真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

柿崎家の系図を改めてみる

家系のインデックス

 

先日訪れた山形県最上郡大蔵村

 

明治22(1889)年に清水町村、合海村、赤松村、南山村という4つの自然村が合併して現行の行政村となり、そのまま今に至るまで130年の間、まったく村域は変わっていません。

 

中心部は、かつて清水城があり、最上川流域の中心都市でもあった清水。

村名は、かつて清水を治めていた清水義親の役職「大蔵大輔(おおくらたいふ)」から取り、「大蔵村」となったそうです。

 

そんな大蔵村中心部より南部にある集落・塩。

住宅が密集していた塩は、かつての南山村において中心部落でした。

塩というのは地名ではなく、集落・地区名なのですが、「かぶれ」や「あせも」によく効くとされた塩湯が自噴していたことが由来のようです。

代々南山村庄屋を務めていた塩の柿崎弥左衛門家に伝わる古文書には「塩中沢村」とも記載があり、あるいはこれが旧名だったのかもしれません。

 

南山村はこの塩地区と、西にある沼の台地区、そして肘折温泉を擁する南部の肘折地区の三つの地区で形成されていたようです。

伝承によると、前述の柿崎家。

最上地方に来る以前は、越後の柏崎に住んでいたと伝わっているようです。

この近辺は上杉謙信が領していた地域。柿﨑景家という武将もおりますし、近くの上越市には柿崎という地名も残っています。

 

大蔵村史を紐解くと、かつて柿崎景作という武将がいて、1600年に起こった慶長出羽合戦(北の関ヶ原といわれているらしい)で、敗北した上杉側についていた景作は討ち死に。遺された二人の男子のうち、兄は平鹿(現在の秋田県横手市平鹿)に、弟は塩集落に落ち延びたとのことで、その弟の末裔が塩の柿崎一族だということですが、もちろん諸説ありだそうで。

 

最上氏に仕えた柿崎景一が、軍功があり、最上義昭から「義」の字をもらって柿崎義一としたのが祖という説も。

 

そこらへんについてははっきりわかりませんでしたので、おいおい調べていくこととします。

 

話は戻りまして、その塩集落で庄屋を勤めていた柿崎家と同じ姓である家に産まれたのが、妻の祖母である旧姓・柿﨑チヨ(1921~81)。

その父・柿﨑作次郎(1902~66)、さらに父・柿﨑運次郎(1878~1966)とともに、昭和10年代に釧路市へ移住しています。

そして運次郎の父は柿﨑権兵衛(1846~1929)。

権兵衛(以下、権兵衛②)は柿崎五三郎(以下、五三郎①)の三男として生まれ、柿﨑権兵エ(以下、権兵エ①)の養子となっています。

権兵エ①家には養子に迎えた権兵衛②の他には戸籍上では誰も確認できませんでしたので、五三郎①家から養子をとったのは、家の存続のためだったのでしょう。

そしておそらくは養子に入ってから権兵衛②を襲名したと思われます。

 

権兵衛②は、おそらくは同じ集落の柿﨑兵三郎の二女・マサと結婚。

慶応2(1867)年に長子となるケサを授かって以来、4人続けて女子が生まれ、元気に成人。

そしてついに5人目の子どもとして、明治11(1877)年に長男・運次郎を授かります。
時に権兵衛②32歳。さぞやドンチャンお祭り騒ぎとなったでしょう。

 

その5年後にも円蔵という男子を授かりましたが、夭折。

最終的に1男7女となった権兵衛②家。実質、運次郎しか跡取りがおりませんでした。

 

当時、運次郎がどういうつもりでいたかはわかりませんが、権兵衛②は運次郎の11歳上の姉・ケサに婿養子を取ります。

柿崎朝次郎。柿崎五三郎の長男でした。

 

この朝次郎の父である五三郎は、おそらくは五三郎①の三男である権兵衛②の兄貴と思われますので、以下五三郎②とします。

 

五三郎①~生年不明

五三郎①の長男・五三郎②~文政9(1826)年生まれ、三男・権兵衛②~弘化3(1846)年生まれの20歳違い。

五三郎②と権兵衛②の年齢差を考えると、あるいは権兵衛②は五三郎②の子ども・・・?

という考えもよぎりますが、権兵衛②は「五三郎の三男」と記されている以上、たとえば五三郎②が20歳の時点で三男が生まれるのは考えにくいということで、20歳違いの兄弟の線で考えます。

 

・・・ということで、権兵衛②は、長女・ケサに甥っ子、しかも本家の長男の長男を婿養子に迎えたということになります。

そう考えると、この権兵衛家はかなりのポテンシャルを秘めていた家なのかもしれませんね。

 

なお、朝次郎は安政2(1855)年の生まれということで、義父となった権兵衛②とはわずか9歳しか違いませんでした。

朝次郎とケサは、夭折した一人の女児を除いて、7男1女をもうけます。奇しくも義父・権兵衛とは真逆の男女構成。

 

男児に多く恵まれた朝次郎夫妻でしたが、なぜか明治41(1908)年に南山409番地へ分家してしまいます。時に朝次郎53歳。義父の権兵衛②は62歳のときでした。

Googleマップなどでは確認できないのですが、409番地は肘折地区かも。

 

なぜ分家してしまったかは推し量れませんが、おそらく本来の嗣子である運次郎が明治35(1902)年に結婚し、同年に作次郎が生まれたのが無関係ではないのかもしれません。

 

その後、昭和4(1929)年に権兵衛②が逝去。

今回お世話になった柿崎さんは、五三郎②が長女・ハツ(1848~1916)に婿養子として柿崎兵三郎の次男・柿崎榮助(権兵衛②の妻・マサの兄)を迎えて存続した家。まさに本家です。

 

坂の上付近にお宅がある柿崎さんによると、かつて坂の麓あたりに権兵衛家があったらしいのですが、権兵衛の逝去後に運次郎以下が釧路へ渡ってしまったために、今は何もなくなっているようです。

女性たちはおのおの結婚して血脈は保たれているものの、権兵衛の家は絶え、朝次郎の家も不明ということでした。

 

とにかく柿崎さんだらけのこの塩集落。小字でいうと「幅」という地になりますが、今回お世話になった柿崎さんのおばあちゃんも幅の柿崎丑蔵さんの娘さんだそうです。

これで少なくとも五三郎家、権兵衛家、兵三郎家、丑蔵家、そして庄屋の弥左衛門家、その本家の弥兵衛家。まだ私が知らない柿崎さんもありそうですので、まさに柿崎地獄。

 

なお、お墓には墓碑的なものが一切なかったというまさかの展開だったわけですが、家紋はたぶんすべての家で「丸に隅立て四つ目結」だったかと思います。

きっと元は一族であることに、おおよそ間違いはないかと考えられます。
ここまでが今回わかったところ。

 

そしてもう一つ気になったことがありまして・・・

柿崎のおばあちゃんがお嫁に来た時に預けられたという明治39(1906)年の戸籍謄本。

その9年後の大正4(1915)年に大蔵村役場が火災で焼けて、戸籍を作り直した際に失われた情報が多く記されていました。

きっと復元しきれなかったんでしょうね。

その謄本には「柿㟢」と記されていました。今でいう「柿崎」です。

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しかし、大正4年に復旧された謄本には、「柿﨑」と記されています。

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いったいどちらが正なのか。

柿崎さんはわからないそうでしたが、これは案外大きなファクターではないかと睨んでいます。

いまは柿﨑として通しているが、本来は柿崎。

ちなみにお墓には「柿崎」と刻まれていました。

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やはり「柿崎」の線が濃いのかしら・・・?

 

肘折温泉のカキザキさんは「柿﨑」らしいので、もしかすると差別化が図られていたりするのかも・・・?

あぁ・・・、スッキリ解決したいと思って現地へ行くのに、かえってモヤモヤが増えてしまう悪循環。

ああしとけばよかったとか、こんなこと聞いておけばよかったとか、そんなことを考えて気を紛らわせている秋の夜長。

 

今回のことをうけ、以下のようだった系図を、

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このように改めました。はたして正解しているのか!?

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