平野駒の出自を探求~その②
前回に引き続き、平野駒について勉強しています。
前回まではこんな感じでした。
まずは平野駒の長男である平野威馬雄(1900~86)の著作を2点入手し、手掛かりを探してみました。
最初は「アウトロウ半歴史」。
1978(昭和53)年発行の、威馬雄が自らの半生(というかほぼ大部分)を綴った自伝的な著作。
おそらくこの本を書いた当時、威馬雄氏は77歳くらい。
氏の文章を読むのは初めてですが、とても柔らかで、きれいな日本語によって綴られています。すごく読みやすいのです。
内容についてはとんでもない(?)部分もあるのですが、威馬雄氏の文才のせいか、そんなに強い表現に感じられないのが不思議。
その中で駒が登場する場面は少ないのですが、威馬雄が暁星中学校を放校された際に横浜から呼び出されたエピソードがあります。
『「うちのせがれがいったいどのような恐ろしい罪を犯したのでしょうか?長年お世話になった学校を追い出されるような、そんな恐ろしい悪事を働いたのでしょうか?」母は冷厳な校長や教頭の前で、卓を叩いて放校の理由をたずねた。』
これは威馬雄がミサの時に破廉恥なことをしでかしたからなのですが、威馬雄がこのような駒を見たのは初めてだったそうです。
次に「レミは生きている」。
1959(昭和34)年から、幾度か出版社を変えて刊行されていた本。
わたしは1979(昭和54)年の講談社文庫版を入手。婿さんの和田誠氏が装丁を手掛けられています。
この本と「アウトロウ半歴史」には一部重複する部分があるのですが、こちらは「アウトロウ半歴史」よりも20年ほど前に書かれた、同じく自伝的な著書です。
こちらには、父の死と母の死について記述があります。
父・ヘンリーは帰国後の1920年にニューヨークでの演説中に急死してしまったこと。
母・駒は1937(昭和12)年ころに、おそらくは心臓の病気で亡くなってしまったこと。
また、幼少時は横浜で祖母と暮らしていたという記述もありました。
この祖母というのは駒のお母さんですが、ヘンリーと時を前後して亡くなられたとのこと。
祖母は「武士の娘」と。威馬雄氏にとっては厳しいおばあちゃんだったようです。
また、駒さんについての記述がとてもたくさん!
わたしなんかが評するのが憚られますが、混血児の母として、とても心労の多い人生を送ってきたことが偲ばれます。
そして、駒さんの出自につき横浜市立図書館にレファレンスをかけていたのですが、たいへんありがたいことにいくつか情報をいただくことができました。
・駒さんの父は、代官石川家の家来で、アメリカ三番屋敷のお茶場で蔵番頭を務めていた「平野伊左衛門」という人物であった。
・駒さんの兄である平野伊三郎は、病で足腰が立たなくなっていたが、英語が達者で、武士たちが手ほどきを受けに来ていた。
・駒さんは界隈でも評判の女性だった
・(大正9年の電話帳では)料亭「花の家」は見つけることはできなかった
代官石川家・・・
調べてみますと、石川家当主の名は石川徳右衛門豊八(1804~89)。
石川家は久良岐郡横浜村(いまの横浜市西区元町)の名主だったそうで、なんでも黒船来航時にペリーの接待をしたとか。なかなかなエピソードを誇るお宅です。
横浜は開港とともに神奈川奉行の支配下となり、石川家は総年寄として名主の上に位置付けられたそうです。
その後もこちらで調べてみましたが、どうやら神奈川奉行についての資料は非常に乏しいらしく、石川家に仕えた方々についての情報はまったくみつけることができませんでした。
アメリカ三番屋敷とはいったい・・・?
そんな折、国会図書館のデジタルコレクションより「横浜開港場の都市形成」という資料が目につきました。
1862(文久2)年、横浜港付近についての地割図が載っているのですが、その中に「平野屋惣次郎」という名を見つけることができます。
これは平野伊左衛門の関係者なのか・・・?
・・・と、今回はここまで。
まだまだ道半ば。少しずつ明らかになってきている気がします!