真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

父系についての悩むの巻

家系のインデックス

 

(菊地家)の父系をさかのぼっていくと、

私 ← 父 ← 祖父幸松 ← 曽祖父幸太郎 ← 高祖父幸吉 ← 近藤家からの養子儀平

・・・となっております。

ひいじいちゃん幸太郎までが福島(現:矢祭町大字東舘)で生まれており、幸吉一家が大正2(1913)年に屈斜路へ入植した後にじいちゃんが生まれています。

じいちゃん以前は会ったことはありませんが、戸籍上はこうなっているので間違いないでしょう。

 

しかし、儀平以前が難関。

儀平の戸籍には「当郡上関河内村(現:福島県東白川郡矢祭町大字上関河内)近藤勝右衛門五男」と記述され、菊地ハツの婿養子となっています。

 

かつて、既に故人である上関河内の近藤さんと電話でお話させていただいた際、
「祖先はかずえもんという名で庄屋をやっていた」
というおぼろげな情報をゲットしたところから、私の誤解が始まっていたのかもしれません。

 

「ん?かずえもん?・・・かつえもんと似てるし、もしかすると上関河内村から東舘に婿入りしたときに届出を間違えたのかも!役人に口伝えをしたとするとなまってたりして聞き間違えるかもしんないし!きっとそうだ!」
という、固定観念ができあがってしまったのです。

 

約8年前、近藤さんに委任状を書いてもらい、戸籍を遡って取得した結果、
近藤家の戸籍で追える最古の祖先は、文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」。
そして義冨の父欄は空白となっておりました。

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そして矢祭町史等に見られる明治2(1869)年の文書には「上関河内村庄屋 近藤數右衛門」とあります。

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むむむ。數右衛門=義冨?
それとも義冨とは別に數右衛門が・・・?

明治2年の時点では、義冨は58才。んもうバリバリと村を仕切りまくりっていう年齢ですね。

と、もやもやする状況にはまりました。

 

なお、このお話を伺ったという近藤さんは新宅。

義冨の二男である嘉永6(1853)年生まれの近藤彦雄さんが、同じ村の近藤新右衛門さんに養子入りしたお宅。

そして本宅は、義冨の長男である嘉永3(1850)年生まれの近藤邦彦さんが、義冨家の家督を継いでいます。

また、明治9(1876)年には上関河内村の村長として近藤邦彦の名があります。当時26歳なのでとても若い村長さんです。

ちなみに勝右衛門の五男で、菊地家の婿養子となった儀平は弘化元(1844)年生まれ。

そしてついに先日、上関河内の墓地を訪れた際に「數右衛門=義冨」だということが確認できました。

さらには數右衛門の妻が明治3(1870)年に51歳(1820年生まれ)で没していることも判明。

仮に「勝右衛門=數右衛門」だとすると、

 父・數右衛門義冨 1811年生まれ
 長男・邦彦 1850年生まれ(義冨39歳、妻30歳)
 二男・彦雄 1853年生まれ(義冨42歳、妻33歳)
 五男・儀平 1844年生まれ(義冨33歳、妻24歳)

・・・ということになり、続柄が変だ!ということになるわけです。

どういうことかしら?

いろいろ考え(妄想)を巡らせます。

 

<仮説① 儀平はやっぱり數右衛門の五男>

明治5(1872)年の壬申戸籍編製前に菊地家へ婿入りしているのでノーカウント。
そして儀平よりも上の子である長男~四男も何らかの理由で抜けているためにノーカウント。

儀平の初子である初太郎は明治3(1870)年に生まれているので、壬申戸籍編成時点で確実に近藤家に儀平の籍はないでしょう。

ただ長男~四男の行方が知れないため、これだと六男(以降)にあたる邦彦が家督を継いでいるのが不自然な気がします。

考えられるのは、上関河内の庄屋を務めるほどの家柄だった近藤家よりもさらに菊地家の家柄が良かったとか、邦彦がよほど聡明で跡継ぎに相応しいと判断したとか、もしくは儀平が數右衛門とケンカして家を出たとか。

そうなると長男~四男については完全に謎のままに・・・。

 

<仮説② 近藤勝右衛門は実在したが、上関河内を去った>

上関河内には(私の知る限り)3軒の近藤家があります。

ひとつは數右衛門義冨~邦彦家、

ひとつは新右衛門~彦雄家、

ひとつは邦彦の養子である清兵衛(実家は不明)が独立した家。

 

いままで出てきた中では、數右衛門と新右衛門はおそらく同年代。兄弟かとも想像できます。

新右衛門は彦雄を養子に迎えており、彦雄の戸籍には彦雄の奥さんと子どもと孫しかおらず、新右衛門の実子は見当たりません。

これらの家しか現存しないとなると、勝右衛門が実在したとなれば上関河内を離れたということも考えられます。

男子が儀平以外にも4人居るので、どこかに勝右衛門の子孫が暮らしているかも・・・

※ちなみに以前、上関河内村の近藤勝右衛門の除籍を申請したところ、「ありません」との回答でした。

 

と、ここまで見てきたところで、あろうことか無視できない記述を新発見!

邦彦の戸籍に、邦彦の姉(義冨長女)としてユキさんという方がいます。

生年月日が弘化2(1845)年3月28日。

 

・・・ん?

儀平は弘化元(1844)年9月25日生まれです。

兄妹だとすると、半年も経ってないし!

 

今まで少しも気づきませんでしたが、これは!儀平は數右衛門の子ではないという確固たるもので・・・しょうか?

 

<仮説③ 儀平の母とユキの母は違う人物>

儀平は義冨の五男であるが、正室の子ではなかったので立場上養子へ行った?

數右衛門は庄屋さんでしたから、そういったこともあったかもしれません。

今のところぜんぜんそういった情報はありませんので、まったくの想像ですけれど。

あるいはこのころの戸籍の生年月日なんぞ、どこまで正確なのかはわかりませんから、本当の兄妹という線も捨てきれないところがあります。

 

あぁ、何かこれらの仮説を真説にできるような決定的な情報を手にできないものかしら・・・

もっかいお墓をしっかり見てみたいなぁ。もう無理だけど~(・・;)

やっぱり旧いお墓は、しゅぱっと判読できなかったなぁ。

矢祭は(距離的にも休暇の取れ方的にも経済的にも)遠いなぁ。。。

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10年ぶり&初めまして

家系のインデックス

 

2018年10月26日。

かねてより計画していた「ANCESTRAL QUEST」発動。

菊地家は15時過ぎのフライトで、釧路から羽田に飛びました。

 

今回の探求対象は以下の赤文字の部分。私の父方の系統ほぼすべてです。

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初っ端の目的地はつくば市

つくばエクスプレスに乗車するため、東京モノレールと山手線を乗り継ぎ秋葉原へ。

時刻は18時。

ちょうど仕事を終えられ、へとへととなった企業戦士たちが帰途につく時間。

ちょっ!ガチやべぇ!

朝よりはマシなんでしょうが、このくらいの時間でも大概です(・・;)

でも首都圏のみなさんはこんなの平気の平左。

すんごいわやな体勢なのに、涼しい顔でスマホをちょしています。

これは・・・田舎の人間とは異なる進化を遂げている!

 

つくばエクスプレスも序盤こそ似たようなラッシュでしたが、埼玉を抜けたあたりからゆとりがでてきました。安堵です。

 

つくば駅には19時半前に到着。タイムズさんから891kmしか走っていないフィットをお借りします。

つくばナンバーの字面が可愛いっ!と、全娘に大評判でした。

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そこからイーアスつくばで晩ごはんと買い出しをし、ホテルに着いたのは21時過ぎ。

つくばは1985年のつくば万博から一気に開発された新しいマチ。

全体的にきれいで、道が走りやすい!

なんか頭のいい人が都市計画たてたんだろうか?

そしてロボットや宇宙関係でも有名な研究都市でもあるため、マチの人たちが全体的に知的な感じを受けました。

 

翌27日の土曜日。

朝一で筑波山へ向かいます。

紅葉になりかけの筑波山をハイキングしたいところでしたがそんな時間もなく、筑波山神社への参拝のみです。

日本で最も古く、約2000年前の創建と伝えられる筑波山神社

きっとここの生まれであるばあちゃんも、子どもの時分にお参りをしたことでしょう。

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そして、ばあちゃんである菊地よし(旧姓・太田。1914~2008)の故郷である上里地区へ向かいます。

 

ばあちゃんは当時の筑波郡吉沼村大字牛縊(うしくびり)出身。

牛縊という地名があんまりだったのか、昭和30年頃に上里という地名に変わっています。

ひいじいちゃんである太田代次郎(1878~1962)一家は、1921(大正10)年頃に北海道網走郡女満別村本郷へ入植。

代次郎は長男の身であるうえ、入植の時分は既に父親である太田安造(1852~1899)も故人となっていたので、北海道になぜ渡ったのかミステリアス。理由が見つからないのです。

 

まずは10年程前からコンタクトをとり、Facebookでやりとりをしていた飯島家

ばあちゃんの母親・太田ふて(1881~1940)の実家です。

上里の飯島家はひいばあちゃんの兄・飯島才次郎(1878~1948)が跡を継ぎ、現在は子孫の方が守って下さっています。

まるでサザエさん家のような立派なお宅にお邪魔させていただき、暖かいおもてなしをいただいてしまいました。

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どうやらひいばあちゃんは体が弱かったそうで、飯島家ではなぜ北海道へついていった(連れて行った)かが不思議だと伝わっている様子。

そして、一番戸籍に記載されている旧い名前である飯島太左エ門より、もっと前の世代から隣に本家があるということ。

太田代次郎・ふて一家が北海道へ向かう際、近所の鹿島神社に木を植えて行ったのが、大きくなり過ぎて今は切り株になってしまったということ(でも新しい芽がでているそう)。

 

・・・実は旅行の計画を練っているとき、時間をタイトに設定しすぎて、1軒あたり30分くらいしか設けていなかったのです。

が、どだいムリな話。飯島家で楽しくおしゃべりさせていただいている間に1時間以上経ってしまいました。

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もうじきお昼にさしかかってしまう!あわてて近所にあるひいじいちゃんの実家、太田家へ向かいます。

太田さんはずっと旦那さんとやりとりをしていたのですが、なんとびっくり、奥さんが直系の血族でした。

旧いアルバムを持って来て下さり、昔の写真を見ながら思い出話をしてくださいました。

その間、子どもたちは隣にお住まいのお孫さんと楽しくボール遊び。

 

戸籍上、ひいじいちゃんの父・安造のさらに父は太田勇一郎(1825~1903)。

勇一郎は戸籍上最古の祖先である太田勇右エ門の娘であるきさ(のちに確認すると、墓碑上は「きよ」と!)の婿であり、その実家である砂山家はほぼお向かい。

 

砂山家にはお手紙を事前にしていたものの、「詳しいことはわかんないから」ということで、アポをとることができませんでした。

しかしチャンスはここしかありません。

仲良しだという太田さんの威をお借りし、除籍謄本取得のための委任状を!

「なんもわかんねぇんだ~」と仰る砂山さんの奥さん(こちらもお婿さんが来てくれたお宅で、直系は奥さんでした)より、太田さんのお力添えによって無事に委任状をいただくことができました!

これで砂山家の除籍をさかのぼる請求をすることができるようになりました。

 

最後は、太田家の庭でたわわに実っていた柚子を、高枝切ばさみで子どもたちに収穫させていただけるという大サービスまでいただきました。柚子の枝にあんな豪快なトゲがあるのを初めて知った40歳。

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楽しい時間はあっという間。

太田家を後にするころには、もうすっかり予定の時間を激しくオーバーしています。

大慌てで上里集落の墓地へ行き、太田さんや飯島さんだらけの中からわが太田家と砂山家のお墓は見つけられてお参りできたのですが、飯島家は見つからないような・・・?

太田家の家紋は、聞き及んでいた通り「丸に桔梗」。

砂山家の家紋は「丸に五三の桐」。

そして確証はないのですが、太田家で判明している最古の女性である太田ふか(1812~88)の実家である岡田という姓のお墓が2基あり、片方は家紋が彫られていない墓石でしたが、もう片方には「丸に隅立て四ツ目結」と、飯島家と同じ家紋が彫られておりました。

写真だけは撮りまくってきたから、家に帰ったらゆっくり見よう。ということで上里に別れを告げました。

 

安造の妻・太田せゐ(1851~1927)の実家である中山家があった上郷の歓喜院墓地はGoogleマップで確認すると広大なため、時間切れで仕方なくパス。

 

ひいばあちゃんである太田ふての母と祖母の実家・齊藤家がある上河原崎の墓地だけでも・・・と思い寄ったところ、齊藤さんばかり!墓碑を見ている時間もなく、ロクに確かめずに写真だけ撮りまくってきてしまいました。お参りも何もあったもんじゃありません。

家紋も「丸に隅立て四ツ目結」、「丸に橘」、「丸に梅鉢」、「丸に根笹」とバリエーション豊か。

水汲み場では井戸水を使っているようで、これは私にとっては驚きの光景。内地では珍しくない?

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次は家族サービス。
昼食はモスバーガーでドライブスルーして、つくばエキスポセンターで食べる予定・・・が、モスが水道故障のため臨時休業!

しかたなくファミマ(ちなみに釧路にファミマはありません)で昼食を買い、エキスポセンターへ。

万博の頃にばあちゃんが筑波へ行き、コスモ星丸のグッズをおみやげに買って来てくれたのを思い出し、涙が・・・

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2階は難しすぎて私にもよくわからないコンセプトでしたが、1階は遊ぶものがたくさんあってめちゃめちゃ楽しめました。

コスモ星丸は青いイメージだったんですが、ピンクの星丸の方がメインっぽくて驚いたものです。

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星丸のリバイバルを期待しております。

その日は一気に茨城の最北端大子町まで走り、道の駅で夕食(名物の軍鶏カレー)をいただき温泉を浴びて終了・・・と思ったんですが、子どもたちに風呂上がりの柚子シャーベットを味わいさせてあげたく、ユーパル矢祭までひとっ走り。

もう柚子シャーベットの販売は終了していた時間だったんですが、無理言って売っていただけました。矢祭の人は心優しい(#^.^#)

大子の宿で、矢祭の柚子シャーベットを存分に味わってもらいました(=^・^=)

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翌28日の朝。

朝4時半に目覚めた私は、予定通り単独行動で矢祭町関岡飯野へ向かいます。お日さまが出てくるタイミングにたどり着けるように。

 

さかのぼること11年前。

その頃取得した菊地家最古の戸籍は、東舘村(現在の矢祭町東舘。関岡とは久慈川を挟んで隣村)の菊地儀平(1844~97)が戸主のものなのですが、そこに儀平の養父として名前があるのが菊地儀右衛門(1810~90)。

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その儀右衛門の欄には「関岡村 菊池友輔三男」と記されていたため、当時は菊池友輔の子孫の方とコンタクトを取っておりました。

そして2008年に関岡の菊池家を訪問し、お世話になったのが友輔の子孫である菊池玄さん。
その際は、友輔との関連が見いだないまま。

2016年に玄さんは92歳で再会を果たせることなく世を去ってしまったのですが、玄さんにいただいた資料を元に、ずっといろいろと真相をぐるぐる考えていました。

 

医師である友輔孝恒(友甫とも)は明治18(1885)年に享年74と彫られているので、墓石から逆算すると文化9(1812)年の生まれで儀右衛門の2歳下。少なくとも儀右衛門の父ではありません。

友輔の父は菊池友元道恒。医師としての初代で、おそらく友元の代で分家しています。

友元は天明元(1781)年の生まれなので、儀右衛門の父だとすると当時29歳。つじつまは合います。

そして友元の碑に事績が記されているのですが、そこには長男・孝恒が友輔となり友元の跡を継いで、二男・孝昭が本家の跡を継いだと刻まれています。

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私の想像では、この孝昭が儀右衛門なのではないかと。

「友輔の三男」と戸籍に記されているのは何か数え方が異なるのではないかと。

しかしそうなると、兄の友輔が儀右衛門の2歳下となってしまい、兄弟の年齢が逆転してしまいますが・・・

 

そしてそこからです。その裏付けがさっぱり取れません。

儀右衛門の養父は藤兵衛という名ですが、どこにもその名は出てきません。

本家と思しき番地の最古の名は明治20年頃の「菊池健三」さん。その後も代々「健」の字を脈々と引き継いでいます。

儀右衛門とか孝昭から考えると、名付けの法則的なものも見出せません。

 

そんな状況で、再び飯野の墓地へと向かいますが、案内いただいた10年前と異なり、一人だとめちゃめちゃ迷子になり、タイムロスしまくってやっと見つけました。

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本家と友元家の墓地は、同じ場所にあります。

友元家の墓石を、お参りしつつまじまじと観察するも、新たなことは見いだせず。

そしていよいよ本家のお墓を・・・と思ったら、風化しまくっており、あまり解読できる石がない!

なんとか読めそうな部分を読解してみます。

まず、石灯籠①には「奉献」「願主 菊池縫殿助」、横に「萬延元庚申(1860)年十月十三日」と、石灯籠②には「奉献」「??村 永沼覺之助」「当村 菊地友甫」、横に「萬延2酉年」と彫られています。

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そして戒名と建立日が彫られた多くの墓石の中に俗名が彫られたものがあったのですが、「赤津政次之墓」・・・誰だろう?明治12(1879)年と彫られています。

あともうひとつ「小田川村 佐川平左衛門」・・・。

菊池さんが居ないっす。

 

ちなみにひいひいじいちゃん達が大正2(1913)年に屈斜路に入植する前に住んでいたのは東舘村舘本の番地。

現在は佐川さんという方が住んでおられます。10年前に来た時に、「確かここも親戚のはずだわ」と言われたのを思い出しました。

飯野を後にして、次は上関河内。

 

菊地家最古の戸籍に戸主として記載されている菊地儀平の実家です。

菊地儀平は「上関河内村 近藤勝右衛門五男」。

上関河内の墓地も、迷いに迷ってやっとこさたどり着きます。
すると、近藤家の墓地がすぐ見つかりました。

かつて近藤誠さんという矢祭町議の方とコンタクトを取らせていただいており、10年前に訪れた際は入れ違いでお会いできず。

その後もお会いできることなく、2014年に世を去ってしまいました・・・。

電話でお話しさせていただいた内容としては、祖先は「近藤数右衛門」という人で庄屋をやっていた。菩提寺は「積泉寺」という寺だったが、明治の初めころに燃えてしまって古いことはわからないということ。

勝右衛門と数右衛門。名前が似ている・・・。同一人物だけど間違って記載されちゃったのかしら?

その謎を解くべく、かつて誠さんに委任状をいただいて近藤家の戸籍をさかのぼって取得したことがあります。

すると最古の名前は近藤義富(1811~90)。父欄は空っぽ。

この義富が数右衛門なのだろうか?

仮に儀平が数右衛門の五男であるとすると、33歳の時の子となり、年齢的には不自然ではありません。

果たしてこの墓地で確証が取れるか!?

 

すると、見つけました!

明治3(1870)年に没した数右衛門の妻の墓石があったのですが、そこには「小田川村 佐川平左衛長女」と!そして「近藤数右衛門義富室」の文字。

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義富と数右衛門がこれで同一人物だということが判明しました。

そしてこの小田川の「佐川平左衛(門が抜けてる?)」という名は、先ほど飯野の墓地で見た名です。

佐川さんが親戚だというのは、ここから来ているのか!?

 

他にも関係は不明ながら「近藤數右衛門藤原義次」や、「近藤新六藤原義高」という名も見つかりました。藤原氏であることを現代にも受け継いでいるようで、墓碑にあった誠さんのお名前にも「藤原」の名が刻まれていました。

そしてもう一基。二男・彦信、三男・彦三、四男・和義が一つの墓石に刻まれているものが!
おそらく夭折したのであろうこの3人の男子。

五男である儀平の兄たちではないかと想像されます。 

無事に成人した儀平は菊地家へ婿入りし、長男が近藤家を継いだのでしょう。

そして家紋がこちら。

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ここまででタイムアップ。

 

もう7時ちょっと前。

ホントは大子町内大野にある実相寺にありそうな齊藤善治エ門家のお墓を探索したかったのですが、大子の宿に家族を迎えに行かなくてはなりません。

この日は前日よりもさらにタイトなスケジュールなのです。

 

まずは袋田の滝を観光。一番滝に近い菊池みやげ店に駐車させていただき、いざ滝へ!

さすが日本三名瀑のひとつ。もんのすごい迫力でした!

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紅葉は2~3分ほどでしょうか。まだ激混みする前で良かったです。

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子どもたちは鮎の塩焼きを初めていただきます。どうやらお好みの味だったそう。

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次に同じ大子町内小生瀬の石井家へ。

石井家は高祖母・菊地スイ(1874~1931)が生まれた地ですが、その父である石井庄衛門(1837~1902)と二男・鐵之介(1867~?)は常陸太田へ移住。長男は岩間へ移っており、現在は高祖母の実家は存在しません。

この地に伝わるいろいろなお話を石井さんより伺うことができましたが、ビビッと繋がるようなことは今のところありませんでした。

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最後に石井家の墓地へ連れて行っていただいたのですが、新しいお墓の地には石井さんたちの親御さん達が眠っておりました。

しかしもうひとつ。庄屋だったという家の墓地にも連れて行っていただきまして、そこでまたもやもやもやミステリアスなことを発見。

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庄屋さんは「益子」という姓で、現在は東京の千駄ヶ谷で病院を経営。毎年お墓詣りに見えているそうです。

その墓石に「益子庄エ門」という名が刻まれていたのです!

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さらには、以前にここ大子町のご出身である苗字研究家の髙信幸男先生に石井家のお墓について伺った際、こちらの墓地の写真をお送りいただいたということもあり、ここは石井家のお墓とも認知されているのかとも思われます。

 

以前、常陸太田にお住いの石井鐵之助家の子孫の方に伺ったのが、「横目を務めていた」「天狗党の乱のときに親子で対立した」といったエピソード。

もしかすると、庄衛門は襲名で、もともと石井ではなく益子という姓だったのでは?

天狗党の乱の際に袂を分け、姓も変えてしまったのでは?

・・・推測に過ぎませんが、謎が増えてしまいました。

 

・・・そんなことをぼんやり考えながら、小生瀬を後にして矢祭山にある「鮎の吊り橋」へ。
ここも10年ぶりの来訪です。

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久慈川は相変わらず清流で、水底が見える素晴らしい川です。
このままずっと変わらず在ってほしいと願っています。

そして矢祭山駅で10年前と同じ構図で写真を撮りました。あぁ、なんか幸せですね(*^_^*)

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あぁ、でももうすっかりスケジュールが絶望的におしている・・・。

 

急いで白河ラーメンを食すべく「あずま食堂」さんへ向かいます。

・・・が、棚倉付近から白河への道路がなんかすんごく混んでいる(T_T)

やっとあずま食堂さんへ着いたものの、大行列~

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もう諦め半分で待ちますよ(*´Д`)

 

10年ぶりに食べた白河ラーメンはやっぱりあの頃の味のまま。

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麺の太さは全然違うものの、あっさりスープは釧路ラーメンとなんとなく似ているので、親近感がわきます。

うまいし安いし、ホント言うことないですね!

 

次は白河小峰城へ。子どもたちは松前城には行ったことがありますが、まともなお城は初めてです。小峰城は復元ですけれど。

 

そしたら棚倉~白河間の渋滞原因が判明。

白河小峰城付近で「白河戊辰ラーメン合戦」なる近隣の県から人気ラーメン店が集まり、東西に分かれて戦うという力の入ったイベントが行われていた様子。

なんてこった(/・ω・)/

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小峰城を20分ほどで満喫し、次は白河市の旧東村へ。

ここはじいちゃんの母方の実家が集まっている地区。

まずは蕪内集落の墓地へ向かい、じいちゃんの母方祖母である藤田カメ(1872~1942)の実家・藤田定藏家のお墓と、カメの母の実家・岡部家のお墓を捜索します。

 

さかのぼることは叶いませんでしたが、藤田家は家紋が「丸に梅鉢」。

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岡部家が「丸に橘」ということが判明。

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岡部家の子孫の方もこれで分かりそうです。

ここで蕪内は終了。

 

そして千田集落へ向かい、ひいじいちゃんである藤田松吉(1853~1937)の母・タケ(1825~1904)の実家である角田(つのだ)家へ向かいます。

角田さんのお宅は玄関開けたらいきなり居間!という北海道では見られない間取り。お孫さんやたくさんのかわいい猫ちゃんに迎えられ、またもや楽しい時間を過ごさせていただきました。

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こちらの角田さん、タケの兄である清蔵さんの子孫でありますが、清蔵・タケ兄妹の親については情報は得ることはできませんでした。

墓地の場所を教わりましたが、もちろん迷いながら到着。

 

千田の墓地は、やっぱり藤田さんや角田さんだらけ。

墓碑ををひととおり見て回る時間もなく、写真だけパシャパシャ撮りまくりました。でももう日暮れが近かったのでブレまくり(T_T)

やっとこさ角田さん家のお墓を発見し、家紋が「丸に松皮菱」であることは確認できましたが、藤田家についてはここには無さそうなので諦めます。

 

いよいよ家系についての最終目的地、ふたたび矢祭町へ向かいます。

途中で棚倉の八槻都々古別神社と如意輪寺へ。如意輪寺は藤田松吉が住んでいた地域の菩提寺だと思われるのですが、お墓はここにも無いようでした。

 

17時近くになり、やっとこさ関岡天神沢の真言宗泉福寺さまへ。

予定よりも1時間も遅れてしまったのにも関わらず、仏のような心でお迎えくださったご住職さま。奥様がお仕事でご不在のため、2歳と1歳のお子さんの面倒を見ながらお相手くださいまして、非常に申し訳なかったですが、いろいろなお話を伺うことが叶いまして、非常に有意義な時間でした。

「江戸期の関岡村の絵図には菊池家が3軒しかなく、いまは大勢いらっしゃる関岡の菊池家はそこから派生していったのだと考えられます」とのこと。

 

そして最後のチャレンジ。本家と思しきお宅に委任状をいただきに行きます。

最後は子どもたちを連れ立ち、子どもパワーでなんとか・・・と思ったのですが、非常に厳しい雰囲気。

でもいただくことができましたよ!

これが最終兵器だ!

 

その日は栃木の馬頭温泉に宿泊し、10年前に会津若松以来で貸切露天風呂を満喫。

娘の年頃を考えると、これが人生最初で最後の一家四人での露天風呂かなぁ、と考えるとおセンチになっちゃったりします。

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翌日は益子町西明寺で笑い閻魔を拝顔し、

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御朱印もいただきました!

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そして茂木町まで行き、ツインリンクもてぎで遊びまくりました。

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そしてふたたびつくばエクスプレス(今回は座れた)で東京に戻り、

夜の浅草寺や、

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もんじゃ焼きを満喫。

 

最終日はスカイツリーに登り、

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予約戦争で勝ち取ったカービィカフェを堪能。

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そして現実に戻ってきたという4泊5日の旅でした。

 

大勢の縁戚の方々にお世話になり、本当に心に残る旅行となりました。

子どもたちにも楽しんでもらえたようですし。

 

これからまたいろいろと推察の日々が始まります!

昭和45(1970)年10月の国勢調査からみた矢祭町の苗字

家系のインデックス

 

昭和46(1971)年の「広報やまつり」に、興味深いデータが掲載されていました。
前年に行われた国勢調査の結果からみた、苗字のデータです。
このころはギリギリだれの戸籍でも閲覧できた時代。
こういったデータは、今となっては自治体で公表しないでしょうね。

○世帯数 1,882世帯
○人口   9,211人
○苗字の種類   801種 

順位 苗字 世帯数 人口
1 鈴木 206 1,013
2 菊池 149 808
3 金沢 114 582
4 藤田 75 364
5 佐藤 65 310
6 石井 55 263
7 古市 45 233
8 本田 43 239
9 緑川 42 203
10 佐川 36 201
11 片野 36 183
12 豊田 35 203
13 増子 35 183
14 斉藤 31 143
15 高沢 28 146
16 松本 27 192
17 益子 24 117
18 藤井 24 112
19 寺島 23 116
20 20 110
21 近藤 20 94
22 小林 20 85
23 富永 17 105
24 古張 17 86
25 高信 16 79
26 芳賀 16 78
27 15 78
28 菊地 15 67
29 加藤 14 68
30 白坂 12 65

 

各地域別ベスト10

旧豊里地区(200種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 94
2 金沢 59
3 藤田 52
4 本田 36
5 菊池 36
6 片野 35
7 豊田 34
8 石井 29
9 古市 26
10 佐藤 26


旧石井地区(51種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 77
2 菊池 59
3 緑川 30
4 金沢 29
5 藤井 19
6 佐川 16
7 13
8 松本 13
9 藤田 12
10 佐藤 10


旧高城地区(95種類)

順位 苗字 世帯数
1 菊池 54
2 鈴木 35
3 佐藤 29
4 金沢 26
5 高沢 24
6 石井 24
7 益子 22
8 古市 19
9 古張 17
10 松本 16


・・・苗字の種類801って書いてありますが、ベスト30だけで人口の7割超。ホントにそんなにあるのかしら?

矢祭町は現在福島県ではあるものの、もともと佐竹領で常陸国とのつながりが強い地域。
東北の傾向とはだいぶん異なる順位になっています。

私の苗字である「菊地」は28位ですが、もともとは2位の「菊池」。
さらには私の血脈で大きなウェイトを占める「藤田」が4位。
父系をさかのぼると養子元は「近藤」になりますが、20位とやや低め。

矢祭町に特徴的な苗字としては、
菊池、金沢、藤田、石井、古市、本田、緑川、佐川、増子(益子)・・・といったところ。
町長や、矢祭の生んだスターであるあばれる君の「古張(こばり)」が24位。
続いてお隣の茨城県大子町出身ですが、苗字研究家・高信幸男先生の「高信」が続いています。

いつかこういう風に国勢調査の結果!とかいって、国で統計だしたりしないかしら?
苗字は千年以上の貴重な歴史を語る、日本の財産ですから(#^.^#) 

そしてこの統計から47年後の2018年5月時点、矢祭町の人口は36%減の5,859人。減り幅・・・(T_T)

祖先の故郷をたどる旅に向けて

家系のインデックス

 

いつの間にか地震の影響が落ち着いてきています。

私の住む釧路市は、地区によってばらつきがありながらも、自宅は地震の翌日金曜日19:42に停電から復旧。

今日くらいから、物流もそれなりに流れ始めています。

震源地付近はまだまだ日常には戻りませんし、もう地震前の生活に戻れない方も大勢いらっしゃいます。胸がつぶれそうなニュースが毎日届いている状況・・・。

 

人的被害がなかったのであまり報道されていませんが、

おととし訪れた厚真神社、

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そして安平町の早来神社。

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どちらもかなりの被害のようです・・・。

ともに御朱印をいただき、非常に優しくしていただいた神主さんご一家のことが思い出されてなりません。

 

そんな折、10月下旬の茨城&福島旅行に向けて着々と計画を練っている夜です。

 

まずは秋葉原からつくばエクスプレスつくば市へ向かい、祖母・よし(1914~2008)の故郷である旧・筑波郡牛縊(うしくびり)村を初めて訪れます。あんまりな地名だったのか、今は上里(かみさと)という地名に変わっておりますが。

 

上里には、祖母の本家である太田家

祖母の母・ふて(1881~1940)の実家である飯島家

祖母の祖母・せゐ(1851~1927)の実家である中山家、

祖母の曾祖父・勇一郎(1825~1903)の実家である砂山家が存在。

 

また、祖母の高祖母・太田ふか(1812~88)も、戸籍上は牛縊村・岡田与左エ門の二女として生まれ、1833(天保4)に太田勇右エ門へ嫁いできたようなのですが、電話帳サイトによると、現在は上里地区に岡田姓の方はいらっしゃらず、隣村の上郷には岡田姓がいっぱいいらっしゃるという状況。

牛縊から上郷へ移ったのかもしれません。

 

そして、高祖父・飯島龍介(1853~1922)の妻・さた(1856~1916)、

龍介の父・太十郎(1828~1896)の妻・まつ(1826~1912)は、ともに上河原崎の斉藤家より嫁いできています(さたの父は市郎、まつの父は伊平)。

 

ちなみにつくばの祖先に関して割ける時間は、3時間の予定。

その3時間で上里、上郷、上河原崎の調査について効率的に周ることができるように猛下調べ中・・・。 

 

 

その翌日は2008年9月に訪れた地の再訪です。

高祖母スイ(1874~1931)の実家・石井家の故郷である大子町小生瀬、

スイの母・ふゆ(1839~1909)の実家・齊藤家の故郷である大子町外大野、

菊地家そして高祖父の父・菊地儀平(1844~97)の実家・近藤家の故郷である矢祭町、

曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の故郷である棚倉町

カツの父・藤田松吉(1853~1937)の故郷(かどうかは未だ確証がない)である白河市東千田地区。

カツの母・藤田カメ(1872~1942)とその祖父・岡部弥七の故郷である白河市東蕪内地区。

 

この日も祖先調査に割ける時間は6時間ほど。

移動時間を考えると・・・(;・∀・)

 

その下調べ中に、高祖母の実家・大子町小生瀬の石井家について、祖先調査に一家言お持ちである丸山学先生が4年前に書かれた小説的なものを発見。長めです。

この内容がどこまで事実なのかが煙に巻かれたような気がしますが、石井家が小生瀬に土着した理由や時期は不明ながら、横目を長らく務めていたという口伝があることもあり、非常に興味深い内容でありました。

 

【2018/9/18追記:著者の丸山先生へ質問させていただいたところ、創作だということでした。そしたらば、小生瀬の謎は僕が解く!生きてるうちに。】

 

ちなみに、以前も書いたかもしれませんが、矢祭町史に以下のような記述が。

 

秋田藩家蔵文書】

筑紫豊後国より下候」兄弟四たり名字ハ」成、氏は平

 ちゃくし石井へ落着、

 二番め山本へおち付、

 三番め田さき、

 四番め井上、

石井安藤太郎生瀬に落着、

 舎弟安藤二郎高倉に、

 三番め蔵主小里に

 

この文書が書かれた時期は不詳のようですが、もともとは豊後国より来たような雰囲気です。やはり時期が知りたいところですが・・・。

 

そういうわけで、それぞれの場所に割ける時間はもうホントにごくわずか。

ガチで効率よく周らなくてはなりませんので、現在お手紙作戦を敢行し、コンタクトが取れそうなお宅を探っているところです。

 

現在のところ、つくばの飯島さんとお会いするアポがとれました(#^^#)

9/18に太田さんからもOKでました!

非日常

9月6日午前3時8分、北海道胆振東部を震源とした最大震度7の大地震が発生。

 

震源に近い厚真町、安平町、むかわ町、そして空港のある千歳市、大都市である札幌市に大きな被害発生。

 

震源となった厚真町にある北海道最大の火力発電所が機能をストップ。

道内各発電所が、その影響ですべて停止。

結果、北海道全土で停電という極めて深刻な事態。

 

6日も7日も通常勤務でしたが、信号が点かないためにデンジャラスな通勤となりました。

 

同日の夕刻より砂川火力発電所の復旧をはじめとして、各発電所、さらにすでに来春での廃止が決まっている奈井江や音別のガスタービン発電所も久しぶりの稼働。

 

そして東京電力からの電力融通により、やっとほぼ全道的に電気が戻っています。

 

私の住む釧路市は震度3ということで、地震による直接の被害は無し。

断水はなく、ガスも通常通り。あとは電気の復旧を待つばかりでした。

 

電力の復旧は同じ市内、そして同じ地区内でもばらばら。

きのうの朝には隣家が復旧していたのですが、私の家はそれから半日後の19時40分ころについに復旧。

約40時間の停電でした。

 

北海道電力のみなさま、そして引退していたのに最後の力を振り絞って動いてくれた発電所たちに感謝感謝です。

こんな状態になってしまっていろいろ課題がでてきましたが、それはまた落ち着いてからの話になるでしょうね。

 

あとは物流が完全にストップしているため、どこのお店にもまともな食料はなく、カセットボンベや電池も枯渇状態。

釧路近辺は作物が育ちづらい環境のため、農家が少ないのも痛いところ。

 

そしてまだ余震(本震?)があるという専門家の言葉を不安に思いながら過ごしている状況です。

 

この度の地震により亡くなられた方々の御霊が、安らかに旅立てることを祈っています。

 

そんな中、来月下旬に筑波や東白川方面へ家族とともに旅立つ計画を立てています。

それぞれの場所は非常に短時間(1~2時間)しか滞在できないので、今のうちに手を回しておかなくては・・・。

お盆なので菊池家祖先について再考してみる

家系のインデックス

 

世の中は今日からお盆!

・・・ですが、ことしは家からご先祖さまに思いを馳せているところです。

 

その中で、私の姓でもある菊地家

未だに祖先、そして本家を探し出せないままでいます。

 

菊地聖也(1978~)

 ↑ 長男

父(1951~)

 ↑ 五男

菊地幸松(1916~1970)

 ↑ 長男

菊地幸太郎(1893~1936)

 ↑ 長男

菊地幸吉(1874~1959。福島矢祭東舘から屈斜路へ入植)

 ↑ 二男

菊地ハツ(1852~1906)—近藤儀平(1844~1897)

 ↑ 長女

菊地儀右衛門(1810~1890。矢祭関岡、菊池友輔の三男)

 ↑ 養子

菊地藤兵衛

 

・・・というのが戸籍上で追える菊地家のまさに直系祖先。

 

いろいろな資料や口伝を拾っていくと、いろいろな考えが浮かんでは消えていきます。

 

まずは菊池家を祖とする儀右衛門の父について。

儀右衛門の実父として記載されていた菊池友輔の子孫にお話や資料をいただいたところ、菊池友輔(友甫とも)の長男・政恒が1843年生まれ。

友輔の父は菊池道恒。友元と号していた医師でした。

 

政恒の生まれ年から考えるに、儀右衛門が1810年生まれなので、儀右衛門の父が友輔というのはおかしく、友元であったと考えるのが自然かと思われます。

※菊地家の最古の戸籍は福島県東白川郡東舘村のもので、儀右衛門の実家は関岡村。異なる役場ですから、届け出の方法によっては間違えたり、その後に変化したりするのはおかしくないでしょう。

 

友輔も諱は孝恒。道恒→孝恒→政恒と、代々「恒」の字を通字としていたようです。政恒の長男は仁一さんなので3代だけでしたが。

 

そして友元は二男二女をもうけており、長男が友輔で友元の跡を継いで医師の道へ。

二男は孝昭といい、本家を継いだと伝えられています。

兄友輔の本名が孝恒なので、兄弟で「孝」の字が同じとなっていますね。

 

重要なワード「本家を継いだ」。

本家とは?

 

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天明元(1781)年、友元は現在の矢祭町関岡飯野の農家に生まれたと伝わっています。

そして医師となり、同じ飯野地内の違う番地で医院を開業。

長男である友輔が医師を継いで、のちのち昭和期に医院は廃業してしまいますが、現在も子孫の方がその地を守っています。

 

そして友元の生まれた家。

 

現在もその番地のお宅は健在です!

 

おそらく、孝昭はその家(本家)を継いだのだろうと推察しています。

そしてその家の主が藤兵衛だったと。

孝昭は儀右衛門と名乗り、現在も続く菊池家の当主となった・・・と思うのですが、最古の戸籍は儀右衛門の長女であるハツの婿養子・菊地儀平が当主のもの。

そこには儀右衛門も父として記載されており、あれ・・・?と思うわけです。

 

本家はもしかすると明治19年式戸籍編成以前に儀右衛門のさらに息子が継いで、儀右衛門は婿養子・儀平たちとともに飯野を離れて町のほう(東舘村舘本)へと移っていったのかもしれません。しかも姓を菊池から菊地へ変えて

 

しかし、ここまでの推察を吹き飛ばすのが、友輔の墓石です。

以前も記述したことがあるのですが、友輔の墓石には「明治18年12月13日 享年74没」と彫られているのです。

明治18(1885)年で数え74歳だと1812年生まれとなってしまい、弟である1810年生まれの儀右衛門のほうが年上になってしまう(´Д⊂ヽ

友輔と儀右衛門兄弟説が一気に怪しくなります・・・。

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しかし、日付のあとに「立」の文字。

これは没日ではなく、建立した日ということでは!?

なので、明治15(1882)年以前に友輔さんが亡くなられていた場合は年齢逆転のジレンマが解けることになります。

・・・しかし、肝心の没日は現状わかりません(*´Д`)

 

そしてますます混乱させられるのが、逆側に彫られているの「軍医総監 松本順」の文字。

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松本順氏は明治6~12(1873~79)年まで軍医総監を務め、後任の林研海氏が明治15(1882)年に急逝してしまったことから、同年9月15日軍医総監に再任。明治18(1885)年5月に再び退任した後は、海水浴による健康増進を訴えて神奈川県の大磯に海水浴場を造ったりした人物。

それまで一般的ではなかった海水浴を広めた男。まさに海水浴の父といえるでしょう。

私が書くと凄さが伝わりませんが。

 

・・・そう、墓石に彫られている明治18年12月、松本さんはすでに軍医総監じゃないんですね。

いったい、この文字はどういった人物に、どういった意味を込めて彫られていたのか。

もうほんとにミステリアス。

 

これらが解けないと、本家がこの家!というのが確定できませ~ん。

 

ご先祖さまに夢枕に立ってもらって、答えを教えてもらいたいです。

新たなトライ

家系のインデックス

 

妻の母方である森井家

昭和10年代に釧路市に来る前は、現在の八雲町東野や野田生あたりに住んでおりました。

そして八雲に残っていた最古の戸籍によると、明治26(1893)年に石川県江沼郡那谷村菩提から転籍ということで、現在の小松市菩提町で生活していたようです。

 

しかしながら、小松市の戸籍謄本は既に廃棄済み・・・。もうひとまずここまでか~というところで、神戸に住む妻の母のイトコさんがずっと森井家の祖先調査をしていたことが判明。

いろいろとご教示いただき、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の母・スエさん(生年不明~1876)が、坂下という家から森井半四郎(生年不明~1868)のお嫁さんに来たということを聞いておりました。

 

まだまだ聞いておきたいことはいっぱいあったのですが、そのイトコさんはおととし急に亡くなってしまい、それも叶わなくなってしまいました。

 

そしてこないだ突然思い立ち、森井家、そして坂下家についての情報を求め、小松市菩提町の坂下さんにお手紙作戦を実行。

 

すると、なんとステキなことか!本家の方からお電話をいただくことができました(*´▽`*)

 

坂下さんは森井家については存じ上げないご様子。というのも、半左エ門の兄貴である半四郎(生年不明~1922)さんは、大正15(1926)年に山中温泉へ移住してしまっているのです。

菩提には森井の人間は誰もおりませんので無理もありません。

ただ、子どもの時分に菩提の墓地で親御さんから「ここも親戚だから」と言われ、参っていたお墓があったそうです。

それはどのお宅のお墓かはわかりませんが、森井のお墓もまだ菩提に残っているので、もしかすると・・・という気はします。

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 ▲平成6(1994)年に義母のイトコである森井幹男さんが来訪した際に撮影された写真。森井家のお墓は、菩提の墓地では一番大きなお墓だそうです。

 

坂下さんのお宅で判明している一番古いお名前は文久2(1862)年生まれの坂下亀松さんで、奥さんはリセさんとおっしゃるそうです。

 

もともとは福井県吉崎御坊(現在のあわら市吉崎)に住んでいたそうですが、おそらくは江戸後期に木こりか何かの仕事で菩提に移り住んだと伝わっておりました。

 

名字である坂下も、菩提に来てから坂の下に住んでいたので坂下となったのでは・・・と、はっきりとはわかりませんが、そういうことになっているようです。

そして家紋である桔梗紋も、いつから使用しているかは不明とのこと。

 

貴重な情報をいただけてたいへん嬉しくも、恐縮する時間でした。

あぁ、よかった(#^.^#)

 

・・・と、そこで吉崎御坊について調べてみると、森井家とも共通項がやはり見えてきたのです。

 

森井家の菩提寺は義母のイトコさんによると浄土真宗本願寺派の牛鼻山但馬興宗寺。

坂下家が居たという吉崎御坊は、興宗寺と密接なつながりがあったのです。

 

以下、wikipediaから要約。

 

・開基は越前長畝郷田島(現在の坂井市坂井町田島)あたりにて、行如(円善の弟子)による。

・行如と同じく円善の弟子であった如道が大町道場(後の大町専修寺)を開いたのが1290年であることから、開基は同時期と考えられる。

・1311年に大町道場へ本願寺覚如20日余り滞在し、如道とともに行如も勧化を受け、本願寺系の僧となった。その際に興宗寺の寺号を覚如より賜ったものと思われる。

・田島の地にあったが、なぜか「タジマ」が「但馬」と変化。但馬興宗寺となっている。※追記:もしかすると(後に登場する)朝倉氏がもともと但馬(現在の兵庫県養父市八鹿朝倉)の出だったというのが関係あるかもしれません。

・行如は北条時政の孫である時村であったという。そのため興宗寺の住職は北條姓を名乗る。

・興宗寺第5代円慶のころ、蓮如が吉崎に下向。興宗寺に滞在し、文明3(1471)年に吉崎に一宇を建立(吉崎御坊)。建立にあたり、朝倉氏に許容され、御山の土地と材木の寄付を受けたとされている。

吉崎御坊建立後、円慶は48もの多屋(寺)を並べた。その功が認められ、蓮如から「牛鼻山」の山号を拝領。牛鼻山とは、吉崎付近にあった牛山村に多屋を建てたためとも、円慶が隠居した月津(現在の石川県小松市月津)の牛ヶ鼻に掛所(休泊所)があったためとも。

・北ノ庄城主であった堀秀政が北庄柳町の寺地を寄進したことから、天正15(1587)年に興宗寺を含めた越前の大寺院が集められた。柳町御坊と呼ばれる。

・1600年代後半、城下の2度に渡る大火を機に、興宗寺は城下の北端1,500坪の土地へと移転。

・戦災と昭和23(1948)年の福井地震のため、興宗寺の建物は壊滅。復興や区画整理のため、現在の福井市松本3丁目に移転し現在に至る。

 

・・・というのが福井興宗寺の歴史を簡単にまとめたものです。

 

そして円慶が隠居した月津の掛所。

当初は太子堂と称されておりましたが、円慶の息子の一人が継ぎ、なんやかんやでこちらも興宗寺の寺号を授けられたのです。

当初は福井興宗寺も月津興宗寺も良好な関係を保っていたそうですが、本願寺が東西に分かれた際に福井興宗寺は西(本願寺派)、月津興宗寺は東(大谷派)となってしまったらしいです。

森井家の過去帳は月津興宗寺にあるそうなので、菩提寺は月津ということになるでしょうか。

推測ばかりですが、森井家も菩提村の前は越前吉崎の人だったり・・・?

でもどっちみち石川にも福井にも森井姓は少ない。。。

 

そして坂下家。

興宗寺との関係を勘繰るならば、この月津と7キロしか離れていない菩提村に移り住んだのは、必然だったのかもしれません。まったくの推測ですけれど。

 

あぁ、また何かディープな世界に足を踏み入れてしまったような気がする。

浄土真宗は歴史が複雑すぎる!

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また、いままで子どもたちに繋がる家が61系統判明!と書いておりましたが、坂下家を漏らしていたのに今気づきました。結果、62系統に(*^▽^*)

 

2018/5/29追記:妻の祖母の法名、釋のあとに「尼」の文字がありまして、この文字が入っている場合は真宗大谷派だそうです。またまたwikipediaより。

また、浄土真宗の場合は菩提寺ではなく「手次寺」というそうですね。知らないことばかりだ~(*´Д`)

 

あとまたまた推測ですが、但馬から越前に来た朝倉氏。

もしかすると出自は関西ではないかと目している森井家と、動きがシンクロしているのでは・・・とか考えたりしています。

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兵庫県豊岡市出石町森井と養父市八鹿町朝倉は約16キロ(約4里くらい)と近いですし・・・。