明治19年式戸籍編製時の地名について
本籍地。
いまは皇居の地番に置いたり、市区町村の役場の住所に置いたりと好きな場所に置くことができるようです。
私は結婚して最初に住んだ場所を本籍地にしています。
いま住んでいる住所とは違うので、忘れないようにしなくてはなりませんね。
まだ同じ釧路市内なので特に不便はありませんが、違う市町村になると郵送で証明を取ったりしなくてはならないので、ちょっと面倒になると思います。
私の両親も、最近になって釧路市から現在居住している函館市へと本籍を移しました。
それまでは、いろいろと証明関係を頼まれて送ったりしたものです。
明治19(1886)年に現在取得できる最古の戸籍が編成された際、本籍地は基本的には居住地となっていたそうです。
ですので、明治19年式戸籍に記載されている本籍地は、例外はあると思いますがほぼ祖先たちが住んでいた場所なのですね。
しかしながらいろんな戸籍謄本を見ていると、地名の表記に地域差があるものだなぁと感じておりました。
サンプルが少ないですが、私の手持ちですと以下のような感じです。
①村名+番地のパターン
○青森県
青森県下北郡関根村150番地戸(現:むつ市関根)※番地戸とはいったい・・・?
青森県下北郡田名部村411番地(現:むつ市金谷)
○岩手県
陸中国北九戸郡長興寺村65番地(現:岩手県九戸郡九戸村大字長興寺。現在は第○地割となっている)
陸中国北九戸郡戸田村66番地(現:岩手県九戸郡九戸村大字戸田。同上)
○宮城県
宮城県刈田郡小村崎村49番地(現:蔵王町大字小村崎)
宮城県名取郡志賀村8番地(現:岩沼市志賀)
宮城県桃生郡矢本村44番地甲(現:東松島市矢本)
○山形県
山形県最上郡大蔵村大字南山○番地(現在もそのまま。「明治の大合併」以降の編製のため、大字表記あり)
②村名+番屋敷や番戸表記
○茨城県
茨城県筑波郡牛縊村33番屋敷(現:つくば市上里)
茨城県久慈郡生瀬村大字小生瀬237番屋敷(現:大子町小生瀬。「明治の大合併」以降の編製のため、大字表記あり)
○新潟県
新潟県中蒲原郡上高井村24番戸(現:新潟市南区根岸)
新潟県西蒲原郡吉江村18番戸(現:新潟市南区吉江)
○鳥取県
鳥取県八東郡徳丸村105番屋敷(現:八頭郡八頭町徳丸)
鳥取県法美郡荒舟村10番屋敷(現:鳥取市国府町荒舟)
③村名+字名+番地
○北海道
北海道茅部郡落部村字野田追1番地(現:二海郡八雲町東野)
○福島県
福島県安達郡東新殿村字後石倉○番地(現:二本松市東新殿。現在「後石倉」の字名は無し)
福島県西白河郡五箇村蕪内字新屋敷○番地(現:白河市東蕪内字新屋敷)
福島県東白川郡下山本村字松原○番地(現:棚倉町大字下山本字松原)
福島県東白川郡上関河内村字仲町○番地(現:矢祭町大字上関河内字仲町)
福島県東白川郡関岡村字飯野○番地(現:矢祭町大字関岡字飯野)
福島県東白川郡東舘村字舘本○番地(現:矢祭町大字東舘字舘本)
福島県東白川郡山下村字萩○番地(現:矢祭町大字山下字荻)
①や②のパターンだと、小字の特定ができず、いまの住所を照らし合わせることができません。
村によっては小字ごとに地番が振られていることもあり、○○村1番地が村内の異なる場所にいくつもあったりします。
あるいは村全体で5000番地とかまで地番が振られていたりすることもありますが、たいてい今は区画整理や住居表示の施行で、現在の住所とは異なることが多いと思います。
※静岡県浜松市西区篠原町には、27440番地-1という途方もない地番が振られています!
③のパターンのうち、福島県に関しては明治19年の住所が変わらずにいまもそのまま在り続けています。調べる際には非常に助かります。
小字の表記があるのは私の手持ちでは北海道と福島県だけ。北海道の落部村に振られている町名と番地は今は生きていませんけれど。
小字を表記していた町村(あるいは道府県で定められていた?)ははたして珍しいものなのでしょうか・・・?
ちょっと統計をとってみたいですね。
森井家の移動経路を思う
妻の母が生まれ育った森井家。
明治19(1886)年式戸籍編製時点では、石川県江沼郡菩提村。現在の小松市菩提町に居住していました。
その頃の戸籍筆頭者は、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の兄である森井半四郎であったと思われます。
・・・というのも、明治19年式戸籍が80年廃棄されていたものですから、詳細が不明なのです。
その後、高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の代で明治26(1893)年に北海道茅部郡落部村野田追へ転籍。
そして昭和12(1937)年に曾祖父である森井半次郎(1882~1964)の代で釧路市へと転住し、いまに至ります。
この石川県小松市→北海道八雲町→北海道釧路市というのが、公文書で追える森井家の移動経路。
この無機質な情報に、さまざまな肉付けをしていくのが家系探求の醍醐味ですね。
まず、森井という姓は小松市でいえば菩提にはおらず、ただ1軒、半四郎の子孫が市内の他の町に住んでおられます。
半四郎の本家は、大正時代に約3里離れた加賀市の山中温泉へ移住し、喫茶店を営んでいたと聞き及んでいます。
その菩提という地。
角川地名大辞典を抜粋しますと、
「大聖寺藩領。天保2(1831)年の村高454石。初期には戸数が100戸もあったが、山村のため生活が困難で逃亡者が多く、ついには7戸となり荒廃。」
・・・おぉ、ずいぶんと険しい土地であったのですね。村に残ったのが7戸とは・・・。
「月津村の由右衛門らにより復興、その子孫は13戸になったという。」
約2里ほど離れた月津(現在の小松市月津)から助っ人が来てくれたようです。ずいぶんとがんばってくれたのですね。
「『江沼志稿』(※弘化元(1844)年刊行)によれば、家数27、鍬数37。鎮守は白山社。」
やはり由右衛門さんとその子孫がががんばってくれたものの、戸数は少ない村だったようです。2000年時点でも電話帳による戸数は37戸ほどですし。
また、角川地名大辞典に鎮守として記載のある「白山社」。義母のイトコの方が、いまは花山神社となっているその社の由来を写真に収めてくれていました。
曰く「菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社(※しらやまひめじんじゃ。白山市にある加賀国一之宮)の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永(1545~1600)の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一つとして肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。」
・・・角川地名大辞典の内容をほぼ含み、さらにより詳細な事柄が彫られております。非常に貴重な資料です。
さらには花山神社の御神体に関する記述要旨も彫られていまして、
一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇(968~1008)様で、他の3体は侍臣藤原実定(1139~91)、藤原義懐(よしちか。958~1021)、藤原惟成(953~89)ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結び、その冥福を祈りたり。その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源。法皇様の王柩を法皇が丘に奉葬せる時、河原村(※加賀市河原町?)より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。
かつて蛙子村だったのを、花山天皇を葬った際に菩提村と名を変えたようです。もう千年以上も前の話ですね。
そもそも森井の発祥は関西地方であるらしく、日本姓氏語源事典を参考にさせていただくと、県別の人口でいうと兵庫の2,800人を筆頭に、大阪1,800人、東京1,300人、三重1,200人、奈良1,100人と、トップ5のうち4つが近畿地方となっています。
また、兵庫県西部の豊岡市出石に、森井という地名があります。
兵庫に多いのは、ここが発祥だからなのかなぁと想像したり。
そして、太田亮氏の姓氏家系大辞典には、以下のような記述がなされています。
「神宮内宮社家。能登の社家等に見え、また伊勢、志摩、美濃、尾張、武蔵、摂津等にあり。」
ふむ、神宮内宮ということは伊勢神宮の社家。そして能登の社家。三重に多いのはこの絡みか・・・。
伊勢の神社から請われて分霊でもしたのかな?輪島市に伊勢神社があったり、サイト「八百万の神」さまによると、石川県には34もの伊勢神宮系列の神社があるようですし。ただ、小松市には無いようですが。
話は変わりますが、小松や加賀のあたりは「北前船」という上方(大阪)と北海道の物流を結ぶ航路の拠点でありました。
森井家は北前船となんらかの関係を持ち、関西から加賀付近に移り住んだのではないかと想像できます。
菩提村の歴史を見るだに、森井家が菩提村にやってきたのは荒廃から復興したのち、由右エ門の子孫が繁栄した後であるのかと思っています。
もうひとつ。北海道に来たのちの話ですが、「八雲町史」によると、明治43(1910)年に当時57歳だった森井半左エ門が落部村漁業組合の組合長となっています。
この事実が、極めて高い確率で漁業を生業にしていたということをうかがわせますね。
漁民であった森井家は、関西から加賀地方へ北前船がらみで転住し、その後に北海道の落部へ一攫千金を狙って移り住んだ。
昭和に入り、さらに上を狙って当時日本一の漁港を争っていた釧路へ来たのではないかという妄想ができるわけです。
ただ、釧路に来てからは漁業ではなく、馬喰などを生業にしていたようですが・・・
ふたたびさかのぼって、半四郎の妻(半左エ門の母)であるスエは、坂下家の出ということがわかっています。
かつて菩提の坂下さんにお手紙をした際、もともとは吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)に住んでいたとの情報を教えていただきました。
そして坂下の項を前述の姓氏家系大辞典で調べてみると、
「伊賀、尾張、武蔵、美濃、信濃等にこの地名あり」
「摂津島上部(名族)。武蔵都筑郡に坂下長右衛門山あり。また伊勢、志摩等に存すと。」
・・・森井と同じような地名の記述が!
もしかすると、森井家と坂下家は、ともに関西地方からやってきた旧知の仲だったのでは・・・?
森井家も吉崎を経由してきたのではないのかなど、さまざまな憶測が頭の中を暴れまわります。
こんな感じで毎日が過ぎていくわけですね~(◎_◎;)
明治19年式戸籍編製時期について
明治19年式戸籍。
われわれが目にすることができる最古の公的書類。
明治4(1882)年に戸籍法ができ、翌年よりいわゆる壬申戸籍が編製されたものの、職業や宗派や犯罪歴など、見られると困っちゃうかもしれない情報が載ってしまっていることから、現在は仮に遺っていたとしても、存在しないものとされています。
明治19年式戸籍は、その壬申戸籍をベースに、明治19(1886)年の戸籍制度改正によって編製されたもの。
現在でも、平民や士族といった族称等が塗抹されてはいるものの、正当な手続きを踏めば取得できる貴重な資料です。
ただし、平成22(2010)年までは「除籍簿は、除籍後80年経過するまで保存し、証明として発行する」というような法律であったため、除籍となって80年が経過した除籍簿については処分しちゃってもよいこととなっていました。
現在は法改正で除籍後150年まで延ばされておりますが、平成22年時点で80年経過、つまり最も最近のもので昭和5(1930)年までの除籍簿は、闇に葬られていてもなんら行政の落ち度はないのです。
なんということでしょう。それらの戸籍簿は、各市区町村判断で融解されたり裁断されたりして、世の明治19年式戸籍の何割かはすでにこの世に存在しないものとなっているのです。
物理的に保管場所が限られている都市部や、電算化してシステムによって80年経過した時点でデータを削除するようになっていたりだとか、さまざまな事情や方法で貴重な資料が処分されてしまいました。
また80年保存の法律とは関係なく、戦時中の爆撃によって焼失、役場が火災で戸籍簿もろとも全焼・・・といった、災害によって失われてしまった戸籍簿も・・・。
そういった戸籍簿は完全な状態では再製できず、中途半端な状態で再製されたりしていますね。
戸籍簿の副本は法務局で管理してはいるものの、常に最新の状態というわけではないはずです(昔はどうだったかはよく解っておりません(;'∀'))。
ちょっと違いますが、かつて日本の領地だった樺太や北方領土の戸籍も、一部を除いてほとんどが戦乱によって失われてしまっています。
さて、本題ですが、このわれわれが目にすることができる最古のA級資料である明治19年式戸籍。
どうやら編製された時期については、地域差があるようなのです。
壬申戸籍からの移行が遅くなったところは、おそらくよその町村が切り替えていく中でも、一定期間は壬申戸籍で事務を行っていたのだと思います。
高祖母の実家である石井家の明治19年式戸籍の本籍地が、「茨城縣久慈郡生瀬村大字小生瀬248番屋敷」となっています。
戸主は明治17年に相続しているので、これが遺っている最古の明治19年式戸籍。
しかし、「生瀬村大字小生瀬」とあります。
これは、明治22(1889)年に全国的に積極的に進められたいわゆる明治の大合併により、小生瀬村から生瀬村の大字となったことによる地名です。
つまり、少なくとも生瀬村となった明治22年までは壬申戸籍で事務をおこなっていたと想像ができるのです。
また、同じ大子町では、明治26(1893)年や明治29(1896)年編製(前戸主隠居等による)の戸籍簿よりも古い除籍簿は存在しないという例も確認されています。
もしかすると明治30年くらいまで、壬申戸籍での運用が行われていたのかもしれません。
茨城県では、私が知る限りでは現在つくば市上里となっている旧・牛縊村は大合併前に明治19年式を編製しています。
私の手持ち資料では大子町の他にそういったところは見受けられませんでしたが、明治19年式への切り替えがもっと早ければ、得られた情報がさらにあったのかと思うと、至極残念な気持ちになりますね。
おもえば変だけど・・・な戸籍謄本
あれは13年前になりますか。
娘が生まれるとわかった時から、子どもに祖先のことを伝えるべく家系探求を始めたばかりの頃でした。
母方平野家の戸籍や除籍を取得するべく、身重の妻に留守を託し、夏休みを利用して小清水町役場を訪れたのです。
その時点では、わたしの知識もピカピカの一年生。
出してもらった戸籍を見て、おぉ・・・知らない情報がわんさか載ってる~~(◎_◎;)と、大興奮していたものです。
2007年当時はまだ戸籍が電算化されておらず、原本からのコピーだったのでけっこう待たされましたね。保存のしづらいB4サイズでしたし。
小清水町の戸籍でもっともさかのぼることができたのは、高祖父・平野儀三郎(1866~1939)が筆頭のもの。
大正5(1916)年6月に小清水村へ転籍してきており、その際に編製された戸籍になります。
小清水以前には、明治34(1901)年4月8日に道南の利別村(現在の今金町)に転籍してきており、さらにその前は東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区西大泉地区)に籍があったことが記載されていました。
そしてこの頃はまったく疑問に思わなかったのですが、この戸籍には儀三郎の義父母(儀三郎は婿養子なので)や義妹夫婦が在籍しています。
しかし、なんということか・・・父母も義妹夫婦も、東京に戸籍を置いていたころにすでに分家して、籍を離れているのですよ(; ・`д・´)
義父・平野丑松(1827~1903)の欄には、こう記されています。
『明治17(1884)年1月24日隠居
明治28(1895)年2月23日東京府北豊島郡大泉村大字小榑1582番地へ妻子携帯分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・
また、義母・はつ(1819~1910)の欄には、
『東京府北多摩郡田無町 下田忠藏長女
明治28年2月23日夫丑松に従い分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・
丑松夫妻については東京時代の明治28年に分家しておりますので、その後の明治34年に転籍した利別村、そして大正5年に転籍した小清水村の戸籍に記載される必要のない人物であったのではないかと思われます。
また、丑松夫妻とともに義妹(儀三郎の妻である「いち(1863~1953)」の妹)夫妻も丑松に従って分家。
この、妹である「かの」の夫で、加藤家からの養子である音五郎が、本家を継いでおります。
この音五郎夫妻も、利別村、そして小清水村の戸籍に在籍しているのです。
当時はこういうものなんだなっていう理解だったのですが、その後、他にそのような除籍になった人が転籍後にも載っている戸籍を見ることがなかったため、この戸籍が特別おかしいんだなと思った次第です。
しかしながら練馬区は80年廃棄のため、儀三郎の戸籍は残っておらず、もしも利別や小清水の戸籍に丑松たちの名前がなければ、永遠にわからないままだったのです。
これは非常に幸運なことであったと思います。
本来であれば載せなくてもよい人物を、わざわざ記載してくれていたのですから。
おそらく当時は戸籍係の方も慣れていなく、持ってきた戸籍を基にしてベタに新たな戸籍を編製したため、このようなことになったのでは・・・?と想像しています。なお、利別村の戸籍は、滅失の虞ありということで2度にわたり再製されていますが、丑松たちの記載は残ったままでした。
出会えたことが奇跡だった丑松夫妻、そして最古の名として記載のある丑松の父・平野仙之助。
当時のどたばた、もしくは業務の勘違いにより、たまたま後世に遺された祖先の名。
奇跡に感謝し、もっと後世に伝えていきたいと思います。
丑松の父の名ですが、練馬区にギリギリ遺されていた昭和6(1931)年除籍の音五郎の戸籍には、以下のような書かれ方をしています。
両親の名が空っぽ・・・
たまに旧い戸籍には載っていて、次代の戸籍で父欄が空白になっているものが散見されますが、これはいったいどういうことなのでしょうね・・・?
なお、戸主である儀三郎の欄、
『明治16(1883)年4月24日 東京府北豊島郡田無町 新倉治兵衛次男養嗣子入籍
明治17(1884)年1月24日 養父丑松隠居に付き相続
明治27(1894)年12月9日失踪(!)
明治28(1895)年2月17日復帰す
東京府北豊島郡大泉村大字小榑1583番地より転籍届出 明治34(1901)年4月8日受付入籍
北海道瀬棚郡利別村字メップ番外地より転籍届出 大正5(1916)年6月13日受付入籍
斜里郡小清水村大字止別村字止別16線29番地に転籍届出 大正13(1924)年3月31日受付
(樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に転籍届出 昭和13(1938)年8月20日受付)
昭和14(1939)年2月22日午前3時 樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に於いて死亡 同居者平野とよみ(私のひいばあちゃん。長男の妻)届出 昭和15年5月2日受付
昭和15(1940)年5月20日平野政次(私のじいちゃん)の家督相続届出ありたるに因り本戸籍を抹消す』
・・・?
樺太への転籍がカッコ書きになっており、無かったこととされているようです。そのおかげでこれ以後のことがわかったため、これも幸運でした。
その翌年、波乱の開拓人生を送った儀三郎は、脳卒中で急逝。
家督を継ぐのは長男・留五郎のはずだったのですが、儀三郎よりも2年前に、罠にかかった熊を始末しようとしたところ、返り討ちに遭って急逝してしまっています。
そのため、若干18歳だったじいちゃんが家督を継ぐことに。
儀三郎の失踪や復帰などは、利別の再製されていた戸籍では記載がありませんでした。抹消されたのでしょうね。
そんな戸籍と序盤に出会っていたんだなって思うと、ご先祖さまのお導きなんじゃないかなと考えさせられます。
あらためて小生瀬石井家の謎
水戸藩士であった関鉄之介(1824~62)wikipediaを主謀者とした一味が、井伊直弼大老を暗殺した歴史上の大事件。
事件後にさまざまな地で逃走を続けた関は、事件から2年後に越後湯沢で捕えられて斬首されることとなりましたが、その関が主に潜んでいたのが現在の茨城県久慈郡大子町近辺。
匿っていたのは、大子町の名士である櫻岡家。
その櫻岡家の親類として関の逃亡手助けをしていた中に、石井重衛門という人物がいます。
石井重衛門。
私の高祖母の実家である大子町小生瀬の石井家、高祖母の祖父である石井重四郎と、名前がそっくりです。
そこで、重四郎=重衛門なのではないかという淡い期待を持って、櫻岡家子孫の方に質問をぶつけさせていただきました。
しかしながら、重衛門の周りの人物について調べていただくと、まったく知る名前が出てこず・・・。
祖先である石井重四郎は戸籍で知ることができた最古の名ですが、その子は石井庄衛門(正右エ門とも。1837~1902)。
庄衛門の妻は外大野の齊藤善治エ門の長女・ふゆ(1839~1909)。
庄衛門・ふゆ夫妻の子は、酉次郎、鐡之助、すゐ(私の高祖母)となっています。
しかし重衛門はといえば、父は石井源次兵衛義房。さらにその父は石井久治衛門義教。
源次兵衛の妻の弟、飯村平助が櫻岡家に養子に入り、櫻岡源次衛門直方となっており、その縁で重衛門は櫻岡家の親戚(櫻岡源次衛門の甥)となっております。
世代としては、重衛門と庄衛門が同世代であるかと思われます。
そして重衛門の子は兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。弟に伝重郎(平八郎とも)。
いずれも存じない名・・・
少なくとも、重四郎=重衛門ではないのだろうなというのが結論となりました。
また、かつて大子町出身の名字研究家、髙信幸男氏に石井家について質問させていただいたことがありました。
ほどなくして石井家墓地の写真を送っていただいたのですが、その写真では雰囲気しかわからず。
のちに現地を訪れ、あらかじめアポを取っていた石井さんにお会いさせていただきました。
この石井さんは、戸籍を見せていただいたところ、石井庄次兵衛さんという方を祖としているのを確認。また新しい名前が登場!
石井家の墓地を案内していただきましたが、新しい墓石が4基ならんでおり、髙信先生から送っていただいた写真とは違う雰囲気。
すると石井さんから、「昔からウチが面倒見てる益子っていう庄屋の墓もあるんだけど、見てみるか?」との言葉。
せっかくなので案内していただくと、そこには髙信先生から送っていただいた写真と同じ光景が!!
でも益子(ますこ)さん・・・?
よくよく見てみると、「益子庄右エ門」という名が刻まれた石もあります。
ウチの石井家は、もともと益子で、石井に名前を変えた・・・?
いまは東京に拠点を移しているという益子家。
世話は石井家が担っており、年に一度は墓参りに訪れているとか。
いったい石井庄衛門と、どのような関係があるのだろう????
我が家の祖先たちは謎ばかり遺して、何も解決させてくれません。ご無体ですよ~(+o+)
▼判る限りのごちゃごちゃな石井家系図
今年最後、そしてひさしぶりのチャレンジは・・・
さいきん、いままで取得した除籍謄本を見直していたのです。
そんな中で、妻の高祖父(母父母父)・相木萬九郎(1848~1926)の実家であり、高祖母(母父父母)・森井タケ(1845~1922)の実家でもある髙谷家の除籍が目に留まりました。
そこが高谷家があった地です。
我が家で髙谷家の除籍を取得できたのは、偶然でした。
高祖母・タケは森井半左エ門(1853~1922)に嫁ぐ以前、髙谷重太郎なる人物に嫁いでおり、そこでタケとの間に生まれた重太郎の忘れ形見、髙谷福松(1864~1908)の除籍に母としてタケが在籍していたのです。
最初は、「あら、傍系の除籍が取れた~」というくらいの気持ちだったのですが、そののちの大正4年式戸籍にタケの父として「亡髙谷萬兵衛」とあったので、「おりょっ!?」となったわけです。
その福松が戸主となった事由は「明治18年1月13日 当村 髙谷萬兵衛従弟分家」とのこと。
同じく萬兵衛の戸籍に入っていた母・タケも、福松に従って福松の籍に入りました。
萬兵衛と福松はイトコ。
ということは、萬兵衛の親と福松の親はきょうだい。
「従弟」というくらいですから、福松の親は萬兵衛の親からみたら弟か妹なのでしょう。
それで、タケが亡くなった最後の戸籍を見てみると、
タケは髙谷萬兵衛の長女。
福松のイトコである息子の萬兵衛と同名ですので、萬兵衛の名は世襲のようですね。
とすると、髙谷重太郎は婿養子ということになるのかな?
いろいろと判らない~。。。
・・・福松が分家した明治18(1885)年。明治19年式戸籍が編成される前年。
もし、タケの父・先代萬兵エか母・ユリが萬兵衛の明治19年式戸籍に入っているならば、取得できるはず!
一縷の望みをかけて、24日に八雲町へ郵送請求してみました。年末で忙しいのに・・・と思いながらですけれど。
そして連絡を本日いただき、残念な結果を告げられました(+_+)
しかし、「髙谷萬兵衛の戸籍には妻と子しかいないです」との回答を得ることができましたし、「いろいろ検索をかけてみましたが、やはりいませんでした。」とおっしゃってくださいましたので、あきらめがつきました。
先代萬兵エとユリは、明治19年式戸籍編製時点で既に亡くなっていたようです。
ちなみに高祖父・相木萬九郎の父は「髙谷萬藏」。名前がそっくりな萬兵衛との関係性も知りたかっただけに、至極残念。
実はこの請求は12年前にも行っており、諦めきれずに再度のチャレンジだったのです。
でもこれでホントに終わりですね。
その後、ひととおり他の除籍をながめてみましたが、もうワンチャンありそうな除籍は無し。
あとは直系の子孫を探して「除籍を取らせていただきたいので委任状を書いてください!」という、超ハードコアなミッションとなります。
わざわざそんないばらの道を歩くなんてMっ気全開ですけれど、ぼちぼちやっていくか~(+o+)
どんどんこういうことが厳しくなっていく(法律的にも世間的にも人の心も情報量的にも)のは明らかなので、できる範囲で後悔しないようにミッションを達成してきたいですね!
父系近藤家について、いま一度
菊地儀平(1844~97)。
福島から屈斜路に入植してきた私の高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の父親です。
私から見ると「父父父父父」。非常に大事な人物。
我が菊地家の戸籍は、東白川郡東舘村で編成されたこの菊地儀平が戸主のものが最古。
その儀平の欄には、「同郡上関河内村 近藤勝右衛門 五男」と記載。
上関河内(かみせきごうど)は、かつて関河内だった地が、江戸期に上下分かれた地。
現在は東舘と同じく矢祭町の大字となっております。
その儀平が生まれ育った近藤家。
いまは彼の地に3軒の近藤姓がいらっしゃいますが、元をたどるとどのお宅も「近藤数右衛門」という、かつて上関河内の名主(庄屋)だった家をルーツとしています。
明治2(1869)年に近辺で打ちこわしがあったのですが、その首謀者処分の公文書中に「上関河内村 名主 數右衛門」の記載が。
いつから近藤家が名主の立場であったかは不詳ですが、数右衛門は代々世襲のようで、旧い近藤家の墓石には寛政元(1741)年に没した「近藤數右衛門義次」の名があります。
それを鑑みると、少なくとも「近藤數右衛門」という名には120年以上の歴史があったのだと思われます。
なお、享保3(1718)年に「近藤新六藤原義高」なる人物が、父母の墓石を建立しているのが確認できた最古の記録となっています。
「近藤」という苗字だけあり、藤原姓を名乗っていますね。
この地で300年以上の歴史を刻んできている旧家です。
その近藤家、確認できる最古の戸籍は、近藤邦彦(1850~1914)が戸主のもの。
そしてその父として近藤義冨(1811~90)が在籍していますが、この義冨こそが前述の公文書に記載のあった近藤數右衛門その人です。
邦彦は明治9(1876)年に上関河内村長として名があり、その時点では若干26歳でありました。
他の2軒の近藤家については、邦彦の弟が養子となった近藤新右衛門(義冨との関係は不明)家と、邦彦の養子(邦彦よりも17歳上!)が分家した家となっているようです。
この時点で、儀平の父として記載がある近藤勝右衛門という名は出てきていません。
儀平は五男。若くても儀平出生時で父親は30歳くらいでしょう。
30歳くらいだったと仮定すると、勝右衛門は文化10(1813)年あたりの生まれかと考えられます。
儀平の戸籍の勝右衛門については「亡」の文字が無いので、明治19年時点(当時73歳くらい?)で存命だと考えられるのですが・・・
子孫の方々の協力を仰がせていただき、残っている戸籍はすべて取得しているはずなのですけれどもね。
なお、儀平が菊地家に婿入りした時期は不明ですが、26歳だった明治4(1870)年に長子が生まれているので、それ以前でしょう。
壬申戸籍の編成が明治5(1871)年ですので、きっとそれよりも前となります。
当時、壬申戸籍の編製をどのように行ったのかはわかりませんが、こうなってくるとまた妄想が始まります。
①現在は存在しない近藤家に勝右衛門という人物が居たのでは・・・?
→上関河内の墓地では名前を見つけられず、ちょっと弱い。
②「かつえもん」ではなく、「かずえもん」だった
→戸籍編製時に口頭で手続きしたとするとありえる?年齢的にも儀平出生時は義冨33歳。めちゃめちゃ自然。もしくは儀平が漢字を間違えたとか・・・。
しかし、②については怪しい点もあります。
儀平が弘化元(1844)年9月15日生まれ。
義冨の長女が弘化2(1845)年3月28日生まれ。
もし儀平が義冨の子であるならば、妹との出生日が半年しか違わないのです。
また、近藤邦彦は義冨の長男として記載されていますが、邦彦は五男のはずの儀平よりも6歳下。
・・・いろいろと無理が生じてきました。
強引に推察してみることはもちろんできます。
儀平は五男だけれども、壬申戸籍編成前に養子に出たので、籍に残っていた邦彦が長男として記載された。
妹との出生日の差も、もしも違う母親だった場合ならばありえなくもない。
名主ならばそういったことも・・・?
あるいは、出生日を間違えて登録してしまったとか。
そして、義冨が56歳、妻が48歳の時に五女が生まれているので、五女の母親は妻ではないような気がする。
・・・近藤家の墓石には、以下の文字が彫られています。
明治7年2月4日 二男 彦信
明治13年10月13日 三男 彦三
明治15年8月3日 四男 和義・・・
年齢が彫られていないので何とも言えませんが、明治19年戸籍編製前に亡くなった男子3人。
戸籍上、邦彦の長男・近藤近彦は明治8(1875)年生まれ。
男子は近彦のみで、明治16(1883)年と19(1886)年に娘が生まれています。
この墓石に彫られている二男~四男は、邦彦の子と考えるのが自然でしょうか。
しかし長男が彫られておらず、近彦は二男が亡くなった日よりもあとに生まれています。
もしかすると、義冨の子の墓石かもしれない・・・ともおもったりしています。
菊地家と同じく、この近藤家(というか儀平の出自)についても謎が多く残ったまま、ぜんぜん進まずやきもきしています。
ドラえもんのタイムマシンがあればなぁ・・・