真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ちょっとカラーにしてみた

家系のインデックス

 

祖先の調査などで昔のことばかりしらべていると、めくるめくモノクロームの世界が広がっています。

ともすると、昔は色という概念がなかったんじゃないか?というお馬鹿さんな感覚になっちゃったりして。

 

そんなお馬鹿さんな思考を改善してくれるサービスがあるということで、いろいろと試してみたのですよ。モノクロ写真をカラーにって。

そしたらば、こちらの「ColouriseSG」というサイトがいちばんいい感じで彩りを与えてくれました。

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・・・と、使い方はイージーです。

 

これだけで、色が合ってるんだかはわかりませんが、グッと素敵な感じに変貌!

 

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▲昭和13(1938)年くらいのじいちゃん夫婦(菊地幸松・よし)。

 

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弟子屈木工の仕事中。じいちゃん(前列左から2番目)と仲間たち。

 

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▲裁縫教室を開いていたばあちゃん(下段真ん中)と生徒さんたち。

 

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▲じいちゃん夫妻&ばあちゃんの父・太田代次郎(1878~1963)&伯父と伯母

 

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女満別?飛行機の前で撮影している謎の写真(右から2番目の女性がばあちゃん)

 

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▲写真班だったじいちゃんの太平洋戦争

 

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▲戦後まもなくくらいの北見写真師会の総会(最上段右からふたり目の直下にいる彫りの深い顔の人がたぶんじいちゃん)

 

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▲昭和45(1970)年9月、じいちゃんの葬儀

 

写真によってはさっぱりカラー化されなかったりしますが、上記のようになった場合は感動ものです(#^.^#)

どんな技術なのかはまったくわかりませんが、このロジックを開発してくれた人に感謝!

 

白黒写真が怖い!って言っていた小2息子も、このカラー化で少しは怖くなくなったかな?

謎めくじいちゃんの歴史

家系のインデックス

 

これまでいろいろと情報収集をして、私が生まれる前に亡くなった祖父・菊地幸松(1916~70)の人生を追っていたわけですが、まだまだ以下のようなことまでしかわかりません。

あと知りたいのは・・・、

 ◎小石川で写真を学んでいたらしいが、それがどこかわからない

 ◎写真班として太平洋戦争に従軍。写真班という存在がよくわからない

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▲左からふたり目がじいちゃん

なかなか厳しいかも~(>_<)

 

1916/4/21 0歳 菊地幸太郎・カツ夫妻の長子として、北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第105号地(現:弟子屈町屈斜路エントコマップ)にて出生
1923/4/1 6歳 尾札部尋常小学校入学
1929/3/1 12歳 尾札部尋常小学校を卒業。14回生。担任は川村輝先生
1929/4/1 12歳 札友内尋常小学校高等科へ入学。
1929/?   釧路市にて開催された北海タイムス主催の陸上競技会に出場し、メダルを獲得
1930/? 14歳 父・幸太郎に菊地家放棄宣言。叱られている途中で家を脱出。この年に開業した美留和駅より写真技術を学ぶために東京(小石川)へ旅立つ
    小石川より、弟あてに少年向け雑誌「少年倶楽部」を送付
    弟・幸壽と高幸が火遊びをしていて、屈斜路の菊地家が全焼
1936/4/10 19歳 何かの議員をしていた父・幸太郎が、42歳で逝去
1938/9/14 22歳 日中戦争に伴う臨時招集のため、歩兵第27連隊留守隊に応召。留守第3中隊に編入(歩兵二等兵)
1938/12/24 22歳 召集解除
    肋膜炎を患い、湯治のために弟子屈に来ていた網走郡女満別村本郷在住の2歳年上の女性、太田よしと出会う
1939/11/17 23歳 太田よしと婚姻届出
    斜里郡斜里村字上斜里原野2線91番地(現:清里町上斜里)に転住
1940/4/29 24歳 支那事変従軍により従軍記章簿冊第2401178号として記入のうえ、従軍記章と30円を授与される
1940/5/30 24歳 初子となる長女・由美子誕生
1941/7/19 25歳 充員召集のため歩兵第26連隊に応召、第24歩兵団司令部整備要員として第7歩兵団司令部に充当(二等兵)
1941/8/13 25歳 出征中に第2子となる長男・勝幸誕生
1941/11/1 25歳 一等兵に昇格。満州へ出征
1943/1/17 26歳 召集解除
1943/3/1 26歳 北海道写真師商業組合に50円出資
1944/5/25 28歳 第3子となる二女・陽子誕生
1945/3/25 28歳 臨時招集のため第7師団司令部に応召、独立歩兵第460大隊第1中隊に編入
1945/8/18 29歳 太平洋戦争が終結し、根室にて召集解除
    幸松のみ常呂郡常呂村字常呂256番地へ転住。妻子は妻の実家である女満別村本郷77番地へ
1945/10/6 29歳 妻・よしの実家である女満別本郷の太田家にて、第4子となる二男・晋二誕生。出生届は幸松が常呂郡常呂村役場へ提出
1946/4/28 30歳 二男・晋二が、北見赤十字病院にて夭折
    一家で屈斜路の実家に戻る
1946/? 30歳 弟子屈市街地(現在の平塚写真館の場所)に菊地写真館(光写真館)開業
1947/2/4 30歳 屈斜路にて、第5子となる三男・幸司誕生
1949/6/5 33歳 第6子となる三女・美枝子誕生
1949/6/8 33歳 菊地幸松戸籍編製。本籍地は北海道弟子屈町弟子屈41線西14番地(現:高栄1丁目14番地)
1951/7/24 35歳 第7子となる四男・章誕生
1953/9/30 37歳 第1回弟子屈マチュアカメラ撮影競写会にて弟子屈町より「惠の所」ほか4点が推薦される
1954/12/12 38歳 北海道新聞社主催の弟子屈文化協会創立5周年及び弟子屈高校校舎落成展示会において「摩周湖の静けさ」が推薦される
1956/? 40歳 借金の保証人となったことをきっかけに、菊地写真館(光写真館)が閉業に追い込まれる。清里町へ転住
跡地は従妹・鴨志田美佐子の夫である平塚三郎が写真館として利用
    北見写真師会に在籍
1958/9/27 42歳 弟子屈町高栄1丁目1番1もしくは2号(現:ドコモショップ弟子屈店付近)へ転住。菊地写真館を再び開業
1964/10/15 48歳 長女・由美子が野呂敏明と婚姻
1970/3/11 53歳 標茶町にて、初孫となる二女・陽子の長女・石川直美誕生
1970/6/25 54歳 弟子屈町にて、長女・由美子の長男・野呂敏幸誕生
1970/9/17 54歳 釧路川密漁監視後の懇親会時、脳溢血で倒れる
1970/9/18 54歳 午前4時8分逝去
1970/?   菊地写真館閉業

 

じいちゃんは、酒に弱かったのに好きだったものですから、それが早死にの原因だったのかもしれません。

弟子屈町では2番目に運転免許を取得(札幌まで行って)したらしいです。

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写真屋だけでは厳しかったのか、こんな仕事もしてたみたいですね(前列左からふたり目)。

夏休み最後の日、もうひとつの進展

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きのうは、ひいばあちゃんの藤田家や、菊地家のじいちゃん、ひいじいちゃんについて得た情報をブログに綴らせていただきました。

さらにはなんとステキなことに、この日はもうひとつの成果がありましたので、これについても残しておきます。

 

弟子屈へ赴く道中には、阿寒郡鶴居村があります。

ここは、妻の早世した曾祖母・山田春野(戸籍名はハルノ。1910~39)の父・千葉菊太郎(1889~1969)の弟が入植した地。

 

その千葉幡太郎は、千葉岩太郎(1868~1911)の三男として明治28(1895)年に岩手県九戸郡九戸村長興寺の千葉家で生を受けます。

大正6(1917)年、21歳の時に同郷で同い年の櫻庭ナミと結婚。すぐ村内の小倉地区へ分家。

 

当時は舌辛村と呼ばれていた鶴居に入植した時期は不明ですが、大正11(1922)年に初子が生まれていますので、大正6~11年の間ではないかと。

 

ちなみに曾祖母・春野は、16歳だった大正15(1926)年に曾祖父・山田綱吉(1904~39)と鳥取村にて結婚しています。

幡太郎からすると姪に当たる春野。

九戸から一緒に舌辛に入ったか、それとも叔父を頼って後に追ってきたかまではわかりません。

幡太郎は三男であったことから、実家付近での生活に限界を感じ、北の新天地に希望を持ってやってきたのでしょう。

 

なお、幡太郎の弟に千葉語郎さんという方がいらっしゃるのですが、語郎さんも大正13(1924)年に舌辛村のおそらくは幡太郎の家に移住。その後は札幌に向かい、スーパーを経営していたそうです。

 

その千葉家。鶴居村ではおそらく大きな農家なのですが、いまだにコンタクトは取ったことはありません。なにせ、現在のご当主の住所も名前もわからないものですから。

手掛かりをつかむべく、ある旅行の途中に雨中で墓地を探したことがあるものの、各集落の墓地には見つけることができなかったこともありました。

そんなことを弟子屈へ向かう道中の鶴居を走行中にふと思い出しました。

 

いったい、千葉家のお墓はどこにあるんだろう?

 

そんなことを考えていたらば、鶴居の市街地にお寺の看板が見えました。

 

・・・!?

 

帰りに時間があったら寄ってみるかな・・・。

 

そして、きのう綴ったようなことを経て、釧路への帰路。

 

子どもたちが学校から帰ってくる14時半までには家に居なくてはならないのですが、鶴居に入ったのが13時半。

行ける!ワンチャン行くぜ!と、看板のとおりにお寺を探して走るも迷子になりました。さすがの方向音痴で意気消沈しかけます。

 

やっとのことでお寺に潜入し、墓地を見渡すと、・・・!?

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いちばん近くに千葉家の墓石が2基!

家紋はどちらも同じ。

1000年以上もの間、九戸神社の神職として仕えている九戸村千葉家と同じ「八曜に月」紋です。

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そして、墓碑を確認すると、ついに!

 

幡太郎さん、初めまして。こちらにいらっしゃいましたか・・・(*^-^*)

幡太郎さんは、昭和28(1953)年に満57歳で亡くなっておりました。
また、同い年の奥さんは、その前年に亡くなっています。

鶴居村史を読むと、村の畜産に関して多大な貢献をしていた幡太郎さん。

けっこうお若くして亡くなられたのですね・・・。

 

これで、はっきりと鶴居村に千葉家が根付いているということがわかりました!

この日のもう一つの大きな収穫でした。

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それにしてもデザインが秀逸な、美しい家紋だなぁ。

 

・・・ん?

改めて、かつて九戸の千葉家より頂いた資料を見てみます。

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月の上部がくっついているなぁ。

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こんなのもあるけど・・・、考え過ぎかな・・・?

 

なお、この資料をいただいたのはもう10年以上も前ですが、そのときに本家の方から、岩太郎の祖父・千葉専蔵(1819~82)が、父・千葉義全(千葉家八代目。1787~1874)と、義全の長男である兄の千葉文寮(九代目。1808~58)より分家した際の文書を、新たに打ち込んだものをいただけました。

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専蔵は「隠居家」を名乗り、本家の隣に暮らしていたそうですが、最近になって無人となり、現在は子孫の方によって碑が建てられています。

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こちらの家紋は、鶴居の千葉家と同じですね。ここから分家したので当然なのかな。

令和最初の秋の最後の夏休み

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枯れ葉舞い散る10月30日の水曜日、今年最後の夏休み。

妻は仕事、子どもたちも小学校。

さぁ久しぶりのひとりっきりのお休みだ!何をしようかな~と考えまして、いろいろ考えを巡らせたわけです。

なにせ、ひとりのお休みなんぞ何年ぶりだろうか・・・というプライスレスなシチュエーション。

ただし、子どもたちが帰ってくる14時半くらいには家に居なくてはならない、という条件つきですが。

あんなことやこんなこと、いや、ゴニョゴニョとかムニャムニャとかも・・・

 

さまざまな葛藤の結果、ひいばあちゃん・菊地カツ(1895~1996)の屈斜路にある実家を訪ねてみよう!という健全なイベントに決定しました。

 

そう決めたのが月曜日。さっそく実家を守ってくれている屈斜路の藤田さんに電話だ!

私「もしもし!藤田さんのお宅ですか?」

藤田さんのおばちゃん「誰だい~?」

私「菊地幸松の孫なんですが!」

藤田さんのおばちゃん「ごめんね~、耳遠くて聞こえないから切るわ~」がちゃん。つー、つー。

 

おぉ・・・!電話の意味ないじゃん!

あるいは詐欺電話と思われたかなぁ・・・?

この藤田家ですが、ひいばあちゃんの父・藤田松吉(1853~1937)が福島県東白川郡棚倉町下山本から入植したのがルーツ。

松吉じいさんの長男・松四郎(1900~84)さんのさらに長男(私のじいちゃんのイトコ)が継いでおりましたが、イトコさんが亡くなった現在は、奥様が家を守っておられます。

なんとも電話が用をなさないことから、仕方がないので大叔父に頼ります。

弟子屈の大叔父に電話をすると、「俺がいっしょに行ってやる!」ということで、大叔父と共に屈斜路に行くことになりました。

 

当日は9時半に大叔父の家に行くという約束で釧路を8時10分頃に出発。

道中の鶴居村では、観光名所の鶴見台に集まる丹頂鶴が名物なのですが、居ないな~、まだ時期じゃないのかな~?

そしたら、少し離れたたぶん掘り終わったジャガイモの畑にタンチョウが百羽くらいぎゅうぎゅう詰めになっており、SNS映えどころの騒ぎではありません。

何をついばんでたんだろう?時間あったら写真撮りたかった~(*´Д`)

 

約束の時間よりちょっと前に大叔父の家に到着すると、大叔父は家の前で待っていました。

なんと、病院(すぐ近く)以外で外出するのは1年ぶりくらいだそうで。

すっかり足腰が弱くなり、家の中では車椅子を使っている94歳。元気ではあるものの、最近はすっかり気弱になってしまっています。

大叔父も藤田家に電話をかけてくれたようですが、私と全く同じように切られてしまったようです。もうほんとに電話の役目を果たせていないですな。

道中いろいろと大叔父の話を聞きながら、約20分離れた屈斜路に向かいます。

 

その話の中で、ひいじいちゃん・菊地幸太郎(1893~1936)が弟子屈村の村会議員を務めていたということを初めて知りました。

確かにあとで確認すると、遺影のスーツには議員バッジが付いています。言われないとわかりませんでしたけど。
(※のちに昭和24年の弟子屈町史を確認しましたが、弟子屈村議員には名前無し・・・!?村会議員ではなく、農業委員会とかなのかしら・・・?)

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▲ひいじいちゃん・菊地幸太郎

 

そして、幸太郎の長男である私のじいちゃん・菊地幸松(1916~1970)。

尾札部尋常小学校には高等科がなかったため、卒業後は札友内高等小学校に通っていたらしいのですが、大叔父の記憶だとじいちゃんが14歳の高等小学2年(今の中学2年生)のころ、父・幸太郎に「菊地家の全てを放棄する!」と宣言したらしいのです。

もちろん幸太郎は激怒したらしいのですが、その話の途中で幸松は家を飛び出し、当時開通したばかりの鉄道「美留和駅(昭和5年開業)」から、写真を学ぶために東京小石川へ。

大叔父は当時、小石川の兄・幸松から雑誌「少年倶楽部」が届いて喜んだということを覚えているとのこと。

 

じいちゃんが中2の年は昭和5(1930)年くらい。美留和駅が開業したのも同じ年。そこまでは合致するのですが、小石川に写真学校があった形跡が見つけられないので、ちょっと疑念はあるわけですが・・・。

頭がすんごく良く、釧路で行われた北海タイムス(現在の北海道新聞)の陸上競技大会でメダルを何個も取っていたというじいちゃん。

 

何がそうさせたのかはわかりませんが、ド田舎で農家をするのが嫌だったんでしょうかね・・・。

 

いつのまにやら藤田家につくと、おばちゃんが無事にご在宅。

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▲かつて藤田商店を営んでいた頃の名残

この家には、松吉じいちゃんの写真があると大叔父に聞いていたので、絶対いつかは来ないと!思っていたのです。

実際に耳の遠かったおばちゃんの案内で仏間に行くと、ありました。松吉じいさんの写真が!

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▲ひいひいじいちゃん・藤田松吉

大叔父曰く、ハゲで立派な髭を蓄えている、とても優しいじいさんだったと。

私の見たことがある祖先の写真の中では、最も昔に生まれた人物になります。嘉永6(1853)年生まれですので、実に166年前の生まれ。

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その隣には、19歳下の妻・カメ(1872~1942)の写真。

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大叔父が「おっかないばあちゃんだった」と言っていたのですが、確かに写真も険しい表情で写っております(;'∀')

無事にひいひいじいちゃん、ひいひいばあちゃんの写真をデジタルで取っておくことができました。安堵です。

いろいろと藤田家のお話を伺いましたが、おばちゃんにとって義父にあたる、松吉の長男・松四郎さんは福島時代のことについてはほとんど話さなかったそうで、まったく何もご存じないようでした。

 

ただし、ひとつ判明したのが家紋。

屈斜路にある藤田家のお墓には、「丸に左三階松」紋が刻まれています。

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しかし、松吉じいさんの写真を改めてみてみると、着ている羽織には「丸に下り藤」紋が縫われております!

おそらく白河に居た頃は下り藤だったのでしょう。白河市東千田集落の墓地には、下り藤の藤田家のものが多くありましたし。

北海道に来てからの松紋は松吉じいさんの名前から来てたりするのかも?

 

ひとまずは、北海道に来てから紋を変え、宗派も真言宗から浄土真宗に変えたということがはっきりしました。

 

また、カメばあちゃんの羽織には「丸に蔦」紋が。

おととし白河市東蕪内集落の墓地に行ったとき、カメばあちゃんの実家(こちらも藤田家)の紋を確認したらば「丸に梅鉢」だったのですが・・・、女紋とか・・・?

これについては謎が増えましたね。ただ借りた羽織だったり、顔だけ挿げ替えて体の部分は別人の写真だったりするかもしれませんけど。

 

おばちゃんに「またお邪魔するかもしれないからよろしくね~」と藤田家をあとにし、すぐ近くの屈斜路墓地へ行ってみます。

 

大叔父は車からは降りられませんでしたが、「ずいぶん久しぶりだ~。こんな秋が深い時分に来るのは初めてかもな」と感慨深げ。

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近くで巨大なエゾシカが山境の柵をぶち破ろうと果敢に体当たりしまくっていたのが気になりましたが。

お墓参りをし終わると、ポツリと「これが最後かな」と大叔父がポツリと呟くもんですから、「いやいやとりあえず100歳は目指そうよ!」とか言ってみたりしました。

 

大叔父との別れ際に幸太郎の写真をやると言われ、「いやいや、大事なもんだべさ!」と言い返すと、「家にあったって捨てるだけだもんさ」と言い返されました。大叔父はホントに何でも燃やしてしまうので、燃やされる前に保護しておくことにします。

 

最後にちょっと弟子屈町の図書館に寄り、弟子屈村の村会議員の名簿や、大正2年に屈斜路に入植した人たちの名簿とかがありませんか?と尋ねたところ、残念ながら図書館には該当資料は有りませんでした。

司書さんが、「何かヒントでも見つかったらお知らせしますね~」と、ありがたいことをおっしゃらってくださったので、連絡先を伝えて帰ってきました。

 

図書館では収穫が一つありました。

弟子屈の商工会について書かれた本を読んでいると、「昭和21年~31年菊地写真館」、「昭和35~45年菊地写真館」との記述が!

この本の出版は昭和53年。既にじいちゃんは昭和45年に亡くなり、写真館も潰れていたために写真館の写真は載ってませんでしたが。

戦後に弟子屈の町で写真館を開いたじいちゃんは、借金の保証人になり、清里町や常呂町などに夜逃げしたと聞いていました。

この記述で、昭和31~35年の間がそのダークな時期だと知ることができたのです。

 

令和最初の夏休み最後の日は、こうして終了し、子どもたちが帰ってくる前に家に戻ったのでした。

それにしてもたった半日でしたが、とても充実した濃厚な時間でした。

次、こんな時間が与えられたら何をしようかな~?

 

なお、この日に私の通勤快速マッスィーンであるマツダラピュタSターボ(平成16年式、スズキKeiワークスのマツダ版)を車検に入庫してきました。

昨年から2速や3速でアクセルをベタ踏みすると3000回転くらいのところからガクンガクンと息つく症状が出ていたのですが、どうやらメカさんによると強いブースト圧がかかるとウエストゲートがうまく開閉しないので、治すためにはタービンまるまる交換しなくてはならないようで・・・(/・ω・)/

車検自体はブレーキキャリパーの交換やらラジエターキャップの交換やらで10万弱くらいなのですが、タービンの交換となるとプラス10万コース!

・・・ターボは生きているので、しばらくは(もしくは廃車まで)ベタ踏み禁止で乗ることを余儀なくされました(ノД`)・゜・。

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妻の祖母の実家・柿崎家の年表

家系のインデックス

 

前々回に綴った柿崎家。年表に起こしてみまして、せっかくなので載っけてみます。

 

赤字が本家・柿崎五三郎家、黒字が祖母の実家・権兵衛家、青字が権兵衛が養子として迎えた五三郎の長男・朝次郎家の事柄となっています。

 

和暦 西暦 出来事
慶長5 1600 越後国柏崎の武将・柿崎景作、慶長出羽合戦において上杉景勝軍より出陣し、戦死。遺児となった兄弟のうち、弟が山形県最上郡南山村塩集落に落ち延び、塩柿崎家の祖となる(諸説のうちのひとつ)
文政9 1826 1月11日、南山村・(便宜上初代)柿崎五三郎の長男・五三郎誕生
弘化3 1846 8月23日、初代五三郎の三男(後の権兵衛)誕生
不詳 五三郎が南山村・三原太兵エの次女・ウノと婚姻
嘉永 1848 9月9日、五三郎(22)とウノ(18)の長女・ハツ誕生
安政 1855 12月13日、五三郎(29)とウノの長男・朝次郎誕生
不詳 ハツが南山村・柿崎兵三郎の次男・栄助を婿養子に迎える
慶応元 1865 5月20日、栄助(24)とハツ(16)の長男・浅吉が誕生
不詳 五三郎の三男が南山92・柿崎権兵エの養子となり、権兵衛を襲名。同村・柿崎兵三郎の二女・マサと婚姻
慶應 1866 8月26日、権兵衛(20)とマサ(18)の長女・ケサ誕生
明治2 1869 2月12日、権兵衛(22)とマサ(20)の二女・キン誕生
明治5 1872 3月21日、権兵衛(25)とマサ(23)の三女・サク誕生
明治7 1874 10月22日、権兵衛(28)とマサ(26)の四女・フテ誕生
明治11 1878 9月9日、権兵衛(32)とマサ(30)の長男・運次郎誕生
明治14 1881 12月5日、権兵衛(35)とマサ(33)の五女・ヤス誕生
明治15 1882 権兵衛(36)が長女・ケサ(16)の婿養子として、兄・五三郎(56)の長男・朝次郎(26)を迎える
9月6日、朝次郎(26)とケサ(16)の長男・兵蔵誕生
明治16 1883 6月1日、浅吉(18)が南山村士族・秋江傳の三女・テツ(15)と婚姻
11月5日、権兵衛(37)とマサ(35)の次男・円蔵誕生
明治17 1884 4月22日、浅吉(18)とテツ(16)の長男・金次郎誕生
明治18 1885 1月30日、朝次郎(28)とケサ(18)の長女・サノ誕生
明治20 1887 11月24日、朝次郎(31)とケサ(21)の次男・円治誕生
明治21 1888 8月24日、権兵衛(42)とマサ(40)の六女・トミヨ誕生
明治24 1891 4月20日、権兵衛(45)、幅92番地の宅地127坪を、柿崎弥左衛門へ売り渡す
明治25 1892 7月3日、権兵衛(46)とマサ(44)の七女・トメノ誕生
明治26 1893 4月11日、サク(21)が南山・早坂熊蔵と婚姻
4月15日、円蔵(9)が夭折
明治27 1893 1月21日、朝次郎(37)とケサ(26)の三男・金蔵誕生
明治30 1897 5月12日、朝次郎(41)とケサ(30)の四男・庄吉誕生
12月31日、フテ(23)が冨田・佐藤長吉と婚姻
明治31 1898 3月24日、権兵衛(50)が南山92から89へ転籍
明治32 1899 1月5日、朝次郎(43)とケサ(32)の二女・トモヱ誕生
明治34 1901 2月4日、朝次郎(45)とケサ(34)の五男・林蔵誕生
明治35 1902 1月20日、運次郎(23)が木遠田・森栄助の三女・タケノ(18)と婚姻
1月20日、サノ(16)が南山62-5・柿崎三蔵と婚姻
3月12日、運次郎(23)とタケノ(18)の長男・作次郎誕生
明治36 1903 4月7日、トモヱ(4)が夭折
5月24日、朝次郎(47)とケサ(36)の六男・運藏誕生
7月1日、ヤス(21)が南山・柿崎運作と婚姻
明治37 1904 11月20日、運次郎(26)とタケノ(21)の長女・サクヱ誕生
明治38 1905 11月6日、朝次郎(52)とケサ(41)の七男・仁吉誕生
明治39 1906 11月10日、運次郎(28)とタケノ(23)の二女・クニヱ誕生
不詳 金次郎と清水・國分金五郎の三女・ヨシヱが婚姻
明治41 1908 10月16日、朝次郎(52)一家が南山409へ分家
明治42 1909 4月5日、運次郎(30)とタケノ(25)の三女・サダエ誕生
明治43 1910 11月11日、浅吉(45)が逝去、金次郎(26)が家督相続
明治44 1911 3月12日、運次郎(32)とタケノ(27)の四女・キクエ誕生
7月6日、五三郎(85)が逝去
大正2 1913 11月11日、トメノ(21)が南山・柿崎與作と婚姻
大正3 1914 9月11日、運次郎(36)とタケノ(31)の五女・ヒテノ誕生
大正4 1915 8月2日、大蔵村役場が全焼。戸籍再製の際、姓が柿崎→柿﨑へと変化する
大正6 1917 3月24日、権兵衛(70)が隠居
10月22日、運次郎(39)とタケノ(34)の次男・作治誕生
大正8 1919 1月29日、南山89番地にて作次郎(16)と南山・中島元治の長女・モトエとの間にウメ誕生も、モトエは逝去
2月2日、ウメ(0)が夭折
大正9 1920 7月24日、作次郎(18)が平林・髙山市助の三女・サクヱ(18)と婚姻
大正10 1921 1月4日、権兵衛(74)、幅89番地の畑を運次郎(42)へ譲渡
3月16日、作次郎(19)とサクヱ(19)の長女・チヨ誕生
大正14 1925 1月6日、サクヱ(20)が現:新庄市松本の大場源米と婚姻
8月27日、作次郎(23)とサクヱ(23)の長男・了一誕生
大正15 1926 3月27日、クニヱ(19)が合海・小関一雄と婚姻
昭和2 1927 3月29日、作次郎(24)とサクヱ(24)の次男・惣太郎誕生
昭和4 1929 9月21日、権兵衛(83)が逝去
11月3日、作次郎(27)とサクヱ(27)の二女・ツエ子誕生
昭和5 1930 9月1日、サダエ(21)が東京深川・荒井藤松と婚姻
昭和6 1931 12月17日、運次郎(53)、幅89番地を仙台市の伊澤氏に売却
11月10日、釧路市にて作次郎(31)とサクヱ(31)の三男・榮誕生
昭和8 1933 2月10日、釧路市にて、ツエ子(3)夭折
昭和9 1934 1月16日、マサ(85)が逝去
昭和11 1936 9月25日、キクエ(25)が赤松・八鍬新吉と婚姻
昭和14 1939 6月28日、ヒテノ(24)が南山・門脇定治と婚姻
8月15日、チヨ(18)が釧路市にて森井勝雄(26)と婚姻
昭和15 1940 9月10日、運次郎(62)一家が北海道釧路市へ転籍
昭和16 1941 5月5日、タケノ(57)が釧路市にて逝去
昭和18 1943 7月24日、運次郎(64)が釧路市にて逝去
昭和19 1944 11月10日、キン(75)が南山・早坂家にて逝去

 

これによると、昭和4(1929)年に権兵衛が亡くなり、その同年にツエ子さんが生まれた際はまだ南山に居たようですが、昭和6(1931)年に南山の土地を売却。昭和8(1933)年にツエ子さんが釧路市において夭折しています。

すると運次郎が釧路市に移住した時期は、権兵衛が亡くなって2年ほど経ち、昭和6年に土地を手放したあたりかしら・・・?

この時点で権兵衛家は、南山から消滅したということに。

それから90年近く経っているわけですから、権兵衛家のことを知る方がいらっしゃらないのもうなずけますね。

運次郎の子どもたちは大蔵村に残ったり、釧路に来たりとバラバラのようです。

転籍はやはり遅くなる傾向にあるようですね。

 

権兵衛さんのお墓はいったいどこに・・・?

森の家紋はやっぱり鶴の丸!

家系のインデックス

 

10月12日、台風19号が南海に及び、小雨がそぼ降る山形・大蔵村

「日本で最も美しい村連合」に加盟している村といえども、こんなに暗雲がたれこめている雰囲気では、残念ながら美しさを堪能することができませんね。

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前日につたや肘折ホテルさんで、郷土料理の芋煮や米沢牛を堪能させていただいた菊地家一行。

 

「金兵衛」を屋号とするホテルの若旦那・柿﨑雄一氏の思し召しにより、義母の母の父の母・柿﨑タケノ(1883~1941)の実家である、南山字木遠田の森家へ伺うことが叶いました。

 

この森家。10年以上前にお便りをさせていただき、奥様よりご返事をいただいたお宅です。

そのご返事には、

・ご当主が若くして亡くなり、奥様と息子さん夫婦+お孫さんで暮らされていること

・住居はタケノの父・森栄助(1853~1928)本人が建てたらしく、大工に弟子入りして一人前になってからの最初で最後の仕事(!)

・家紋は鶴の丸、宗派は曹洞宗

・亡くなった当主は、祖先の名であり、屋号でもある「長右衛門」という名

・それ以上詳しいことはわからない

 

・・・と、このようなことまではご教示いただいておりました。

 

今回、その奥様と10年越しの初対面と相成ったわけです!しかも朝の8時半というこっぱやい時間でお会いいただけるということで、キツキツスケジューラーにとっては非常にありがたいことです。

 

まずお宅に到着して驚いたのが、だだっ広い土間。

北海道では土間というのは一般的じゃないですから、子どもたちも「なんじゃあこりゃあ!」と、ジーパン刑事的なリアクションですよ。

そして150年の歴史を感じる風合いの広い居間、仏間!

ついに妻のひいひいひいじいちゃんが建てた家を拝むことができました!

 

大蔵村といえば本州屈指の豪雪地帯。

その雪に150年も耐えてきたなんて、なんて頑丈に造られているのでしょう。

栄助さん、この一軒だけで大工を辞めてしまったなんてもったいない!

 

なお、森さんは薪ストーブをもう焚いてらっしゃいました。ちなみに私は半袖Tシャツです。

 

いろいろとお話を聞いていくうえで、大きな情報を得ることはできませんでしたが、備忘録的に箇条書きをしてみます。

 

・森家は(お寺の)過去帳を紐解くと、300年以上前から木遠田に住んでいたようだ

・森という家は南山にもう一軒あるが、どうやら親戚ではないらしい(村内の5%以上が柿崎姓なのと対照的に、村には森姓は4~5軒しかない)

・息子さんはもがみ農協、一番下のお孫さんは村役場に勤めている

・栄助の妻・マツ(1854~1925)は南山の小関家から嫁いできたが、この小関家についてはどこだかわからない。ただ、近くに小関九郎右衛門を祖とする小関という家がある

カメムシが大量発生し、家の中も外もカメムシだらけ。この地方では「ヘクサンボ」というらしい。捕まえてストーブにくべていた

 

・・・といったところでしょうか。最後のは私的に衝撃を受けた事柄ですが。

 

森という姓は大蔵村が属していた新庄藩の資料にも散見されまして、山形県内では最上地方に多くみられる姓のようです。

電話帳サイトで2007年の森家分布を数えてみたらば、635軒中407軒と、約6割強が最上地方に集中しています。

大蔵村からすぐ北の新庄市に最も多い107軒、隣の舟形町にも39軒が密集していますが、大蔵村にはたった4軒・・・

果たしてこれが何を意味しているのか!!?はたまたたまたまなのか!?どうなんでしょうね~(;'∀')

 

森家は前述しましたが、屋号は長右衛門。

大蔵村史によると、明治9(1876)年の時点で木遠田の土地を所有していたのは、

・森長右衛門
・小関九郎右衛門
・柿崎権兵衛

この3名であったようです。柿崎権兵衛についてはきのうのブログに綴りましたが、タケノの義父(夫・運次郎の父)にあたりますし、小関九郎右衛門という名を発見して、これが栄助の妻・マツの実家じゃないかしら!?近いところに住んでるし!と疑ったりしていたのですが、森さんの奥様はご存じではないようでした。

 

いろいろと興味深いお話をさせていただき、大蔵村名産のトマトやドーナッツなどでおもてなしを受けたりと、非常に密度の濃いわずか約50分の滞在。

もっともっとお話を伺いたかったのですが、私がギッチギチのスケジュールを立てた張本人なので、仕方なく後ろ髪を引っ張られながらも次のスケジュールへと転換しなくてはなりませぬ。

またぜひともお目にかかりたい、暖かいご家庭でございました。

 

その後、雨が本降りとなった塩集落の墓地にて、森家のお墓と対面が叶ったのです。

10年前に教わった家紋、鶴の丸。

ひとくちに言っても、家紋にはいろいろなバリエーションがありますから、いったいどんな鶴の丸かと思って10年来過ごしてきました。

そしたらば、なかなかに朽ちていますが、これはまごうことなきオーソドックスな鶴の丸。

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これは、織田信長の家臣だった森可成と同じ紋。

可成の一族は、源義家の7男・義隆が森姓を名乗って以来の流れにあります。たぶん。

この森氏は美濃に始まり、播磨や備中のあたりに所領があったようなのですが、山形方面どころか東北の地名はさっぱり出てきません。

 

いったい、この森家はどのようないきさつでここ南山に土着したのか。

まずは新庄藩の資料を漁ってみるところからはじめようかしら・・・。

 

やっぱりそう簡単には歩をすすめることができないものです。

そう思っていても、釧路にいたんじゃあなかなかそんな資料にお目にかかることなんぞ叶いませんぜ!

せいぜい国会図書館のデジタルライブラリーが精いっぱいですが、あんまり新庄藩でヒットしない・・・(*´з`)

 

いや!少しでも望みがあるのであれば・・・ぼちぼちがんばろう。

柿崎家の系図を改めてみる

家系のインデックス

 

先日訪れた山形県最上郡大蔵村

 

明治22(1889)年に清水町村、合海村、赤松村、南山村という4つの自然村が合併して現行の行政村となり、そのまま今に至るまで130年の間、まったく村域は変わっていません。

 

中心部は、かつて清水城があり、最上川流域の中心都市でもあった清水。

村名は、かつて清水を治めていた清水義親の役職「大蔵大輔(おおくらたいふ)」から取り、「大蔵村」となったそうです。

 

そんな大蔵村中心部より南部にある集落・塩。

住宅が密集していた塩は、かつての南山村において中心部落でした。

塩というのは地名ではなく、集落・地区名なのですが、「かぶれ」や「あせも」によく効くとされた塩湯が自噴していたことが由来のようです。

代々南山村庄屋を務めていた塩の柿崎弥左衛門家に伝わる古文書には「塩中沢村」とも記載があり、あるいはこれが旧名だったのかもしれません。

 

南山村はこの塩地区と、西にある沼の台地区、そして肘折温泉を擁する南部の肘折地区の三つの地区で形成されていたようです。

伝承によると、前述の柿崎家。

最上地方に来る以前は、越後の柏崎に住んでいたと伝わっているようです。

この近辺は上杉謙信が領していた地域。柿﨑景家という武将もおりますし、近くの上越市には柿崎という地名も残っています。

 

大蔵村史を紐解くと、かつて柿崎景作という武将がいて、1600年に起こった慶長出羽合戦(北の関ヶ原といわれているらしい)で、敗北した上杉側についていた景作は討ち死に。遺された二人の男子のうち、兄は平鹿(現在の秋田県横手市平鹿)に、弟は塩集落に落ち延びたとのことで、その弟の末裔が塩の柿崎一族だということですが、もちろん諸説ありだそうで。

 

最上氏に仕えた柿崎景一が、軍功があり、最上義昭から「義」の字をもらって柿崎義一としたのが祖という説も。

 

そこらへんについてははっきりわかりませんでしたので、おいおい調べていくこととします。

 

話は戻りまして、その塩集落で庄屋を勤めていた柿崎家と同じ姓である家に産まれたのが、妻の祖母である旧姓・柿﨑チヨ(1921~81)。

その父・柿﨑作次郎(1902~66)、さらに父・柿﨑運次郎(1878~1966)とともに、昭和10年代に釧路市へ移住しています。

そして運次郎の父は柿﨑権兵衛(1846~1929)。

権兵衛(以下、権兵衛②)は柿崎五三郎(以下、五三郎①)の三男として生まれ、柿﨑権兵エ(以下、権兵エ①)の養子となっています。

権兵エ①家には養子に迎えた権兵衛②の他には戸籍上では誰も確認できませんでしたので、五三郎①家から養子をとったのは、家の存続のためだったのでしょう。

そしておそらくは養子に入ってから権兵衛②を襲名したと思われます。

 

権兵衛②は、おそらくは同じ集落の柿﨑兵三郎の二女・マサと結婚。

慶応2(1867)年に長子となるケサを授かって以来、4人続けて女子が生まれ、元気に成人。

そしてついに5人目の子どもとして、明治11(1877)年に長男・運次郎を授かります。
時に権兵衛②32歳。さぞやドンチャンお祭り騒ぎとなったでしょう。

 

その5年後にも円蔵という男子を授かりましたが、夭折。

最終的に1男7女となった権兵衛②家。実質、運次郎しか跡取りがおりませんでした。

 

当時、運次郎がどういうつもりでいたかはわかりませんが、権兵衛②は運次郎の11歳上の姉・ケサに婿養子を取ります。

柿崎朝次郎。柿崎五三郎の長男でした。

 

この朝次郎の父である五三郎は、おそらくは五三郎①の三男である権兵衛②の兄貴と思われますので、以下五三郎②とします。

 

五三郎①~生年不明

五三郎①の長男・五三郎②~文政9(1826)年生まれ、三男・権兵衛②~弘化3(1846)年生まれの20歳違い。

五三郎②と権兵衛②の年齢差を考えると、あるいは権兵衛②は五三郎②の子ども・・・?

という考えもよぎりますが、権兵衛②は「五三郎の三男」と記されている以上、たとえば五三郎②が20歳の時点で三男が生まれるのは考えにくいということで、20歳違いの兄弟の線で考えます。

 

・・・ということで、権兵衛②は、長女・ケサに甥っ子、しかも本家の長男の長男を婿養子に迎えたということになります。

そう考えると、この権兵衛家はかなりのポテンシャルを秘めていた家なのかもしれませんね。

 

なお、朝次郎は安政2(1855)年の生まれということで、義父となった権兵衛②とはわずか9歳しか違いませんでした。

朝次郎とケサは、夭折した一人の女児を除いて、7男1女をもうけます。奇しくも義父・権兵衛とは真逆の男女構成。

 

男児に多く恵まれた朝次郎夫妻でしたが、なぜか明治41(1908)年に南山409番地へ分家してしまいます。時に朝次郎53歳。義父の権兵衛②は62歳のときでした。

Googleマップなどでは確認できないのですが、409番地は肘折地区かも。

 

なぜ分家してしまったかは推し量れませんが、おそらく本来の嗣子である運次郎が明治35(1902)年に結婚し、同年に作次郎が生まれたのが無関係ではないのかもしれません。

 

その後、昭和4(1929)年に権兵衛②が逝去。

今回お世話になった柿崎さんは、五三郎②が長女・ハツ(1848~1916)に婿養子として柿崎兵三郎の次男・柿崎榮助(権兵衛②の妻・マサの兄)を迎えて存続した家。まさに本家です。

 

坂の上付近にお宅がある柿崎さんによると、かつて坂の麓あたりに権兵衛家があったらしいのですが、権兵衛の逝去後に運次郎以下が釧路へ渡ってしまったために、今は何もなくなっているようです。

女性たちはおのおの結婚して血脈は保たれているものの、権兵衛の家は絶え、朝次郎の家も不明ということでした。

 

とにかく柿崎さんだらけのこの塩集落。小字でいうと「幅」という地になりますが、今回お世話になった柿崎さんのおばあちゃんも幅の柿崎丑蔵さんの娘さんだそうです。

これで少なくとも五三郎家、権兵衛家、兵三郎家、丑蔵家、そして庄屋の弥左衛門家、その本家の弥兵衛家。まだ私が知らない柿崎さんもありそうですので、まさに柿崎地獄。

 

なお、お墓には墓碑的なものが一切なかったというまさかの展開だったわけですが、家紋はたぶんすべての家で「丸に隅立て四つ目結」だったかと思います。

きっと元は一族であることに、おおよそ間違いはないかと考えられます。
ここまでが今回わかったところ。

 

そしてもう一つ気になったことがありまして・・・

柿崎のおばあちゃんがお嫁に来た時に預けられたという明治39(1906)年の戸籍謄本。

その9年後の大正4(1915)年に大蔵村役場が火災で焼けて、戸籍を作り直した際に失われた情報が多く記されていました。

きっと復元しきれなかったんでしょうね。

その謄本には「柿㟢」と記されていました。今でいう「柿崎」です。

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しかし、大正4年に復旧された謄本には、「柿﨑」と記されています。

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いったいどちらが正なのか。

柿崎さんはわからないそうでしたが、これは案外大きなファクターではないかと睨んでいます。

いまは柿﨑として通しているが、本来は柿崎。

ちなみにお墓には「柿崎」と刻まれていました。

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やはり「柿崎」の線が濃いのかしら・・・?

 

肘折温泉のカキザキさんは「柿﨑」らしいので、もしかすると差別化が図られていたりするのかも・・・?

あぁ・・・、スッキリ解決したいと思って現地へ行くのに、かえってモヤモヤが増えてしまう悪循環。

ああしとけばよかったとか、こんなこと聞いておけばよかったとか、そんなことを考えて気を紛らわせている秋の夜長。

 

今回のことをうけ、以下のようだった系図を、

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このように改めました。はたして正解しているのか!?

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