真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

出たとこ勝負の東北旅行

10月11日の金曜日。

台風19号が迫る中、菊地一家4名は朝7時前に釧路を出発。新千歳空港まで4時間の長い旅路でしたが、そこからはたった1時間のフライトで仙台空港へと降り立ちました。

 

空港に着くと、私が荷物待ちの間に妻子は超絶ダッシュで目をつけていたずんだシェイクを買いに行き、空港内のデイリーヤマザキで傘を購入。10分ほど離れたタイムズレンタカーさんに、お店へと送っていただきます。

今回の相棒はブルーのカローラフィールダー。ご当地仙台ナンバー。
昨年つくばで借りたフィットだと荷物が積まさらなかったので、今回はエステートボディのクルマにしました。

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まず最初に向かったのは、宮城県岩沼市志賀にある洞林寺。

ここには妻の祖母のそのまた祖母の両親の家である、大久保家佐野家の墓地があります。

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家族4人で急勾配に点在する墓石をひとつひとつ探していき、大久保本家の墓石は見つけることができました。

以前資料をご提供いただいた、宮城の増子さんよりいただいた写真と同じ墓石。妻子にとっては遠い祖先のお墓です。

 

もう一つの佐野家は、知っている名前である佐野直吉という名が旧すぎて特定できませんでしたが、数軒あった佐野家の墓石を見てみると、ほぼ家紋は三つ巴。

 

増子さんからいただいた旧土地台帳の情報によると、このお寺の他にも、志賀地内に独立墳があるようだったのですが、今回(に限らないけど)は非常にタイムスケジュールがタイトなのであきらめることとしました。

今にも雨が降り出しそうな雲行きでしたし。

 

志賀をあとにし、道の駅村田でトイレタイム。

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この柴田郡村田町は私の母方高祖母の父が生まれた安田家の地。墓所の存在も明らかなのですが、あまりにも広大なためにここもパスすることにしました。

 

そして蔵王町に入り、小村崎地区の墓所へ。

ここは妻の曾祖父である佐藤今朝二郎が生まれた地。佐藤栄吉の長男である今朝二郎が駆け落ちで釧路に来てしまったことから、次男の系統が跡を継いでいます。

綺麗な金色の稲穂の真ん中にある墓地。広くてなかなか苦労しましたが、無事に佐藤家の墓石を発見してお参りすることができました。

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ひいじいちゃんの親不孝を詫び(外様の私が言うのもなんですが)、これからも北海道の子孫たちを見守ってくださいと。

 

そして宮城県を抜け、山形県に入ります。

村山市の「道の駅むらやま」でおみやげを買ったりし、初日の宿泊地である最上郡大蔵村へ。

 

目的地の肘折温泉は、妻の母方祖母が生まれた柿﨑の家がある大字南山に含まれる地。
500年以上の歴史を持っている温泉地です。

そして、以前お便りをさせていただき、南山の柿﨑家のことをいろいろお調べいただいた柿﨑さんが経営されている旅館に宿泊。

銅山川のほとりで、川の流れる音が心を癒してくれます。

 

温泉は塩分の多く含まれているそうで、さらに茶色が濃く湯船の底が見えないけど、さらさらで体の芯まで温まるお湯でした。

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ご飯は山菜やきのこがメインで、名物の芋煮もいただくことができました。あまりに美味しかったので、妻が「家でも作ってみる!」と張り切っています。

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2日目、朝5時半から開催されているという朝市に出向いてみました。

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地元のおばあちゃんとやりとりをしたり、肘折こけしを買ったりと楽しんだ後は、いよいよ南山の塩集落へ向かいます。

 

妻の祖母からみると、さらに祖母の実家である森家、そして曾祖父の実家である柿﨑家にお会いできる段取りを、旅館の柿﨑さんがつけてくださったのです。

10年ほど前、大蔵村に関わる十数軒のお宅にお手紙をしたのですが、1軒だけご返信いただけたのが最初にお邪魔する森家のお母さんでした。

その森家、高祖母の父である森栄助(1853~1928)が建てた家。すでに築150年を優に超えているそうです。

 

森さんのお母さんや、その息子さん夫婦にいろいろお話をうかがい、豪雪地帯である大蔵村でびくともしない栄助さんが建てた家を見せていただき、手作りのおこわやドーナッツなどでおもてなしをいただいてしまいました。

 

次は柿﨑家。急坂の中腹にあった柿﨑家は、本家ともいえる柿﨑五三郎さんの子孫であり、大正13年生まれで95歳のおばあちゃんとおじいちゃん、そして息子さんにおもてなしを受けました。

どうやらおばあちゃんに話を聞くと、釧路に来た大叔父の1歳上で、一緒に小学校に通った間柄だそう。

祖母の柿﨑家は五三郎の三男が柿﨑権兵衛さんの家に養子として入っていて、権兵衛さんが一番古い名なのですが、昭和4(1929)年に権兵衛さんが亡くなり、その長男である運次郎(1878~1943)や、その長男の作次郎(1902~1966)たち兄弟は釧路に来てしまったため、跡継ぎの居なくなった権兵衛家は文字通り無くなってしまったとのこと。

 

いろいろなお話を伺っている中で、おばあちゃん(おばあちゃんも同じ集落の柿﨑家出身)がお嫁に来た際に渡されたという戸籍謄本を見せていただきました。

それは、大正4(1915)年に村役場が焼けた際に燃えてしまった謄本の写し。すでに取得して100年以上経過したものでした。

目の前に存在している紙があんまりにも衝撃過ぎて、しばらく呆然と眺めていましたね。

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なぜ運次郎が釧路に来てしまったかは結局わからずじまいでしたが、柿﨑のルーツは何も残されてはいないものの、新潟柏崎の柿﨑景家だと伝わっているとのことでした。

 

その後は雨の中、塩集落をはじめとして清水や合海で祖母に関わる各家の墓所を探したんですが、同じ姓がありすぎるうえ、墓碑的なものが何も刻まれていないので、さっぱり目星すらつけることができませんでした。

 

とにかく村のお墓のほとんどが、前面に「〇〇家之墓」というのと、家紋と屋号、そして背面に建立した人の名前と建立日しか彫られていないのです。

戒名や俗名の類いは一切なし!

ツルツルあっさりした墓石ばっかりです。

このような事態は初めて。なんだか隠れ里みたいな地域なのかしら?・・・。

 

それにしても、聞き忘れた柿﨑家の屋号だったんですが、

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え!?「ヤマ5」みたいな?アラビア数字とかありなの?

 

國分家は「丸に木瓜」紋。

小関家は「三つ・・・?」え?なにこれ?

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その後は秋田県へ北上し、雄勝で小休憩。

現在は横手市となった十文字の道の駅で釧路ラーメンに似ている名物、あっさりとした「十文字ラーメン」をすすり、横手市内を散策。

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秋田ふるさと村ババヘラアイスのおばちゃんと巡り合うことができ、初めて本物のババヘラアイスを食べました。んもうすんげぇ美味しい!

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食べている最中におばちゃんのガラケーが鳴ったので「どうしたんですか?」と聞いたところ、「台風だからそろそろ上がって~」と社長からの連絡だったとのこと。ババヘラアイスにも社長がいるんだ!と、不思議な驚きでした。

 

ふるさと村では、トリックアートやアスレチックを堪能して子どもたち大はしゃぎでした。思えばこの旅行で子どもたちがいちばんはしゃげたのはここだったかも・・・(;'∀')

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晩には横手焼きそばを食べようとしたものの、行こうと思っていたお店が台風で営業しておらず×2・・・

なんとか、食い道楽さんというお店でいただくことができました!安くて美味しい!

ちょっとだけS&Bのホンコンやきそばに味が似てないかしら?(個人の感想です)

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そして、ついに台風19号の夜がやってきました。

秋田はたぶんそれほどでもなく、露天風呂で裸体に強風を浴びたりできたのですが・・・

ニュースでは、どんどん深刻さが増していく様子が映し出されています。

関東圏がいちばんひどいと思われていたのが、東北にも大きなダメージ。

まさかあんなに川が氾濫しまくるなんて想像もしていませんでした。

昨年訪れた茨城県大子町も、あんまりにもひどいありさまになってしまいました・・・。

私たちは難を逃れたものの、翌日以降のスケジュールは不透明に。

 

まずは岩手県花巻市に向かいます。花巻はわんこそば発祥の地。

宮沢賢治の生家にほど近い、賢治が常連であったという「やぶ屋総本店」でわんこそばに挑む予定。

 

太平洋沿岸の釜石市が冠水し、ラグビーのカナダ対ナミビア戦が中止になったというニュースが流れていたことから、おそば屋さんが営業するかすらわからないまま不安な気持ちで不自然なほど青空の中を走行します。

しかし花巻はそれなりに内陸で、川の決壊もなかったことから街は無事。わんこそばにも挑むことができました!

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11時開店で10時半から並んだらば一等最初でして、11時からわんこそばスタート!

気合を入れてすんごく美味しいおそばを飲み込みまくりますが、朝飯を食べてからそんなに経っていないこともあり、わずか33杯でギブという後悔する結果に。

妻は44杯、小6の長女が17杯。

 

娘がギブアップしたのちもまだ小2の息子はのそのそと食べ続けていました。どうやら姉に勝ちたい気持ちでいっぱいのようです。

もう完全にやばそうな表情を浮かべながらゆっくりと17杯目を完食し、18杯目がお椀に入りました。

そして、彼は食べ切ったのです。これを執念をいわずに何と言おうか!

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すぐさま苦しそうに畳へ突っ伏す息子。こんなお店の中で〇〇ちゃったらたいへん!
しかしながらなんとかいちばん苦しいところを凌いだようで、動き出しました。一安心(*^^*)

思ったより食べられないもんですね。10杯でかけそば1杯分だとおねえさんに教えていただきましたが、もう100杯とか信じられないですよ。

記録だと250杯以上食べた人がいるらしいですが、何回か挑んでコツをつかまないと無理!

 

その後は妻の念願だった世界遺産平泉へ。

しかし毛越寺の駐車場が営業中止になっている・・・。でもクルマは停まっている?

とりあえず停めて毛越寺に行ってみると、通常通り拝観できるとのことで一安心。

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中尊寺も同じで、駐車場代が浮きました。

撮影NGの金色堂を拝んで心に刻むことができましたし、世界遺産平泉を満喫することが叶い、大満足。

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中尊寺の参道は角度も距離も半端なかったっす。

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夕食は一関で初「かっぱ寿司」へ。「あんまりはま寿司と変わらない」とは娘の評。

そういえば一関で見かけたシルビアですが、平泉ナンバーでもこういうクルマがいるんだ~って感じで、いとをかし。

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宿泊は奥州市水沢。ここはエンジェルスの大谷翔平が生まれた地ですが、あまり大谷を感じることもなく過ぎていきました。

 

翌14日の月曜日。

その日は石巻市石ノ森萬画館を見学し、女川付近で震災の爪痕を感じ、私の母方ひいばあちゃんの出身地である東松島市矢本で墓所の散策をするつもりでいたのですが、吉田川の氾濫などによりあちらこちらで道路網が寸断されている状況。

無理に石巻方面に行くことは得策ではないと判断し、苦渋の選択でしたが矢本に行くのはあきらめることに。

被害の大きかった大郷町を何とか通り抜け、松島へ。

道中の大郷町では道路は泥だらけや陥没、畑も冠水しており、子どもを含む町民が泥を片付けていました。そんな中を観光で走っているなんて、とてもやりきれない気持ちでいっぱい・・・。

 

なんとか辿り着いた松島は、日本三景の一つ。

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おととし行った京都宮津市天橋立に続き、これで日本三景を二か所制覇!あとは広島かぁ・・・遠いなぁ。

 

そして伊達家の菩提寺である瑞巌寺を拝観。これぞ古刹!というド迫力の院内(撮影NG)でした。


さらに松島蒲鉾本舗で笹かまの手焼き体験。うまいこと焦がすのが難しかったですが、自分たちで焼いたものを美味しそうに食べる子どもたちを見ていて、やっと平静な気持ちになってきました。

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松島をあとにして仙台へ向かいますが、通行止めだったり行き止まりだったりでナビが頼りにならずにめちゃめちゃタイムロス。

仙台ではまず最初に楽天生命パークへ。その日から今シーズン終戦となった楽天イーグルスが秋季練習をしていたのです。

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雨が降り出した中、子どもたちは初めてのプロ野球の球場ではしゃいでいました。ここは外野席が椅子ではなく芝生なんですね。外野席の後ろには観覧車やメリーゴーランドがあって子どもたちが楽しめる工夫がされており、いいなぁこういう球場。日本ハムもこういうのを目指しているんでしょうね。

グラウンドでは各選手がめいめいストレッチやキャッチボールをしていまして、その中でもストッパー松井裕樹のキャッチボールが速いのなんの!ベイスターズファンではあるものの、ただの野球ファンでもあるため、めちゃめちゃ一挙手一投足に感動でした。

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いちばん最初にバッティング練習で打席に立ったのが元ベイスターズの藤田一也だったのも嬉しかったですね。

 

すっかり雨は本降りに。青葉区広瀬通のホテルにチェックインし、少し休んで夕食を食べに行きます。

仙台駅前の「たんや善治郎」。妻の大好物である牛タンを食べに行くのです。

実は私は牛タン苦手。子どもたちは食べたことがないという中で、メニューには牛タンがらみの料理のみ!

しかしここは妻のため!意を決して私は牛タンカレー、子どもたちは牛タンシチュー、妻はスタンダードに定食を頼みました。

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そしたら、今更だけど牛タンってガチうまいじゃん!って、そりゃあなりますよね。子どもたちも大絶賛でしたよ。

腹にズシンと来るので、ざんねんなことに子どもたちが残した分まで全部は食べることができませんでしたけど。

 

最終日は瑞鳳殿伊達政宗とその一族の御廟をお参り。

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なお、息子の帽子がベイスターズからイーグルスへと変わっております。

 

最後は八木山動物公園へ。

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初めて見るカピバラ、ワニ、ラクダ、サイに感動し、

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ロバや羊の可愛さにメロメロになり、

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レッサーパンダの愛らしさに癒されてきました。

 

カンガルーはどこの動物園に行ってもぐうたらしてるんですが、そんなもんなんですかね?

 

そんな4泊5日の旅。石巻や矢本に行けなかったのは痛かったですが、こんな状況ですので仕方ありません。

いろいろお世話になった大蔵村のみなさまに感謝です。

 

来年は娘が中学生。こういった長い期間の旅行は最後だったかもしれません。

でも楽しい思い出がたくさん作れたので、その思い出を胸にこれから生きていこうと思いました。

 

カローラフィールダーでの走行距離48837km→49468km=631km

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▲当初の予定

ちょっと行ってくる

家系のインデックス

少し気持ちにゆとりができてきた秋。

今週の金曜日より、5月から予定していた東北への旅へと赴きます。

 

毎年一度は、どっかこっかに行っておりますが、ことしは娘が小学6年生。

私や妻の仕事、そして娘の部活の都合もあり、来年以降はこのような旅は非常に困難になると思われるため、んもう今回はガチでガチガチにスケジューリング。

 

5日間、精いっぱい家族で思い出つくってきます。

 

そしてもちろん私のことですので、家系に関する調査もぬかりありません!

 

まず、初日の11日金曜日。新千歳空港まで4時間かけて向かい、そこからわずか1時間(!)で仙台空港へ。

その後はレンタカー(たぶんカローラフィールダー)での移動です。

 

最初は妻の祖母の父系である宮城県岩沼市志賀の大久保家佐野家。墓地の探索ですが、予定所要時間は26分。けっこう広大なので、非常にタイトです。

続いて、おとなり蔵王町小村崎の佐藤家のお墓参り。予定所要時間18分。やはり厳しい!

 

そしてその日は、山形県大蔵村肘折温泉で宿泊です。

大蔵村は義母の母の実家である柿﨑家があるのですが、旅館の若旦那も柿﨑さん。

大蔵村は人口の5%強が柿﨑さんという、まさに柿﨑パラダイスなのです。

 

そんな縁もあり、旅館の柿﨑さんに事前にお便りをさせていただいたらば、いろいろ調べて下さり、なんと2軒のお宅にお邪魔させていただけるよう手筈を整えて下さったのです!ありがたや~(*^-^*)

 

その2軒は、 ほぼ10年前にお便りをいただいた森家

そして、義母の祖父のそのまた祖父の実家・柿﨑五三郎家

 

旅行2日目土曜日の午前中、ともに予定所要時間は40分ほどしかとれませんでしたので、如何に効率よくお話を聞けるかがキモになってきます。

柿﨑家でお相手をしていただけるのは、90歳をとうに過ぎたおばあちゃんということで、これは大チャンス!限られた時間でぜひとも深掘りしていきたいところ。

 

あとは60分ほどで村内三つ四つの墓所をまわり、未だ未知で子孫の方も判らない高山治右エ門國分七右エ門、小関吉兵エという各ご先祖さまの墓石をぜひとも見つけたい!

 

そして4日目に飛び、宮城県東松島市矢本の墓所にて、私の母方ひいばあちゃんの系統3家(及川家石垣家奥田家)の墓石を探索。予定所要時間40分

 

・・・そんなわけで、ひじょ~~~~に乏しい時間で集中的に調査をします。

旅行となるといろいろと詰め込みまくるので、いっつもこんなんなのです。

 

ちゃんと観光地にも行きますよ!

山形では肘折温泉

秋田では十文字ラーメン、横手焼きそば、秋田ふるさと村

岩手では花巻のわんこそば(その日はラグビーワールドカップのカナダvsナミビア戦が釜石であるので、予約が取れなかった・・・)、平泉、大谷翔平の出身地・水沢。

宮城では石ノ森萬画館。そして震災から8年経って、ついに爪痕を感じてみようと思っています。

最後は仙台の牛タンで〆。

 

悲願だったこの地域への旅行。子どもたちにとってはあんまり楽しくないかもしれませんが、何かを感じてくれると嬉しいですね(ぼんやり)。

 

なお、

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不安は尽きない模様です(ノД`)・゜・。

 

雨だったら墓石が読み取れないよぅ~

 

しかもそもそもこの台風激ヤバっぽい!自分の事もさることながら、手負いの千葉南部とかが心配です。できるだけ西に逸れて!!!

 

ユーキャンの家紋大事典によると

家系のインデックス

 

高祖父の父・菊地儀平(1844~97)の実家である近藤家

昨年、矢祭町までお墓参りをした際に家紋を見たのですが、なんだか変わった家紋だったため、ネットでも家紋事典でも、見つけることができていませんでした。

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▲「隅切角に違い鷹の羽」としていた紋。

 

そうしたら、先日ゲットしたユーキャンの家紋大事典に手掛かりを見つけたのです。

 

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高澤等先生によると、まずこの枠は「隅切り鉄砲角」なるものだと。

なるほど。鉄砲の銃身がモチーフだったのか。

 

そして中身は普通の「違い鷹の羽」ではなく、「細違い鷹の羽」だということ。

合わせると、「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」。長ぇ・・・。

 

他にもさっぱり謎のままの家紋があったりします。

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宮城県柴田郡村田町の安田家の紋

 

「丸に結び木瓜」なのかと思っておりますが、あるいは釜敷紋が近いのかもなぁとも考えています。

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▲五つ結び釜敷紋

 

でも探しても探しても「四つ結び釜敷」は見つかりません。

 

もう一つはよく出てきますがこの紋です。

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▲石川県小松市菩提町の森井家紋

釧路市森井家では「丸に五三の桐」を使用しており、その前にいた八雲町の時点か、釧路に来た時点か、どこかで変わってしまったのでしょうね。

これもポピュラーな「五本骨扇」とちょっと違って、骨が四本なので「四本骨扇」なのでしょうか。

 

家紋についての素晴らしいサイト「家紋World」さまを参照してみます。

www.harimaya.com

扇は神の依代で、戦場で翻せば身を守り戦いに勝つと信じられた。」

ふむ。かつては戦に挑む家だったのだろうか?

言い伝えでは、菩提村に伝わる道路を造ったとか、土木系の仕事をしていたっぽいのですが、これは江戸時代以降のお話でしょう。

 

また、嫡流から遠くなるほど扇の骨の数が少なくなった。」

ともあります。五本骨扇の家から分家したりしたのかもしれません。

 

それにしてもこの紋もひとつ上の紋も「四」なんです。

なんだか縁起が悪そうなものなので廃れていったのかも・・・とか邪推したり。

 

最後はこちらです。

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宮城県岩沼市志賀の大久保家紋

文献やネットには「上がり藤に大の字」があるので、これは「丸に上がり藤に大の字」でしょうか。格助詞が多いですよ。

藤ということは大久保家藤原氏なのかしら?

 

いや~それにしても家紋は奥が深いですね~。美しいですね~。それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~!

戸籍に関してつれづれに

家系のインデックス

 

千葉南部などでは台風のせいで大きな被害。

母方平野家のルーツ、仁右衛門島がある鴨川市もたいへんなことに。

昨年ブラックアウトを経験した北海道民とはいえ、それをはるかに上回る過酷な状況に胸が締め付けられる思いです。

なるたけ早く、被災された方々や作業に従じている方々が日常が取り戻せるようにお祈りしております。

 

そんな折、すっかり秋めいてきた今日この頃。

すでに釧路では落ち葉が舞い散っています。

 

思うとかれこれ12年にわたり、家系を追い求めていままで120通以上の戸籍・除籍謄本を見てきているわけですが、それらを見ていて気になっていた箇所について記してみたいと思います。

 

パターン①~転籍前の情報がそのまま記載されている

★北海道★

〇高祖父・平野儀三郎(1866~1939)

東京府北豊島郡大泉村(現:練馬区。廃棄のため取得できず)→明治34(1901)年転籍:北海道瀬棚郡利別村(現:今金町)→大正5(1916)年転籍:北海道斜里郡斜里村(現:斜里町)>

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養父、養母、義弟夫妻が明治28(1895)年に分家しているにも関わらず、その後に転籍した利別村、斜里村の戸籍に記載が残ったままとなっている。その情報が記載されていたおかげでおかげで高祖父の養父母(妻の父母)である平野丑松夫妻やその上の世代の名前がわかり、さらには練馬区から義弟の戸籍(丑松夫妻が記載されていた)を取得することができた。本来であれば記載が無いはずの人物が記載されていたわけで、私にとっては利別村および斜里村戸籍担当のファインプレイでした。

 

〇妻の高祖父・相木萬九郎(1848~1926)<北海道茅部郡落部村(現:八雲町)→大正7(1918)年転籍:北海道上磯郡茂別村(現:北斗市)>

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茂別村での戸籍にも、落部村の戸籍をそのまま転写したとおもわれるような記述が多くみられる(当村高谷萬蔵次男養子縁組・・・との記載だが、この「当村」は落部村)。また、転籍前の明治36(1903)年に亡くなった萬九郎の五男や、明治44(1911)年に養子へ出した次女も記載が残ったまま。

 

サンプルが少ないので何とも言えませんが、よくわからずに戸籍を書いていたのかもしれない当時の北海道各村の戸籍担当は、記載の必要が無い部分も大量に書く羽目になって、非常に大変な思いをしたのではないでしょうか。

 

パターン②~明治19年戸籍編製以前の情報が記載されている

★北海道(明治19年式戸籍~落部村のみ3件)★

〇茅部郡落部村(現:八雲町)

「明治9(1876)年9月5日当道山越郡山越内村 掛川丈八四女 当村加我吉兵エ養ニ入籍 明治17(1884)年10月10日入籍ス」、「慶應元(1865)年12月15日当村 高谷萬藏長男入籍 明治17(1884)年6月20日相続」

壬申戸籍編成前の慶應元(1865)年に発生した事由の記述あり。

 

青森県明治19年式戸籍~2件)★

下北郡関根村(現:むつ市

「明治17(1884)年4月7日相続」

 

宮城県明治19年式戸籍~5件)★

桃生郡矢本村(現:東松島市

「明治9(1876)年4月3日 宮城県桃生郡大曲村 雫石慶治次女入籍」、「明治11(1878)年8月5日 宮城県桃生郡矢本村 及川重左エ門分家」、「明治5(1872)年2月17日宮城県桃生郡川下村 千葉六助次女入籍」

刈田郡小村崎村(現:蔵王町

「明治元(1868)年8月13日 宮城県刈田郡小村崎村 亡小林慶治四女入籍ス」

名取郡志賀村(現:岩沼市

「明治16(1883)年8月10日宮城県柴田郡芦立村 斎藤治右エ門三女入籍」

※小村崎村に壬申戸籍編成前の明治元(1868)年に発生した事由の記述あり。

 

新潟県明治19年式戸籍~3件)★

西蒲原郡吉江村(現:新潟市南区

「明治12(1879)年8月19日相続」、「明治14(1881)年8月10日同県中蒲原郡戸石新田ノ内田尾 安沢乙松長女後妻ニ入籍」、「安政4(1857)年2月14日相続」、「安政4(1857)年12月20日同県同郡河間村亡如澤兵右エ門長女入籍」

中蒲原郡上高井村(現:新潟市南区

「明治9(1876)年10月20日相続」

※吉江村に壬申戸籍編成前の安政4(1857)年に発生した事由の記述あり。

 

岩手県明治19年式戸籍~3件)★

〇北九戸郡戸田村(現:九戸村

「明治7(1874)年3月5日同県同郡同村 福田三之亟孫長女入籍ス」、「明治14(1881)年2月26日相続ス」

〇北九戸郡長興寺村(現:九戸村

「明治13(1880)年12月15日相続ス」

 

福島県明治19年式戸籍~5件)★

東白川郡関岡村(現:矢祭町)

「明治14(1881)年11月5日当県西白河郡大和田村 鈴木慶之亟甥入籍ス」

東白川郡上関河内村(現:矢祭町)

「明治10(1877)年10月31日茨城県久慈郡町田村 海野辰之助附籍 亡松本辰三二女入籍ス」

 

茨城県明治19年式戸籍~6件)★

筑波郡牛縊村(現:つくば市

「明治7(1874)年12月10日茨城県筑波郡西高野村 冨田惣平長男養子ニ入籍ス」、「嘉永4(1851)年7月10日相続」、「天保4(1833)年12月21日茨城県筑波郡牛縊村 岡田与左エ門二女入籍」、「嘉永2(1849)年2月28日茨城県筑波郡牛縊村 砂山軍造二男養子ニ入籍 嘉永2年3月21日相続」、「嘉永3(1850)年正月3日相続」、「嘉永4(1851)年4月15日茨城県筑波郡上河原崎村 斉藤伊平亡二女入籍ス」

久慈郡袋田村(現:大子町

安政5(1858)年12月20日相続」

久慈郡生瀬村(現:大子町

嘉永6(1853)年10月20日相続」、「安政4(1857)年4月6日茨城県久慈郡外大野村 齊藤善治エ門長女入籍」、「明治11(1878)年2月23日福島県東白川郡真名畑村 金沢勇吉二女入籍」

久慈郡宮川村(現:大子町

嘉永4(1851)年3月15日同県同郡上郷村 村上吉三郎二女入籍」

※全村に、壬申戸籍編成前に発生した事由の記述あり。

 

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北海道、宮城、茨城、新潟に、壬申戸籍以前、おそらくは宗門人別帳?からの記録が転記されているのが確認されます。

青森、岩手、福島には壬申戸籍以降の日付しか見当たりません。

これは県単位でお達し、もしくは認識が異なっていたことになるのでしょうか?

もちろんサンプルが少ないため、推測です。

 

パターン③~天災

山形県大蔵村役場は大正4(1915)年8月2日に火災が発生し、戸籍が焼失してしまっています。

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副本や届出によってある程度は復旧したようですが、もちろん失われた記録も多かったはずです。

 

関東大震災や戦災によって戸籍が失われた自治体には縁がなかったため、難を逃れた感があります。

かつての同僚の家は、昭和初期に釧路市に来る以前は東京の旧日本橋区に本籍がありましたが、戦災で焼失してしまっていたようでした。

 

パターン④~80年廃棄

かつて除籍の保存年限は80年でした。除籍から80年が経過した謄本は公文書としての役目を終え、各自治体にその後の処遇を委ねられていました。

〇その後も保存し、発行も可能

〇80年経過後、年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄

〇80年経過後、数年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄

〇早くからシステムを導入し、80年経過後は自動的にデータ削除

・・・などなど、各自治体によって扱いはまちまちでした。
しかし、平成22(2010)年に保存年限が150年に延長され、しばらくは廃棄が行われないことになったのです。

150年に延長となったときには、もっとも不運な場合は昭和5(1930)年のものまで廃棄されていることになります。

いま(2019年)から150年前は明治2(1869)年。現状取得できる最古の明治19年式戸籍が廃棄(するかどうかは別として)可能になるのは、除籍となった年によりますが、たとえば明治19年に除籍になったものに関しては17年後の2036年。和暦でいうと令和18年です。

ずいぶんと未来のことのように感じますが、次世代の子孫たちが困らないよう、いま残っていて取得できる除籍は家で保存しておくにこしたことはありません。

 

なお、私が保存年限80年を過ぎた除籍の取得を試みた結果は以下のとおり。

★北海道★

 釧路市~平成18(2006)年の暮れに一度だけ80年廃棄

 砂川市~大正7年の除籍が最古

 岩見沢市~大正3年の除籍が最古

 八雲町~明治19年戸籍現存。明治41年の除籍が最古

 北斗市~大正15年の除籍が最古

 今金町~大正5年の除籍が最古

 せたな町~明治45年の除籍が最古

青森県

 むつ市明治19年戸籍現存。明治44年の除籍が最古

岩手県

 九戸村明治19年戸籍現存。明治20年10月5日の除籍が最古

宮城県

 東松島市明治19年戸籍現存。明治31年の除籍が最古

 蔵王町明治19年戸籍現存。明治25年の除籍が最古

 岩沼市明治19年戸籍現存。明治29年の除籍が最古

山形県

 大蔵村~前述のとおり大正4年の役場火災で焼失。大正6年の除籍が最古

福島県

 矢祭町~明治19年戸籍現存。明治22年の除籍が最古

 棚倉町明治19年戸籍現存。大正2年の除籍が最古

 白河市~80年廃棄。明治30年の除籍は取得できず

茨城県

 大子町~80年廃棄? 大正15年、昭和4年の除籍は残っていたが、明治37年の除籍は取得できず

 つくば市明治19年戸籍現存。明治32年の除籍が最古

★東京都★

 練馬区~80年廃棄。明治34年の除籍は取得できず

 西東京市~80年廃棄。明治26年の除籍は取得できず

★石川県★

 小松市~80年廃棄。明治26年の除籍は取得できず

新潟県

 新潟市南区明治19年戸籍現存。旧味方村は明治26年、旧白根市明治41年の除籍が最古

鳥取県

 鳥取市明治19年戸籍現存。明治27年の除籍が最古

 八頭町~明治19年戸籍現存。明治31年の除籍が最古

 

・・・こうしてつらつらと並べてみると、サンプルがやっぱり少ないですね。

ただ、現在でも対象自治体が町村クラスなら、昭和5年以前の除籍も残っている確率は高いような気がします。

 

もちろん、平成10年代にいわゆる「平成の大合併」があったので、合併前の自治体ごとに異なることもあるでしょうから一概には言えないですが、例えば電算システム化の際に80年経過したものは対象外としたりしたことはあったと思います。

なにせ件数によってシステム導入にかかる金額が違ってくるのは必然ですし・・・

 

あとは保管の場所がネックだったりしたのでしょうね。釧路市でも電算化されていなかった除籍は、地下に潜って埃や目に見えない虫だらけの倉庫から虫食いまくりの原本を探し出してくるという、体がむず痒くなる作業をしていたそうですから。

 

 

以下余談。私の手持ちの戸籍からのよもやま話。

 

〇いちばん生年月日の早い漢字名の女性

明治28(1895)年5月7日、山形県田川郡生まれの本間久惠さんでした。

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しかし、生年月日がわからないものの、久惠さんの母も「元」さんとおっしゃるようです。なお、久惠さんよりも早い生年月日でタ子(タネ)さんや、与祢(よね)さん、志まさん、寿い(すい)さんなどがいらっしゃいましたが、崩し字に近い感じでしたので省きました。

 

〇いちばん生年月日の早い「〇子」という名の女性

明治41(1908)年1月13日、千葉県東葛飾郡生まれの竹内朝子さんでした。

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なお、昭和に入った頃は「本名+子」で名乗る習慣?があったそうで、昭和4年生まれの祖母・ゆきは「雪子」と名乗っていたようです。祖母の姉もセツさんですが、子をつけて「節子」さん。祖母の皆川家だけではないでしょうが、「〇子」さんというのがハイカラだったのでしょうね。

 

〇いちばん生年月日が早い人物

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今から212年前の文化4(1807)年3月5日、現在の福島県東白川郡矢祭町関岡生まれである中野ハツ(1807~90)さんでした。

なお、ハツさんは高祖父の曾祖母の兄である藤田傳右衛門の奥様です。

 

〇いちばん長寿の人物

戸籍上では、曾祖母・菊地カツがいちばん長生きでした。今回気づきましたが、亡くなった記載がある戸籍は未取得。こんど取得しておかないと!

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明治28(1895)年4月19日に福島県東白川郡近津村大字下山本字松原で生まれ、平成8(1996)年3月22日に北海道斜里郡清里町で亡くなりました。亡くなった際の戸籍が無いので墓碑ですが。

あとひと月ほどで満101歳を迎えるという大往生。数えでは102歳。

なお、18歳で北海道に渡ったのちに曾祖父・菊地幸太郎と20歳で結婚しましたが、昭和11(1936)年に先立たれていまして、婚姻期間20年で未亡人期間が60年。この数字だけ見てもなかなかすごい人生だなと感じます。

それにしても、下山本村戸籍担当の人は字が小っさ!がんばって1列に書き切ろうと思ったのかしら?

 

〇最も多いきょうだい

高祖父の祖父・砂山軍造のひ孫である茨城県筑波郡牛縊村の砂山喜三郎(1889~1951)とたつ(1891~?)夫妻の子どもたちが13人きょうだい。

北海道網走生まれの最年長「よし」(明治45(1912)年生まれ)を筆頭に、牛縊に戻り、東京三河島にて昭和12(1937)年に生まれた金太郎まで13名。お母さんは46歳!うち4名は夭折しておりますが、9名は見事に成人しています。

さらに妻の高祖父・山田菊松の異父弟である山田万次郎(1885~1966)とキソ(1897~1987)夫妻も13人きょうだいをもうけています。

明治45(1912)年に青森下北の田名部でマサが生まれたのちに釧路へ渡り、昭和16(1941)年生まれの繁男さんまでで13人。こちらも3名が夭折していますが、まだご健在の方もいらっしゃいます。

 

〇もっとも若い花嫁

14歳でお嫁さんになった例が8例あります。

いちばん最近の婚姻は岩渕家のセンさん。大正9(1920)年12月23日。北海道空知郡砂川村となっています。

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〇もっとも若い花婿
逆のパターンだと、15歳で旦那さまになった例があります。

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高祖父の及川清之進ですが、婚姻日は明治20(1887)年2月24日、宮城県桃生郡矢本村で婚姻しています。奥さんは同い年。

 

 

ちょっと戸籍から離れて・・・

〇平均生存年数

あくまでも参考ですが、戸籍や墓石などで生没年が判明しているわが家系の約1400人を平均すると54.29歳。

ただし、その中には1歳の誕生日を迎える前に夭折した哀子が151名おります。たとえば20歳を迎えた人物に限って平均年齢を算出すると、67.47歳となりました。

また、20歳未満で夭折した方は約2割の280名いらっしゃいます。もちろん現代に近づくにつれてそういった方々は少なくなってきており、うち9割の249名の方が昭和20年以前に亡くなっています。

いまこうして幼児期~少年期を乗り越えるのが普通になっているのは、医療や危機管理が進歩したおかげですね。もしもこの時期に自分が親の立場だったら・・・、とても耐えられなかったでしょう。

昔の人はそういった悲しみを乗り越えなくてはならない場面が多かったんだと考えるにつけ、やはり今の日本は平和なんだと改めて思う次第です。

 

なんだか、この記事を見返すと見づらい・・・

しかもいつも通りとりとめのないお話となってしまったので、ここらで失礼いたしまする。

戦前の運動会

女々しくも相変わらず矢祭町の歴史を調べている今日このごろ。

矢祭町史を眺めていると、今から87年前の昭和7(1932)年に行われた東舘高等尋常小学校・男女青年団秋季運動会のプログラムが載っていました。

東舘は矢祭(当時は豊里村)のいちばん大きな学校。なかなか人数も多かったと思います。

内容は現在とは違う部分もあり、同じような部分もあり、ちょっと物珍しかったので表にしてみた次第。

 

当時は、現在の小学1~6年が尋常小学校1~6年に相当し、中学1~2年が高等小学校1~2年に当たります。

学校だけではなく、地元青年団の競技もあったということなので、きっと地域ぐるみで熱闘が繰り広げられたのでしょう。

今とは運動会にかける熱量が全然違ったりしたのかもしれません。もちろんそうでもない子もいっぱいいたかもしれませんけどね。

 

なお、「賞」というのは、何位まで賞が与えられるというものかと思います。たぶん鉛筆とか帳面とかでしょうか。

 №       人員 回数
1 尋1・職員 綱引      
2 5男 ハードルレース 25 4 3
3 尋1男女 鉛筆拾い 90 6 5
4 尋2男女 拾い物競争 82 5 5
5 3女 縄跳び 42 1
6 高女 リレーレース 42 1
7 6男 仰天競争 35 5 3
8 34女 メディシンボール 60 1
9 23男 日本男児      
10 青男 200m   3 3
11 尋1男女 50m 90 9 4
12 尋2男 置換競争 46 1
13 高2男 200m 29 4 3
14 3男 汽車競争 36 1
15 5女 100m 36 5 3
16 4男 200m 30 4 3
17 6女 100m 32 5 3
18 尋2女 流れ星      
19 高男 リレーレース 27 1
20 4以下女 綱引   1
21 尋1男 モダーンボーイ 45 1
22 6女 スプーンレース 32 5 3
23 3男 鰌(どじょう)取り 36 4 4
24 高女 看護競争 42 6 3
25 56男 擬馬戦 58 1
26 尋2女 バスケットボール 36 1
27 4女 100m 30 4 4
28 青女 保姆競争   2 5
29 高女 舞踏      
30 尋1女 花輪送り 45 1
31 5女 特急出荷 36 1
32 4男 赤鬼白鬼 25 1
33 高男 棒奪い 57 1
34 尋3男女 50m 83 9 4
35 尋1男女 夕焼小焼      
36 青男 400m   3 3
37 4以下男 綱引   1
38 高男 敵艦襲撃 57 1
39 選手女 紅白リレー 32 1
40 青女 バスケットボール   1
41 34男 爆弾投下 65 1
42 4以上女 御旗の光   1  
43 尋4以上   合同体操   1  
            昼食
44 5以上男 綱引   1
45 3男女 場内一周 78 8 4
46 高1男 200m 27 4 3
47 4男 毬拾い二人三脚 32 2 5
48 幼童 宝掬い   1  
49 選手女 他校選手競争   4 3
50 青男 部落対抗リレー   1 2
51 456女 美しき天然      
52 3女 毬掬い 42 3 5
53 6男 200m 35 5 3
54 4女 縄越ボール 27 1
55 5以上女 綱引   1
56 選手男 紅白リレー 32 1
57 高女 月の砂漠   1 5
58 4女 お手玉レース 31 2
59 5男 後方勤務 25 1 3
60 高1男 障碍物 27 4 3
61 5女 交通競争 36 5
62 6男 紅白リレー 35 1
63 青男 俵リレー   1
64 6女 日本晴 32 1 3
65 5男 200m 25 4 3
66 青女 100m   3
67 高女 キャプテンボール 42 1  
68 4以上女 胡蝶   1  
69 職員 運命競争   1
70 56女 落花紛々 69 1 3
71 高2男 立体障碍物 28 4 5
72 高女 100m 42 3  
73 来賓 宝拾い   1  


まず初っ端から尋常1年の綱引きですが、愛らしさでメロメロだったでしょう。

プラス職員なのが気になりますが。

 

7番の仰天競争、12番の置換競争、21番のモダーンボーイ、24番の看護競争、28番の保母競争、59番の後方勤務など、さっぱりどんな競技なのかがわからないっす。

23番のどじょう取りは、本物を捕まえるのかな?なかなか時間がかかりそう。

25番擬馬戦。騎馬戦の前身?

38番敵艦襲撃や41番爆弾投下などは、当時戦争をしていなかった頃でも軍事教育が行われていたということなのでしょう。まだ日本が血気盛んな時代だったということを感じさせられます。やだー。

 

最後に「来賓」の競技がありますが、背広とかで参加したんでしょうね。いまではなかなか考えられないかも。

そんなわけでプログラムが73番までという胸焼けするくらい盛りだくさんの内容なわけですが、いったい何時に始まって何時に終わったんでしょう。昼休みが43番終わってからですから・・・。

 

仮に1競技に準備や撤収で10分かかるとすると、朝5時スタートで7時間くらい経った12時過ぎから昼食、13時から午後の部が始まって、6時間後の19時くらいに終了・・・

マジですか!?ちっちゃい子ガマンできないっすよ!

狂おしいほど僕には悩ましい

家系のインデックス

 

あぁ、どの系統もさっぱり調査がすすまないよ~!

トニー!助けて~!

それならケロッグコーンフロスト!

・・・と、勢いだけの不安な書き出しで始めてしまいましたが、またいつものようにモヤモヤした記事を書き綴らせてください。

 

しつこいですが、私の父の父の父の父の父である菊地儀平(1844~97)は、近藤家より東舘村(福島県東白川郡矢祭町東舘字舘本)の菊地家へ婿養子として迎えられています

戸籍には「上関河内村 近藤勝右衛門 五男」とだけ書いてあり、婿入りした時期もわかりません。

長子は明治3(1870)年に生まれていますので、少なくともそれ以前ではあるでしょう

 

そうかぁ、ルーツをさかのぼると上関河内(かみせきごうど)の近藤という家になるんだなぁ、と初めて見たときには「ほほ~っ」と思ったものでした。

 

それから干支がひと廻りし、現地にも2度赴き、上関河内にお住いの2軒の近藤さんとコンタクトもとった現在・・・

いまだに7代前の祖先・近藤勝右衛門なる人物は秘密のヴェールに包まれたまま、姿を現そうとはしてくれません。

まさかこんなに苦労することとなろうとは!

 

以下に、今わかっていることをまとめてみます。

・上関河内の庄屋として、江戸末期~明治初期の古文書に近藤數右衛門なる人物が登場する

・かつて矢祭町の副議長を務めていた近藤誠さんの協力のもと、戸籍をさかのぼったらば文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」という人物が最古(父欄は空欄)

・近藤誠さんのお宅は、義冨の次男・彦雄さんの系統。近藤新右エ門なる人物の養子となっている

・義冨の長男・邦彦(1850~1914)は、明治9(1876)年に上関河内の村長を務めており、現在も子孫の方が健在(いまのところコンタクトとれず)

・上関河内にもう1軒ある近藤家は、邦彦の養子・清兵衛(実家不明。1830~96)が分家して興した家。邦彦の養子ではあったが、20歳も年上!昔はそんなこともあったのかしら

 

ここまでわかっていたところで、ついにおととしの秋、家族旅行の合間を縫って単身で上関河内の墓地を訪ねることができたのです。

まだ家族は大子町の宿で寝静まっている朝5時20分。なんとか朝日で明るくなってきました。

 

そこには近藤家の墓地が3区画。上関河内に現住している3軒の近藤家のもの。

 

総本家である邦彦家のお墓を探ると「近藤數右衛門藤原義冨」と刻まれた墓石を発見。

戸籍にあった最古の名前である義冨は、庄屋だった數右衛門と同一人物であることが確認できました!

さらには、寛保元(1741)年没の「近藤數右衛門藤原義次」や、享保3(1718)年に父母の墓石を建立した「近藤新六藤原義高」という名も。

他にも墓石があったのですが、読み切れませんでした。無念。もう少しでも時間があればぁっ・・・!

 

ここまでで勝右衛門さんは未登場。もはや架空の人物ではないのかと勘ぐりはじめました。

 

儀平は、菊地儀右衛門家の婿養子。

たまたま名前の一字が養父と同じになったのでしょうか。

それとも近藤家に居たときは違う名前で、お婿に行ったときに儀右衛門から一字もらったのでしょうか?

儀平の戒名は「儀山良心居士」。「儀」の字が大切にされていたものだと推測されます。

子どもは「初太郎」と「幸吉」という名ですけれどね。

なお、その後も菊地家では「儀」の字を使用している様子はないです。

 

話を戻して、近藤家の五男。昔はもっと多くの近藤家があったのでしょうか?
もはや知る術はありません。

ただ、ずっと「上関河内の近藤家」と言いながら、上関河内「字仲町」の近藤家を調べていたのです。

もしかすると、仲町の近藤家以外にも、上関河内に近藤家があったのかもしれません。

 

少なくとも明治18(1885)年に編纂された仲町の地籍簿には、上記の近藤家のみが存在。

しかし、近藤邦彦の養女に下関河内・藤田清助さんの長女であるチヤウさん(邦彦と同い年で、誕生日はチヤウさんのほうが早い)という方がいらっしゃるのですが、「明治41(1908)年 上関河内字上ノ臺34番地 近藤庄吉方へ入家」と記載されているのです。

ゼンリン地図を見てみると、いまは上ノ台には近藤家は存在しないので、かつては仲町以外にも近藤家が在ったのでしょう。

捜索範囲を広げればもしかして・・・という希望と、腰の重さが同時に来る感じですね。

 

また、「數右衛門義冨=勝右衛門」という説もまた考えていたわけです。

なぜなら、いちばん楽に終われるから。

 

儀平が上関河内村から東舘村へお婿に来たのは、まだ戸籍制度ができていないころ。

東舘村では曹洞宗東慶寺で宗門人別帳的なものに追記されたりしたのでしょう。

 

なお、上関河内での菩提寺は「久向山積泉寺」という曹洞宗のお寺でしたが、明治9(1876)年に火事で焼失し、そのまま廃寺になっております。

そのときに、福島(ほとんど常陸ですが)の人間ですので訛って伝わったかもしれません。

「おらのとっちゃんはこんどうかんづうぇもんってんだぁ~」みたいな感じで。
「かづ→かつ」と聞き取られ、勝右衛門になっちゃったのではないだろうか?

もうこの結論でいいんじゃないか。もうやれるだけやったじゃないか。という自問自答の日々(大げさ)。

しかし、事はそんな簡単には終われないものです。

 

近藤邦彦の謄本には「父」としてギリギリ記されていた義冨。

邦彦の母は既に謄本におらず、墓石に小田川村・佐川平左衛門の長女である義冨の妻は、明治3(1870)年に51歳で亡くなったと彫られておりました。

儀平が生まれた弘化元(1844)年9月時点では、義冨33歳、妻24歳。

とても自然な年齢に思えます。

 

しかし、儀平は「五男」なのです。

後に村長となる邦彦が、儀平よりも6歳下で「長男」。

 

さらに追い打ちをかけるのが、義冨の長女で邦彦の姉であるユキ。

ユキさんは弘化2(1845)年3月生まれ。

先に生まれた儀平と、誕生日がたった半年しか違わないのです。

例えどんなに早産でも、さすがにこれはありえないでしょう。

余談ですがユキさんがお嫁に行ったのは45歳のとき。当時の感覚だとずいぶん遅い気がします。余計なお世話ですけど。

 

この感じだと、儀平の上に4人の男子がいるとは考えづらいです。
跡継ぎが邦彦だということが不自然になってしまいますし。

邦彦の前に違う母がいた、あるいはお妾さんがいたということも無いとはいえません。
なにぶん庄屋さんですし(打ち毀しにあったこともあるらしいです)。

義冨が33歳になるよりも以前に4人の男子が絶対いなかったとも言い切れません。

しかし、勝右衛門の墓石などの証拠が見つからない以上、これが結論!とはいえないのが現実。しんどい。

もしかすると戸籍の何かが間違ってるかもしれませんが、どこが違うのかは誰も教えてくれません。

 

たすけてカツえも~ん!なんか道具出してよ~!

 

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▲ここのどこかに勝右衛門が入れば、ウチのご先祖と一気に繋がるのに~

 

戸籍地=住所とは言えない?

家系のインデックス

 

娘の吹奏楽コンクール北海道大会(小学校)が終わりまして銀賞をいただきました。

もちろん過去2年連続で金賞を受賞してきたのですから、みんなのがっかり感やショックはハンパないわけです。

でも、むしろその重圧に打ち勝ってここまでこれたのだから、これは素直にすごいこと。これからのみんなにとって意味のある銀賞だと信じています(*^-^*)

 

・・・と、いろいろあったところで、ぼんやりと考えていたのが表題のことについてです。

 

今回のお話の核となるのが、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の兄である菊地初太郎(1870~1942)。

 

菊地家福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地に置いていた明治19年式戸籍は、初太郎の父である菊地儀平(1844~1897)が戸主でした。

明治30(1897)年に儀平は53歳で亡くなり、東舘の大寄にある曹洞宗東慶寺」で葬儀が行われています。

儀平の戒名は「儀山良心居士」。儀平の人となりが伝わってくる戒名です。

でももしかすると、儀平は江戸時代の生まれであり、上関河内村の近藤勝右衛門家からの婿養子でありますので、出生時は「儀平」とは違う名前があったのかもしれません。

養父の菊地儀右衛門と一文字同じなので、婿に入る際に変名したりしたのかも。

 

そんな儀平ですが、東慶寺に遺されている過去帳には「菊池初太郎父」と記載されております。

ここで「菊地」と「菊池」の混同が見られますが、我が家は文書によって混在しているのであまり気にし過ぎないようにしています。戸籍だけ「菊地」で、土地台帳や過去帳は「菊池」だったり。

言い伝えでは本家とケンカして字を変えたとか聞かされましたが、ホントのところは不明。

このころ儀平の妻であるハツ(1852~1906)は存命ですが、喪主は今とは違って家督相続人が務めたりしたのかもしれませんね。

なお、初太郎は儀平が亡くなる8か月前に、袋田村大字久野瀬の植田庄三郎家よりシモを妻として迎えております。

 

その2年後、明治32(1899)年に儀平の養母(ハツの母)である菊地ヤス(1813~1899)が86歳で大往生。その過去帳にも「菊池初太郎祖母」と記されています。

 

・・・と、ここまでは良かったんです。調べる方としては。

 

次に起こったイベントは、初太郎と幸吉兄弟の母である菊地ハツ。

明治39(1906)年に夫・儀平と同じく53歳で逝去し、同じく東慶寺で葬儀。ここまでは自然なんですけれど、その次に記載されていた「鈴木菊池孝吉母」に尋常ではない違和感を覚えるわけです。

 

「鈴木」とは?

「幸吉」ではなく「孝吉」?

なんで初太郎ではなく幸吉の名が?

 

さらには、儀平の戒名は

「儀山良心居士」なのに対し、

ハツの戒名は

「恵光妙順清信女」。

 

「居士」と対になるのは「大姉」のはず・・・。

こういっては語弊があるやもしれないのですが、夫よりも戒名的にはランクが下の「清信女」がつけられたのはいったいなぜなのか。

 

墓石でもあればいろいろ推察できたかもしれませんが、今のところ見つけられてはいないのです。

少なくとも東慶寺には現存していないことが確認できています。

いったい儀平夫妻はどこに埋葬されているのだろう・・・?

 

そんなわけで、いろいろミステリアスな状況なのが整理できたところで、もう少し考察してみます。

 

過去帳(縦書)の「鈴木」は墨書きを縦棒で消しているので、単純に間違えたのではないかと思います。

もしやして、ハツと幸吉やその子どもたちが、どこぞの鈴木家に厄介になっていたということも絶対ないとは言い切れないですけれど。

「孝吉」になっているのは、おおよそ間違いでしょうね。なんかのゲン担ぎとかで、そう名乗っていたということもあるかもですが。

 

そして喪主?が、初太郎ではない。

これはホントに???です。

 

ただ、情報を集めていくと、なんとなくの想像が・・・

 

まず土地台帳ですが、儀平の没後に初太郎が161坪の宅地(40番地)を相続しています。

しか~し!そのわずか7か月後の明治31(1898)年11月に隣家(39番地)の藤田嘉市郎(1862~?)へ売却しているのです。

この藤田 嘉市郎ですが、当時まだ存命だった儀平の義母・ヤスの兄貴の孫。初太郎からするとハトコですね。

 

この時点で、菊地家の土地が無くなってしまいました。

隣の藤田家に売却してしまってはいるものの、縁故者の手に渡っていることから、そのまま住み続けることができていたということも考えられます。

 

このまま翌年のヤスの葬儀までは、初太郎と幸吉一家は同居していた?

初太郎は明治24(1891)年、幸吉はその2年後の明治26(1894)年に親となっています。

きっと家も手狭になってきたのでしょう。

 

その次に変化があるのが、戸籍上の日付で大正元(1912)年、幸吉一家が舘本33番地へ分家。

届け出の時期しかわかりませんけれど、少なくとも福島居住の時点で兄弟は離れて暮らしていたようです。

その翌年、幸吉一家は北海道屈斜路村の御料地へ渡りました。これは郷土史による情報。

初太郎一家はその4年後に幸吉とほど近い場所へ転籍していますが、これは戸籍上の日付ですので、あるいは弟と同時に屈斜路へ渡ったのかもしれません。

 

北海道へ渡るまでの間、兄弟の暮らしぶりや場所は知れません。

 

幸吉が北海道に渡る7年前、ハツが亡くなった際に喪主が初太郎ではなかったということは、同居していなかったということになるのでしょうか。

 

ちょっと疑っているのが、たびたび登場する国会図書館デジタルコレクションに「衆議院議員選挙有権者名鑑」という明治45(1912)年の書物がありまして、その中に「宮川村 菊池初太郎」との記載があることから。

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宮川村というのは、現在の茨城県久慈郡大子町にある大字矢田、川山、冥賀、高田、下野宮に当たる地区。

 

この中の下野宮という地は、初太郎が二女・タツ(1906~37)の婿として迎えた菊地酉松(1898~1964)の実家がある地であるのです。

 

酉松は大森寅松(1871~1914)の長男ですが、寅松が大森與三郎の三男であり、與三郎の長男である大森亥之吉(1863~1921)が家督を継いでいたうえ、寅松が若くして亡くなっていることから、酉松は家を継ぐ立場ではありませんでした。

 

しかし、例えば初太郎がその大森家と旧知であり、ヤスの没後からハツの没前の間に宮川村内の近くに転居したということも、かなり無理がありますが無いとは言えないんじゃないかとちょぴっと思ったり。土地売っちゃってるし。ふつうにまったくの別人であるという説が私の中で有力ですが。

 

酉松に関しては、「下野宮で大工を始めて函館に移住。函館大火後に美幌に移り住んで大工を務めあげた。タツとは恋愛結婚。」ということが伝わっております。

下野宮時代に菊地家と繋がりがあったかはまったくわからないですね。

 

なお大森家なのですが、戸籍を眺める限り明治37(1904)年に亥之吉の三女・すみが同じ下野宮の小室亥之介家へ養子に入ったあとはしばらく動きが無く、その次のイベントが大正10(1921)年に戸主である亥之吉が大宮町(今の常陸大宮市)で亡くなっているという記述。家督は長男の大森貞之丞が継いでいますが、のちに大宮町へ転籍しています。

大森家も居なくなってしまったのか・・・。

 

ちなみに初太郎の戸籍には、屈斜路転籍の2年前、大正4(1915)年に屈斜路で初太郎の孫が生まれるまでまったく地名の記載は無し。

 

初太郎の明治31(1898)年の家督相続以降、初太郎や幸吉には数名の子どもが産まれていますが、誰にも出生地の記載が無いので、みんな本籍(舘本40番地)で産まれたのかなぁ・・・?

 

まぁ・・・、何かと創造力ばかりが膨らんでしんどいっす(/・ω・)/

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▲上記に綴った状況をわかり易いように系図へ落とし込んだものの、余計ごちゃごちゃして失敗した例