真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

昭和45(1970)年10月の国勢調査からみた矢祭町の苗字

家系のインデックス

 

昭和46(1971)年の「広報やまつり」に、興味深いデータが掲載されていました。
前年に行われた国勢調査の結果からみた、苗字のデータです。
このころはギリギリだれの戸籍でも閲覧できた時代。
こういったデータは、今となっては自治体で公表しないでしょうね。

○世帯数 1,882世帯
○人口   9,211人
○苗字の種類   801種 

順位 苗字 世帯数 人口
1 鈴木 206 1,013
2 菊池 149 808
3 金沢 114 582
4 藤田 75 364
5 佐藤 65 310
6 石井 55 263
7 古市 45 233
8 本田 43 239
9 緑川 42 203
10 佐川 36 201
11 片野 36 183
12 豊田 35 203
13 増子 35 183
14 斉藤 31 143
15 高沢 28 146
16 松本 27 192
17 益子 24 117
18 藤井 24 112
19 寺島 23 116
20 20 110
21 近藤 20 94
22 小林 20 85
23 富永 17 105
24 古張 17 86
25 高信 16 79
26 芳賀 16 78
27 15 78
28 菊地 15 67
29 加藤 14 68
30 白坂 12 65

 

各地域別ベスト10

旧豊里地区(200種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 94
2 金沢 59
3 藤田 52
4 本田 36
5 菊池 36
6 片野 35
7 豊田 34
8 石井 29
9 古市 26
10 佐藤 26


旧石井地区(51種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 77
2 菊池 59
3 緑川 30
4 金沢 29
5 藤井 19
6 佐川 16
7 13
8 松本 13
9 藤田 12
10 佐藤 10


旧高城地区(95種類)

順位 苗字 世帯数
1 菊池 54
2 鈴木 35
3 佐藤 29
4 金沢 26
5 高沢 24
6 石井 24
7 益子 22
8 古市 19
9 古張 17
10 松本 16


・・・苗字の種類801って書いてありますが、ベスト30だけで人口の7割超。ホントにそんなにあるのかしら?

矢祭町は現在福島県ではあるものの、もともと佐竹領で常陸国とのつながりが強い地域。
東北の傾向とはだいぶん異なる順位になっています。

私の苗字である「菊地」は28位ですが、もともとは2位の「菊池」。
さらには私の血脈で大きなウェイトを占める「藤田」が4位。
父系をさかのぼると養子元は「近藤」になりますが、20位とやや低め。

矢祭町に特徴的な苗字としては、
菊池、金沢、藤田、石井、古市、本田、緑川、佐川、増子(益子)・・・といったところ。
町長や、矢祭の生んだスターであるあばれる君の「古張(こばり)」が24位。
続いてお隣の茨城県大子町出身ですが、苗字研究家・高信幸男先生の「高信」が続いています。

いつかこういう風に国勢調査の結果!とかいって、国で統計だしたりしないかしら?
苗字は千年以上の貴重な歴史を語る、日本の財産ですから(#^.^#) 

そしてこの統計から47年後の2018年5月時点、矢祭町の人口は36%減の5,859人。減り幅・・・(T_T)

祖先の故郷をたどる旅に向けて

家系のインデックス

 

いつの間にか地震の影響が落ち着いてきています。

私の住む釧路市は、地区によってばらつきがありながらも、自宅は地震の翌日金曜日19:42に停電から復旧。

今日くらいから、物流もそれなりに流れ始めています。

震源地付近はまだまだ日常には戻りませんし、もう地震前の生活に戻れない方も大勢いらっしゃいます。胸がつぶれそうなニュースが毎日届いている状況・・・。

 

人的被害がなかったのであまり報道されていませんが、

おととし訪れた厚真神社、

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そして安平町の早来神社。

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どちらもかなりの被害のようです・・・。

ともに御朱印をいただき、非常に優しくしていただいた神主さんご一家のことが思い出されてなりません。

 

そんな折、10月下旬の茨城&福島旅行に向けて着々と計画を練っている夜です。

 

まずは秋葉原からつくばエクスプレスつくば市へ向かい、祖母・よし(1914~2008)の故郷である旧・筑波郡牛縊(うしくびり)村を初めて訪れます。あんまりな地名だったのか、今は上里(かみさと)という地名に変わっておりますが。

 

上里には、祖母の本家である太田家

祖母の母・ふて(1881~1940)の実家である飯島家

祖母の祖母・せゐ(1851~1927)の実家である中山家、

祖母の曾祖父・勇一郎(1825~1903)の実家である砂山家が存在。

 

また、祖母の高祖母・太田ふか(1812~88)も、戸籍上は牛縊村・岡田与左エ門の二女として生まれ、1833(天保4)に太田勇右エ門へ嫁いできたようなのですが、電話帳サイトによると、現在は上里地区に岡田姓の方はいらっしゃらず、隣村の上郷には岡田姓がいっぱいいらっしゃるという状況。

牛縊から上郷へ移ったのかもしれません。

 

そして、高祖父・飯島龍介(1853~1922)の妻・さた(1856~1916)、

龍介の父・太十郎(1828~1896)の妻・まつ(1826~1912)は、ともに上河原崎の斉藤家より嫁いできています(さたの父は市郎、まつの父は伊平)。

 

ちなみにつくばの祖先に関して割ける時間は、3時間の予定。

その3時間で上里、上郷、上河原崎の調査について効率的に周ることができるように猛下調べ中・・・。 

 

 

その翌日は2008年9月に訪れた地の再訪です。

高祖母スイ(1874~1931)の実家・石井家の故郷である大子町小生瀬、

スイの母・ふゆ(1839~1909)の実家・齊藤家の故郷である大子町外大野、

菊地家そして高祖父の父・菊地儀平(1844~97)の実家・近藤家の故郷である矢祭町、

曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の故郷である棚倉町

カツの父・藤田松吉(1853~1937)の故郷(かどうかは未だ確証がない)である白河市東千田地区。

カツの母・藤田カメ(1872~1942)とその祖父・岡部弥七の故郷である白河市東蕪内地区。

 

この日も祖先調査に割ける時間は6時間ほど。

移動時間を考えると・・・(;・∀・)

 

その下調べ中に、高祖母の実家・大子町小生瀬の石井家について、祖先調査に一家言お持ちである丸山学先生が4年前に書かれた小説的なものを発見。長めです。

この内容がどこまで事実なのかが煙に巻かれたような気がしますが、石井家が小生瀬に土着した理由や時期は不明ながら、横目を長らく務めていたという口伝があることもあり、非常に興味深い内容でありました。

 

【2018/9/18追記:著者の丸山先生へ質問させていただいたところ、創作だということでした。そしたらば、小生瀬の謎は僕が解く!生きてるうちに。】

 

ちなみに、以前も書いたかもしれませんが、矢祭町史に以下のような記述が。

 

秋田藩家蔵文書】

筑紫豊後国より下候」兄弟四たり名字ハ」成、氏は平

 ちゃくし石井へ落着、

 二番め山本へおち付、

 三番め田さき、

 四番め井上、

石井安藤太郎生瀬に落着、

 舎弟安藤二郎高倉に、

 三番め蔵主小里に

 

この文書が書かれた時期は不詳のようですが、もともとは豊後国より来たような雰囲気です。やはり時期が知りたいところですが・・・。

 

そういうわけで、それぞれの場所に割ける時間はもうホントにごくわずか。

ガチで効率よく周らなくてはなりませんので、現在お手紙作戦を敢行し、コンタクトが取れそうなお宅を探っているところです。

 

現在のところ、つくばの飯島さんとお会いするアポがとれました(#^^#)

9/18に太田さんからもOKでました!

非日常

9月6日午前3時8分、北海道胆振東部を震源とした最大震度7の大地震が発生。

 

震源に近い厚真町、安平町、むかわ町、そして空港のある千歳市、大都市である札幌市に大きな被害発生。

 

震源となった厚真町にある北海道最大の火力発電所が機能をストップ。

道内各発電所が、その影響ですべて停止。

結果、北海道全土で停電という極めて深刻な事態。

 

6日も7日も通常勤務でしたが、信号が点かないためにデンジャラスな通勤となりました。

 

同日の夕刻より砂川火力発電所の復旧をはじめとして、各発電所、さらにすでに来春での廃止が決まっている奈井江や音別のガスタービン発電所も久しぶりの稼働。

 

そして東京電力からの電力融通により、やっとほぼ全道的に電気が戻っています。

 

私の住む釧路市は震度3ということで、地震による直接の被害は無し。

断水はなく、ガスも通常通り。あとは電気の復旧を待つばかりでした。

 

電力の復旧は同じ市内、そして同じ地区内でもばらばら。

きのうの朝には隣家が復旧していたのですが、私の家はそれから半日後の19時40分ころについに復旧。

約40時間の停電でした。

 

北海道電力のみなさま、そして引退していたのに最後の力を振り絞って動いてくれた発電所たちに感謝感謝です。

こんな状態になってしまっていろいろ課題がでてきましたが、それはまた落ち着いてからの話になるでしょうね。

 

あとは物流が完全にストップしているため、どこのお店にもまともな食料はなく、カセットボンベや電池も枯渇状態。

釧路近辺は作物が育ちづらい環境のため、農家が少ないのも痛いところ。

 

そしてまだ余震(本震?)があるという専門家の言葉を不安に思いながら過ごしている状況です。

 

この度の地震により亡くなられた方々の御霊が、安らかに旅立てることを祈っています。

 

そんな中、来月下旬に筑波や東白川方面へ家族とともに旅立つ計画を立てています。

それぞれの場所は非常に短時間(1~2時間)しか滞在できないので、今のうちに手を回しておかなくては・・・。

お盆なので菊池家祖先について再考してみる

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世の中は今日からお盆!

・・・ですが、ことしは家からご先祖さまに思いを馳せているところです。

 

その中で、私の姓でもある菊地家

未だに祖先、そして本家を探し出せないままでいます。

 

菊地聖也(1978~)

 ↑ 長男

父(1951~)

 ↑ 五男

菊地幸松(1916~1970)

 ↑ 長男

菊地幸太郎(1893~1936)

 ↑ 長男

菊地幸吉(1874~1959。福島矢祭東舘から屈斜路へ入植)

 ↑ 二男

菊地ハツ(1852~1906)—近藤儀平(1844~1897)

 ↑ 長女

菊地儀右衛門(1810~1890。矢祭関岡、菊池友輔の三男)

 ↑ 養子

菊地藤兵衛

 

・・・というのが戸籍上で追える菊地家のまさに直系祖先。

 

いろいろな資料や口伝を拾っていくと、いろいろな考えが浮かんでは消えていきます。

 

まずは菊池家を祖とする儀右衛門の父について。

儀右衛門の実父として記載されていた菊池友輔の子孫にお話や資料をいただいたところ、菊池友輔(友甫とも)の長男・政恒が1843年生まれ。

友輔の父は菊池道恒。友元と号していた医師でした。

 

政恒の生まれ年から考えるに、儀右衛門が1810年生まれなので、儀右衛門の父が友輔というのはおかしく、友元であったと考えるのが自然かと思われます。

※菊地家の最古の戸籍は福島県東白川郡東舘村のもので、儀右衛門の実家は関岡村。異なる役場ですから、届け出の方法によっては間違えたり、その後に変化したりするのはおかしくないでしょう。

 

友輔も諱は孝恒。道恒→孝恒→政恒と、代々「恒」の字を通字としていたようです。政恒の長男は仁一さんなので3代だけでしたが。

 

そして友元は二男二女をもうけており、長男が友輔で友元の跡を継いで医師の道へ。

二男は孝昭といい、本家を継いだと伝えられています。

兄友輔の本名が孝恒なので、兄弟で「孝」の字が同じとなっていますね。

 

重要なワード「本家を継いだ」。

本家とは?

 

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天明元(1781)年、友元は現在の矢祭町関岡飯野の農家に生まれたと伝わっています。

そして医師となり、同じ飯野地内の違う番地で医院を開業。

長男である友輔が医師を継いで、のちのち昭和期に医院は廃業してしまいますが、現在も子孫の方がその地を守っています。

 

そして友元の生まれた家。

 

現在もその番地のお宅は健在です!

 

おそらく、孝昭はその家(本家)を継いだのだろうと推察しています。

そしてその家の主が藤兵衛だったと。

孝昭は儀右衛門と名乗り、現在も続く菊池家の当主となった・・・と思うのですが、最古の戸籍は儀右衛門の長女であるハツの婿養子・菊地儀平が当主のもの。

そこには儀右衛門も父として記載されており、あれ・・・?と思うわけです。

 

本家はもしかすると明治19年式戸籍編成以前に儀右衛門のさらに息子が継いで、儀右衛門は婿養子・儀平たちとともに飯野を離れて町のほう(東舘村舘本)へと移っていったのかもしれません。しかも姓を菊池から菊地へ変えて

 

しかし、ここまでの推察を吹き飛ばすのが、友輔の墓石です。

以前も記述したことがあるのですが、友輔の墓石には「明治18年12月13日 享年74没」と彫られているのです。

明治18(1885)年で数え74歳だと1812年生まれとなってしまい、弟である1810年生まれの儀右衛門のほうが年上になってしまう(´Д⊂ヽ

友輔と儀右衛門兄弟説が一気に怪しくなります・・・。

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しかし、日付のあとに「立」の文字。

これは没日ではなく、建立した日ということでは!?

なので、明治15(1882)年以前に友輔さんが亡くなられていた場合は年齢逆転のジレンマが解けることになります。

・・・しかし、肝心の没日は現状わかりません(*´Д`)

 

そしてますます混乱させられるのが、逆側に彫られているの「軍医総監 松本順」の文字。

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松本順氏は明治6~12(1873~79)年まで軍医総監を務め、後任の林研海氏が明治15(1882)年に急逝してしまったことから、同年9月15日軍医総監に再任。明治18(1885)年5月に再び退任した後は、海水浴による健康増進を訴えて神奈川県の大磯に海水浴場を造ったりした人物。

それまで一般的ではなかった海水浴を広めた男。まさに海水浴の父といえるでしょう。

私が書くと凄さが伝わりませんが。

 

・・・そう、墓石に彫られている明治18年12月、松本さんはすでに軍医総監じゃないんですね。

いったい、この文字はどういった人物に、どういった意味を込めて彫られていたのか。

もうほんとにミステリアス。

 

これらが解けないと、本家がこの家!というのが確定できませ~ん。

 

ご先祖さまに夢枕に立ってもらって、答えを教えてもらいたいです。

新たなトライ

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妻の母方である森井家

昭和10年代に釧路市に来る前は、現在の八雲町東野や野田生あたりに住んでおりました。

そして八雲に残っていた最古の戸籍によると、明治26(1893)年に石川県江沼郡那谷村菩提から転籍ということで、現在の小松市菩提町で生活していたようです。

 

しかしながら、小松市の戸籍謄本は既に廃棄済み・・・。もうひとまずここまでか~というところで、神戸に住む妻の母のイトコさんがずっと森井家の祖先調査をしていたことが判明。

いろいろとご教示いただき、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の母・スエさん(生年不明~1876)が、坂下という家から森井半四郎(生年不明~1868)のお嫁さんに来たということを聞いておりました。

 

まだまだ聞いておきたいことはいっぱいあったのですが、そのイトコさんはおととし急に亡くなってしまい、それも叶わなくなってしまいました。

 

そしてこないだ突然思い立ち、森井家、そして坂下家についての情報を求め、小松市菩提町の坂下さんにお手紙作戦を実行。

 

すると、なんとステキなことか!本家の方からお電話をいただくことができました(*´▽`*)

 

坂下さんは森井家については存じ上げないご様子。というのも、半左エ門の兄貴である半四郎(生年不明~1922)さんは、大正15(1926)年に山中温泉へ移住してしまっているのです。

菩提には森井の人間は誰もおりませんので無理もありません。

ただ、子どもの時分に菩提の墓地で親御さんから「ここも親戚だから」と言われ、参っていたお墓があったそうです。

それはどのお宅のお墓かはわかりませんが、森井のお墓もまだ菩提に残っているので、もしかすると・・・という気はします。

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 ▲平成6(1994)年に義母のイトコである森井幹男さんが来訪した際に撮影された写真。森井家のお墓は、菩提の墓地では一番大きなお墓だそうです。

 

坂下さんのお宅で判明している一番古いお名前は文久2(1862)年生まれの坂下亀松さんで、奥さんはリセさんとおっしゃるそうです。

 

もともとは福井県吉崎御坊(現在のあわら市吉崎)に住んでいたそうですが、おそらくは江戸後期に木こりか何かの仕事で菩提に移り住んだと伝わっておりました。

 

名字である坂下も、菩提に来てから坂の下に住んでいたので坂下となったのでは・・・と、はっきりとはわかりませんが、そういうことになっているようです。

そして家紋である桔梗紋も、いつから使用しているかは不明とのこと。

 

貴重な情報をいただけてたいへん嬉しくも、恐縮する時間でした。

あぁ、よかった(#^.^#)

 

・・・と、そこで吉崎御坊について調べてみると、森井家とも共通項がやはり見えてきたのです。

 

森井家の菩提寺は義母のイトコさんによると浄土真宗本願寺派の牛鼻山但馬興宗寺。

坂下家が居たという吉崎御坊は、興宗寺と密接なつながりがあったのです。

 

以下、wikipediaから要約。

 

・開基は越前長畝郷田島(現在の坂井市坂井町田島)あたりにて、行如(円善の弟子)による。

・行如と同じく円善の弟子であった如道が大町道場(後の大町専修寺)を開いたのが1290年であることから、開基は同時期と考えられる。

・1311年に大町道場へ本願寺覚如20日余り滞在し、如道とともに行如も勧化を受け、本願寺系の僧となった。その際に興宗寺の寺号を覚如より賜ったものと思われる。

・田島の地にあったが、なぜか「タジマ」が「但馬」と変化。但馬興宗寺となっている。※追記:もしかすると(後に登場する)朝倉氏がもともと但馬(現在の兵庫県養父市八鹿朝倉)の出だったというのが関係あるかもしれません。

・行如は北条時政の孫である時村であったという。そのため興宗寺の住職は北條姓を名乗る。

・興宗寺第5代円慶のころ、蓮如が吉崎に下向。興宗寺に滞在し、文明3(1471)年に吉崎に一宇を建立(吉崎御坊)。建立にあたり、朝倉氏に許容され、御山の土地と材木の寄付を受けたとされている。

吉崎御坊建立後、円慶は48もの多屋(寺)を並べた。その功が認められ、蓮如から「牛鼻山」の山号を拝領。牛鼻山とは、吉崎付近にあった牛山村に多屋を建てたためとも、円慶が隠居した月津(現在の石川県小松市月津)の牛ヶ鼻に掛所(休泊所)があったためとも。

・北ノ庄城主であった堀秀政が北庄柳町の寺地を寄進したことから、天正15(1587)年に興宗寺を含めた越前の大寺院が集められた。柳町御坊と呼ばれる。

・1600年代後半、城下の2度に渡る大火を機に、興宗寺は城下の北端1,500坪の土地へと移転。

・戦災と昭和23(1948)年の福井地震のため、興宗寺の建物は壊滅。復興や区画整理のため、現在の福井市松本3丁目に移転し現在に至る。

 

・・・というのが福井興宗寺の歴史を簡単にまとめたものです。

 

そして円慶が隠居した月津の掛所。

当初は太子堂と称されておりましたが、円慶の息子の一人が継ぎ、なんやかんやでこちらも興宗寺の寺号を授けられたのです。

当初は福井興宗寺も月津興宗寺も良好な関係を保っていたそうですが、本願寺が東西に分かれた際に福井興宗寺は西(本願寺派)、月津興宗寺は東(大谷派)となってしまったらしいです。

森井家の過去帳は月津興宗寺にあるそうなので、菩提寺は月津ということになるでしょうか。

推測ばかりですが、森井家も菩提村の前は越前吉崎の人だったり・・・?

でもどっちみち石川にも福井にも森井姓は少ない。。。

 

そして坂下家。

興宗寺との関係を勘繰るならば、この月津と7キロしか離れていない菩提村に移り住んだのは、必然だったのかもしれません。まったくの推測ですけれど。

 

あぁ、また何かディープな世界に足を踏み入れてしまったような気がする。

浄土真宗は歴史が複雑すぎる!

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また、いままで子どもたちに繋がる家が61系統判明!と書いておりましたが、坂下家を漏らしていたのに今気づきました。結果、62系統に(*^▽^*)

 

2018/5/29追記:妻の祖母の法名、釋のあとに「尼」の文字がありまして、この文字が入っている場合は真宗大谷派だそうです。またまたwikipediaより。

また、浄土真宗の場合は菩提寺ではなく「手次寺」というそうですね。知らないことばかりだ~(*´Д`)

 

あとまたまた推測ですが、但馬から越前に来た朝倉氏。

もしかすると出自は関西ではないかと目している森井家と、動きがシンクロしているのでは・・・とか考えたりしています。

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兵庫県豊岡市出石町森井と養父市八鹿町朝倉は約16キロ(約4里くらい)と近いですし・・・。

荷軽部のご先祖の姓について、またまた

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う~む。もう10年以上経つのに、未だ進展をみない妻の父の父の母の父の母の父の母の実家の姓

このハルさんは、文化11(1814)年に現在の岩手県久慈市山形町荷軽部に生を受けます。
そして弘化2(1845)年、31歳の時に長男・亀吉が誕生しておりますので、おそらくはそれ以前に隣りの長興寺村に住む6歳年上の小野寺辰之助と婚姻していると思われます。
小野寺家の最古の戸籍によると、ハルさんは荷軽部村の??沢巳之松妹という身分だったようです。
その??沢が読めない!と、これまでしつこく呟いていたところでした。

そして前回、荷軽部に存在する○○沢という姓を羅列してみて、
いちばん多い姓である苅間沢で(納得した方がよいので)はないかと仮定。

ぜんぜんスッと落ちませんが、これで終わろうと、自分を納得させようとしています。

そんな折、ネットで荷軽部に関する資料を見つけました。

北三陸ヒストリア」というサイトです。

その中に、平成2(1990)年に建立された荷軽部地区の英霊碑的なものが紹介されております。
出征したのであろう75名の名前が彫られていまして、非常に興味深いものでしたので、考察してみることにしました。

荒野惣太郎
荒谷兼蔵
荒谷惣蔵
石渡清吉
大畑佐太郎
大畑冶一
大畑四郎
大畑文次郎
大畑末子松
大畑龍吉
大峯清造
大峯仁三郎
大谷地仁八
小笠原武夫
小笠原道夫
小笠原興三郎
落安佐太郎
落安末太郎
落安末松
落安清治
落安彦三郎
落安彦蔵
落安孫之一
落安興八郎
苅間沢信一
苅間沢末吉
苅間沢清造
苅間沢留吉
苅間沢寅蔵
苅間沢寅太郎
苅間沢酉蔵
苅間沢直治
苅間沢初五郎
苅間沢義雄
苅間沢喜三
木藤古一太郎
木藤古徳太郎
木藤古松蔵
小右エ門岩蔵
拙家兼蔵
拙家富治
田代末造
田代由太郎
泥崎申松
中川原権太郎
韮沢徳蔵
韮沢福蔵
韮沢八十吉
火石三次郎
火石末吉
火石大次郎
火石徳蔵
火石虎蔵
火石百太郎
火石政三
室沢政一
八木巻熊五郎
八木巻佐一
八木巻仁八
八木巻善作
八木巻宗作
谷地兼松
谷地定雄
谷地定
谷地三次郎
谷地政造
谷地長五郎
谷地留吉
谷地初太郎
谷地福次郎
谷地松太郎
谷地興吉
谷地興三郎 
横葉惣一郎
横葉虎松

・・・以上の75名の名が彫られています。

彫られている姓を集計すると、

谷地 12
苅間沢 11
落安 8
火石 7
大畑 6
八木巻 5
小笠原 3
木藤古 3
韮沢 3
荒谷 2
大峯 2
拙家 2
田代 2
横葉 2
荒野 1
石渡 1
大谷地 1
小右エ門1
泥崎 1
中川原 1
室沢 1

・・・と、なりました。

この中で、苅間沢、落安、火石、八木巻、木藤古(きとうご)、拙家、横葉、大谷地、小右エ門、泥崎といった姓は、荷軽部で局地的にみられる姓。
きっと、古くから居住している方々が、ずっとこの荷軽部という地を守っているんだということが強く感じられます。

話は戻って、ハルさんの兄は巳之松という名。干支が入っています。
もし、代々干支を名前に入れる家だとすると、上記のリストから拾うと・・・、

・大畑末子松(大畑未子松(みねまつ)?)
・苅間沢寅蔵
・苅間沢寅太郎
・苅間沢酉蔵
・泥崎申松
・火石虎蔵
・横葉虎松

・・・という7名が当てはまり、一番多い姓は苅間沢。

前回も苅間沢という姓で納得しようとしていたのですが、これでまた苅間沢説が有力となりました。というか、早く完全に納得したい。
しかし、字面的に「火石」という姓も怪しい気がしてきました。たとえば「火石沢」とか・・・。ネットによると火石沢は同じ岩手の遠野や紫波あたりに地名があるんですね。
あぁ、これじゃあまた妄想にふけることになってしまう。。。

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矢祭出身の有名人PARTⅡ

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私の祖先の地である福島県東白川郡矢祭町。

何度もしつこいようですが、菊地家の祖先は大正2(1913)年に当時の豊里村東舘舘本より北海道川上郡屈斜路村へ入植してきました。

 

その矢祭ですが、かつて同郷?の有名人として「あばれる君」がいるということを書かせていただきました。

あばれる君はいまも安定して活躍中なので、安心です(#^.^#)

 

そして、最近もうひとり有名人がいるということを知りました。

 

その方はミュージシャンの「菊池常利」氏。

 

Wikipediaなどのメディアによると、横浜生まれであるものの、育ちは矢祭町。

5歳から平成元(1989)年に隣町の棚倉高校を卒業するまでは矢祭で過ごされていたようです。

 

年齢は公表されていないものの、逆算すると昭和45(1970)年度生まれなのかと想像します。

 

そして高校卒業後、横浜で吉川正己氏とともにフォークデュオグループ「LA-LA Deux」を結成。

平成13(2001)年に吉川氏がジャニーズ事務所のプロデューサーになったのを機に解散して、常利氏はシンガーソングライター「TWUNE」として活動を開始したそうです。

 

吉川氏との繋がりの関係か、嵐のデビュー曲「A・RA・SHI」の作詞もしているそうですが、クレジットが「J&T」なので、名前は出てないのですね(Johnny's & TWUNEのJ&Tらしい)。

 

常利氏は現在東京在住。東京を拠点として活動されておられますが、年に数回は矢祭でライブを開催されているようです。どうやら関岡出身のご様子。

 

この関岡は、菊地家のさらに祖先である菊池家のルーツの地。

我が家は天神沢にも親戚がありますので、数百年さかのぼれば常利氏と同じ祖先にあたったりするのかもしれません。ロマンですなぁ。

 

また、常利氏の実家は現在も関岡に健在のようで、たびたびFacebookに実家やお母さまの様子が出てきたりしています。

 

常利氏はブログも開設しており、たびたび登場する矢祭Loveがひしひしと伝わってきます(*´▽`*) いいなぁ。

 

そして私と同じ横浜ベイスターズファンなのでございます(余計)。

 

そして常利氏は3人の子宝に恵まれておりますが、長男はSexyZoneの菊池風磨くん。

私の妻が一押しのジャニーズメンバー。なんとウチの息子と名前が似ているからです。

 

仮に常利氏とルーツが繋がっていたとすると、風磨くんとも繋がっていることになります。

あぁ、やっぱりロマンですなぁ。