真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

福島県西白河郡東村史を改めて読んでみる

家系のインデックス

 

6年前にも記しているのですが、曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の両親系統(千田村藤田家蕪内村藤田家岡部家角田家)が固まっている福島県西白河郡東村(現:白河市東地区)の村史を相互貸借で借りたことがあります。

このたび、改めて読み直してみて、気になった部分を抜粋してみます。

 

千田館(孫八館)
大字千田字孫八にあり、結城孫八郎左兵衛義綱(結城家第12代)住すという。法名は明舟院と号し、第11代顕頼の長男といい、また一説に仙台白河政頼の子ともいう。大永4(1524)年、仙台の藤田(伊達郡ならん)から来たともいわれている。字の名を孫八と云い、一族藤田を姓として現存している。

高祖父、藤田松吉(1853~1937)の実家がおそらく孫八かと推察しています。だとすると、もとは伊達郡(やっぱり福島ですね)だったのかも。

調べてみると、今は伊達郡国見町になっておりますが、過去に藤田村という村があったようですね。今も国見町藤田は国見の中心部として名前は健在なのですね。

 

嘉永2(1849)年の庄屋
『・千田 喜右衛門
 ・蕪内 次左衛門』

・・・うむ、誰ともつながらない。

 

姓氏について

明治5(1872)年、戸籍簿が作成され必ず苗字(姓と名前)をつけることになった。庄屋、名主が廃止され、太陽暦が採用された。同じ苗氏だから同族かといえば、そうでもない。苗氏が異なっていても、血のつながる分家もある。もう一つ、たと同族部落のようでも、祖先がただ一戸移り住んできて開発定住し、そこから漸次分家して、現在何戸かの村もある。
 旧釜子村は大字釜子字北町の野崎、我妻姓や、若栗新田、舘新田、大字千田字孫八の藤田姓、大字形見字宿の佐藤姓、字東地の我妻姓、大字栃本字尺阿見の水野谷姓、字下寺内の斉須姓、大字蕪内の岡部、飛知和姓、大字深仁井田の小松、吉田姓、大字上野出島字大竹の鈴木姓、中ノ作の深谷姓、大字下野出島字坂本の佐久間姓、字板倉の本宮姓、字石原の大平姓、藤田姓、字岩井戸の藤沢、上遠野姓、藤田姓、字坂口の遠藤、菊地姓など血族関係のなかにも同志をつのり土地を分配して、集団開発していると思われる同族の多くは、分家、ワカサレ、マケともいうが、また隠居分家、全く血縁がなくとも長く奉公をしていた人に世帯をもたせ、独立させたような場合もある。そのようなときには、苗氏のちがう「ワカサレ」も出来る。
 また結婚により同じ村に住みついているものもある。また同族部落のように見えても漸次移り住む人も戸数も増していったが、土地所有、分配の関係から系統の異なった数族がある。このような同族的組織は村落社会のなかに根強い形態をもっている。
 古い村の開発の家の系統は、たとえ一部に系図書のようなものが残っていても、その最初に村に落着いた祖先までたどれる場合がまれえ、多くは後世に作製された系図が多いようであり、実際には明確でない。従って完全な同族部落とは断じられない。また、不明(1783~88)の凶作やその他の洪水や火災の災害などで興亡をたどった処もあろうと思われる。

家臣の関係
・結城義綱公の家臣
 鈴木、我妻、市川、佐川、藤田、渡辺
・釜子長者として
 吾妻、豊田、市川、斉須、辺見、藤田、緑川、鈴木、佐川、中根、渡辺
・榊原の家臣
 吉田、石野、富田、富山、高橋、矢吹、山田、緑川、島村、藤田、関口、久保田、橋本
・白河結城の家臣
 辺見、深沢、深谷、佐藤、白岩、鈴木、大越、青木、渡辺、高橋、富山、岡部、穂積、芳賀、秋山、角田、大塚、森
・古代八十姓
 渡辺、穂積、山辺
・石川昭光の家臣
 近内、矢吹、辺見、坂本
・平家
 小松、小野、熊谷
・源氏
 辺見、飛知和、菊池、宍戸
上杉景勝の臣
 有賀、河合、外山、山口
白河城
 林、深沢、志賀、大谷、高野
藤原氏の後裔
 遠藤、近藤、佐藤、斉藤、加藤、武藤、山田』

藤田は結城義綱家臣として挙がっていますね。岡部、角田は白河結城家臣となっています。なにが違うのか?

 

東村の姓と氏
『古代に関する本村の姓氏については現在の処、調査困難であるが、姓氏紋章等を研究すれば更に判明するであろうが、徳川時代より明治初年までは、公儀即ち藩の役所へ提出する書面には農民一般には姓氏を名乗ることを許されず、明治4(1871)年に至って、姓氏を名乗ることが出来ることになった。しかし姓氏は許されていないとは云え姓氏を持っていた。またその当時他郷から来たものには、故郷の名を忘れ難く出生の土地の名を記念して姓としたもの、また移転して来たその土地や、ある人は親分子分の関係や主家の姓を貰って改めたもの、ある人は屋敷養子となって変えたものなどがあり、現在の子孫はこれらの姓を受け継いでいる。
 終戦前の民法による本家分家による姓氏の継承が行われていた。昭和23(1948)年の改正民法と戸籍法等により、結婚すると直ちに一家創立して本籍より離脱して別に本籍を取得することになって居り、此の結果姓氏の数は年々増加を見ることになった。
 本村における昭和45(1970)年12月31日現在の「姓氏」について調べた処、村全体で1,083の「姓氏」があり、この内鈴木姓が162で最も多く、藤田53、我妻40、野崎35、小松33、本宮32、佐藤31、矢吹25、大平25、菊地24、斉須21、藤沢21、八代17、角田16、飛知和16、吉田16、大竹15、橋本15、等が主な姓の順位となっている。従って今後学術的に詳細に調査研究すれば興味ある問題とも云える。

これはなかなかリアルな調査ですね。このまま突き進んでほしかった!

 

大正3(1914)年 釜子村議会議員
 角田儀三郎 大字千田
 岡部慶蔵  大字蕪内
 岡部丑蔵  大字蕪内

大正8(1919)年 釜子村議会議員
 岡部嘉蔵  大字蕪内
 藤田文治郎 大字蕪内
 藤田栄寿  大字千田

やはりこの年代になるとつながりは見出せないです。

 

ブラジル移民
昭和の初期は第一次世界大戦後の不況時代で、特に農村は戦時中、米一俵20円まで上昇したが6円台に暴落したので、多くの農家は多額の負債になやまされた。
 政府は人口問題と農村不況対策として、民族の海外雄飛を旗印にブラジル移民を奨励した。
 昭和6~9(1931~34)年にかけて、旧釜子村より多くのブラジル移民を送った。この移民は渡伯後、種々の困難に出会ったが、悲惨な結末を告げた満州移民と異なり、現状では皆順調に発展し、現在もブラジル国の住民として活動している。
 特にパラナ州アサイ市近在には、釜子出身者が集まり、毎年12月中旬頃に踊大会が催され、故郷をしのんで釜子盆踊が盛大に行われている程である。

①藤田千代治家
 大字釜子字北町出身 パラナ州アサイ市グルカイア地区在住、妻ヨシ、六男二女あり。昭和6(1931)年10月、ブエノス丸にて渡伯。グルカイア日本人会の学務委員及び組合理事をつとむ。
②藤田米吉家
 大字千田字孫八出身 昭和22(1947)年死亡。妻ミヤ 昭和16(1942)年死亡。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。サンパウロ州で農業を営む。
③藤田恒要家
 大字千田出身(藤田頼光弟)、妻トミヨ。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。ソロカバナ線オウリンニオス在住。精肉販売を営む。
⑥藤田佐平次家
 大字釜子字北町出身。パラナ州アサイ市グルカイア地区で死亡。妻コヨ 昭和9(1934)年8月リオ丸にて呼び寄せ渡伯。①の千代治氏は長子。藤田家一族の世話はもとより、アサイ地区に集合した釜子出身者の相談相手としてその発展に尽くす。

けっこう多くの藤田さんが東村からブラジルに渡ったようです。今もブラジルに藤田の血族がいらっしゃるのでしょうか?

 

・・・と一通り読み直してみましたが、ピンポイントに祖先を探すのではなく、改めて視野を広く時代背景なども考慮して読んでいくと、いろいろなことがわかってきた気がします。