名前の読み方
以前、福島県白河市に住んでいた祖先の『角田』という姓が「かくた」なのか「つのだ」なのか、はたまた「すみだ」や「かどた」とも読める・・・といったお話を綴ったことがありました。
電話帳で「つのだ」だということが判明したのですが、こうしたことは姓に限ったことではありません。
※本日、F1チームのアルファタウリ・ホンダから、7年ぶりの日本人ドライバーとして角田裕毅(つのだ・ゆうき)のデビューが発表されました!!応援しないと!!
母方の高祖父である及川清之進(1871~1935)ですが、わたしは最初『きよのしん』だと思っておりました。
しかし、当時まだ健在だった祖母から、「おじいさんは『せいのしん』っていうんだよ」と教えてもらったことがあります。
下の名前は、現在も残っている「姓」より、当時を知る人が居ないと確かめようが無いなって思ったものです。
このときはばあちゃんが教えてくれなかったら、ずっと『きよのしん』でいくところでした。
あらためてそう思ったのが、先日亡くなった母方のじいちゃん・平野政次(1922~2018)。
ずっと名前は『まさじ』だと聞いていたのですが、お通夜の時に、司会の方が「ひらの『まさつぐ』さま」と言っているのです。
まさつぐ!?
どってんこきました!
じいちゃんは『まさじ』の名が気に入っていなかったらしく、『せいじ』と名乗っていたという話はなんとなく聞いたことがありました。
また、平野家(というよりも高祖父の実家である新倉家)では、男子に「治」もしくは「次」という字を付けるという流れもありました。
どちらも「じ」と読みますから、『まさじ』、『せいじ』ならばどちらもあるかな、と。
また、仕事とプライベートで使い分けていたとの話もありました。むむぅ。
また、かつてじいちゃんからすると義父にあたる、ばあちゃんの父親・皆川征露久(せいろく、1905~1954。日露戦争に勝利した月に産まれたから、この名になったそう)から昭和28年に来たハガキを見せてもらったことがあります。
そこには「平野政治様」との記載が(落書きがいっぱいあるけど)。
「治」!これはまさに『○○じ』と呼ばれていたことに他なりません。
でも、伯父も叔父も「どうやら『まさつぐ』であってるらしいんだ・・・」と、なんだか歯切れの悪い回答。
役場的には『まさつぐ』となっていたのかもしれません。じいちゃんが届出とかして。
この経緯は、残しておかなくてはならない事項かなと思っています。じいちゃん的には余計なことだとおもいますけど。
でもじいちゃんはなんでそんなに『まさじ』が嫌だったの??
そんなこともあり、名前の読みはホントにわからないなぁと思いながら直系の祖先を見てみると、
福島県白河市の藤田定蔵(1840~1903)は『さだぞう』とも『ていぞう』とも『じょうぞう(は、あまりないかな?)』とも読めます。
その父である藤田定左エ門は『じょうざえもん』とも『さだざえもん』とも。
茨城県つくば市の斉藤市郎は『しろう』なのか『いちろう』なのか。
東京田無の下田忠蔵は『ただぞう』、『ちゅうぞう』。
戦国時代のころを過ごしたと思われる岩手県九戸神社の宮司、妻からすると15代前の祖先である千葉真長は『さねなが』、『まさなが』。
※余談ですが、九戸村出身の元ヤクルトスワローズ、風張蓮 - Wikipedia(かざはり・れん)投手が、私の応援する横浜DeNAベイスターズに入団決定!㊗!
ちょっと気になる直系を見ただけでも、これだけいますね。
地域性などもあるかもしれませんし、真実はわからないでしょうが、最初に挙げているのが私がそうじゃないかなと思っている名です。
また、ばあちゃんは「平野ゆき」ですが、姉妹からは『雪子』と呼ばれていたようで、その長姉の「セツ」さんは『節子』だったり、おしりに「子」を付けるのが流行っていたこともあるらしいですね。
あと、茨城県大子町生まれの高祖母は戸籍上は『スエ』という名ですが、茨城の訛りなのか、みんなからは『スイ』と呼ばれていたようです。お墓にも『菊地スイ』と刻まれています。
いまの子どもたちは読みかたが昔の比じゃなくバリエーションがありますから、しっかりと読みも記録しておかないと、のちのち子孫たちが困っちゃうのでしょうね。
ご隠居さん
昭和22(1947)年の日本国憲法発布とともに、戸主制が廃止され、ともに隠居制度も廃止されました。
隠居をするには、満60歳以上になることと、完全の能力を有する家督相続人が相続を承認すること、という条件がありました。
ただし、上記条件を満たさずとも、戸主が病気等で家政を振るうことができない場合や、本家を家督相続するために現在の家の戸主を務めることができなくなる場合、そして女性の戸主だった場合などに特別に隠居が許されたようです。
さて、我が家はどうだったのでしょう。
まず、当菊地家ですが、明治19年式戸籍時点では福島県東白川郡東舘村、菊地儀平(1844~97)が戸主となっています。儀平は当時42歳です。
すでに義父の菊地儀右衛門(1810~90)は隠居していますが、明治19(1886)年時点で76歳。いつご隠居さんとなったのかは読み取ることはできません。
明治30(1897)年に儀平が53歳で世を去ると、長男の初太郎(1870~1942)が27歳で家督相続。
そして大正元(1912)年に、初太郎の弟で、私の高祖父である幸吉(1874~1959)が38歳で2軒隣に分家し、新たな戸主となります。
初太郎家は、北海道屈斜路→美幌に移住したのちの昭和17(1942)年5月4日に72歳だった初太郎が隠居届出。大子町下野宮の大森家より迎えた婿養子・菊地酉松(1898~1964)が44歳で家督を相続します。
初太郎は、そのわずか4カ月後に逝去。家督を譲って安心したのか、それとももともと病気で隠居したのか・・・そういったことは伝わっておりませんが、ギリギリで相続を終えていたため、初太郎の逝去でどたばたしなくても済んだのではないかと思われます。
幸吉はといえば、屈斜路に渡ったのちもそのまま戸主であり続け、昭和32年に現行の戸籍制度となるまで不変でした。
いっぽう、母方の平野家。
小榑村は現在の練馬区西大泉にあたります。
そして、残念なことに練馬区は除籍後80年廃棄を実施していたことから、明治19年式戸籍を取得することは叶いませんでした。
当時の戸主は、平野丑松(1827~1903)。明治19年式戸籍編製時点では59歳。まだ通常の隠居が法的に出来ない年齢です。
・・・だと思ったのですが、丑松の長女であり、私の高祖母でもある平野いち(1863~1953)が、20歳だった明治16(1883)年に田無町の新倉家よりお婿さんとして迎えた平野儀三郎(1866~1939)が、その翌年の明治17(1884)年に丑松の隠居により家督相続しております。
実に当時、丑松56歳、儀三郎は若干17歳。
60歳に達していないことから、通常の隠居ではなかったのでしょうか?
あるいは、年齢条件は努力義務的な感じで黙認されていたとか・・・?
その後、儀三郎は北海道の利別村(現在の今金町)→止別村(現在の小清水町)→樺太恵須取町と転籍。
71歳まで戸主のままでいたところ、私の曾祖父である長男の留五郎(1884~1937)が樺太で熊に殺られるという悲劇が起きてしまいました。
その2年後に、儀三郎は遠い樺太で波乱の人生を終えました。満72歳。急逝だったと聞きます。
そこできっと、一家は大慌てしたのではないでしょうか。
なにせ、跡継ぎがすでに世を去っており、家督を継げるといえば留五郎の次男、私の祖父である若干17歳の平野政次(1922~2018)だったのです。
奇しくも儀三郎が跡継ぎとなった年齢と同齢でした。
政次が戸主のまま小清水町へ引き揚げ、戸籍的には昭和32年の改製を迎えました。
じいちゃんは激動の樺太時代やシベリア抑留を経て、小清水町平野家の礎を築き、おととし亡くなるまで80年もの永きにわたり平野家当主であり続けたまさにレジェンドです。
ひとまず直系2家について綴ってみましたが、私の直系傍系で隠居を行っている祖先をまとめてみました。
生 | 退隠 | 齢 | 後継 | 齢 | |||
小野寺辰之助 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1808 | 1881 | 72 | 長男・亀吉 | 35 | |
湯谷德平 | 鳥取県法美郡荒舟村 | 1832 | 1883 | 51 | 長男・善太郎 | 21 | |
飯島太十郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1828 | 1883 | 54 | 長男・龍介 | 30 | |
山田善四郎 | 青森県下北郡関根村 | 1824 | 1884 | 59 | 長男・留藏 | 15 | |
石井庄衛門 | 茨城県久慈郡生瀬村 | 1837 | 1884 | 46 | 長男・酉次郎 | 22 | ※1度目 |
太田勇一郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1825 | 1884 | 58 | 長男・安造 | 31 | |
平野丑松 | 東京都北豊島郡小榑村 | 1827 | 1884 | 57 | 婿養子・儀三郎 | 17 | ※1度目 |
岩渕徳松 | 岩手県九戸郡戸田村 | 1827 | 1891 | 64 | 長男・石松 | 38 | |
佐藤佐平 | 宮城県刈田郡小村崎村 | 1826 | 1892 | 66 | 長男・佐助 | 46 | |
近藤清兵衛 | 福島県東白川郡豊里村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・兵右エ門 | 41 | |
植田庄三郎 | 茨城県久慈郡袋田村 | 1833 | 1896 | 62 | 長男・金太郎 | 31 | |
大久保末五郎 | 宮城県名取郡千貫村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・仁助 | 48 | |
藤田定藏 | 福島県西白河郡釜子村 | 1840 | 1897 | 57 | 婿養子・忠吉 | 35 | |
石井庄衛門 | 福島県東白川郡豊里村 | 1837 | 1898 | 61 | 次男・鐡之助 | 30 | ※2度目 |
平野丑松 | 東京都北豊島郡大泉村 | 1827 | 1901 | 73 | 婿養子・音五郎 | 38 | ※2度目 |
菊池健三 | 福島県東白川郡関岡村 | 1841 | 1902 | 60 | 長男・髙良 | 33 | |
小野寺亀吉 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1845 | 1906 | 60 | 長男・熊藏 | 41 | |
杉山治郎左衛門 | 青森県下北郡田名部村 | 1843 | 1911 | 68 | 長男・石松 | 39 | |
小出石五郎 | 新潟県西蒲原郡味方村 | 1847 | 1915 | 58 | 婿養子・福松 | 44 | |
柿﨑権兵衛 | 山形県最上郡大蔵村 | 1846 | 1917 | 71 | 長男・運次郎 | 38 | |
飯島龍介 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1853 | 1917 | 64 | 長男・才次郎 | 39 | |
岩渕石松 | 北海道空知郡砂川町 | 1853 | 1918 | 65 | 次男・馬吉 | 33 | |
森井半左エ門 | 北海道茅部郡落部村 | 1853 | 1918 | 64 | 長男・半次郎 | 36 | |
菊地初太郎 | 北海道網走郡美幌町 | 1970 | 1942 | 71 | 婿養子・酉松 | 43 | |
奥田亀之進 | 宮城県桃生郡矢本町 | 1879 | 1946 | 67 | 次男・博 | 45 |
もっとも若く隠居しているのは、高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)。46歳で22歳の長男・酉次郎に家督相続しています。
その後、庄衛門は酉次郎家より分家し、61歳で二度目の隠居。二男の鐡之助に家督を譲っています。
もっとも高齢で隠居しているのは、前述の平野丑松。儀三郎に家督を譲ったのち、上土支田村の加藤家より迎えた二女の婿養子である平野音五郎(1862~1931)に73歳で家督を譲っています。
なお、私の言う東京の平野本家は、この家の子孫の方です。
一覧を見てみると、60歳に満たない隠居も散見されますね。
この25件を考察すると、隠居の平均年齢は62.32歳。相続側の平均年齢は35歳となっています。
話はまったく変わりますが、この少ない例にもかかわらず、長男なのに酉次郎、才次郎、半次郎、運次郎という名があります。
この名前に入っている数字には、どういった意味が込められているのでしょうね・・・?
上に夭折した兄がいたとか、上に姉が居るとかかもしれませんが、戸籍で確認できる範囲では、全員長子でした。
なんだかまた中途半端な調査ですが、隠居にもいろいろあって、家の都合やいさかいとかもあったりするのでしょうね。
あと、明治期は戸主や60歳以上の者の嗣子・養子、そして北海道の人は徴兵されなかったということもあったそうなので(いろいろ制度が変わっているので不確か)、そういったことも隠居に関わってきたのかもしれません。
私たちの時代は、生涯現役を貫いていかないと隠居どころか普通の生活すらあやういですけども(-_-;)
諸説ありのパターン
高祖母の母(父父母母母)である藤田タツ(1846~1917)。
もともとは福島県西白河郡蕪内村(釜子村→東村の大字となって、現在は白河市東蕪内)、岡部弥七の二女として生を受けています。
この岡部家については以前も記したことがあるのですが、東村史によると・・・
「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」
そしてさらに調べてみると、静岡県浜松市中区に「伊場」という地がありまして、その地についてWikipediaの記述を見てみます。
「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」
さらに伊場の賀茂神社の由来を引用させていただくと・・・、
「創建は鎌倉時代、文永の頃である。当時上賀茂神社の神官だった賀茂諸重の師童の娘、筑前局が朝廷の女官を退官後に遠江国浜松庄岡部郷を封地として与えられ、その封地に一社を構えたのがこの伊場の賀茂神社であった。その後、築前局の子孫が姓を岡部と改め、当主が代々賀茂神社の神官をつとめてきた。」
もうすこしいろいろとネットで調べてみると、山城国相楽郡加茂町(現在の京都府木津川市加茂)の岡田鴨神社(賀茂氏の祖である建角身命を祀る)の荘園で、遠江国敷知郡岡部郷と呼ばれていました。
・・・となるとわかり易くなるのかな?
その岡部郷を発祥とする岡部氏ですが、太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によると藤原南家・二階堂爲憲(藤原爲憲、Wikiによると工藤為憲?)を祖としているようです。
爲憲から、時理―時信(駿河守)―維永―維綱(船越四郎)―清綱と繋がり、清綱が初めて岡部郷に居住して、岡部權守と名乗ったそう(Wikiによると「入江清綱」となっていて、その子が岡部泰綱)。
この後裔で、伊場に賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家の分家筋の農家・岡部政信の子が、歌人・賀茂真淵(1697~1769)とのこと。
ぬぬ・・・太田亮氏の説だけ毛色が違うぞ・・・。二階堂氏をしらべても賀茂氏と繋がらないし(;・∀・)
その一族が、今の白河市東蕪内に居住するようになったのはなぜなのかは知れませんが、当岡部家の祖先は賀茂氏もしくは二階堂爲憲からつながる系譜なのだという説があることがわかったところで終わりにします。
諸説ありって、こういう感じなんですよね。。。
他人のふんどしで相撲をとる話
先日、日本姓氏語源辞典について触れさせていただきました。
そのあとで気になって、他の家はどんな感じだったっけ?と思い、ひとまとめにしてみることに。
姓(私から見た続柄)全国人口(全国に占める人口順位):本貫地市区町村内での人口順位
人数>その姓の人数ランキング47都道府県中の本貫地順位 本貫市町村順位/県内市町村数(本貫市町村内人数/全国1797市区町村順位)
割合>その姓の人口に占める割合ランキング47都道府県中の本貫地順位 本貫市町村の順位/県内市町村数(本貫市町村における人口割合/全国1797市区町村順位)
近藤(父父父父父)約359,500人(36位):福島県矢祭町22位
人数>福島23位 矢祭町15位/42市町村(約90人:751位)
割合>福島26位 矢祭町7位/42市町村(1.1%:71位)
佐川(父父父父父母)約26,200人(721位):福島県矢祭町9位
人数>福島1位 矢祭町6位/42市町村(約200人:20位)
割合>福島1位 矢祭町3位/42市町村(2.25%:3位)
菊地(私)約181,300人(98位):福島県矢祭町15位
人数>福島5位 矢祭町22位/42市町村(約130人:346位)
割合>福島4位 矢祭町7位/42市町村(1.59%:21位)
菊池(父父父父母父)約162,500人(112位):福島県矢祭町2位
人数>福島13位 矢祭町1位/42市町村(約700人:33位)
割合>福島9位 矢祭町1位/42市町村(8.67%:5位)
鈴木(父父父父母父父母)約1,672,100人(2位):福島県矢祭町1位
人数>福島7位 矢祭町21位/42市町村(約900人:479位)
割合>福島2位 矢祭町4位/42市町村(10.8%:8位)
高沢(父父父父母父母)約15,500人(1,133位):福島県矢祭町17位
人数>福島16位 矢祭町1位/42市町村(約100人:20位)
割合>福島11位 矢祭町1位/42市町村(1.32%:2位)
※割合の全国トップは熊本県球磨村。矢祭町関岡の草分けとして伝わっている菊池家も熊本がルーツであるため、高沢家も菊池家とともに熊本から矢祭にやってきたのかも。
藤田(父父父父母母)約378,100人(30位):福島県矢祭町4位
人数>福島22位 矢祭町7位/42市町村(約300人:370位)
割合>福島21位 矢祭町2位/42市町村(3.73%:3位)
石井(父父父母)約355,200人(37位):茨城県大子町5位
人数>茨城5位 大子町1位/44市町村(約1,400人:36位)
割合>茨城9位 大子町1位/44市町村(4.5%:3位)
齊藤(父父父母母)約22,200人(831位)
人数>茨城5位 大子町データなし
割合>茨城6位 大子町データなし
※「サイトウ」は様々なパターンがあるので、違う「サイトウ」に変化しているのかな?
藤田(父父母母)約378,100人(30位):福島県白河市13位
人数>福島22位 白河市3位/42市町村(約800人:99位)
割合>福島21位 白河市6位/42市町村(1.23%:43位)
角田(父父母父母)約86,200人(248位):福島県白河市21位
人数>福島6位 白河市2位/42市町村(約500人:15位)
割合>福島2位 白河市12位/42市町村(0.789%:23位)
※「つのだ」読みだが、漢字表記のみなので「かくた」や「すみだ」も含む。
岡部(父父母母母)約82,000人(264位):福島県白河市39位
人数>福島6位 白河市5位/42市町村(約200人:61位)
割合>福島1位 白河市9位/42市町村(0.374%:49位)
太田(父母)約307,800人(44位):茨城県つくば市67位
人数>茨城21位 つくば市1位/44市町村(約500人:159位)
割合>茨城37位 つくば市3位/44市町村(0.288%:451位)
※全国順位よりも低いが、茨城県内ではつくば市上里に最も多い。
砂山(父母父父父)約3,300人(3,637位):茨城県つくば市1200位以下
人数>茨城11位 つくば市3位/44市町村(約10人:50位)
割合>茨城9位 つくば市7位/44市町村(0.00799%:110位)
岡田(父母父父母母)約370,000人(33位):茨城県つくば市16位
人数>茨城16位 つくば市1位/44市町村(約1,100人:51位)
割合>茨城25位 つくば市2位/44市町村(0.698%:101位)
中山(父母父母)約264,800人(58位):茨城県つくば市8位
人数>茨城6位 つくば市1位/44市町村(約1,400人:10位)
割合>茨城3位 つくば市6位/44市町村(0.885%:42位)
飯島(父母母)約73,700人(295位):茨城県つくば市7位
人数>茨城1位 つくば市1位/44市町村(約1,400人:1位)
割合>茨城1位 つくば市3位/44市町村(0.887%:10位)
※つくば市が全国の市区町村でいちばん飯島さんが多い!
斉藤(父母母母)約311,100人(42位):茨城県つくば市98位
人数>茨城22位 つくば市3位/44市町村(約300人:230位)
割合>茨城32位 つくば市8位/44市町村(0.202%:772位)
平野(母)約193,800人(86位):東京都練馬区82位
人数>東京3位 練馬区5位/56市区町村(約700人:27位)
割合>東京14位 練馬区21位/56市区町村(0.179%:416位)
新倉(母父父父)約9,900人(1,588位):東京都西東京市184位
人数>東京2位 西東京市3位/56市区町村(約130人:13位)
割合>東京2位 西東京市3位/56市区町村(0.0947%:19位)
尾林(母父父父母)約2,300人(4,619位):東京都西東京市105位
人数>東京1位 西東京市1位/56市区町村(約200人:1位)
割合>東京4位 西東京市1位/56市区町村(0.155%:3位)
新井(母父父父父母)約176,900人(102位)東京都西東京市23位
人数>東京3位 西東京市12位/56市区町村(約600人:70位)
割合>東京4位 西東京市2位/56市区町村(0.404%:115位)
下田(母父父母母)約53,800人(373位)東京都西東京市19位
人数>東京1位 西東京市6位/56市区町村(約600人:8位)
割合>東京6位 西東京市2位/56市区町村(0.439%:28位)
及川(母父母)約77,500人(278位):宮城県東松島市13位
人数>宮城2位 東松島市9位/39市区町村(約600人:21位)
割合>宮城2位 東松島市4位/39市区町村(1.45%:11位)
石垣(母父母父父)約28,600人(667位):宮城県東松島市19位
人数>宮城1位 東松島市2位/39市区町村(約400人:6位)
割合>宮城2位 東松島市1位/39市区町村(1.03%:4位)
佐々木(母父母父父母)約702,100人(13位):宮城県美里町1位
人数>宮城3位 美里町9位/39市区町村(約2,200人:56位)
割合>宮城3位 美里町3位/39市区町村(7.71%:17位)
安田(母父母母父)約155,900人(117位):宮城県村田町100位
人数>宮城29位 村田町16位/39市区町村(約20人:993位)
割合>宮城33位 村田町3位/39市区町村(0.14%:485位)
奥田(母父母母)約101,000人(206位):宮城県東松島市20位
人数>宮城18位 東松島市2位/39市区町村(約400人:40位)
割合>宮城14位 東松島市1位/39市区町村(1%:7位)
皆川(母母)約37,300人(521位):新潟県新潟市78位
人数>新潟1位 新潟市1位/26市町村(約1,800人:1位)
割合>新潟1位 新潟市13位/26市町村(0.221%:50位)
※新潟市が全国の市区町村でいちばん皆川さんが多い!
小出(母母母)約43,800人(452位):新潟県新潟市111位
人数>新潟4位 新潟市1位/26市町村(約1,200人:2位)
割合>新潟1位 新潟市9位/26市町村(0.149%:72位)
鹿島(母母父母)約16,900人(1,040位):新潟県新潟市1,098位
人数>新潟11位 新潟市3位/26市町村(約90人:29位)
割合>新潟12位 新潟市5位/26市町村(0.0104%:508位)
如澤(母母父母母)約30人:新潟県新潟市1200位以下
人数>新潟2位 新潟市1位/26市町村 (1位)
割合>新潟1位 新潟市2位/26市町村 (1位)
※私の家系血脈で最も珍しい姓
松崎(母母父母母母)約78,500人(273位):新潟県新潟市363位
人数>新潟18位 新潟市1位/26市町村(約400人:19位、河間30人:197位)
割合>新潟24位 新潟市8位/26市町村(0.0484%:688位、河間6.67%:80位)
山田(妻)約800,200人(12位):青森県むつ市12位
人数>青森18位 むつ市4位/38市町村(約800人:320位)
割合>青森10位 むつ市10位/38市町村(0.923%:295位)
畑中(妻父父父父父)約40,000人(490位):青森県むつ市5位
人数>青森3位 むつ市1位/38市町村(約1,200人:1位)
割合>青森1位 むつ市2位/38市町村(1.53%:3位)
※むつ市が全国の市区町村でいちばん畑中さんが多い!
舘(妻父父父父母)約7,800人(1,942位):青森県むつ市348位
人数>青森5位 むつ市3位/38市町村(約50人:25位)
割合>青森4位 むつ市10位/38市町村(0.0587%:44位)
※読みは「たて」だが、漢字表記のみなので「たち」や「だて」も含む。
杉山(妻父父父母)約200,900人(82位):青森県むつ市22位
人数>青森15位 むつ市2位/38市町村(約500人:69位)
割合>青森7位 むつ市5位/38市町村(0.603%:73位)
橋本(妻父父父母父母)約427,700人(25位):青森県むつ市17位
人数>青森31位 むつ市3位/38市町村(約600人:180位)
割合>青森33位 むつ市4位/38市町村(0.731%:140位)
加賀(妻父父父母母)約16,100人(1,100位):青森県むつ市250位
人数>青森4位 むつ市4位/38市町村(約70人:45位)
割合>青森2位 むつ市6位/38市町村(0.0801%:68位)
千葉(妻父父母)約190,800人(89位):岩手県九戸村10位
人数>岩手2位 九戸村24位/32市町村(約120人:271位)
割合>岩手1位 九戸村12位/32市町村(1.37%:35位)
小野寺(妻父父母父母)約93,200人(230位):岩手県九戸村3位
人数>岩手2位 九戸村15位/32市町村(約200人:77位)
割合>岩手1位 九戸村6位/32市町村(2.59%:9位)
君成田(妻父父母父父父父父母)約200人(19,666位):岩手県軽米町92位
人数>岩手2位 軽米町1位/32市町村(約40人:1位)
割合>岩手1位 軽米町1位/32市町村(0.311%:1位)
※君成田姓は軽米の小字名が発祥。全国の市区町村でいちばん多いのも必然か。
坂本(妻父父母父父母)約325,600人(38位):岩手県九戸村11位
人数>岩手28位 九戸村13位/32市町村(約120人:736位)
割合>岩手20位 九戸村2位/32市町村(1.32%:49位)
苅間沢(妻父父母父母父母)約150人(25,085位):岩手県久慈市208位
人数>岩手1位 久慈市1位/32市町村(約60人:1位)
割合>岩手1位 久慈市2位/32市町村(0.129%:2位)
※苅間沢姓は久慈市山形町荷軽部の小字名が発祥。全国の市区町村でいちばん多いのも必然か。
斉藤(妻父父母父母母)約311,100人(42位):岩手県九戸村126位
人数>岩手27位 九戸村24位/32市町村(約20人:1,310位)
割合>岩手25位 九戸村11位/32市町村(0.195%:811位)
岩渕(妻父父母母)約25,900人(733位):岩手県九戸村30位
人数>岩手1位 九戸村9位/32市町村(約60人:71位)
割合>岩手1位 九戸村4位/32市町村(0.684%:7位)
山本(妻父父母母父母)約1,055,100人(6位):岩手県九戸村1位
人数>岩手40位 九戸村8位/32市町村(約300人:852位)
割合>岩手40位 九戸村1位/32市町村(2.98%:36位)
福田(妻父父母母母)約307,700人(45位):岩手県九戸村186位
人数>岩手43位 九戸村24位/32市町村(約10人:1,428位)
割合>岩手41位 九戸村13位/32市町村(0.0977%:1,250位)
※九戸村は全国順位よりもかなり低い。
佐藤(妻父母)約1,892,300人(1位):宮城県蔵王町1位
人数>宮城3位 蔵王町18位/39市区町村(約2,400人:187位)
割合>宮城3位 蔵王町1位/39市区町村(16%:4位)
※佐藤さん率が全国4位!
小林(妻父母父父父母)約1,000,600人(9位):宮城県蔵王町40位
人数>宮城27位 蔵王町32位/39市区町村(約50人:1,382位)
割合>宮城28位 蔵王町21位/39市区町村(0.32%:1,296位)
※蔵王町は全国順位よりもずいぶんと低い。
佐野(妻父母父母父)約181,200人(99位):宮城県岩沼市80位
人数>宮城22位 岩沼市7位/39市区町村(約70人:564位)
割合>宮城27位 岩沼市6位/39市区町村(0.179%:268位)
大久保(妻父母父母)約131,900人(154位):宮城県岩沼市41位
人数>宮城20位 岩沼市5位/39市区町村(約200人:208位)
割合>宮城19位 岩沼市2位/39市区町村(0.476%:58位)
湯谷(妻父母母)約2,300人(4,693位):鳥取県鳥取市178位
人数>鳥取3位 鳥取市1位/19市区町村(約200人:1位)
割合>鳥取1位 鳥取市1位/19市区町村(0.0965%:5位)
※鳥取市(旧国府町)が全国の市区町村でいちばん湯谷さんが多い!
中島(妻父母母母父)約393,600人(28位):鳥取県八頭町73位
人数>鳥取36位 八頭町6位/19市区町村(約80人:910位)
割合>鳥取15位 八頭町5位/19市区町村(0.329%:607位)
※八頭町は全国順位よりもずいぶんと低い。
竹内(妻父母母母)約279,700人(55位):鳥取県八頭町12位
人数>鳥取28位 八頭町3位/19市区町村(約300人:273位)
割合>鳥取5位 八頭町1位/19市区町村(1.15%:36位)
森井(妻母)約19,100人(938位)
人数>石川27位 小松市データなし
割合>石川20位 小松市データなし
坂下(妻母父父父母)約33,000人(591位):石川県小松市92位
人数>石川2位 小松市4位/19市町村(約200人:19位)
割合>石川1位 小松市8位/19市町村(0.181%:61位)
高谷(妻母父父母)約20,500人(890位)
※現在北海道以前が不明。最も多いのは青森県弘前市。
相木(妻母父母)約1,500人(6,161位)
※現在北海道以前が不明。最も多いのは愛知県大府市。
柿崎(妻母母)約16,900人(1,041位):山形県大蔵村4位
人数>山形1位 大蔵村5位/33市町村(約200人:10位)
割合>山形1位 大蔵村1位/33市町村(5.09%:1位)
※柿崎さん率が全国1位!
三原(妻母母父父父母)約32,800人(598位):山形県大蔵村19位
人数>山形18位 大蔵村4位/33市町村(約70人:121位)
割合>山形10位 大蔵村1位/33市町村(1.47%:1位)
※三原さん率が全国1位!
森(妻母母父母)約457,600人(22位):山形県大蔵村36位
人数>山形37位 大蔵村20位/33市町村(約20人:1367位)
割合>山形36位 大蔵村6位/33市町村(0.489%:401位)
※大蔵村は全国順位よりも低い。
小関(妻母母父母母)約27,500人(694位):山形県大蔵村41位
人数>山形1位 大蔵村24位/33市町村(約20人:281位)
割合>山形1位 大蔵村11位/33市町村(0.489%:20位)
高山(妻母母母)約108,200人(189位):山形県大蔵村17位
人数>山形20位 大蔵村6位/33市町村(約70人:420位)
割合>山形7位 大蔵村1位/33市町村(1.57%:2位)
國分(妻母母母母)約1,600人(5,983位):山形県大蔵村140位
人数>山形8位 大蔵村1位/33市町村(約200人:10位)
割合>山形2位 大蔵村1位/33市町村(4.4%:2位)
やはりというか、全体的に全国順位よりも、祖先の本貫地は順位が高い傾向にあります。
特に・・・
【佐川】 全国721位:矢祭町9位
【菊池】 全国112位:矢祭町2位
【高沢】 全国1,133位:矢祭町17位
【藤田】 全国30位:矢祭町4位
【石井】 全国37位:大子町5位
【角田】 全国248位:矢祭町21位
【飯島】 全国295位:つくば市7位
【新倉】 全国1,588位:西東京市184位
【尾林】 全国4,619位:西東京市105位
【下田】 全国373位:西東京市19位
【石垣】 全国667位:東松島市19位
【畑中】 全国490位:むつ市5位
【小野寺】全国230位:九戸村3位
【君成田】全国19666位:軽米町92位
【苅間沢】全国25085位:久慈市208位
【岩渕】 全国733位:九戸村30位
【湯谷】 全国4,693位:九戸村30位
【柿崎】 全国1,041位:大蔵村4位
【三原】 全国598位:大蔵村19位
・・・といった姓が、全国平均を大きく上回っています。
集中しているということは、歴史的に何かがあったということでしょう。
おおまかに調べることはわりに容易なのかもしれませんが、その中の1軒を掘り下げたいけどどこかわからない・・・となると難易度がバビュンと跳ね上がります。
逆に分布が少ない姓は、どういった経緯で居住しているのかを知りたくなってくるわけですね。調査対象の特定も、比較的容易な傾向にあります。
このようなデータがかんたんに入手出来てしまうなんて、心から石川氏に感謝なのです。
みんな大好き日本姓氏語源辞典
このブログを見てくださっている方々でしたら、みなさまこのサイトはよくご存じでしょう。
宮本洋一氏による、
です。
この宮本氏、わたし(1978年生まれ)よりも2歳年下なんですね(/ω\)
足を向けて寝られない現代の偉人です。
このサイトで、いろいろな発見をいままでしてきたのですが、いま一度つまんでみようと思います。
まず、私の姓である「菊地」ですが、
いちばん多いのが北海道!
もともとは「菊池」であると一説にいわれるだけあり、「菊地」さんには分家が多く、移住する家も多かったのかもしれませんね。
そして、我が家のもともとの姓である「菊池」。
そう、岩手、とくに遠野に多いんです。
そして流刑の地であった八丈島には、菊池さんが多かったりと、さまざまなエピソードを持っている姓です。
そんな中に、郡部として唯一登場している8位の茨城県久慈郡大子町。
そして、「菊池」姓の市町村ごとの割合を見てみます。
貫禄の遠野市。4人に1人が菊池さんです。
学校ひとクラス40人とすると、10人弱が菊池さんだということに・・・(;・∀・)
そして、我がルーツ矢祭町が5位に飛び込んできています。大子町は7位。
この2町でこれだけの割合を占めているなんて、流刑地だった八丈島や青ヶ島はなんとなく理解ができますが、信州菊池の会を擁する長野の佐久地方とともに、何かの謂れがあるのでしょう。未だに謎のままなんですけれど。。。
次に、曾祖母の実家(福島県白河市東千田)および曾祖母の母の実家(白河市東蕪内)および高祖父の祖母の実家(矢祭町東舘)であり、私の体内に濃く血が流れている「藤田」を見てみます。
全国30位。まんべんなく分布している地図となっていますね。とびぬけて浜松に多いようです。
そして、割合でも見てみると・・・
この4つの町はすべて繋がっているのです!
まさに、「藤田ベルト」と呼んでも差し支えないでしょう。
ここは、全国でもトップクラスの藤田密集地帯なのです!
なぜこうなったのかは、未だによくわかりませんけれど。。。
さすがの大勢力。全国37位です。倉敷や千葉の北西部に多い統計ですね。
そんな中、小地域順位の6位に大子町の頃藤(ころふじ)が!
この頃藤ですが、小生瀬の隣の部落なのです。郡部では最上位に輝きました。
小生瀬あたりに行ったときに、看板が石井商店とか石井鮮魚店とか、石井さんばかりで驚いたものです。
そして、祖母の母の実家(茨城県つくば市上里)は「飯島」です。
・・・ああ、つくば市がトップですね。
割合で見てみると、
そのつくば市の中でも上里は断トツに多いのです。
惜しくもなぜこんなに飯島っぷりがすごいのかは伝わっていないのですが、北海道ではあまりいない姓なので、珍しいと勝手に思っていました。
こういう感じで固まっていると、地域の歴史を含むことは調査しやすく、ひとつの家としては調査しづらくもあるわけですね。
昨年、訪問させていただいた大蔵村。
柿崎景家の子孫と伝わるのですが、南山の部落はもうほんとに柿﨑さんだらけ。
お墓も柿﨑さんばかり。家紋も「丸に隅立て四ツ目結」で同じ。しかも墓碑銘を彫らない風習らしく、いったいどの墓石がウチの柿﨑本家のなのかがわからないというまさに混沌とした状況でした。
母方高祖父の実家、宮城県東松島市矢本の「石垣」家もちょっと不思議です。
静岡に最も多く、これは徳川家康の駿府城の石垣を築いた人たちが与えられた姓なのかな・・・と勝手に思ったり。
次いで沖縄の石垣島に多いのですが、由来は内地の石垣さんとは全く違うのでしょう。
6位に東松島が入っています。近くの仙台市青葉区がその上の4位にいるということは、これは青葉城・・・?
なお、私の祖先でもっとも珍しい姓は母方祖母の祖母の実家、新潟市西蒲区河間の「如澤」家なのですが、
ふむ、ルーツは信濃と伝わっており、開拓のために河間に入ったそうです。
河間がある旧中之口村長の如澤寛さんにお話を伺ったところ、「阿弥陀如来」の「如」ではないかと伝わっているとのこと。
北海道の遠軽には近年分家した方がいらっしゃるそうなので、藤沢や横浜の方たちもきっとルーツは同じなのでしょう。
この家々は、分布が集中したりしている家ですが、逆にぜんぜん分布がないところに昔から住んでいたりすると、どうしてここに住むようになったのだろうというまた違った見方になってきます。
たとえば妻の母は「森井」家の出。北海道に来る前は石川県小松市菩提町に住んでいたのですが、いまはもう誰も居ません。
本貫地はおそらく関西の方と思われるので、北前船がらみで石川に一時的にすんでいたのかな?と思われる家です。
・・・と、こんな感じでいろいろ見ていくと、いろいろな発見があるわけですね。
もうほんとに控えめに言って石川氏は神です。
除籍の80年廃棄と樺太移住のコンビネーション【完結編】
今回綴ろうとしておりますのは、
この1年半前に綴った記事の続編となります。
後輩の家についての戸籍を取得したところ、樺太から昭和24年に釧路市(平成19年に除籍80年廃棄済)へ転籍してきているところまでしかさかのぼることができなかったわけですが、今回進展がありました。
きっかけは、後輩のおばあちゃんが亡くなったこと。
知ったのが香典を渡すタイミングにはちょっと遅かったことから、余っていた小為替で後輩の家についてさかのぼってみようということになりました。
8月に第1子の女の子が産まれたこともあり、後輩も乗り気になってくれたので、さっそく実行に移したのです。
まずは釧路市にのこっている最古の戸籍。
外務省のホームページによると、樺太の戸籍簿は
大泊郡知床村 戸籍簿 15冊 除籍簿 3冊
大泊郡富内村 戸籍簿 1冊
大泊郡遠淵村 戸籍簿 4冊
敷香郡内路村 戸籍簿 9冊
敷香郡散江村 戸籍簿 4冊
元泊郡元泊村 戸籍簿 8冊
・・・しか日本に持ってこれなかったそうで、知取は対象外です。
残念ながら利吉さんからのさかのぼることは不可能。
そしたらば、その妻・キノさんからならいけるかもしれない。
利吉さんとキノさんの間にはお子さんが6人いらっしゃるのですが、最初の3人は釧路市で産まれています(そのあとの子どもたちは樺太生まれ)。
戸籍の記載はこのようになっています。
釧路市長が出生届を受付→同年7月18日送付入籍。
ということは、釧路市で出生届を出したのち、釧路市からこの子が出生しましたよ~という情報を送付し、戸籍に入籍したということになります。
つまり、この子が産まれた時点では、戸籍は釧路市外にあったということです。
利吉とキノが婚姻届出をしたのはこの子の出生のちょっと前。
そしたらば、キノが婚姻前に居た新潟の戸籍に、利吉の当時の本籍地が記載されているはず!
残っていることを願い、新潟県出雲崎町にキノの実家の戸籍を請求!
待つこと中4日。
すると、ついに三原家が釧路市に来る前の地が判明したのです。
利吉の戸籍には「馬草6番地 山田仁平」と書かれていましたが、ホントは「馬草6番戸 山田仁平治」さんでした💦名前や番地表記が違っても出してくれてよかったです(;'∀')
ということで、利吉さんは「徳島県那賀郡坂野村大字坂野字野神」から釧路市に来たことが判明🎉
そして、現在坂野村は小松島市になっているということでしたので、三原角藏の戸籍も勢いで請求!
そして徳島市出身ですが、プロ野球・巨人のスピードスター、増田大輝選手は小松島高校の出身。
三原の本貫地のひとつでもある淡路島にもほど近い地で、三原家は過ごしていたようです。
三男だった角藏はこの後に分家をしているので、この坂野村139番屋敷が本家の地なのだと思いますが、小松島市の担当者に確認するも、現在のどこかはわからないとの回答でした。
政吉さんの除籍でもまだ139番屋敷だったので、その次代の戸籍にはもしかすると小字が書かれているのかもしれませんが、残念ながら直系である三原役藏さんもソメさんも政吉さんの代で亡くなられており、請求できる権利がありませんでした。
なお、この役藏という名。変わった名だとおもい「役蔵」でGoogle検索してみると、徳島県や愛媛県にしか確認できず、もしかすると地域性のあるお名前なのかもしれません。
徳島市に清水役蔵商店という会社があり、どうやら登記簿によると「えきぞう」と読むようです。
取得した謄本8通と家系図をExcelで作成して渡すと、後輩はずいぶんとよろこんでくれたので、とてもうれしかったです(←語彙力なし)。
あとは後輩に託します。いいなぁ、四国。行ったことないから行って見たいな。
というわけでした、これにてこの件についてはクローズとさせていただきます。
菊地家の謎に迫りたい
私の姓、「菊地」。
いままで探求してきた経緯は以下のリンクのとおりなのですが、さっぱりはかがいきません。
2008/05/11 福島県東白川郡豊里村→屈斜路村【菊地家】
2018/01/22 菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?
2018/02/01 菊地家について、多くの謎のうちのひとつ
そこで、いま一度整理をしてみようと思い、つらつらと綴ってみることにしました。
私は釧路市生まれですが、父が釧路市で就職したためで、もともとは祖父が写真館を営んでいた釧路市から車で70分ほどの弟子屈町の市街地で父は生まれています。
そして、写真家であった祖父は屈斜路湖畔で生まれています。
屈斜路に入植したのは、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)とその息子である曾祖父・菊地幸太郎(1894~1936)の一家。
福島県東白川郡豊里村東舘舘本(現・矢祭町)より、大正2(1913)年2月に、北海道川上郡屈斜路村字エントコマップの御料地へ入植をしました。
御料地への入植でしたので、一般の入植者とは異なり、好条件で入植したのではないかと思われます。
ですので、この100年で福島→屈斜路→弟子屈→釧路と拠点が移ってきました(私が一人暮らしになった後は両親は数度転勤、退職した地である函館市に居を構えています)。
時はさかのぼり、明治7(1874)年、高祖父・幸吉が生を受けました。
父・菊地儀平(1844~97)、母はハツ(1853~1906)。兄に3歳上の初太郎がおり、幸吉は第2子です。
明治19(1886)年に作製された最古の戸籍は、東舘村舘本40番地。
戸主は儀平で、籍にはハツの父・儀右衛門(1810~90)と母・ヤス(1813~1899)が健在。
儀右衛門は、隣村である関岡村の菊地友輔三男。年月日は不詳ですが、菊地藤兵衛の養子となっています。
ヤスは、戸籍および地籍図によると、おとなり39番地の藤田傳五右衛門長女。
なお、旧土地台帳に書かれた40番地の最古の名は「菊池」儀平となっています。
謎①
・もともと舘本40番地に居住していたのは菊地藤兵衛なのだろうか?
・あるいは、どこか違う地で暮らしていた儀右衛門がヤスと結婚することになり、ヤスの実家の隣に住むようになったのだろうか?
儀右衛門の父として記載がある菊池友輔(友甫)という人物は実在し、関岡村の医師であり、墓石によると明治18(1885)年12月に行年74で逝去しています。
友甫が逝去したのが、明治19年戸籍編製以前だったため、菊池家の最古の戸籍(子孫の方にご提供いただけました)の筆頭者は、友甫の長男・政恒(1843~97)となっており、惜しくも友甫は籍に入っておりません。
墓石から推測するに、友甫が生まれたのは文化9(1812)年となります。この時点で、少なくとも文化7(1810)年生まれの儀右衛門の父ではないようです。
そこで有力な情報源ものとなるのが、昭和43年の広報やまつりです。
その記事には友甫の父である菊池友元道恒(1781~1855)についての記述があります。
記事によると、友元は関岡村飯野の農家で生まれ、病気で苦しんでいる方々を救うために医師となったそうで、その子孫たちも医師の道を継いでいます。
友元には二男二女があり、長男が友甫孝恒であり、次男は孝昭という名であるとのこと。
友甫の墓石には明治18年12月18日「立」とあったので、墓石を建てたのがその日で、逝去したのはもっと以前、たとえば2年以上前であれば儀右衛門の兄であるという辻褄が合う・・・と思っていたのですが、菩提寺に確認したところ、亡くなったのがこの日で間違いないようで、可能性が一つ潰れました。
謎②
・儀右衛門は友輔三男と記載されていたが、それは誤り?
・本当は友元の次男・孝昭?それにしても年齢が逆転してしまう・・・
・それとも友輔なる人物が他に存在した?
菊池家がある関岡村一帯は、おおよそが地内にある真言宗泉福院の檀家のようですが、その泉福院のご住職にお話を伺った際、「関岡の菊池家はもともと3軒あり、一帯の菊池家はその子孫です。もともとの3軒も、親戚だったと考えられます。」とご教示いただけました。
そこで白河の法務局へ、あたり一帯の旧土地台帳の写しを交付いただけるよう請求。
菊池率の高さもさることながら、気になるのが「菊地」から「菊池」へと修正、もしくは願いにより改正している台帳がやたらと目に付いたこと。
我が家の土地台帳も「菊池」となっていますし・・・。
謎③
・「菊地」と「菊池」の使い分けがなんらかの理由でなされていた?
・該当地域の旧土地台帳上は、最終的に「菊地」姓は存在しない(全て「菊池」に修正されている)。
高祖父・幸吉と、その兄・初太郎には妹が一人おり、宮城県へ嫁いでいます。
高祖父兄弟はともに屈斜路に入植し、妹は宮城へ。
つまり、儀平の子孫は福島に誰も残っていないのです。
最古の戸籍しか情報がありませんが、儀右衛門には長女・ハツと、三女・シモが確認されています。
ハツは上関河内村からの婿養子、近藤儀平を迎えて家を継ぎましたが、生まれが嘉永5(1852)年。父・儀右衛門が42歳、母・ヤスが39歳のときの子となります。
戸籍編製時は儀右衛門76歳、ヤス73歳。
もしかすると、戸籍編製前に家を出ている子どもがいることも考えられます。
また、三女のシモに至っては、慶応2(1866)年生まれであり、父が56歳、母が53歳のときの子。
シモは24歳で茨城県常陸太田市徳田の菊池市之右衛門家に嫁いでおりますが、この生まれ年だと、当時14歳であったハツの子、もしくはこの戸籍に登場していない儀右衛門の子の子と考えるのが自然のような気がしてきます。あくまでも推測の域を出ませんが・・・。
なんらかの事情で、儀右衛門の子という形をとらざるをえなかったのかもしれません。
謎④
・他にもいそうな儀右衛門の子の存在
前述の菊池友元ですが、出生した番地と、のちに医院を開業して居住していた番地が異なります。
医院を開業して住んでいた番地の子孫の方に見せていただいた戸籍は、友甫の長男が戸主のもの。
そこで、おととし友元が生まれた地番の菊池家に突撃させていただき、戸籍取得のための委任状を書いていただきました。
そのお宅は、友甫家の子孫の方が本家と呼んでいる家。
きっと戸籍に手掛かりがあるはず!と勇んで交付してもらったのです。
すると、最古の戸主の父として「菊池活次郎」という初登場の名前が・・・。
年代的には友甫や儀右衛門と同世代を生きた人物のようです。
謎⑤
・友甫、儀右衛門、活次郎。どのような関係なのだろうか・・・?
私の以前に、平成5(1993)年に亡くなった大叔父が菊地家のルーツを調べていたらしく、高祖父・幸吉とその兄・初太郎は、本家から「帰ってこい」と言われていたらしいと、大叔父の弟より聞いたことがあります。
その大叔父は、本家に行き、たいそう歓迎されたそうなのです。
謎⑥
・菊地の本家が存在する(した)!
・本家はどこにあるのか?
また、かつて東舘にある東慶寺のご住職に過去帳を探していただいたところ、儀右衛門、ヤス、儀平、ハツのことを記述した部分を見つけてくださいました。
しかし、儀右衛門とヤスは儀平の父と母、儀平は初太郎の父と記載されているので違和感はないのですが、ハツのみ幸吉の母と記載されていて、初太郎はこの時点で家を出ていたのかも?という疑念がわきます。
なお、「菊池」と記載されております。
そしてこれはただの間違いでしょうが、幸吉は「孝吉」、そしてなぜか鈴木を消されて菊池に直されています。
明治30(1897)年に儀平が亡くなった時は初太郎23歳。そして家督相続。
明治39(1906)年にハツが亡くなった時は初太郎32歳。戸籍の筆頭者であり、ハツも籍に居り、結婚(妻は茨城県大子町久野瀬の植田家より)もしています。
謎⑦
・初太郎は家を出ていた時期がある?
そして、東慶寺には菊地家のお墓が無いとのこと!!
その後に出会えた初太郎の子孫にもうかがいましたが、儀平以前の遺骨については存じ上げないそうで・・・
謎⑧
・菊地家のお墓はどこに!!?
・・・と、自分の家のことなのに謎だらけでさっぱり先に進まない菊地家の調査。
矢祭町には3度訪れ、お手紙もけっこうなお宅からご返事いただいたのにも関わらず、うちの先祖を知る人はまったく見つかりません。
なんとかならんかなぁ・・・?