真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

父系についての悩むの巻

家系のインデックス

 

(菊地家)の父系をさかのぼっていくと、

私 ← 父 ← 祖父幸松 ← 曽祖父幸太郎 ← 高祖父幸吉 ← 近藤家からの養子儀平

・・・となっております。

ひいじいちゃん幸太郎までが福島(現:矢祭町大字東舘)で生まれており、幸吉一家が大正2(1913)年に屈斜路へ入植した後にじいちゃんが生まれています。

じいちゃん以前は会ったことはありませんが、戸籍上はこうなっているので間違いないでしょう。

 

しかし、儀平以前が難関。

儀平の戸籍には「当郡上関河内村(現:福島県東白川郡矢祭町大字上関河内)近藤勝右衛門五男」と記述され、菊地ハツの婿養子となっています。

 

かつて、既に故人である上関河内の近藤さんと電話でお話させていただいた際、
「祖先はかずえもんという名で庄屋をやっていた」
というおぼろげな情報をゲットしたところから、私の誤解が始まっていたのかもしれません。

 

「ん?かずえもん?・・・かつえもんと似てるし、もしかすると上関河内村から東舘に婿入りしたときに届出を間違えたのかも!役人に口伝えをしたとするとなまってたりして聞き間違えるかもしんないし!きっとそうだ!」
という、固定観念ができあがってしまったのです。

 

約8年前、近藤さんに委任状を書いてもらい、戸籍を遡って取得した結果、
近藤家の戸籍で追える最古の祖先は、文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」。
そして義冨の父欄は空白となっておりました。

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そして矢祭町史等に見られる明治2(1869)年の文書には「上関河内村庄屋 近藤數右衛門」とあります。

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むむむ。數右衛門=義冨?
それとも義冨とは別に數右衛門が・・・?

明治2年の時点では、義冨は58才。んもうバリバリと村を仕切りまくりっていう年齢ですね。

と、もやもやする状況にはまりました。

 

なお、このお話を伺ったという近藤さんは新宅。

義冨の二男である嘉永6(1853)年生まれの近藤彦雄さんが、同じ村の近藤新右衛門さんに養子入りしたお宅。

そして本宅は、義冨の長男である嘉永3(1850)年生まれの近藤邦彦さんが、義冨家の家督を継いでいます。

また、明治9(1876)年には上関河内村の村長として近藤邦彦の名があります。当時26歳なのでとても若い村長さんです。

ちなみに勝右衛門の五男で、菊地家の婿養子となった儀平は弘化元(1844)年生まれ。

そしてついに先日、上関河内の墓地を訪れた際に「數右衛門=義冨」だということが確認できました。

さらには數右衛門の妻が明治3(1870)年に51歳(1820年生まれ)で没していることも判明。

仮に「勝右衛門=數右衛門」だとすると、

 父・數右衛門義冨 1811年生まれ
 長男・邦彦 1850年生まれ(義冨39歳、妻30歳)
 二男・彦雄 1853年生まれ(義冨42歳、妻33歳)
 五男・儀平 1844年生まれ(義冨33歳、妻24歳)

・・・ということになり、続柄が変だ!ということになるわけです。

どういうことかしら?

いろいろ考え(妄想)を巡らせます。

 

<仮説① 儀平はやっぱり數右衛門の五男>

明治5(1872)年の壬申戸籍編製前に菊地家へ婿入りしているのでノーカウント。
そして儀平よりも上の子である長男~四男も何らかの理由で抜けているためにノーカウント。

儀平の初子である初太郎は明治3(1870)年に生まれているので、壬申戸籍編成時点で確実に近藤家に儀平の籍はないでしょう。

ただ長男~四男の行方が知れないため、これだと六男(以降)にあたる邦彦が家督を継いでいるのが不自然な気がします。

考えられるのは、上関河内の庄屋を務めるほどの家柄だった近藤家よりもさらに菊地家の家柄が良かったとか、邦彦がよほど聡明で跡継ぎに相応しいと判断したとか、もしくは儀平が數右衛門とケンカして家を出たとか。

そうなると長男~四男については完全に謎のままに・・・。

 

<仮説② 近藤勝右衛門は実在したが、上関河内を去った>

上関河内には(私の知る限り)3軒の近藤家があります。

ひとつは數右衛門義冨~邦彦家、

ひとつは新右衛門~彦雄家、

ひとつは邦彦の養子である清兵衛(実家は不明)が独立した家。

 

いままで出てきた中では、數右衛門と新右衛門はおそらく同年代。兄弟かとも想像できます。

新右衛門は彦雄を養子に迎えており、彦雄の戸籍には彦雄の奥さんと子どもと孫しかおらず、新右衛門の実子は見当たりません。

これらの家しか現存しないとなると、勝右衛門が実在したとなれば上関河内を離れたということも考えられます。

男子が儀平以外にも4人居るので、どこかに勝右衛門の子孫が暮らしているかも・・・

※ちなみに以前、上関河内村の近藤勝右衛門の除籍を申請したところ、「ありません」との回答でした。

 

と、ここまで見てきたところで、あろうことか無視できない記述を新発見!

邦彦の戸籍に、邦彦の姉(義冨長女)としてユキさんという方がいます。

生年月日が弘化2(1845)年3月28日。

 

・・・ん?

儀平は弘化元(1844)年9月25日生まれです。

兄妹だとすると、半年も経ってないし!

 

今まで少しも気づきませんでしたが、これは!儀平は數右衛門の子ではないという確固たるもので・・・しょうか?

 

<仮説③ 儀平の母とユキの母は違う人物>

儀平は義冨の五男であるが、正室の子ではなかったので立場上養子へ行った?

數右衛門は庄屋さんでしたから、そういったこともあったかもしれません。

今のところぜんぜんそういった情報はありませんので、まったくの想像ですけれど。

あるいはこのころの戸籍の生年月日なんぞ、どこまで正確なのかはわかりませんから、本当の兄妹という線も捨てきれないところがあります。

 

あぁ、何かこれらの仮説を真説にできるような決定的な情報を手にできないものかしら・・・

もっかいお墓をしっかり見てみたいなぁ。もう無理だけど~(・・;)

やっぱり旧いお墓は、しゅぱっと判読できなかったなぁ。

矢祭は(距離的にも休暇の取れ方的にも経済的にも)遠いなぁ。。。

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