真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ちょびっとだけ

自分の家系について、さいきんアクションを起こせていないためにまったく進展がありません。

ネタがないけど欲求不満だったことから、同僚に頼み込んでむりっくり市内の除籍を遡ってもらいました。これってなんとかハラスメントかしら?

 

そうすると、彼女の祖先は明治45(1912)年に白糠郡尺別村(現在の釧路市音別町)へ転籍してきていました。

その後、樺太の中でも本土に近い留多加(るうたか)町へ転籍。戦後はまた音別へ戻り、現在は釧路市内に籍があるという流れの家。

そして、明治45(1912)年にこちらに来るまでは、雨竜郡一已村に籍がありました。

一已(いちゃん、いちやん)といえば、現在は北海道の米どころ深川市一已ですが、もともとは屯田兵村として成立した地。

私の家系には屯田兵村と関わりがある家はなかったので、がぜん勝手に気持ちが盛り上がります。

 

そして、もっとも遡ることができた名前が「塚田秀藏」。

現在は国分寺町を経て高松市となっていますが、当時は「香川県綾歌郡端岡村新居(にい)」。明治22(1889)年までは「香川県阿野郡新居村」の人でした。


塚田秀蔵の六男として明治25(1882)年に生を受けた塚田憲一氏は、生後わずか8日で猪原甚吉氏の養子となり、猪原憲一となります。

そして、3歳のときに「原因不詳」で家督を相続。

3歳なのでもちろん自分の意思ではないでしょうから、猪原甚吉氏の意思、もしくは甚吉氏に何かがあったのかもしれません。

ただ、一已の屯田兵村が形成されたのが明治28(1895)年あたりなので、その年代と合致するのが気になるところ。

 

その情報をもとに、図書館で屯田兵名簿を確認すると、北一已兵村に端岡村の塚田半次郎という人がいました。憲一、ひいては塚田秀蔵の縁故者かもしれませんが、確定できるまでの情報を得ることはできませんでした。

なお、すべての屯田兵の中でも、猪原姓の方はおられません。

深川市に除籍が残っていれば何かがわかるかもしれませんが、自家分ではないので・・・ここまで!

 

猪原姓は岡山県の井原が発祥。井原市広島県福山市に多く分布していますが、山陽地方の多くは「いのはら」とお読みするようです。

ただ、同僚の猪原さんは「いはら」と読みます。全国的にはわりに珍しく、大分市に多い読み方のようでした。

しかしながら高松市の電話帳(冊子版)を確認すると、数は10数件と少ないながら市内の「猪原」さんはほとんどが「いはら」と読むようで(しかも多くが新居在住)、「いのはら」さんが1件のみということが判明。

ネットの電話帳だと読みまでは解からないのですが、冊子だと一発です。

このことから、猪原家も新居の家であろうことが推察されます。

電話帳と地図で確認すると端岡駅南部にこれらの姓が固まっており、東部に塚田家、西部に猪原家が多く集まっていました。


調べてみて意外だったのですが、塚田姓は四国には非常に少ない姓であるのですね。

2000年のネット電話帳によると、全国には約13,000軒の塚田姓の方がいらっしゃって、四国に限ると高知県に1軒、徳島県に2軒、愛媛県に13軒、そして香川県に63軒。

高知や徳島にはほとんど存在しないようです。その少ない中、新居地区に13軒が固まっているというのは興味深い点でした。四国では一番多く分布しています。

さらにインターネットを利用して調査を進めてみると、どうやら歴史的背景があることがおぼろげにわかってきたのです。


とつぜん話は関東地方に飛びます。

初代水戸藩主であった徳川頼房。頼房は徳川家康の息子です。

その子をおなかに授かった側室・久昌院は、頼房に堕胎を命じられます。しかし、どうやら他の側室でとても権力のある人がいたようで、だれか側室が受胎すると堕胎を迫っていたそうです。その側室には頼房も敵わないそうでした。

しかし頼房の母に相談の上、江戸で秘密裏に出産。この男児がのちの松平頼重


弟の光圀が生まれる際は、頼重は存在を隠すために京都へ送られました。

なお、光圀出生の際も久昌院は堕胎を命じられていたようです。

 

そして頼重が15歳のとき、ついに父・頼房に認められました。が、その時点ですでに弟の光圀が水戸の2代目藩主として決定していました。

結果、寛永16(1639)年に頼重は常陸国下館藩(現在の茨城県筑西市)を、当初治めていた水谷氏が備中に転封になったのちに与えられます。

しかし、3年後に讃岐高松藩へ移封。その際、多くの家臣が頼重とともに讃岐に渡ったのですが、その家臣団の中に「塚田新平」の名が見えます。

おそらくは、この下館藩士である塚田氏が新居郷に住み着き、現在に至っているのではないでしょうか。

この推察が合っていれば、香川に渡る前は常陸の人だったということとなります。


新居の塚田氏、猪原氏については特につたわっておらず(もちろん自家ではないのでコンタクトもとっていませんが)、相互貸借でお借りした国分寺町史にも名前を見つけることは叶いませんでした。

これからも自家とともに、思いついたら調べてみようと思っております(勝手に)。