、伝二右衛門(町田)、利右衛門(小林)、孫右衛門(江部)、牧野様、専念寺(田村)、安兵衛(石附)、弥右衛門(渡辺)』
※表記は「屋号(姓)」

このうち、屋号が助右衛門である小出家が祖先の家かと思われます。職業は農。備考欄には「嘉瀬小出一族の本家で、昔のままの屋敷を有している家は、18軒中こことお寺だけである。」

小出家に口伝で伝わっている「家の回りは堀で囲まれ、殿様が泊まられる立派な家だった」というのは、どうやらガチのような感じです。

 

そして小出家とともに加賀より入ったと伝わっている専念寺の備考欄には、「慶長元(1596)年この地に入り、今日に及ぶ。」とのこと。
言い伝えのとおりならば、おそらくは専念寺と同時期に小出家も嘉瀬に移住したのかと思われます。それから420年経過しているのですね。

専念寺について「両川村のあゆみ」には、
『嘉瀬村字中村にあり。真宗大谷派、山号は「祇見」。永禄2(1559)年、浄了は柏崎市一宇(一棟の家・建物)を創立したが、のち加茂(南蒲原郡の加茂?現:加茂市)・保田(北蒲原郡保田町村?だとすると現:阿賀野市安田)へ移り、慶長年間さらにこの地に移った。浄了は本山八世蓮如の弟子、善西の孫と云う。維新前は柏崎開光寺の末寺であったが、のち本山に直属した。
同寺経蔵の由来については、大江山村大字大淵(現在の江南区大淵)東陽寺(禅宗)本堂の天井板の上に、何のいわれか釈迦如来が安置されてあった。ある夜、同寺の法丈に「われは嘉瀬の専念寺の経蔵へ行きたいから、そこへ送るべし」と夢知らせがあった。当時嘉瀬の専念寺においては、八代住職成栄師(水原無為信寺、香樹院沙龍(徳龍?)講師の義兄)が宗学に志し、一切経を各地より寄附願をなし、たまたま経蔵建立中であったが、ある夜不思議にも「貴僧は誠に奇特の想いなり。われを経蔵に安置すべし。われ明朝大淵より来るべし」と釈迦如来のお告げあり。即ち明朝使いをやり、大淵から如来をお迎えにいったが、その途中偶然にも大淵より釈迦如来のご尊像を供奉する者に出逢い、いろいろ話し合ったところ、大淵の寺でも昨夜かくかくの夢知らせあり、今朝奉移するところであるということがわかった。なお証牘(しょうとく?)として一通の書類があるから次に掲げる。

 一、釈迦如来 御木像
 右者不思議之随因縁、今般貴寺ニ奉移尊座候
 尚永世御信仰可給候以上
         大淵邑東陽寺
 文化二乙丑年五月十日  東  旭 印
 (※文化2年=1805年)

 嘉瀬村 専念寺殿

なお専念寺では、毎朝香華供物を供え、恭しくお祀りをしているが、その供物は「オコリ(マラリアの別名)」の妙薬なりとて戴きに参る人々もあるということである。』

ちなみに余談ですが、専念寺のある中村という地は、もともと中谷内村だったのが、明治10(1877)年に嘉瀬村へ合併した地だそうです。

また、庄屋の系譜という項もあり、そこには
嘉瀬村
 元禄15(1702)年 庄左衛門(小出氏)
 宝暦13(1763)年 助右衛門(小出氏)
 安永3(1774)年 〃
 天明8(1778)年 庄左衛門(小出氏)
 明治14(1881)年 戸長 小出為吉

・・・と、小出家が庄屋や戸長の立場にあったという記録も遺されていました。

さらに明治22(1889)年の町村制発布により、行政機関としての中蒲原郡嘉瀬村が発足。
その初代助役兼収入役、のちに二代目村長を、かつて戸長もしていた小出為吉という人物が務めていたようです。おそらくは小出総本家の人でしょう。

そして明治34(1901)年11月1日、嘉瀬村は割野村、酒屋村、和舞村と合併して両川村となり、両川村大字嘉瀬となります。

しかし、その合併が一筋縄ではいかなかったという当時のことが「両川村のあゆみ」にこう邂逅されていました。
明治34年の四ヶ村の合併はなかなか大変であった。即ち割野と嘉瀬が猛烈に反対し、民衆は蓑笠姿で莚旗(むしろばた)を押立て、途中警官の阻止に備えて、水陸両方面から県庁へ陳情に押し掛けた。陸の一隊が山二つの橋のところで警官隊に阻まれて激昂し、小競り合いを演じたなどは有名な話である。反対の理由は、
 一、割野、嘉瀬は概して経済状態がよいので、合併となれば負担は過重となる
 二、合併後も人口が五千に満たないので、村会議員の定数が12人となり、これを選挙によれば割野、嘉瀬が5名で酒屋、和舞に7名とられるという予想がはっきり出てくる
 三、酒屋、和舞に優れた人物が揃っているので、重い公課を負担した上に、下通りの人達に牛耳られるのが忍びない
・・・というのである。
揉みに揉んだ結果、次のごとき事項を申し合わせ、監督官庁も又これを諒としたので、明治34年10月6日合併の実現を見るに至った。このような経緯で本村(両川村)の合併は他町村より遅れているし、村会議員選挙の如きも他町村では大体1月20日であったが、本村は3月18日となっている。

申し合わせ事項の内容
 一、村長と名誉職助役は割野もしくは嘉瀬から出し、有給助役と収入役は酒屋、和舞の方から選出すること
 二、村会議員の定数を18名とし、割野、嘉瀬から9名、酒屋、和舞から9名を選出すること
 三、学区は従前通り割野、嘉瀬、酒屋、和舞の4学区とし、共通にしないこと

明治34(1901)年11月1日、村役場を酒屋494番地に置き(借館)、村長職務管掌として中蒲原郡書記・田中久作氏を迎えたが、波乱万丈の村情勢を収拾することが出来ないため、同年暮れに職を解かれた。後任に同郡書記・田中廉平氏が就任して卓抜した手腕を振ったとのことである。
さて合併になっても、物情騒然としてとにかく落ちつかないので、村長を引き受ける者がない。村長詮考の協議会は幾度も続行せられ、ついに白羽の矢は割野の田中荘三郎氏に立てられた。氏は衆望もだしがたく一ヶ月一回くらい(後には三ヶ月に一回くらいになった)の出勤を条件として、明治35(1902)年4月、初代村長に就任した(←いまいち理解ができませんが、仕方なく引き受けたということでしょうか?)
当時割野は
 一、二本木及び木津と合併するか
 二、早通につくか
 三、嘉瀬、酒屋、和舞と合併するか
・・・の三案があったので比較的安易の立場にあったが、嘉瀬の場合は酒屋、和舞と合併する以外に方法がなく、合併すれば村が小さいので酒屋と太刀打ちができないので、是が非でも割野を引き入れて酒屋、和舞に当たりたいところであった。そこで嘉瀬の坂井小三郎(嘉瀬村の初代村長)氏が、親戚にあたる割野の有力者・斎藤峰三郎氏にはたらきかけ、とうとう割野を抱きこんだといわれている。』

紆余曲折あって両川村がやっと発足し、学校問題の勃発や水害の復興などを経て軌道に乗り始めたところで、第5代村長として小出四郎太氏が大正8(1919)年1月に就任。大正12(1923)年1月までの4年間務めた。

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小出四郎太は、前述した小出為吉(明治初期の嘉瀬村戸長)の養子とのこと。
「各部落の提携も固く、治績大いに挙がった」と記されており、さらには昭和2(1927)年4月~昭和11(1936)年7月にも再び村長を務めていたようで、村民の信頼がうかがえます。

 

ここまで室町時代の小出助右衛門、江戸中期の小出庄左衛門、江戸中期の小出助右衛門、明治期の小出為吉、大正~昭和初期の小出四郎太。

 

小出姓の人物が5名登場しましたが、私の祖先であるひいひいばあちゃんの小出ノヤ(1875~1964)、その父である小出石五郎(1847~1919)、さらにその父、小出傳平の名前へと繋げることは叶いませんでした。

 

しかしながら、ほぼ確実にこの小出家と私の祖先はどこかで繋がるはずですので、またのんびりと探求を進めていきたいと思います。気分次第ですが~(;・∀・)

 

・・・ん?そういえば加賀の地名が出てこないぞ?ほとんど柏崎付近の地名だなぁ・・・(;・∀・)