真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

小生瀬石井家について再考

家系のインデックス

昨年の10月、高祖母の実家があった茨城県大子町小生瀬地区を訪れ、1時間弱でしたが石井家について調査を行いました。

 

訪れる前に事前準備。

最古の戸籍には小生瀬248番屋敷と記述されております。

小生瀬は住居表示が行われていませんので、当時と番地は変わっていないと思うのですが、番屋敷表記だと現在の番地と対応させることができませんね・・・。

小生瀬のどこいら辺なのかがさっぱりわからなかったのですが、高祖母の次兄・石井鐡之助(1867~?)の子孫の方から「寺地」という地に住んでいたと教えていただきました。今はもう屋敷跡は竹藪になっているそうで。

 

しかしながら、寺地という地名はネットで探しても存在せず、唯一バス停が残されているだけ。

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そこで、その寺地バス停付近の地図をゼンリン住宅地図プリントサービスを利用してローソンで購入。

ちなみに釧路市から一番近いファミマは、300km離れた千歳市にあります(/・ω・)/

www.zenrin.co.jp

1枚300円でございます。

 

その地図を見てみると、寺地のあたりは6000番台の番地。数字でかすぎでしょ!

その情報を基に旧土地台帳を請求してみるも、いまいちな結果でした。

かつて「寺地坪」と呼ばれていたので、ここら一帯は寺地という小字だと思い込んでいたのですが、旧土地台帳に記された小字は「シセ内」だの「岩久保」だの「芦風」だの「屋敷上」といったもの。 

これらをまとめて寺地坪と呼称していたのだろうか?

 

うむむ・・・、どうしたものかというところで、ある人物が思い浮かびました。 

高信幸男氏。苗字研究家で多くの著書があり、最近はテレビの「沸騰ワード10」という番組で、はんこ屋さんとの熱き珍名バトルを繰り広げている先生です。

実は高信先生、水戸市在住ですが出身は大子町

なにか小生瀬で庄屋を務めていた石井家についてご存知ないかというお手紙をさせていただいたのです。

 

すると、ご返事が!

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かわいいふくろうのハンコが押されています(#^.^#)

 

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石井家の墓地を撮影してくださり、送ってくださったのです。

おぉ、かなり立派なお墓!

講演などでお忙しいところ、お手間をいただき恐縮しきりでございました。

 

お墓が存在することが分かったので、今度は寺地付近の石井さんにお手紙をし、2軒の石井さんから「会ってもいいよ」というご返事をいただけたのです。

 

そんな準備をした上でいよいよ小生瀬へ。

その際にお会いいただいた2軒の石井さんはイトコ同士の方でした。

ご先祖さまは石井庄次兵衛さん。残念ながら高祖母の石井家とは繋がりません。

 

石井家のお墓が3軒集まっている墓所に案内していただきましたが、家紋が「丸に三つ柏」。

 

永らく小生瀬の横目を務めたと伝わる高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)家は、明治期に小生瀬を離れて現在は常陸大宮にお住まいですが、子孫の方から家紋は「左二つ巴」と伝え聞いております。

家紋が違うということは、同族ではないのかもしれません・・・。

そして、高信先生からいただいた写真とは違う場所・・・。

 

しかしながら、庄屋を務めていたという益子さんというお宅のお墓にもご案内いただけました。

すると!

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あら!ここは高信先生が「石井家墓地」として送ってくださった写真とおんなじ場所です!

 

でも益子さんのお墓・・・。家紋も見当たらない〰

 

風化しかかっているので判読が難しいのですが、撮影した写真を基に文字起こししてみたのが以下のもの。

 

天明八年申 正月四日 縁通遍照清信士霊位 俗名 益子庄右エ門信任(信住?)

②髙徳院壽覺明照大居士
 鏡徳院養壽妙禎

③泰德院義光淨覺孫君翁大居士
 寶珠院諦雲壽照清浄大姉
 明治三十年 益子庄之允

④寛政十二年 蓮宗白邈清信士
 文化十一年 〇然妙曉清信女

⑤廣壽院積翁道雲親孫君大居士
 法照院殿理覺妙塔清大姉
 益子正泰建之

⑥德潤軒恵泉〇性居士
 長松軒鶴影妙壽大姉

昭和14年8月7日没  益子正盛 60歳
 平成17年11月13日没 益子義教 93歳

 

①に高祖母の父と同名の庄右エ門の名があります。

天明8(1788)年没なので、1837年生まれの石井庄衛門とは3世代くらい違うのかな?

庄衛門の父は重四郎。いったいどうなんだろう・・・?

 

天狗党の乱で親子の袂を分かったというお話も伝わっていますが、1864年のことですので、それで家を出て姓を変えた・・・?

でも年代が合わないか。

 

なお④の墓碑は最近のものですが、益子義教という方は東京帝大を出て、東京で医師として世に尽くした大人物。

益子家の方々は、毎年お墓参りに見えているそうです。

 

あと、③にある「益子庄之允」という名は、請求した旧土地台帳の中に見えました。

明治39(1906)年まで、現在石井姓の方が住んでおられる土地を、「田」の地目で所有していたようです。

また、国会図書館デジタルコレクションでもこの名を確認することができました。

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▲珂北三郡名家揃:明治26(1893)年

庄之允氏は、小生瀬235番地に住んでおられたようです。

嘉永5(1852)年の生まれですので、庄衛門から見て15歳下。庄衛門の長男・酉次郎から見ると9歳上。なかなか微妙な年の差です。

石井庄衛門が住んでいたのが247番屋敷。もし仮に番屋敷表記だけど実は番地とイコールでした~となれば、この益子家とはきっとご近所さんではなかったかと思われます。今でいうとどこに当たるかがさっぱり不明ですが。

 

・・・まとめようと思ったんですが、さっぱり収拾がつかなくなりました。どうしてくれようか!

こんなに狭い地域のことだったから、すぐ解決すると思ったんですけどね・・・。

石井と益子。永遠の謎にならなければいいんですが。