真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

元禄7年、越後蒲原郡吉江村検地帳

家系のインデックス

 

先月3日、釧路中央図書館がオープン、さっそく相互貸借で母方祖母の実家・皆川家の本貫地である「味方(あじかた)村誌」を取り寄せていただいて舐めるように読んでいたのですが、残念ながら祖先についての事項を見つけることはできませんでした。

皆川家の本貫地は、現在の新潟市南区吉江。

かつては新潟県西蒲原郡味方村大字吉江でした。

吉江村は明治22(1889)年に吉田新田、山王村、山王新田、大倉村、大倉新田、居宿村と合併して七穂村となり、明治34(1901)年に味方村および白根村と合併した地。

「味方村誌」の内容は、主に合併する前の味方村、そしてもうひとつ合併した白根村についてのことが多く、吉江村についてはわりと少なめの情報量でした。

その中で唯一おそらく祖先であろう名が記載されていた箇所、元禄7(1694)年の吉江村検地帳が以下です。

  名請人
1

権左衛門

(庄屋)

23.2 30.5 53.7 16,110
2 與五衛門 21.8 15.1 36.9 11,070
3 新之丞 21.3 11.8 33.1 9,930
4 新左衛門 17.4 11.2 28.6 8,580
5 善左衛門 19.3 9.2 28.5 8,550
6 七左衛門 17.2 9.2 26.4 7,920
7 庄右衛門 13.1 9.8 22.9 6,870
8 長右衛門 14.6 7.2 21.8 6,540
9 半左衛門 10.9 9.2 20.1 6,030
10 源左衛門 9.9 9.7 19.6 5,880
11 全七 12.8 6.5 19.3 5,790
12 八右衛門 11.8 7.5 19.3 5,790
13 清左衛門 11.7 7.5 19.2 5,760
14 助左衛門 17.0 2.0 19.0 5,700
15 清三郎 12.2 6.4 18.6 5,580
16 高念寺 9.9 8.6 18.5 5,550
17 九郎兵衛 10.2 7.2 17.4 5,220
18 惣助 10.3 6.8 17.1 5,130
19 新右衛門 9.6 7.4 17.0 5,100
20 久三郎 10.8 5.6 16.4 4,920
21 長四郎 11.0 4.6 15.6 4,680
22 惣左衛門 10.3 5.2 15.5 4,650
23 喜三郎 7.1 5.2 12.3 3,690
24 半四郎 6.5 8.5 15.0 4,500
25 久蔵 8.1 5.2 13.3 3,990
26 清八 7.2 6.0 13.2 3,960
27 半三郎 9.0 3.7 12.7 3,810
28 吉兵衛 6.9 5.4 12.3 3,690
29 兵右衛門 7.8 4.2 12.0 3,600
30 與三衛門 6.9 4.5 11.4 3,420
31 仁左衛門 7.0 3.9 10.9 3,270
32 甚蔵 6.8 3.8 10.6 3,180
33 與右衛門 6.5 3.7 10.2 3,060
34 才蔵 6.2 3.9 10.1 3,030
35 清九郎 5.2 4.5 9.7 2,910
36 久作 4.4 5.1 9.5 2,850
37 才三郎 4.5 3.7 8.2 2,460
38 兵七 4.5 3.3 7.8 2,340
39 茂左衛門 5.0 3.5 8.5 2,550
40 勘吉 3.7 3.6 7.3 2,190
41 新吉 3.1 4.1 7.2 2,160
42 三左衛門 3.8 3.3 7.1 2,130
43 甚吉 3.0 4.0 7.0 2,100
44 竹左衛門 0.0 7.0 7.0 2,100
45 全蔵 3.3 3.6 6.9 2,070
46 伴右衛門 6.7   6.7 2,010
47 加平治 4.0 1.8 5.8 1,740
48 孫左衛門 4.0 1.2 5.2 1,560
49 津右衛門   4.0 4.0 1,200
50 七兵衛 2.6 0.4 3.0 900
51 茂右衛門     1.3 390
52 七郎兵衛     1.2 360
53 半右衛門     0.7 210
54 庄次郎     0.6 180
55 金蔵     0.5 150
56 太郎兵衛     0.4 120
57 仁兵衛     0.4 120
58 與次兵衛     0.3 90
59 勘七     0.3 90
60 與助     0.3 90
61 九助     0.27 81
62 藤左衛門     0.27 81
63 惣右衛門     0.27 81
64 兵助     0.22 66
65 喜右衛門     0.21 63
66 切助   68歩   68
67 善右衛門   41歩   41
68 清吉   40歩   40
69 久左衛門   36歩   36
70 佐五え門   33歩   33
71 重蔵   20歩   20
72 與四え門   20歩   20
73 惣兵衛   10歩   10
74 惣次郎   7歩   7
75 半七   4歩   4

この中の19番目に記載されている新右衛門という人物が、祖先である皆川新右衛門かと思われます。

菩提寺である高念寺もその2つ上にありますね。昔はお寺もこういう風に田んぼや畑を所有していたのですね。どういった人が世話をしていたのでしょうか。

また、吉江村の検地という項には、以下のように記述されています。

新発田藩は、慶長3(1598)年に溝口氏が入封して以来、度々検地を行っている。新発田藩の検地の方式は、太閤検地の一反三百歩制でなく、従来の慣習どおり360歩の6分の4の240歩を大、6分の3の180歩を中、6分の2の120歩を小という単位で表した。しかも、農民の年貢の軽減を考慮した「七分掛け」という方式を実行したので、検地の際にも、縦の実測に9掛け、横に8掛けをした数(100歩に対して72歩)を野帳に書き込み、公表する面積を実測より少なくした。これを「縦九、横八の法」といって、新発田藩では代々この方式を用いて検地を行った。
 吉江村の検地帳についてみると、一筆ごとに縦、横を測り、面積を記し、名請人を確定して、終わりに村の総耕地面積を出し、分米として石高が記載されているが、これは新発田藩においては年貢高を表している。しかし、吉江の検地帳には耕作地の地名が書いていないのが特徴といえる。吉江村は、新発田藩の支配時代に総検地を4回(寛永4(1627)年、慶安4(1647)年、寛文6(1666)年、元禄7(1694)年)、幕府領代官所支配には新田検地を四回(元文5(1740)年、寛延3(1750)年、宝暦7(1757)年、文化7(1810)年、文政8(1825)年)受けているし、元禄7(1694)年の時点の耕地面積は74町歩、石高は673石、名請人75人という実績を示している。
 味方と吉江の検地帳の名請人についてみると、吉江村においては二町以上の大農経営者は約3割で一町台の自立経営農家が半数の5割を占め、一町以下の小作(いわゆる水呑といわれる階級)が1割5分しかいないのに比べて、味方村では二町以上の大農者が6割を占め、一町台の自立農家が2割5分、水呑は1割7分となっている。検地帳に名請けされた百姓の中にも所有地の格差があり、本百姓と水呑の階層がみられるから、このほかに名請けされない水呑の階層が相当あったことが推測される。因みに江戸末期における両村の本百姓・水呑の数は、味方村が本百姓113軒、水呑265軒。吉江村が本百姓58軒、水呑30軒である。

新発田藩の検地は、農家にとって優しい方式をとっていたようですね。

吉江は、味方に比べて水呑の割合が少ないので、恵まれていたのでしょうか?

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次はどこの地誌を借りようかしら?

図書館司書の方々にはご迷惑をおかけしております<(_ _)>