真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

北海道150年

家系のインデックス

 

来年は、北海道が明治2(1869)年に「北海道」と命名されてから150年という記念の年です。

それまでは渡島(わたりしま)だとか、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたようで、アイヌ民族の島でした。

アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味。

縄文時代の文化を代々受け継いできた民族です。

 

しかし、本州以南から和人が狩猟民族であるアイヌとの交易のために訪れるようになると、アイヌ民族のそれまでの生活が一変。

戦国時代ごろになると、和人との交易があまりにも不合理だということで、不満を募らせたアイヌ民族側が蜂起。

しかし、武力に勝る武田信広アイヌ民族を制圧。

その後に松前藩が成立し、漁場を持つようになり、徐々に現在の渡島地方を治めるようになっていきます。

 

そして前時代的な文化を持ち、文字を持たないアイヌ民族は、和人から「蝦夷」や「土人」などと呼ばれ、差別の対象に。

 

そして北海道と命名されると同時に、北海道の開拓開始。

 

明治6(1873)年の地租改正により、アイヌ民族の土地は和人に所有権が渡ってしまい、祖先からの土地を追われてしまいます。

その翌年には屯田兵村が形成され、内地から屯田兵が大量に入植。

どんどんアイヌ民族の居場所がなくなっていってしまいます。

 

実は幕末より、アイヌ民族を保護しようという政策は施されていたのですが、遠方のために政府の力が及ばず、どんどんあんまりな状況に追い込まれて行ってしまいました。

その窮状を見た政府は、明治32(1899)年に北海道旧土人保護法を成立させます。

しかし、その法律で与えられた土地は、耕作に馴染まない地だったり、なんだかいろいろといまいちな結果に終わってしまいます。

アイヌ民族への差別は相変わらずでした。

 

仕事を求めたアイヌ民族は、石炭の採掘などで北海道から離れて行ったり、和人との婚姻により血が薄まって、子孫はアイヌ民族の血が流れていることを知らなかったりと、アイヌ民族は北海道からどんどん減っていってしまうことになります。

しかし一方で、現在も祖先の地にとどまり、祖先の文化を伝えていってくれるアイヌ民族の方々もいらっしゃいます。

私の住む釧路市近辺だと、屈斜路湖畔や阿寒湖畔にアイヌコタンがあり、壮絶に芸術的な木彫り人形などを販売してくれたりしています。

もはや貴重な存在となってしまったアイヌ民族

この150年という節目だからこそ、負の歴史でもある和人とアイヌ民族とのやりとりも含め、改めてその文化に向き合うといったことが必要だと思うわけです。

 

 

そして、北海道の主要な道路には、明治20年代に内地より送られた囚人たちの命が注がれています。想像を絶する過酷な環境の中、明治20(1887)年~24(1891)年までの4年間で、北海道内に約660kmの道路を通してくれたのです。道具などスコップくらいしかなかったのではないでしょうか。

囚人は、硫黄採掘や石炭採掘にも従事させられました。

明治27(1893)年に、あまりに過酷すぎるのと、北海道にこんなに囚人があつまってはいかんのではないかということで、この北海道での労役は廃止されますが、それまでにどれだけの犠牲者が出たかというのは記録がないそうです。

 

 

もちろん私や妻の祖先たちもそうとう過酷な環境で開拓してきてくれました。

 菊地家祖先(高祖父一家)は大正2(1913)年2月に福島県より屈斜路村へ入植。

妻の山田家祖先(こちらも高祖父一家)は明治38(1905)年に青森県より鳥取村へ入植。

 

ともにバラックみたいな掘っ建て小屋みたいな家で、寒さなどしのげるわけがなく、外とほぼ変わらないような気温の中で過ごしていたそうです。

雪が降った日は、枕元に雪が積もっていたとか・・・。

収穫がゼロの年があったり、治水工事も行われていなかったので、河川の氾濫で努力が水泡に帰したり。

 

菊地家は御料地への入植だったので、わずかながら配給があったそうですが、山田家は独自での入植。まったくの自給自足での生活です。

とくに釧路地方は作物が育たない気候、土。

逃げ帰った人も相当いた中で、よくぞ耐え忍んでくれたものです。

どうやら山田家は、当時は農耕や移動の手段として貴重だった馬をメインに生計を立てていたそうです。ナイスアイディアですね。

 

北海道に住む方々はどこの家もたいへんな苦労をして開拓してくれた祖先がいて、やっと今があるわけです。

でも、ぼくらの世代になるとたった100年くらいしか経っていないのに、全然そういった苦難の歴史が伝わっていません。

もしかすると当時開拓してくださった先達的には、わざわざ子孫に話すことでもないと思っていたのかもしれませんけれど。

私にとっては、今年亡くなった母方祖父が大正11(1922)年生まれ、北海道に入植したのが慶応3(1866)年生まれのさらに祖父。

現在の練馬区から明治20年代後半にまずは瀬棚に入植。作物のできそうな良い土地は残っておらず、岩がゴロゴロしているような土地に入りましたが、やっぱりだめ。

その後に今金に入りますが、そこを息子に任せて小清水に来ています。

祖父はその後に生まれているので、開拓がある程度進んだ時点からしか記憶がないんですね。

なので、祖父の話はもっぱら太平洋戦争の話や、昭和10(1935)年に移住した樺太の話、戦後のシベリア抑留の話がメインで、開拓の話は聞いたことがありませんでした。

もしかすると聞けば知っていたかもしれないのですが、もはやそれも叶わなくなってしまいました。

あいだに大戦をはさんでいるので、直近の苦労話はそちらになってしまうのは必然ですね。

 

最近は「北海道150年」!ということでPRしていますが、なんだか大事なことを忘れているようなPRなんですよね。

 

こうした先人の苦労、松浦武四郎やクラーク博士のように名を残している人もいれば、普通の家の祖先もいます。寂しいことに、名前すら忘れられている祖先もいます。

そういった普通の人が祖先のことを振り返るのは、有意義なことだと思います。

 

さらには、和人がアイヌ民族に行った行為にもほぼ触れられていません。

そういったPRをするのならば、なんか足りないんじゃないの!?というような思いをしている一道民として、こうして勝手に書かせていただいたわけです。

 

 

たった150年。未来に向けてのほうが断然大事なのは明白ですけれど、北海道命名以前も含め、北海道を「負」の歴史もきちんと振り返っていかないと、浮かばれない方々が大勢いらっしゃるのではないか、その歴史も踏まえて進んでいくべきではないかと感じているところです。

f:id:dotouttan:20181117101314j:plain

▲菊地家が105年前に入植した弟子屈町屈斜路エントコマップ。島見橋の北東にある地を開拓して生活していましたが、昭和30年代の大叔父の代で離れてしまい、現在は原野に戻っています。