真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

久慈市荷軽部に祖先が住んでいたのだが・・・

家系のインデックス

 

かつて、妻の曾祖母の更に母方曾祖母・小野寺ハル(1814~90)について記したことがありました。

ハルさんは戸籍の情報だと、岩手県にある九戸郡九戸村長興寺の小野寺家へ嫁いで来る前は、現在の久慈市荷軽部に住んでいたようです。

しかし、その実家の姓が解読不能。あれから10年近く経過してもいまだに判明せず、非常に悶々とした状態なのです。

 

候補だと睨んでいる内の一つである小右エ門姓について、かつて相互貸借で借りた山形村誌には以下のように記述がありました。

資料的にはきっと貴重なのですが、私の知りたいことについてはあまり関連がなさそうなうえに読みづらいので、ぜんぜん解読する気になりませんが、せっかく打ち込んだので自己満足でコピペしてみます。

 

小右衛門家(現当主 小右衛門熊雄氏)収集文書

山立之秘伝之事と山神祭文の二点である。
マタギ(猟師)をしていた小右衛門家の先祖が、猟をしながら遠出をしたときに集めた文書である。
久慈地方のマタギの系統は、久慈三日町熊次郎に伝えられた「山立根元巻(やまだてこんげんまき)」の先をたどれば小久慈の和野友吉、藪川村の勝之丞,
田子村、夏坂一人マタギ源左衛門となる。年号は宝暦10(1760)年で当地方では最も古くまとまった内容といわれ、蘇民将来派の系統で他に類を見ないものである。小右衛門家の山立記は同じく蘇民将来派系であるが、一部かけている部分があるようである。年号は正徳5(1715)年とあるので、さらに古く45年さかのぼる久慈地方で最古のマタギ文書である。

 

(表書)
1「山立旧記全」

   山立之秘伝之事

抑山立之本地言善喜三歳酉虎伊勢天照皇大神宮御子七大師七観音、山神御子拾弐人内蘇民将来之末子小舟ト申尊也、是即狩人山立初、国土諸嶽野狐野辺発万民耕作不、持道具弓鉄砲鈕御教免也、依て今世ニ至迄女何成名山高山之貴神前ニて給候共御免成、依之鳥類ニハ一切構不申礼法也、夫より以来民安全ニ納千秋万歳

 正徳五歳未ノ四月五日
    山立旧記
  天照大神
  観世音菩薩
  七大師山之神

 さいもん
つらつらをもん見ルニ山の神御本地ハ、天照大神宮の御子ニマシマセハ、十二らせつまつり、月の七日ト申レさせ給、七たいし七観音のそりの之御子マシマセハ、神そをりの御大いしやう山神そらをう神トそないたてまつり、をのをの乃戸山ニさきニ御こし遊給、そをうの神々も、そらなる神の御力をやト一度ニ御こし給たニ、わがはらを入也ニかさらせ給へ、よきニなをし給、扨てもつくりやたてたる神の御大い十二、八がしや八ツ、七合ハ神みの尊よりもまんざニいろいろ神をたつとみ奉ハ、神上ハほん天・下ハたいしやくはたい天王たいしやく、ほん天トうやまい
   敬白
 正徳五歳未五月五日

 

2 山神祭文
抑山神の御本地を委クよん奉る、山神の父親ならば大王と申奉り、山神の母親ヲハこんひらさんせ御前と申され給え、東方ニ向て妻を尋給へともまたにつまハ定らす、南方ニ向て妻を尋給へともまた妻ハさたまらす、西方北方中央下界降きよてんニ向テ妻を尋給へ共またニ妻ハさたまさす、おこつの前ハつよく早ク御悟り有て、おこつの前の取引を以て、龍王浄土の一人姫をこんひらさひよし姫前と申させ給へ、山ノ神ハ何時より早ク御悟り有、山ノ神と申神目て見つる事ハなけれとも、せいハ小ク眼ノけたかく、心はらわしきかみたと聞からに、我等か一人姫をハ叶しものよと申され給、本はづ白金はき立、うらはず白金とてはき立テ、関の〆なわよって山鳥の拾弐ふ切れたる漆羽の矢を四ツ堅、はぎ立日光月光とて月日ヲ二体書顕したるたか笠ヲ召させ給ふ、芦毛の駒に金ふぐりんのくらはかせ、我身をかるけにゆらと乗り、あやか浦にしきや浦のこきんのあやをめしよせて、龍王浄土の一ノ姫をこんぴらさいよし姫御前、八十二人のおちやめえのとを打連て、白金のおん御座船に還らせ給え船遊被召さむらうそ、山神も一目急云風を一もミもまよきよと思召おでうずを取てからりと打つかへ、本はづたかはず一ツになれと、しわりきりと引しおり、河の瀬ばたに寄ゆり掛りよつ引せめてはなす矢ハ白金のおん御座船にうつらせ給へ、姫は是ハ是ハとハと山の神と申神目て見つる事ハなかれ共、せハ小く眼け高く心のはらわしき神だと聞からに、まして添て其身にて何のおろかハ可有ものをと、早ク是を知て有なら山神の夫妻にも成るへきものをと、心の内ては御慶めされてさむらふが、山ノ神ハいつより早ク御悟り有て、三年三年三とせか其間御かよハせ給ふ、御腹姫めされてさむらふ西山ト外山か崎のたんどくせんのすもとにて御産の緒を御ときあってさふろう、かせごか千人戌子十疋大音響にて通らせ給ふ、おごつの前爰通らせ給ふ誰や誰そと問給ふ、我等は大なんじか子孫の者、大なん申か子孫の者なら山の神の十二人の御子を持たせ給ふ、早く取上拝ミ申セと有けれハ我等ハ千人か狩子に大将の者なれハ、爰に見た何者やれ七日七夜の忌と在る、ましてえ何分血なんとにまぶれる事ハ叶わじものと申され給へ、大山七ツふミよkて大音起定にてとふらせ給ふ、其跡よりせこか千人戌五十疋て大音響にて通らせ給ふ、おこつの前爰通らせ給ふハ誰やたそと問給ふ、我等か小なんぞが子孫の者なら山ノ神ノ十二人の御子を持たせ給ふ、早く取揚拝ミ申せとありけれハ、進て夫レ社目出度キと云侭に弓矢・やなくい・太刀・やり持・爰やかしこにからりからりと打捨て能日能時ヲえらミさすと、むな木に青の木を取三時や内に七間四面からのこくそを造立、産湯なんとをまへらする、産飯シ申也と有けれハ、粟のよねを三石三斗三升の祝いの飯とて参らする、産着申せと有けれバ、袖ニ七尋御長ケニ九尋裁着せまいらする、山の神の十二人の御子に十二の御諱を付セせ給ふ、太郎をハ子二郎・丑三郎・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥と、山神の十二人の御子ニ十二の御諱を付させ給ふ、山神の御前におし懸参らする五丁の車ニずんばと積ミ、山ノ神の西へ向てえミをにんごとふぐませ給ふ、其所キハ七十日ノ舟遊と此度五日重なって七十五日ふね遊ビぜんふ日和りも結構して今社与へ事をさふらふもの、大なんドハ子孫の者、大なんちハ子孫の者なら山をなら山の子を一つも与えて取らすべし、海を狩なら赤き屏風ニ魚を壱本与えて取すべし、造り田宅めやうこかへに付ても、半とふにしてとらすへし、小なんちか子孫の者小なんとて子孫の者なら、山を狩なら山の子を心の侭与へてとらすへし、河を狩なら指たるアミの目毎に心の侭に与えて取らしへし、海を狩ならあミの目毎に心の侭に与えてとらすへし、造田宅さミやうこかへに付ても心の侭に与へて取スへし神の神の御本地を委く読上奉る
        山神祭文終り

 

・・・よし!ぜんぜんわからないぞ!

とりあえず文化11(1814)年にハルさんが生まれており、小野寺家に嫁いだ時のハルさんちの戸主は兄である巳之松さん。当時の長興寺村での手続きが間違ってなければですが。

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荷軽部村に住んでいた文化11年以前生まれの「〇〇 巳之松」さんをルーツに持つ方、いらっしゃいましたら私に力を分けてください!!!!

※ハルさんの生まれ年からみて、文化6(1809)年がヘビ年なので、巳之松さんはその年生まれじゃないかと・・・戸籍に記載があるかないかの瀬戸際の年代です(;・∀・)