真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

青森県むつ市関根小学校百周年記念誌

家系のインデックス

妻の実家である山田家は、高祖父・菊松(1875~1934)の代であった明治38(1905)年ころに青森県下北郡田名部町大字関根字高梨川目(現在の青森県むつ市内)より、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ(現在の釧路市北斗)へ入植。

いちどはその土地を感じたく、6年前に実家の函館より大間にフェリーで渡り、レンタカーで高梨の集落を訪れました

山田家のご子孫にお会いすることができ、かつて山田家は稲作をやっていたとのお話を伺いました。

昭和の中頃?くらいに集落での稲作は終えてしまったようで、多くは会社勤めに移行しておられるようです。

その高梨を含む関根全体をカバーしているのが関根小学校。明治9(1876)年の開校といいますから、もはや142年もの歴史を刻んでいます。

かつて図書館の相互貸借で、関根小学校の百周年記念誌をお借りすることができました。昭和51(1976)年発行の冊子です。

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その中で、関根地区全体に関しての記述がありました。関根小学校で教鞭をとられていた鳴海先生による文章で、おそらくは非常に貴重な資料かと思いますので、誠に勝手ながら転記させてください。

 

わがふるさと関根のあゆみ 鳴海健太郎
 わがふるさと関根の地域は、日本の歴史の線上から特別にはぐれてはいません。
 近年の発掘によって、古代集落の形成がわかるようになってきました。
 ビツケの関根浜納屋遺跡・北関根遺跡いずれも散布地ではありますが、文化庁の遺跡台帳に掲載されている遺跡です。
 関根の歴史は古代社会の歴史からはじまることを再認識しなければなりません。
 住居に適した環境をえらんだ古代人の生活の知恵が、現在住んでいる集落を支えてきたといっても過言ではないと思います。
 そのむかし、二道の関・大関・根古木等の小集落がありましたが、この村々が一緒になって「関根村」と呼ぶようになったといわれています。
 根古木の村には、元禄(1688~1703)のころまで住家があり、正覚院と名乗る山伏修験者が住んでいました。
 江戸時代の中ごろから、関根村の枝村として出戸・川代・烏沢・高梨・新田がありました。枝村の歴史調査はだいぶ遅れておりまして、今ようやく手がけられたといってもよいと思います。
 関根の村は享保年間(1716~36)の調べによりますと、馬202頭・牛172頭を飼育していました。当時、陸上交通の運輸は牛馬にたよらねばならず、「駄賃場」という苗字の家なんかは民衆の生活の一端を如実に物語っています。
 ところで、下北で牛馬を買う程の資本に乏しい人々の多くは小作人でした。
 貧窮に追いつめられて、小作料も滞りがちの者が多かったので、牛小作や馬小作により利上げした残る半分も小作料として徴収され、結局は牛馬の収入の全部が地主である旦那に行くようになりました。
 旧樺山の飛行場の一地帯を「名古平」という地名で呼んでいます。
 地名は生きたものでありますから、おそらく南部藩時代の「名子」と関わるものと思います。これは近世的な雇用労働の存在形態の一つとしてとらえられるものです。
 今、私は田名部の「菊池家文書」を調べていますが、寛政年間(1789~1800)に、菊池成章という人が樺山の地頭をつとめております。場合によって、古記録の中に「名子」があらわれるのではないかと注意をはらって解読しています。
 さて、近世的な意味での名子というのは、近世の各段階において没落した者が、その没落していく過程で、身柄を含めて土地・財産などをある家に売り渡し、その家を本家として仰ぎ、年に一定量の労働力を無償で提供する代わりに、本家の経済的な庇護を受けるという契約を結ぶのが一般的通例でした。
 江戸時代―関根村には、肝入(キモイリ)・乙名(オトナ)という役職をもった人が住んでおり、政治的な役割をはたしました。
 古い記録をみますと、最初の肝入は掃部という人です。もとは郷士であったのでしょう。普通の百姓でないことは確かです。
 肝入というのは、つまり庄屋のことで村長格にあたります。
 次に関根村総百姓と明記され、各枝村の老名の名がズラリと連ねられています。
  ●寛政11(1799)年関根村肝入・乙名一覧
   ・高梨村吉右衛門
   ・出戸村清五郎
   ・川代村助之亟
   ・烏沢村作右衛門
   ・同上 弥兵衛
   ・南関根村金太
   ・関根村助藏
   ・同上 安右衛門
   ・関根村肝入与佐衛門

 田名部には南部藩代官所がありましたが、寛政(1789~)から文化(1804~)にかけて、津軽海峡で黒船さわぎがおきました。そのとき、関根の肝入が百姓を伝馬役(てんまやく)に命じました。
 つまり人馬の継ぎ立て・休泊の準備等重い事をさせました。
 文化10(1813)年のあたりに、関根街道で普請料として駄銭(にぶり)をとっております。関根はやはり南部藩の宿場的役割をはたしたところです。人足も一軒から三人づつ肝入の名で命じております。
 文化4(1807)年には、大畑を中心に伝馬(民間の輸送)過量を理由に、百姓一揆を起こしましたが、結果的に失敗しました。
 文化5(1808)年大畑には三度目の代官所をもうけ、北方の警備にあたりましたが、大畑代官所の統轄圏は関根から佐井まででした。
 江戸時代―下北一円を田名部通といい、南部藩牛馬の飼育政策の中で暮らしを立てていました。「邦内郷村誌」という史料をみますと、関根の家のすべてが春から秋にかけては牛馬を放牧していました。そして冬分だけは厩舎(うまや)飼をしていました。
 牧畜と生活―そこから生まれた信仰・習俗・人間としての生き方・ものの考え方など、今後皆さま方のご協力によって民俗調査をしたいと思います。
 つぎに関根の農業のようすを述べてみます。下北一円が天明の大飢饉で試みに水田耕作をした所もありましたが、一握りの収穫ではどうしようもなかったので、田んぼには大部分が稗を植えたといわれます。
 遊歴文人菅江真澄は、次のような歌を書き残しています。
  おりたちて
  いな田ひえ田の
  わかなへも
  とりとりうたふ
  声聞ゆなり
 明治13(1880)年ごろにようやく稗田がなくなって、全部水田耕作となったようです。このあたりのことは古老の方々より聞き取りをしたいと思います。
 ここで稗田の作り方の過程を述べてみます。
 ①ナエシロ
 ②種まき
 ③水を張る
 ④水を抜いて稗を植える。
 7月初めからはじめ、土用までかかり、そして10月初めに刈り入れをしました。
 稗を植えおわると浜の仕事に精を出したといわれます。
 さて、浜関根89戸のうち、63戸は北関根からの分家であります。明治の末期に定住した者が多いようです。
 イワシ網は、明治17(1884)年、北関根の住民3名によって共同経済がなされたのが最初でした。イワシカス(シメカス)肥料として越後・函館の商人に売りさばきました。
 ところがカワサキ船は5~6丁の櫓とともに帆を張って航行し、特にイカ釣漁業に技術的変革がおき、越前、越後より津軽海峡に来航するものが多くありました。
 北関根の人々が、川崎船を入手したのは、大正4(1915)年、8名の共同出資で、越前から来た中古船を購入してからでした。
 船歩(フナメ)は、オヤカタ4分・乗り子6分であり、八戸や北海道方面に出漁するときは五分五分であったということです。
 話もおしまいに近づいてきましたので、出稼ぎのことについて触れてみたいと思います。
 寛政元(1789)年5月5日―北方領土クナシリでアイヌの反乱がおき、和人が71人も殺されました。この殺されたもののうち、大畑・正津川・関根・下風呂・安渡(現・大湊)・脇野沢の出稼ぎ者が42人もの犠牲者を出してしまいました。
 関根の出稼ぎ者の名前をあげてみますと、助之丞・作助・助治・平右衛門・六助の5人があげられます。
 大畑から渡海した商人飛騨屋久兵衛のクナシリ場所で働いた人ばかりです。
 アイヌに殺された原因は何であったでしょうか。端的にいって南部藩から出稼ぎに行ったものが、治外法権下にあることをよいことにして風紀は紊乱に陥り、アイヌメノコを強姦あるいは人妻を犯すときは頭に墨を塗って悪事を働きました。
 また搾取をし、ごまかし、アイヌたちの反抗にあい、アイヌによる血祭りがクナシリ島でおきてしまいました。
 今日、北海道根室のノサップ岬には、71人の墓碑が北方領土であるクナシリに向かって風雪にさらされ、その悲しくもあわれな歴史が息づいているのであります。
 本日は関根小学校が創立してから栄光の一世紀を迎えた記念のお話ということです。
 明治9(1876)年11月10日に創立したとき、関根小学と呼んでおりました。
 当時の首席教員は今村杢治先生で、会津の流れを汲み、教育に燃えた方でした。
 明治25(1892)年6月25日、烏沢に分教場を設置。烏沢・川代・新田の子どもたちはそれまで正津川小学の依託受業生でありました。
 ではこれでお話をおわります。

 

江戸から遠く離れた下北地方。中央府の影響は及ばず、北海道への出稼ぎや、アイヌとの関わり。独特の風土であったことが感じられます。

畑も稲作もおそらくは厳しい土地で、牛馬で日銭を稼いでいたことがわかります。

釧路に入植した山田家も、耕作はほぼ不可能な土地(現在も釧路市北斗付近は荒地が広がっています)であったたことから、下北での知識を生かして馬で生計を建てていたそうです。

今は馬をやっている山田一族もいなくなってしまいましたが、厳しい気候や乏しい物資の中、これまでの繁栄を見たのは、下北で得た生活の知恵や飼育や商売の知識があったからこそでしょう。

釧路にとどまってくださった祖先のおかげで、妻とも出会えたわけですし・・・とか言って(*´ω`*)