2008年1月24日の出来事
ちょうど10年前の今日はこんな日でした。
当時生後3か月の娘は、頭の後ろがハゲておりますね。生えなかったらどうしようと思っていたあの頃が懐かしいです。
5日前の19日にばあちゃんが世を去り、函館で一連の儀式を見届けて帰ってきたのが23日。
釧路空港へお義母さんに迎えに来ていただき、そのまま山田家で夕食をいただいておりました。
じいちゃんとも、ばあちゃんのお葬式はこんな感じだったよ~とかの話をしたりなんかして。
ひ孫とも触れ合い、それはそれは普通の夜でございました。
翌日、久しぶりに仕事へ行き、忌引の間にたまっていたものをうだうだいいながらやってから帰ると、山田のじいちゃんが死んじゃった!とのにわかには信じられない報。
あまりのショックでなにがなんだか・・・という感じで、とりあえずは忌引から復帰して、わずか1日でまた忌引しないばならんのです~という電話を課長にしたのを覚えてます。
じいちゃんの名は山田幹(かん)。
昭和4(1929)年10月25日に釧路郡鳥取村平戸前(現:釧路市北斗)にて、父・綱吉(つなきち)と母・ハルノとの間に、長男(第2子)として生を受けました。
じいちゃんがまだ9歳だった昭和14(1939)年1月、母・ハルノ(享年29)、2月に父・綱吉(享年35)が相次いで他界。両親を失ったじいちゃんは、姉妹とともに綱吉の弟である山田五郎松さんの家で暮らすようになります。
昭和19(1944)年、14歳のときに鳥取村立平戸前国民学校高等科(2年制)を卒業。太平洋炭鉱に入社しますが、曰く坑内に入るのが怖かったとのことで、すぐ退社したとのこと。炭鉱夫というのは事故が多い仕事ですからね。
その後は阿寒町にあった雄別炭鉱鉄道に入社。おなじ炭鉱関係の会社ですが、今度は石炭を輸送するための線路保線が主務なので大丈夫です。
昭和25(1950)年11月、親戚の紹介で出会った2歳下の佐藤洋子と婚姻。届出はその時点ではしておりませんでした。
翌年9月にやっと婚姻届を提出し、その翌月に長子となる義父が誕生。
その後は息子と娘を一人ずつ授かり、三人きょうだいとなって、にぎやかな家庭に。
昭和37(1962)年、阿寒町雄別に転勤となり、一家で転居。その2年後にふたたび釧路市内へ転勤となります。
しかし昭和45(1970)年2月、40歳の時でした。
石炭から他の資源へのエネルギー転換、そして炭鉱内でのガス爆発による事故などが重なり、雄別炭鉱が閉山に追い込まれてしまったのです。
じいちゃんは、旧雄別鉄道より貨物運行路線を一部引き継いだ釧路開発埠頭に入社。変わらず線路の保線員として業務に就くことができました。
しかし雄別炭鉱の閉山は、雄別という栄えていたマチが、映画館も病院も、なにもかも跡形もなく消え去ってしまうという、非常に大きな出来事であったそうです。
当時、釧路といえば全国一の港町。
どういう経緯かは解かりませんが、漁船向け旅館「福助旅館」を自宅で開業します。切り盛りしていたのは主にばあちゃんでした。昼も夜もない生活だったそうです。
昭和62(1987)年、釧路開発埠頭を定年退職ののち、市内の建設会社に再就職。そこではケーソンの製作を主務としておりました。
▲じいちゃんと妻&妹
そのころより、若い時分の無理が祟ったのか、ばあちゃんが病床に伏してしまいました。
じいちゃんはばあちゃんを病院に連れていくのに便利だからと、齢60前にして運転免許を取得。超がつくほどの安全運転ドライバーでした。
仕事をしながら献身的な看護の日々を送っていましたが、昭和63(1988)年末に妻・洋子が57歳の若さで逝去。
その半年後から、長男一家(初孫である私の妻も)との同居生活が始まりました。
そして平成9(1997)年に68歳で退職するまで、じいちゃんは現場を貫き通しました。かっこいいです(#^.^#)
平成14(2002)年8月、愛車シビックフェリオとの一コマ。
その2年後、脳梗塞で倒れましたが、若干の麻痺がのこるものの見事に復活。
平成19(2007)年には初ひ孫(私の娘)が生まれますが、麻痺が残っていたため、おっかなくて抱っこできたのは一度きりでした。
翌平成20(2008)年1月24日、普段は自分で起きてくるじいちゃんが、朝なかなか起きてこなかったらしく、おそらくすでにその時は本調子ではなかったのでしょう。
夕飯時に倒れたじいちゃんは、救急車で市内の病院に運ばれる間、そして着いた後も1時間以上蘇生を試みていただいたものの、そのまま息を吹き返すことはありませんでした。
78年の生涯。戒名は「温潤院篤実日幹居士」。人柄が如実に表されている、素晴らしい戒名を授けていただいたと思います。
幼くして両親を亡くし、若くして妻を亡くし、辛いことが多かった人生ではあったと思いますが、周りの人々に慕われ、頼りにされていた立派なじいちゃん。
最後の最後でひ孫を抱かせてあげられたのが、私にとっては唯一のじいちゃん孝行でした。
・・・というわけで、10年前のこのころ、私は5日間でばあちゃんとじいちゃんを亡くすという、非常に忘れられない、憔悴した時期であったのです。