祖先の故郷をたどる旅に向けて
いつの間にか地震の影響が落ち着いてきています。
私の住む釧路市は、地区によってばらつきがありながらも、自宅は地震の翌日金曜日19:42に停電から復旧。
今日くらいから、物流もそれなりに流れ始めています。
震源地付近はまだまだ日常には戻りませんし、もう地震前の生活に戻れない方も大勢いらっしゃいます。胸がつぶれそうなニュースが毎日届いている状況・・・。
人的被害がなかったのであまり報道されていませんが、
おととし訪れた厚真神社、
そして安平町の早来神社。
どちらもかなりの被害のようです・・・。
ともに御朱印をいただき、非常に優しくしていただいた神主さんご一家のことが思い出されてなりません。
そんな折、10月下旬の茨城&福島旅行に向けて着々と計画を練っている夜です。
まずは秋葉原からつくばエクスプレスでつくば市へ向かい、祖母・よし(1914~2008)の故郷である旧・筑波郡牛縊(うしくびり)村を初めて訪れます。あんまりな地名だったのか、今は上里(かみさと)という地名に変わっておりますが。
上里には、祖母の本家である太田家、
祖母の母・ふて(1881~1940)の実家である飯島家、
祖母の祖母・せゐ(1851~1927)の実家である中山家、
祖母の曾祖父・勇一郎(1825~1903)の実家である砂山家が存在。
また、祖母の高祖母・太田ふか(1812~88)も、戸籍上は牛縊村・岡田与左エ門の二女として生まれ、1833(天保4)に太田勇右エ門へ嫁いできたようなのですが、電話帳サイトによると、現在は上里地区に岡田姓の方はいらっしゃらず、隣村の上郷には岡田姓がいっぱいいらっしゃるという状況。
牛縊から上郷へ移ったのかもしれません。
そして、高祖父・飯島龍介(1853~1922)の妻・さた(1856~1916)、
龍介の父・太十郎(1828~1896)の妻・まつ(1826~1912)は、ともに上河原崎の斉藤家より嫁いできています(さたの父は市郎、まつの父は伊平)。
ちなみにつくばの祖先に関して割ける時間は、3時間の予定。
その3時間で上里、上郷、上河原崎の調査について効率的に周ることができるように猛下調べ中・・・。
その翌日は2008年9月に訪れた地の再訪です。
高祖母スイ(1874~1931)の実家・石井家の故郷である大子町小生瀬、
スイの母・ふゆ(1839~1909)の実家・齊藤家の故郷である大子町外大野、
菊地家そして高祖父の父・菊地儀平(1844~97)の実家・近藤家の故郷である矢祭町、
曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の故郷である棚倉町、
カツの父・藤田松吉(1853~1937)の故郷(かどうかは未だ確証がない)である白河市東千田地区。
カツの母・藤田カメ(1872~1942)とその祖父・岡部弥七の故郷である白河市東蕪内地区。
この日も祖先調査に割ける時間は6時間ほど。
移動時間を考えると・・・(;・∀・)
その下調べ中に、高祖母の実家・大子町小生瀬の石井家について、祖先調査に一家言お持ちである丸山学先生が4年前に書かれた小説的なものを発見。長めです。
この内容がどこまで事実なのかが煙に巻かれたような気がしますが、石井家が小生瀬に土着した理由や時期は不明ながら、横目を長らく務めていたという口伝があることもあり、非常に興味深い内容でありました。
【2018/9/18追記:著者の丸山先生へ質問させていただいたところ、創作だということでした。そしたらば、小生瀬の謎は僕が解く!生きてるうちに。】
ちなみに、以前も書いたかもしれませんが、矢祭町史に以下のような記述が。
【秋田藩家蔵文書】
筑紫豊後国より下候」兄弟四たり名字ハ」成、氏は平
ちゃくし石井へ落着、
二番め山本へおち付、
三番め田さき、
四番め井上、
石井安藤太郎生瀬に落着、
舎弟安藤二郎高倉に、
三番め蔵主小里に
この文書が書かれた時期は不詳のようですが、もともとは豊後国より来たような雰囲気です。やはり時期が知りたいところですが・・・。
そういうわけで、それぞれの場所に割ける時間はもうホントにごくわずか。
ガチで効率よく周らなくてはなりませんので、現在お手紙作戦を敢行し、コンタクトが取れそうなお宅を探っているところです。
現在のところ、つくばの飯島さんとお会いするアポがとれました(#^^#)
9/18に太田さんからもOKでました!