柿﨑家について、久しぶりに考えてみる
現在、まったくミステリアスなヴェールに包まれている山形県最上郡大蔵村の柿﨑家。
この大蔵村は、妻のばあちゃん(母の母)である森井チヨ(1921~81)が柿﨑作次郎(1902~66)・サクヱ(1902~97)夫妻にとって10人きょうだいの長子として生まれた地であり、柿﨑家に関わる全ての家が集結している地です。
おそらくは昭和10(1935)年前後に柿﨑家は釧路市にやってきました。
なぜ北海道に?というのは、各家で事情を異にするものですし、なかなかわからないことが多いのですが、この柿﨑家も多分に漏れず不明です。
山形県北部の最上地方に存在し、日本屈指の豪雪地帯として知られる肘折温泉や、「日本で最も美しい村連合」に加盟しているほどの豊かな自然を擁する大蔵村。
明治22(1889)年に清水町村、合海村、南山村、赤松村が合併して大蔵村となりましたが、その後は昭和の大合併や平成の大合併もどこ吹く風?で、現在に至るまで130年間そのまんまです。これはなかなかの安定感。
作次郎の父は運次郎(1878~1943)と云いまして、この地区では他ではあまり見ない「運」という字を名前に使用する傾向があります。
きっと、最上川を利用しての海運に頼るところが大きかったからなのかなぁ、と勝手に推察しております。
その運次郎の父は柿﨑権兵衛(1846~1929)。
私の手許には、その権兵衛さんの除籍が最も旧いものとして存在します。
しかし、本来であればもっとさかのぼることができたはずなのです。
大正4(1915)年に大蔵村役場が火災に遭うことがなければ・・・。
焼失以前の情報がどこまで、どのようにして補完できたのかは全く不明ですが、なんだかスカスカの除籍でがっかりでした。
ひとまず権兵衛は柿﨑五三郎の三男で、権兵エさんに養子に入っていることは理解できます。
きっとこの権兵衛という名は権兵エさんの養子に入って改名したものなのでしょう。
村内の別系統の祖先でも、義父(養父)の名と同じ戸籍名の方がいらっしゃいますので、そういった風習があったのかもしれません。権兵衛さんの幼名も気になるところです。
また、権兵衛さんの奥さんとして、同じ南山村から柿﨑兵三郎さんの二女を迎えています。
だいぶん前になりますが、関東在住である柿﨑五三郎さんの子孫の方からご連絡をいただきました!
権兵衛は五三郎の三男ですが、その兄貴(長男)も五三郎という名。どうやら代々襲名している名の様子です。
そしてその本家は、WEB公開されている村の広報を確認する限り、現在も南山に健在でございました。
そしてさらに別の方からブログへとコメントをいただきまして、村内の「﨑」の字を使う柿﨑家は、すべて肘折の柿﨑旅館から派生しているとのこと!
調べてみたところ、柿﨑旅館は旅館業を終了し、現在は食堂のみの営業とのこと。それもまた旧い情報ではありますけれど。
しかしながら、別?なのかもしれませんが、柿﨑さんとおっしゃる方がご当主であります肘折温泉にある「つたや肘折ホテル」のホームページを見てみたところ・・・
・・・この紋は!
釧路にある柿﨑家のお墓に刻まれている「丸に隅立て四ツ目結」そのもの!
やっぱりこんなに遠く離れてるけど、繋がりがあるんだなぁ・・・と、感慨深い気持ちでした。
話は戻って柿﨑権兵衛家。
権兵衛・マサ夫妻には9人の子どもがおりまして、男子は前述の運次郎(妻の高祖父)と9歳で夭折した円蔵さんのみで、女子が7人。
きっと女性が強い、かしましい家庭だったのではないでしょうか(邪推)。
その中で、長子であるケサ(1867~?)がイトコ(権兵衛の兄・五三郎の長男)である朝次郎(1855~?)を婿養子として迎えていますが、明治41(1908)年にほかの番地へ分家。
大正6(1917)年に権兵衛が67歳で隠居した際は、運次郎が家督を相続しています。
ところが、昭和4(1929)年に父・権兵衛、昭和9(1934)年に母・マサが他界したのち、運次郎は北海道へ渡ります。旧土地台帳を読む限り、土地はすべて処分していったようです。
運次郎は唯一の男兄弟であった円蔵さんを早くに亡くしており、一番上の姉が婿養子とともに分家。他の姉妹はめいめい嫁いでおり、運次郎の釧路市移住により、柿﨑権兵衛家は大蔵村から出ていった格好になっているのかもしれません。
権兵衛家が持っていた土地の中には、天保の飢饉の際に庄屋として大活躍をした柿﨑弥左衛門と同名の柿﨑弥左衛門さんに譲渡している土地もありまして、どういった形かは不明ながら、弥左衛門家との繋がりもありそうな感じです。
その土地が権兵衛から弥左衛門さんに土地が渡ったのは天保時代とは程遠い明治24(1891)年なので、弥左衛門も世襲の名なのでしょう。
なお、弥左衛門さんは、大蔵村が発足してからの初代村長でもあるそうです。
・・・と、とりとめもなく綴ってきましたが、大蔵村史にて見つけた学校についての文章で、権兵衛家もある程度の地位があったんだ!ということがわかったので、以下に引用させていただきます。
明治8(1875)年、苦渋の末の結論としてなされた措置が、沼の台の学校を南山学校の本校とし、塩と肘折の学校を分校として1本校、2分校という態勢での「南山学校」の正式開校ということであった。本郷塩の戸長柿崎弥左衛門と、先走った肘折の一歩引き下がっての妥協の産物といえよう。すなわち、「5月8日、沼台村竜泉院借家、平屋、萱葺教場、坪数7坪半、教員扣(ひかえ)所3坪、生徒溜所4坪半」(沼台本校)、「7月1日、南山村9番地柿崎権兵衛家屋を借受ケ使用ス」(塩分教場)、「11月、肘折村東方薬師堂近傍荒蕪地ヲ開削シテ和風平屋茅屋根ニ建築ス、建坪数14坪5分、教場10坪、扣所3坪、入口11間半、敷地坪数45坪」(肘折分教場)が、南山学校の「沿革誌」に残されている発足当時の姿であった。
先の記述ですでに明らかなように、村内他のすべての学校が寺院・民家からの借家住まいのなかで、一番早く独立の校舎を建てたのが肘折分教場だった。次の独立校舎は塩分教場で、明治12(1879)年5月、柿崎金蔵の所有地を借りて平屋茅屋根で14坪7分(教場7坪半、生徒溜所3坪、教員控所3坪、入口土間1坪2分、敷地坪数30坪)を建てたのであった。
この9番地は私の知っている番地とは異なるのですが(;・∀・)、学校として貸し出すくらいの家を持っていたということに他なりませんね。塩分教場とありますので、塩という地区であることは確かです。権兵衛除籍の番地も塩の地区内ですし。
しかしながら、明治9年だと権兵衛29歳とまだ若いので、ここに名前がある権兵衛さんは養父の権兵衛さんの方であるかと思います。
日本姓氏語源大辞典さまによると、日本一の密度で、しかも一つの部落一点集中ではなく村全体でまんべんなく柿﨑姓が集う大蔵村。まだまだ謎の解析まで先は長そうです。