福島菊地家の本家を、釧路の机上で想像
幾度となく書いている気がしますが、私の祖先は福島県の一番南に位置する矢祭町をルーツとしております。
菊地家は高祖父・幸吉(1874~1959)の代、大正2(1913)年に北海道弟子屈の屈斜路へ入植するのですが、福島時代のことは秘密のベールにつつまれております。
かつて、このブログをご覧いただき、ご自分のことではないのにもかかわらず、かなりの時間を割いてくださっていろいろ私の祖先についての資料を送ってくださった恩人がいらっしゃいます。
その宮城の増子さんが送ってくださった資料を、久しぶりに本腰を入れて解析してみようと思っている次第。
手始めに、6代前の祖先である菊地儀右衛門孝昭(1810~1890)の実家である菊池家があった関岡村字飯野(現:矢祭町関岡字飯野)の地籍簿に手を付けてみました。
関岡村の土地所有者の一覧なのですが、製作は明治15(1882)年ころのようで、非常に貴重な資料かと思います。
以下は、字飯野の宅地のみをまとめた一覧です。
所有者 | 総坪数 |
菊池 健三 | 472 |
菊池 仁一 | 462 |
菊池 政恒 | 279 |
菊池茂右エ門 | 260 |
菊池喜四之助 | 232 |
斎藤 房吉 | 198 |
菊池 豊吉 | 153 |
篠田 庄八郎 | 151 |
菊池 多門 | 142 |
丸山 辰吉 | 60 |
一番多く宅地を所有しているのは、菊池健三さん。
健三さんは、儀右衛門の父である菊池友元(1781~1855)の実家とされている地番にお住まいでした。
地籍簿の記載には、友元やその息子である友輔の墓地がある地番も含まれており、おそらく友元の家よりも本家筋に近い家だと目論んでいるお宅です。
想像では、たとえば友元に兄が居り、年代的に健三さんはその兄の孫くらいなのでは・・・とか勘繰ったりして。
そうなると、健三さんは儀右衛門の娘であるハツからみてハトコに当たります。あくまで想像ですけど。
続いて、菊池仁一と政恒の親子も多く土地を持っています。政恒のほうが父親です。
友元→友輔(儀右衛門の兄)→政恒(1843~97)→仁一(1868~?)と、代々医師を生業としている立派なお宅。おそらくこの数字の中に、地域の重要な医療機関であった乾唱堂医院も含まれているかと思います。
▲国会図書館デジタルライブラリ「日本医籍録. 昭和9年版 奥羽版」の、仁一についての記述。非常に多くの肩書を持っていたようで、さぞかし大変だったでしょう。でもまた「菊地」になっている・・・(*´Д`)
2008年に矢祭へ行った際、このお宅の子孫(仁一の孫)である菊池玄(1924~2016)さんにお世話になり、資料をいただいたり、言い伝えを教えていただいたりしました。
そのあとの菊池さんである茂右エ門さん、喜四之助さん、豊吉さんは存じ上げないお名前ですが、多門さんという方は、10年以上前にお手紙作戦をした際にご返事をいただけた方のご先祖さまです。繋がりは見出せませんでしたが・・・。
こうやって、改めて眺めてみると、いろいろな思いが込み上げてきました。
よし!次の行動に移す決心がついたぞ~!
話は突然変わりますが、福島の大学の仲間で結成した「GReeeeN」というグループが、2016年に「始まりの唄」という歌のミュージックビデオを作った際、関岡小学校の閉校をドキュメントとして残してくださっています。非常に心打たれるMVとなっておりますので、多くの方に一度ご覧いただきたいです。