山形からのお便り
妻の母の母・森井チヨ(1921~81)が生まれ育った、柿﨑家のある地です。
大蔵村の戸籍を辿ると、1915(大正4)年に村役場の火災により、それ以前の戸籍は焼失してしまっているという残念な状況でした。
現存している最も古い戸籍の戸主はチヨの曾祖父である柿﨑権兵衛(1846~1929)。
その実父として柿﨑五三郎、養父として柿﨑権兵衛の名が記されています。
おそらくは、五三郎の三男として生まれ、権兵衛家へ養子に入った際に同名を襲名したのだと考えます。
おととし、権兵衛の実父である柿崎五三郎のご子孫宅にお邪魔した際、焼失する以前に取得した1906(明治39)年に取得した戸籍謄本を見せていただくことができました。
その戸籍の戸主は柿﨑榮助で、実父は柿﨑兵三郎。養父として五三郎(1826~1911。ちなみにその父も五三郎)がご隠居として記載されています。
年代を鑑みるに、ご隠居の五三郎は権兵衛の父、榮助の実父である兵三郎はおそらく兄にあたると思われました。
なので、柿﨑五三郎の息子が五三郎、兵三郎、権兵衛というように想像。
襲名しているとややこしくなります。。。
訪問の際、いろいろと振舞ってくださった柿崎家のご当主でしたが、その1年後に妹さんよりお便りをいただきまして、ご当主が70代前半で急逝されたとの報。
ショックを受けると同時に、お会いすることが間に合ったことが奇跡だとも思いました。
その妹さんが、親戚に私の知る限りで作製した系図を配布してくださったおかげで、もうひとりの人物と知り合うことができました。
山形市の石澤さん。
80に近い年齢ながら、私の系図を基に、さらに踏み込んだ調査をしてくださった女性。
子どものことから謎だった親戚関係が、私の系図で明確になったとおっしゃられるのです。
祖先の探求をしているところで、こういった形でお役に立てるとは、こんなにも嬉しいことはないですね♪
石澤さんに伺うと、五三郎家は庄屋であった「柿﨑弥左衛門」の子孫だとのこと。
弥左衛門は、天保の大飢饉の際に私財を投げ打って民衆を助けたということが遺されています。
しかし残念ながら、五三郎からどのように弥左衛門に繋がるかは不明・・・
そうなのか~!そこを解き明かすのはかなりむつかしそうです。
石澤さんにはいろいろな資料をいただきまして、その中にはお墓に入っている人の一覧もありました。
大蔵村の墓石には、「○○家」と家紋と建立者くらいしか刻まれておらず、いかにも隠れ里といった趣きだったので、これは貴重な資料でした。
ぜひまた山形に行って、石澤さんにお会いしたいものです。
そのときは、ヘクサンボ(大蔵村ではカメムシのことをそう呼ぶらしい)のあんまりいない季節に行きたいな。
芋煮もまたたべたいし!