真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

福島時代の菊地家年表

家系のインデックス

 

きのうは平昌オリンピック、女子団体パシュートで金メダル!

これでフィギュアの羽生選手、スピードスケート500mの小平選手とともに3つの金メダルをリアルタイムで見ることができました(#^.^#)

時差が無いのが嬉しいですね!

おそらく生中継でオリンピックの金メダル獲得を観戦したのは、1988年のソウルでバサロ鈴木大地選手の時以来、30年ぶりです(!)

 

女子パシュートの髙木姉妹は浦幌町豊頃町を挟んで3つ隣の幕別町出身。佐藤綾乃選手は釧路町を挟んで2つ隣の厚岸町出身。しかも佐藤選手は釧路北陽高出身ということで、妻の後輩にあたります(#^^#)

そして女子カーリングロコ・ソラーレは青春時代を過ごした網走市から女満別町美幌町を挟んで3つ隣の北見市出身。

もちろんわが釧路市出身者が多い女子アイスホッケーも、オリンピック初勝利などの大健闘!

身近な地の選手ばかりなので、うれしさもひとしおっす(*^▽^*)

そしてパシュート菊池彩花選手は同姓のうえ、祖先の家のひとつである相木家が発祥したと伝わっている長野県南相木村。なんかすごい~!

 

そんな折、未だに多くの謎が残されている矢祭時代の当菊地家

年表にしてみればなにか整理できるかも・・・と思い、まとめたものが以下の表です。

 

和暦 西暦 出来事
文化7 1810 9月25日、儀右衛門孝昭、菊池友元の二男(第三子)として関岡村飯野に誕生。
年代順序不明
この間の出来事
儀右衛門が関岡村もしくは東舘村、菊地本家・藤兵衛の養子となる。
少なくとも儀右衛門は東舘村に移住。
儀右衛門、東舘村・藤田傳五右衛門の長女・ヤスと婚姻。
藤兵衛逝去。
嘉永 1852 6月27日、儀右衛門(41)・ヤス(39)の長女・ハツ誕生。
文久 1862 東舘愛宕神社祭の連名簿に儀右衛門の署名あり。当時51歳
元治元 1864 儀右衛門(54)、天狗党の乱に尊攘派の大発勢として参加。投降後は下総関宿藩久世氏へ他250名余りとともに預けられる。
慶応2 1866 11月16日、儀右衛門(56)・ヤス(53)の三女・シモ誕生。
ハツ、上関河内村仲町・近藤數右衛門義冨の五男・儀平を婿養子に迎える。
明治3 1870 9月7日、儀平(25)・ハツ(18)の長男・初太郎誕生。
明治7 1874 1月13日、儀平(29)・ハツ(21)の二男・幸吉誕生。
儀右衛門隠居。儀平が家督相続。
明治19 1886 現存最古の戸籍作製される。戸主は菊地儀平。本籍地は福島県東白川郡東舘村字舘本40番地。同時期に作製された土地台帳の記載は「菊池儀平」。宅地を5畝11歩(161坪)所有。地租(税額)は26銭。
明治22 1889 明治の大合併により、東舘村は豊里村大字東舘となる。
明治23 1890 4月20日、初太郎(19)が茨城県久慈郡袋田村久野瀬・植田庄三郎の養女・シモ(21)と婚姻。
12月6日、儀右衛門(80)逝去。喪主は儀平(46)。
明治24 1891 6月25日、儀平(46)・ハツ(38)の長女・シナ誕生。
9月25日、初太郎(21)・シモ(22)の長女・サク誕生。
明治26 1893 11月24日、幸吉(19)が茨城県久慈郡生瀬村小生瀬寺地・石井庄衛門の二女・スイ(19)と婚姻。
12月10日、幸吉(19)・スイ(19)の長男・幸太郎誕生。
明治28 1895 12月13日、シモ(29)、茨城県久慈郡小里村徳田、菊池市之右エ門に嫁ぐ。
明治29 1896 12月26日、スイ(22)の父・石井庄衛門(59)一家が小生瀬から東舘字舘本53番地(土地所有者は小室守夫)に転籍。
明治30 1897 5月24日、幸吉(23)・スイ(22)の二男・髙雄誕生。
9月28日、儀平(53)逝去。喪主は初太郎(27)。
明治31 1898 2月18日、初太郎(27)が菊地家の家督相続。
11月24日、初太郎(27)が舘本40番の土地を藤田嘉市郎に売却。
明治32 1899 9月3日、ヤス(86)逝去。喪主は初太郎(28)。
明治33 1900 7月、石井庄衛門(62)一家が東舘字石田11番地の土地を購入し転籍。旅館を開業。
明治34 1901 8月17日、初太郎(30)・シモ(32)の長男・新太郎誕生。
明治35 1902 9月17日、新太郎(1)夭折。
この間に、初太郎一家が東舘を離れる?
明治39 1906 5月11日、ハツ(53)逝去。喪主は幸吉(32)。
9月20日、初太郎(36)・シモ(37)の二女・タツ誕生。
明治41 1908 4月21日、幸吉(34)・スイ(33)の長女・キク誕生。
明治42 1909 3月25日、幸吉(35)・スイ(34)の三男・勝一誕生。
明治44 1911 8月2日、幸吉(37)・スイ(37)の四男・義郎誕生。
大正元 1912 12月23日、鈴木清次郎・サク(21)の長女・タキ誕生。
12月30日、幸吉(38)一家が豊里村東舘字舘本33番地(土地所有者は上田豊松)に分家。
大正2 1913 3月、幸吉(39)一家が、東舘の他9戸とともに北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第105号地に入植。
大正4(1915)年
3月以前
初太郎一家が幸吉一家と一番違いの北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第106号地に入植。転籍は大正6(1917)年3月17日。
大正4 1915 3月5日、屈斜路村御料地29番通西第107号地乙において、鈴木清次郎・サク(23)の二女・ハナ誕生。

 

以上のうち、元治元(1864)年の「天狗党の乱」の項は、とあるサイトにて「菊池儀衛門」と記載されていたのを拡大解釈したものです。

明治35(1902)年、新太郎が夭折した地は東舘ですが、その4年後にハツが逝去した際の喪主は儀平。初太郎はその間どこにいたのか?

国会図書館デジタルライブラリーの「茨城県公民要艦(M35)-上」という、選挙権を持った人たちをまとめた本には、茨城県久慈郡宮川村の項に「菊池初太郎」とあったりするのが気にかかりますが、「初太郎」という名は1ページに二人は居るような非常に多い名前のようですので、ちょっと参考にはならないか?

そして、やはり慶応2(1866)年のシモ出生については年齢的に戸籍のとおりでは無いのかと推察したいところ。まだ未婚だった当時14歳、ハツの子ではないのかしら?

・・・と、いろいろ思いを巡らせるものの、やっぱりモヤモヤは晴れません。そだねー