真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

新編武蔵風土記稿、小榑村部分抜粋

家系のインデックス

 

母方平野家について、明治時代に編纂された新編武蔵風土記稿の小榑村(現:東京都練馬区西大泉3~5丁目付近)項で何かわかるかも・・・という思いでちくちく現代仮名に直して入力してみましたが、特に得るものはありませんでした(*´Д`)

せっかく打ち込んだので、読みづらいとは思いますが以下に載せてみます。

つぶれて読みづらい文字がありましたので、間違っている箇所があるかと思いますが~(;・∀・)

 

新編武蔵風土記稿

小榑村
小榑村は廣澤庄と称し、郷名は伝えず郡の東南の隅にありて江戸を隔てること五里余り。
東は上白子村及び白子川を隔て豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及び郡内上保谷村に境、北は中沢辻爾村に接し、上白子村の西方より土支田村の境、白子川の流れに沿い斜めに西の方へかけ入り、その形半月の如し。
故に北によりたる所は東西一里余り。南の方は縦に十町許。南より北へは五町もあるべし。
人家320軒。川越街道の内、白子の宿へ人夫の定助をつとむ。このあたり用水の便あしければ水田少なく畑多し。米穀は一里許隔てたる黒目側の河岸へ津出しをなし、荒川を経て江戸までえ川路十六里余り。
この村の飛地、隣郡土支田村に二ケ所、本郡中澤村に一ヶ所あり。北條分限帳に小榑深屋98貫860文。太田大善亮知行とあり。染屋は多磨郡染屋村にて、小榑はこの村なれば北條家の時代までは太田氏の知行なりしか。御打ち入りの後、板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは上新倉村に見えたり。板倉氏この地を領せしは、勝重より子息伊賀守に及び寛政3(1791)年の頃までなりと村人の伝うるところなり。されど板倉家系に勝重の子は周防守重宗とあれば伊賀守といえるは誤りにや。
正保(1645~1648)の頃、御代官野村彦太夫爲重が支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり。のち寛文年中(1661~1673)に至り稲葉美濃守正則の領地となり、寛文3(1663)年、同人検地せり。その子丹後守正通、貞享2(1685)年、越後國高田へ所替あり。
のちまた御代官所となり、元禄16(1703)年、江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜り、それより累世今も米津氏の領知なり。

小名
・堤村
村の西北の方を云い、この厥(まがり)の辻に高さ3尺8寸、幅1尺4寸3分、厚さ1尺2分。正面に題目を刻み、側に享保元(1716)年に建てたる由を彫る四面の塔あり。
故に土人ここの小名を四面塔ともいえり
・榎戸
榎の古樹が残っており、故に名づく
・水溜
村の南にあり
・小作
村の西にあり
・中島
土支田村の境にあり

山川
・白子川
この村と土支田村との境て北に流る。川幅2間許
・井頭池
この村および土支田村の境南によりてあり。白子川の源なり

原野
・林場
村の東北隅にあり

神社
三十番神
村の鎮守なり。小名中嶋にあり本照寺の背後にあたれり
・稲荷社
小名堤村にあり。鎮座の初め詳しならず。9尺1間許の小稲荷に鳥居あり。村内圓福寺の持なり。

寺院
・妙福寺
村の東、豊島郡土支田村より入口にあり。法華宗。下総國葛飾郡中山法華福寺の末法称山と号す。弘安5(1282)年、法華経寺第二世日高聖人草創の地なれども、のち住める僧もなかりして、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、十七日の説法ありしに、村内天台宗修験大覚寺の住持日延聖人もこの法筳に至り、深くその宗意を帰依し遂に改めてこの宗となれり。
日祐も日延聖人の知識にのってならさるを知り、当寺をこの聖人に譲れり。
今は日祐聖人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す。日延は永和2(1376)年11月11日に寂す。
のち天正年中(1573~93)、御朱印地21石余りを賜りしか、のち回禄(火災)に罹り寺も滅べしに、21世明了院日教聖人、堂宇を再造せしにへ。
これを中興開基とす。この聖人は享保11(1726)年11月1日寂せり。本尊三寶を本堂に安す。
往古大覚寺の本尊は、嘉祥3(850)年創建の時、開眼の釈迦(金佛坐像)今もこの寺に納め置いたりという。金剛は近き頃塗り直し、古色を失うに似たれども容貌この常の像に非ず茜きものと見えたり
三十番神
二間半、四間半、祖師堂に向かって左にあり
・七面妙見相堂
二間半に四間半、祖師堂の丑寅にあり、三間四面この鬼子母神法華経寺に安せる像の本礼なり。往古日蓮聖人、平日の済経佛なりしを日祐聖人へ伝わり、ついに当寺へ納めたり。本寺には卸して○刻の○を安せり嘗て給わるところの御朱印もこの鬼子母神へ寄付せしと云う
・本堂
九間に八間祖師堂の北にあり
・鐘楼
祖師堂に向かって右にあり、鐘は廻り2尺5寸、高さ3尺5寸許。寛文年中(1661~73)の銘を彫る。その文は後にのす是によれば古鐘をこれ○あらため鋳しと見ゆ。文の終に慈東山大覚寺の文字隠然とあれど、これは○うちけしたりと見ゆれば模糊として、正しくは読みがたし。またそれ故も伝えては詳しならず
・本照寺
境内8畝9歩(249坪)。小名中嶋にあり、本堂五間に七間半。了光山と号す。開山日勇上人、文禄2(1593)年3月20日に寂せり。
・実成寺
村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中(1573~93)創建なり。加藤山実成寺と号すこの寺は、往古より村内妙福寺の末寺にて法性坊と唱えしか。寛政5(1793)年、17世日藤聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ今は法性院と云う。

旧跡
・弁天社蹟
井頭池の中洲に建てり。聖人云う、昔、村の童がこの池の魚を捕りしに怒りき、其の祟りありしかはこの村及び土支田村の人と共に村内妙福寺の住持日忠聖人に請い、弁天の祠をこのところへ勧請したる。時に貞享年中(1684~88)のことなりとされと。正保(1645~48)の頃の絵図、既にここの祠を載せたれはいつの頃よりか廃祠となりして、この時再建せしなるべし。それもまた廃祠となり、今の名のみて残せり。