小出家②
先日の続きになりますが、小出家についてのことです。
お手紙の内容によりますと・・・、
資料はないものの、小出家は加賀前田家の流れを汲んでいるそうであります。
家紋も、「丸に梅鉢」ということで前田家の「加賀梅鉢」ではないものの、つながりは連想されます。
ネットで調べた限りでは、前田家内には小出という名はみつけられなかったのですが・・・。
その後、時期不明ですが浄土真宗大谷派の「専念寺」とともに加賀より越後国嘉瀬村(嘉瀬村は両川村を経て現在新潟市江南区)に移住したそうです。
専念寺は文政6(1823)年に浄土真宗東本願寺門跡が一泊した記録があるので、建立はそれより以前だと思われます。
現在確認できる最古の祖先・小出傳平はその専念寺に眠っております。
小出家の回りは堀で囲まれ、殿様が泊まられる立派な家だったとのことでした。
そこから分家となったのが、現在の吉江の小出家です。
傳平の代か、それともその長男・石五郎(1847~1919)の代か、いつの頃に分家となったかは不明ですが、少なくとも明治12(1879)年以前より中蒲原郡上高井村(現在の新潟市南区高井興野)に居住し、造り酒屋を営んでいました。
その上高井村にあった小出家は、明治12(1879)年ころ長崎県より端を発した大コレラ(死者は約10万人と云われる。当時はコレラ菌は発見されておらず、ドイツのコッホによってコレラ菌が発見されるのはこの5年後)によって、石五郎とまだ3歳だった二女のノセ(私の高祖母:1875~1964)を残して全滅。ノセは縁戚にあたる吉江の皆川新右衛門家に引き取られました。
また、石五郎はその後どうしていたのか。明治41(1908)年に上高井村に帰郷届出をし、その4日後に吉江に転籍。
同年8月にノセの婿養子として同じく吉江の鹿嶋福松(1871~1937)を迎えましたが、鹿嶋家からは婿入りに反対がありました。しかし、小出も立派な家柄であり、結局婿入りを許された・・・というお話。
石五郎は大正8(1919)年にどういった経緯か不明ですが福島県で没しており、プロフィールもまったく不明。
小出家は代々教育者が多いそうで、村民の人望も厚かったそうです。
嘉瀬の本家とはコンタクトを取っておりませんが、いずれ加賀時代のお話を伺ってみたいですね。