真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

石井家より貴重な記憶をいただく

家系のインデックス

 

おととしのことです。

 

高祖母・菊地スイ(1874~1931。転籍によって「スエ」表記となることもあり。墓碑は「スイ」)の実家である石井家(本貫地は茨城県久慈郡大子町小生瀬)についての情報を、縁あってこのブログをご覧いただいた方よりいただくことができました。

 

石井家は、転籍転籍で行方がわからなくなり、現地・小生瀬へ赴いてもなお、手掛かりが得られなかった家。

 

その方は、当時石井家末裔(高祖母の次兄である鐵之助の子孫)の方がご勤務されている常陸大宮市の職場で実習をしていた優秀な大学生。

 

その方によって、私が石井家について探求しているということが石井さまにもたらされたのです。

しかもその大学生の方は、私の6代前の祖先・菊地儀平(1844~97)の実家・近藤家とも親戚であるとのこと。

 

それは実に不思議なご縁でございました。

 

そのお陰で、石井さまより以下のような貴重な記憶をいただくことができたのです。

 

「私の曽祖父・鐵之助に、スイさんとおっしゃる妹がいることをはじめて知りました。常陸大宮市で入手できる我が家の戸籍には、すでに結婚していたスイさんの記述はないからです。ちなみに、庄衛門(※鐡之助の父)の母の名も、スイと記されています。また、庄衛門や鐵之助の戸籍に現れる、小生瀬の酉次郎(※鐡之助の兄)さんが何者なのか疑問でしたが、今回明確にわかりました。ありがとうございます。
名前の表記について、当地では「イ」「エ」の発音が曖昧なために表記にも異動があり、「右衛門」の表記も、単に「衛門」とも、しばしば構わずに使っております。

 石井家が小生瀬村の庄屋だったことは、私も子どもの頃から問わず語りに聞いておりました。水戸藩内の幕末の政争「天狗諸生の乱」で、親子が天狗派と諸生派に分かれ、天狗派であった息子が小生瀬の家を出てしまい、一時は原戸籍からも抜かれていたことなど、断片的に聞いておりましたが、出てきてしまった土地での昔のことは、何とでも良いように話を作ることもできるから、と一笑に付しておりました。

 このたび、菊地さんのブログを拝見して、同じような伝承があることを知り、少し真面目に父の思い出話を聞いてみました。おかげで、今までごちゃ混ぜになっていた曽祖父と祖父の話を、少し整理することができました。

 天狗諸生の乱で家を出てしまった子というのが庄衛門、当時31歳。父(※鐡之助の孫)が聞いている話では、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念し、妻と赤子だった次男・鐵之助を連れて谷底に身投げしようとしたところ、赤子が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、東館(※大子町の隣町で、菊地家本貫である福島県東白川郡矢祭町東舘)付近に潜伏したとのことです。当時、7歳ほどになっていた長男・酉次郎は父・重四郎に託し、小生瀬の家に残したのだと思われます。鐵之助の生まれ年から考えると、明治元年のできごとのようです。

 そのまま東館に腰をすえ、鱗(うろこ)屋(わが家の屋号はウロコヤといいます)という旅館を開業して大いに儲けたそうです。鐵之助の妻・アキや長男・一(はじめ)から、大きな池のある立派な旅館だったと、私の父は聞いているようです。しかし、一が5才位の時に破産したとか。庄衛門の死をきっかけとして、家財道具を大八車に乗せて夜逃げ同然に東館をあとにしたようです。
 このときの様子を、私の祖父・一は、大八車に母・アキと幼児だった弟・仁を乗せ、父・鐵之助が車を引き、幼い自分は後ろを押したと、後々まで語ったそうです。自分の郷里のある大子は通らず、東の小里街道を水戸に向かったようですが、晩年、私の父が祖父をドライブに連れて行った際に、幼い時に車を押しながら見た、天下野と中染(どちらも現常陸太田市)にある山田川にかかる橋周辺の景色を、覚えていると言って懐かしがったとのこと。
 小生瀬の屋敷跡は、父が子供時分に竹薮になっていると聞いていたとのこと。

 現在の我が家の墓地は、市内近所の寺院にあり、墓誌に「小生瀬で横目を長年務めた」と刻してあります。「横目」とは村内の取り締まりを兼ねた庄屋のことのようです。父によりますと、この墓地を造るに当たり、東館の東慶寺にあった墓を移し、庄衛門夫妻の遺骨も納めたそうです。

 小生瀬での先祖のことは、杳として知れません。しかし、吉村昭の小説「桜田門外の変」で、大老暗殺後、上方に赴いた関鉄之介に金を届けたり、小生瀬で匿ったりする石井重衛門は、ウチの先祖だと父は思いたいらしく、また、近世初期に水戸藩が行った小生瀬一村皆殺しの事件を扱った小説「神無き月十番目の夜」の主人公石橋藤九郎について、石井を石橋に置き換えているのだと言う地元大子出身の歴史の先生も居ました。ちょっとかっこよすぎます(笑)。

 石井重衛門がウチの直接の先祖であれば、歳から言って庄衛門がその人になります。当時、名前は結構変わりますし、逐電した身でれば、偽名を使うことは常套でしょうが、いかがなものでしょう。周辺の人物との齟齬も見受けられます。

 最近父が思い出したと言って話してくれた中に、父からして祖母にあたる、鐵之助の妻・アキが、「お前が生まれるのであれば(父は、一に長女が生まれてから10年後に授かった長男なのです)、家にあった幾振りもの刀と鎖帷子を残してやれればよかったのに」と幾度も嘆いたと。幼い父には「ヨロイカブト」ではなく「クサリカタビラ」なのが何のことかわからず、また残念だったと笑っていました。

 普通の農家に鎖帷子はあるまい、という思いや、庄衛門が次男である私の曽祖父に「鐵之助」という名をつけたことを、深読みしたいとの思いを持つ私も、警戒しつつも先祖に期待しているのでしょう。

また、最後に、

「生瀬にいたころの菩提寺は聞いていないそうです。よって、宗派も不明です。東舘に移ってからは、東慶寺(※菊地家と同じ)に墓地を定めたそうです。
 屋敷があった小字は、寺地(てらじ)という所とのことなので、寺院があったと想像されますが、幕末の水戸藩は激烈な寺院整理を実施し、多くの寺が廃されたので、その時に失われたのかもしれません。
 水戸藩の開基帳を丹念に調べればわかるかもしれません。ただし、石井の菩提寺だったかどうかはわかりません。」

 

・・・と、こと細かに情景が浮かび上がるような、非常に大きな転換期の話が口伝として現在まで伝えられておりました。

この話については、実は石井さまに大っぴらにしないでくださいねと云われていたのですが、歴史的に貴重なお話であることから、思い切って(勝手に)記載させていただくこととしました。石井さま、ごめんなさいごめんなさい<(_ _)>

 

菊地家の矢祭町東舘と石井家の大子町小生瀬は、県こそ違えどほぼ隣町。

矢祭は棚倉藩の所領ではありつつも、常陸水戸藩の影響も大きく受けていたのではないかと思っております。私が除籍等で知る限りでも、頻繁に通婚や養子もあったようですから・・・。

その事実が、余計に菊地家探求への混乱をきたしていることもありますが(;・∀・)

 

また前述の大学生さんですが、ご実家が大子で際物を取り扱っているお宅だそうです。親戚ということで、かつて近藤家の葬式を出したときに提灯の受注を受けたことがあるそうで、その時に提灯に書いた家紋を教えていただいたのもこの方です。

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▲近藤家の家紋。曰く「隅切り角に違い鷹の羽」という一般的な家紋ではなく、「八角形に違い鷹の羽」や「八角隅切り違い鷹の羽」と称される家紋。

 

というわけで、石井家や近藤家。そして間接的に菊地家についての記憶をいただくことができたのです。あのときお世話になったみなさま、お元気に過ごされているでしょうか。

そんな奇跡的な出来事から、もう2年以上経過したんだなぁ・・・と思いにふけりながら、39歳の年の瀬を迎えます。