真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

山形県最上郡大蔵村→釧路市【柿﨑家】

今回は、嫁の母方の祖母の実家、柿﨑家です。私の娘からすると、母母母・・・とつながる女系の系譜となります。

柿﨑家は大正5~6(1916~17)年頃、嫁の曽祖父・柿﨑作次郎(1902~1966)一家が、山形県最上郡大蔵村大字南山より釧路市大字釧路村西幣舞(現:知人町)に移住したのが最初のようです。その父、柿﨑運次郎(1878~1943)も後に釧路に移住したようです。

山形の柿﨑家については、大正4(1915)年の大蔵村役場の火災によって書類が失われているようでしたので、かなり情報が少なくなってしまいました。

確認できる最古の方が柿﨑権兵エという名で、養子として柿﨑五三郎の三男・柿﨑権兵衛(1846~1929)を迎えます。さらにその養子・権兵衛の妻は、柿﨑兵三郎の二女・マサ(1848~1934)という方でした。その長男が高祖父・運次郎です。他にも柿﨑姓が多く見受けられます。

当時の南山村は、おそらく柿崎という家が多く集まっている村であったようで、インターネットで調べてみると現在も柿崎という名前が多く見られます。きっと元になった祖先の方がいるのではと思い調べたところ、
http://mogami-kyoboku.sca.ac.jp/guid.php?no=76←サイト消滅のため、以下にアーカイブから転載

巨木の伝説
 大蔵村赤松の東漸院というお寺の裏手から、山どおしに四箇村の平林に通じる山道が、かつてあったが、現在は廃道になっている。
四箇村とは、沼台、滝沢、豊牧、平林の四集落の古称で、東漸院からの山道は縄路と呼ばれているが、それは、四箇村の開祖と言われる三原勘右衛門が、深山を踏み分け踏み分けて進んだときに、帰りの目印として木に縄を結んだことに由来すると言う。
もう一つは、冬道の帰り道に、雪の中に木を立てて、そこに縄を結んで道しるべにしたことから来ているとも言う。
現在は、まったくの薮に埋もれた道だが、我々は、薮こぎと称して、山中を突破して平林に抜けたことがあった。それは、明治末までの重要な街道だったが、今は十年に一度とて通る人はいない。現在の国道458号線の原型だったが、肘折街道ができる以前は、縄路が肘折と清水の間の主要幹線の一部を構成していたのだが、今は知る人とてもない現状である。
縄路の中ほどに、見通しの松という有名な松の巨木がある。縄路の中の里程の松として植えられた松群の一本だが、見晴らしの良い台地の中心に、それは、値千金の面持ちを見せて、孤立していた。見事なる笠松であり、根回りは2mを越えるだろう。
見通しの松に代表される里程の松は、南山村の庄屋だった塩という集落の柿崎弥左衛門が、戸沢藩主の命により、労苦をいとわず、道しるべとして植えていったものである。柿崎弥左衛門は、天保四年(1833)の飢饉のときに、村民を救済した人として有名である。
先に記したように見通しの松は、赤松の東漸院の裏手から山中に入り、台地を通って平林に抜ける山道の道標として植えられたが、そもそもの始まりは、四ヶ村の開祖である三原勘右衛門が、深山を踏み分けて進んだ折に、帰りの道標として木に縄を結んだことに由来すると伝えられる。もう一説として、冬期、道の方向がわからなくなるために、木を切って立て、それに縄を張って道しるべにしたという言い伝えもある。
見通しの松は、南山村庄屋の柿崎弥左衛門が、戸沢藩主の命を受け、見晴らしのよい要所要所に道しるべとして植えたのだが、弥左衛門の三代義孝は、「巳荒子孫伝」の著者であり、そもそも柿崎の出目は、清和源氏の末裔であり、その後、上杉幕下の有力武将であったが、落武者となって南山村に落ち着いたと伝えられる。


との記述がありました。

これは上杉謙信の家臣・柿崎景家のことかと思いますが、もちろん推測でしかありません。でもこういう言い伝えがあるとロマンを感じずにはいられないのです。でも、恐らく現地に行ってもどこの家が本家かわからないかもしれませんね。家紋に違いがあればわかるかもしれませんが・・・。


<柿﨑家直系系譜>
柿﨑権兵エ→養子:柿﨑権兵衛→長男:柿﨑運次郎→長男:柿﨑作次郎→長女:祖母・・・。
家紋:丸に隅立て四つ目結

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