真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ハッピーバースデイ♪

後厄の今年、正月からあまり良いこと無く過ぎてきました。

滑り台につっかかって転んだり、

あぐらをかいていて、足がしびれているのに気づかず立ち上がって足の甲で着地して捻挫したり、

Windows7を10へとグレードアップするのに丸々4日費やしたり、

数少ない釧路市内の親族だった叔父(父の姉の旦那さん)が急逝したり、

娘が吹奏楽で全道大会を逃したり、

ステップワゴンの車検でけっこう持っていかれたり、

 

・・・まぁ、それなりにいろいろ心身にダメージを負った1月でした。

 

そんな1月も間もなく終わろうとしていますが、今朝ふと「あぁ、今日はばあちゃんの誕生日だなぁ・・・」と思ったわけです。

菊地のばあちゃんは2008年の1月19日に亡くなったので、今年でちょうど13回忌。

いまもし生きていたら、今日が106歳の誕生日(1914年1月30日生まれ)でした。

そういえば小学生の頃、ばあちゃんがかの沢村栄治(戦死した伝説の巨人軍投手)よりも年上だと知って、「ばあちゃんすげえっ!」と思ったものでした。

 

そんな折、釧路はあいにくの大雪。

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今まで降らなかったことの帳尻あわせのように、やけくそな降り方でした。こんちくしょう!ってなもんです。

風が強いので学校も臨時休校。ホワイトアウトしたら何にも見えませんからね。

朝から家のまわり、そして職場の駐車場を雪かき。
何とか踏ん張って職場に辿り着き、ほうっと安堵。

 

お昼になりおにぎりを食べていると、函館の母さんから電話が!

また身内に何かあったのかしら・・・(;'∀')

ドキドキして電話に出ると、「さっき11時15分に(妹の子どもが)産まれたから~♪」という予想外の嬉しい報告でした。

 

昨年、函館(の端っこ)の実家からほど近い七飯町の杉本青年と結婚した妹に、初子が生まれたのです!

予定日は2月20日前後だったので、ぜんぜん心の準備ができていませんでしたが、超うれしい知らせでした(*^-^*)

私にとっては初めての甥っ子。

元気に育ってほしいと心から願っております。

 

うちの両親は、うちの子ども達とは年に1~2回しか会えない状況(釧路と函館とでは離れすぎていて)でしたので、妹の子どもは初めての身近な孫。

今まで何の刺激もなく生活していた両親でしたが、彼が両親のポジティブライフに一役買ってくれるのではないかと、秘かに期待していたりします。

 

ロクなことがなかった1月でしたが、最後に逆転ホームランな出来事でチャラかな♪

久しぶりに

きのうは釧路もなかなかの雪が降りました。

すると、私と妻が仕事をしているうちに、子どもたちが家の周りを雪かきしてくれたのです!

なかなかしっかりと除雪されておりまして、こんなに頼りになるくらいに成長したんだなぁと、感慨深い思いでございました。

 

さて、さいきんは家系の調査に関してはめっきりモチベーションが下がっていたのですが、ちょびっとだけ調べてみたことがあるので綴ってみます。

妻の曾祖母・佐藤みよ(1903~91)の実家である、鳥取県鳥取市国府町荒舟の湯谷家。

といっても荒舟の湯谷のことということはないのですが、戦国時代に湯谷を名乗っていた人物について。

 

さかのぼること室町時代以前に武蔵国の広沢郷(今の埼玉県朝霞市あたり)を領していた廣澤氏という一族が居りました。

廣澤氏は、武功によって備後国三谿郡を賜りました。

その中に「和知」という地があり、そこを居所とした廣澤氏が和智姓を名乗ったようです。

 

和智一族は、その後は300年以上にわたり、足利氏、山名氏、そして尼子氏や毛利氏の家臣、そして同盟を結ぶ家として一定の地位を築きました。

 

しかし、時は戦国。第9代の当主となる和智左衛門誠春の時代になり、事件が起きます。

誠春が開いた饗宴で、大名であった毛利隆元が不審な死を遂げてしまうのです。

毒殺を疑われた誠春は、嘆き悲しんだ隆元の父である毛利元就によって厳島に押し込められましたが、ともに誠春の実弟も押し込められたのです。

その実弟こそ、湯谷又八郎久豊。なんでかわかりませんが「湯谷」を名乗っていた人物です。

 

厳島へ押し込められて半年後、和智誠春と湯谷久豊の兄弟は脱出の機会を伺い、厳島神社本殿に立て籠るという強硬策に出ます。

それにともなって神社での神事が行えないという事態に。

 

それから約1か月後、堪忍袋の緒が切れた毛利元就により、誠春も久豊も始末されてしまいました。

 

和智誠春は愛息の仇だったのがほぼ間違いなかったようですが(積極的に嫌疑を晴らそうとしなかったらしい)、誠春の息子は元就に対して誠春との親子の縁を切ることや自分は関係ないと訴えて見逃されています。和智家は見事に存続したのです。

 

しかし湯谷久豊の息子は、元就に抗ったことから誅殺されてしまいました。

悲しいことに、湯谷はここで滅ぼされております。

 

久豊が隆元謀殺に関係していたのかは不明です。兄を慕っていたのでしょうか。それとも謀殺に加担していたのでしょうか・・・。

 

この廣澤→和知→湯谷の流れが現在の荒舟湯谷家と繋がるかは不明ですが、興味深い話ではありました。

 

なお、この湯谷久豊ですが、姓は「柚谷」、名は「元家」とも云われているようです。

いったいどういう由来で「ゆたに」を名乗っていたのかが気になるところですが、和智と同じく地名由来でしょうかね?

 

ちなみに以下は、太田亮先生の「姓氏家系大事典」の和知項と湯谷項の抜粋と、勝手な意訳です。

・和知は、初め武蔵の廣澤を領して廣澤を名乗る。備前藤戸の軍功により、和知を含む12郡を賜る。和知に住んだことから、和知を名乗る

・永禄の末、和知隆實のころは毛利家に従うも厳島に押し込められ、毛利を憤らせて弟湯谷とともに滅ぼされる

 

備後国三谿郡の豪族、和知左衛門隆實の弟が湯谷又八郎久豊を名乗る

・萩原山は家原村、大谷村(広島県三次市三良坂町大谷)にかかる。享禄のころは湯谷又八郎の居所。灰塚山の福山は萩原城の子城

・鳥巣山は三玉村(三次市吉舎町三玉)にあり、赤松山城則久、また加板原佐渡の別所。一説に加板原は湯谷又八郎のこと。廣澤元家も同人なりという

・安西軍策に「高橋大九郎家臣湯谷氏」を収める

名字の読み方

名字には同じ漢字でも、違う読み方をするものがめちゃめちゃありますね。

 

「山崎」が「やまざき」なのか「やまさき」なのか。

「二木」が「ふたつぎ」なのか「にき」なのか「ふたき」なのか。

漢字を見ただけではわかりません。

 

あるいは「石井」という名字は、ほぼ誰が見ても「いしい」ですが、中には「いわい」と読む人がいたり、同じく「山田」が「やまだ」ではなく「ようだ」だったり、何でそうなった!?的な名字も数多くあります。

私の祖先でも「角田」姓がありまして、「かくた」、「つのだ」、「すみだ」と、どう読むかはこれだけでは不詳でした。

現在、賛否両論あるわけですが、ネット上で電話帳を見ることができます。家系を手繰っている私たちにとっては、非常に助かっています(同時に相手方にはご迷惑になっているわけですが・・・)。

その電話帳サイトの全ては、漢字の概念しかなく、読みまではわかりません。

 

そこで、古来からある紙の電話帳が登場です。

紙の電話帳は50音順で記載されておりますので、読みがほぼ判明するのです(「やまざき」と「やまさき」は区別されているのか不明)。

祖先の角田家は福島県白河市に在ります。白河市の電話帳を開くと、「かくた」が1軒あるだけで、その他は全て「つのだ」でした。「すみだ」は無し。
ちなみに、かのメリージェーン「つのだ☆ひろ」さんも、ここいらの出身だそうです。

逆に、宮城県には「角田(かくだ)市」がありますので、「かくた」、「かくだ」さんが多かったりするのかもしれません。

・・・ということで、紙の電話帳に頼る場面はまだあるわけですね。

 

こういった漢字は同じでも読みが違う名字について、ルーツの違いや分布を確認できる術ってなかなかないものですね。

最初に挙げた「山崎」に関しては、東日本に「やまざき」、西日本に「やまさき」のように、西日本のほうが濁らないというような統計があります。

これについては「中島」や「浜崎」も同じですね。

実際、妻の祖先である鳥取県の「中島」家は「なかしま」と濁らないですし。

 

こういった読みごとの集計があれば非常に助かるのですが、他力本願すぎてごめんなさいです~。

 

なぜこんなことを綴ったかというと、同僚の「猪原」姓。

同僚は「いはら」と読みますが、「いのはら」読みのほうが多勢なんですね。

 

猪原の発祥は広島県井原市だといわれており、大多数が発祥の地にいらっしゃいます。
井原ではほぼ全て「いのはら」読みのようでした。

「いはら」読みは大分市や、同僚のルーツである香川県高松市国分寺町が今のところ解っているところ。

 

先日、国分寺の猪原さんにお手紙をさせていただき、残念ながら繋がりを見出すことは叶わなかったのですが、非常に興味深い情報を教えていただくことができました。

おそらく平安時代まで京都に住んでいた猪原家の祖先は、崇徳天皇の刀鍛冶として仕えていたそうです。

しかし保元の乱で敗れた崇徳天皇は、讃岐に流されます。猪原の祖先も、共に讃岐へと移住したとのことでした。

後にいろいろあって最強の怨霊と云われることになる崇徳天皇は、讃岐の坂出で亡くなり、現在も坂出の白峰寺菩提寺としています。

猪原の祖先は、この白峰寺に刀を奉納していたとのこと。崇徳天皇との関係が密接であったことを感じさせます。

猪原の祖先も坂出に菩提寺があったものの、現在は近隣のお寺に移籍したそうです。

 

・・・と、そんな「いはら」家ですが、果たしていつから、どういういきさつで「いはら」を名乗ったのか。

京都にも「猪原」姓の方がある程度いらっしゃるようですが、「いはら」か「いのはら」かは今のところ不明。

京都にいた頃から「いはら」を名乗っていたのであれば、もう900年以上になります。
なかなかのロマンではないですか!

ぜひともここは解明してあげたいところ。

そこまでの道のりは困難を極めそうな気がしますけれど(*´Д`)

 

あ、あけましておめでとうございます!

今年は元旦に鳥取神社へ初詣に行きまして、菊地家を代表して息子が小吉のおみくじを引きました。控えめな一年になりそうです。

 

そして、おとといはおとなり釧路町釧路市とは別の自治体)の昆布森神社へとお参りへ。

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海のほとりの高台にあるだけあって、絶景でございました。

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同じ名前の存在

戸籍を手繰っていると、一族で同じ字を使っている家によく遭遇します。

うちの菊地家は「幸」の字を多用していたり、母方平野家では長男に「治」、次男以降に「次」の字を使用するようになっていたりしました。

 

そんな中、「ありゃ?同じ名前だ~」ということもあります。

それは親御さんにとって、いろいろな意味が含まれているのでしょう。

 

たとえば、妻の高祖母の父・杉山治郎左衛門(1843~1911)は、父・治郎左衛門と同じ名です。

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ただ、これは明治5(1872)年に壬申戸籍が編成された際の名前かと想像しますので、その時、息子の治郎左衛門は29歳。

きっと幼少時もしくは実名は異なる名前で、戸籍編成時に治郎左衛門で登録したのではないかと思います。

 

そして、祖先の名をつけるケースもあります。

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左の健三(1841~1904)さんのひ孫が右の健三(1913~1969)さん。

おそらく康孝さんは、尊敬するおじいちゃんの名前を長男につけたのではないかと感じますね。

 

戸籍ではないですが、母方祖母の新潟皆川家は江戸時代のころ、代々皆川新右衛門を名乗っておりました。屋号も兼ねていたようですし、そういうお宅も多かったでしょうね。

 

そして、ちょっと雰囲気が異なるのがこの森長右エ門さん。

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栄助さんの父・森長右エ門は、長右エ門さんの長女・キヨさんのお婿さんというように読み取れます。

お婿さんに来た時、襲名したのかもしれませんね。婿の長右エ門さんは戸籍編成以前に亡くなっているので想像でしかないですけれど。

 

そんな折、ひとつの疑問が浮かんできました。

同じ名前の別人のことです。

 

明治22(1889)年に町村制が施行される前、日本には71,314の村があったと伝わっています。

いまでいう大字や「○○市○○町」といった小規模、今でいうと町内会の大きさくらい?の区域でした。

 

そんな狭いコミュニティで、同姓同名の人が居たのかなぁ?という疑問です。

 

たとえば明治28年に○○甚吉という人が亡くなっている(この方については名前と没日しかわからないですが、結婚はしている年齢で、亡くなった時点で妻は24歳)のですが、明治38年に生まれた同じ村落の同姓(この地区では珍しい姓)の子どもに同じ甚吉という名がつけられているのです。

 

これは、同じ一族(兄とか弟とか甥とか)が甚吉のことを惜しがって、またはあやかって同じ名をつけたのかなぁ?といったところ。

まったく違う家の人で、もともと甚吉のことを知っていて付けたのであればそれほどの人物だったのかもしれませんが、甚吉が(おそらく)若くして亡くなっていることから、縁起を担いで甚吉と命名するかは素直に無いかなぁと思っているところです。

 

もちろん事情は千差万別でしょうし、今の感覚で推し量ることは難しいですね。

タイムマシンができたら当時の方々に命名の由来を聞いてみたいです。

戸籍への記載事項が変化する不思議

令和最初の年の暮れ。いよいよ今日は仕事納めの日です。

今年は数え42歳の本厄だったので、年を越せることになんだかほっとしています。

 

さいきん、自腹で同僚の家系をさかのぼらせてもらっていたのですが、その中で特筆?すべき事項がありましたのでご紹介させていただきます。

 

同僚の母系は、釧路に来る前は利尻島に居たとの話でして、実際に釧路市の戸籍を見ると、利尻富士町(当時は東利尻町)から転籍しておりました。

 

そこで利尻富士町に、さかのぼることができるまで除籍を請求。

 

当時は鴛泊(おしどまり)村だった利尻富士町の最古の戸籍には、明治34年利尻郡仙法志村より転籍」とありました。

 

ちなみに利尻島というのは、北海道のここです。

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この小さな島ですが、東側は利尻富士町、西側は利尻町と別れております。

仙法志村は現在の利尻町の地区。

島がひとつの町であれば一発でいけたのですが、ここは利尻町に請求です。

 

すると、今度は「明治30年利尻郡本泊村番外地より転籍」との記載。

仙法志には4年しか居なかったのですね。

本泊村は現在の利尻富士町

またもや利尻富士町に請求しなくてはなりません。

 

ちなみに、利尻島へ行く方法はフェリーしかありません。

海が時化るとその日は諦めないとならないのです。

もちろん郵便物も同じです。

なので、時間がかかるんですね。

 

同時に、ここまでで判明している戸主(同僚の高祖母)の父親の籍と名前が判明したので、請求をしてみました。

なお、その父親については「福井県坂井郡坂井浦 北山仁助」となっています。

 

ところが、調べてみると「坂井浦」なんていう地名はありません。

いまでいうと三国港のあたりがあやしいと思い、坂井市に請求をかけてみましたが、北山仁助については存在しないとの返答でした。

 

むむぅ、なんだか怪しくなってきたぞ。

しかも、仙法志の戸籍には「明治19年入籍、明治10年相続」と書かれています。

 

戸主は「薮野シモ」。前戸主は「亡夫 薮野佐太郎」。

 

時系列で並べようとしても、非常に困難な状況です。

 

シモさんが佐太郎さんと結婚して入籍。佐太郎さんが亡くなってから相続。

そういう流れが自然なのですが、入籍と相続が逆転していますし・・・。

 

そして利尻富士町よりついに届いた本泊村の戸籍。

あっさりと謎が解かれました。

明治9年 福井県坂井郡米ケ脇浦 北山仁助三女入籍」

明治10年相続」

明治30年 坂井郡雄島村米ケ脇より転籍」

 

・・・この戸籍が出てくるまでに1か月以上かかりました。

本泊村には4か月ほどしか居らず、すぐに仙法志に転籍していました。

在籍4か月だけの戸籍でしたが、これがないとどうにもなりませんでしたね。

 

 

明治9年だった入籍が明治19年に変化。

坂井郡米ケ脇浦だった北山家の籍が坂井郡坂井浦に変化。

 

仙法志村に転籍した際、どのように手続きをしたかは想像しかできませんが、口伝えとかで行ったのであれば、こんなことも起こりうるのかもしれないですね(´Д`)

 

そしてこれを見ると、シモさんは佐太郎さんと結婚してわずか9か月で未亡人になってしまったようです。さぞやつらかったでしょう。

姓はそのまま薮野を名乗っています。ただ、戸籍では薮野、藪野、籔野の三通りの書き方が見られるため、どれがホントなのか混乱します。

 

なお、この薮野家。

これも想像ですが、米ケ脇浦という地はその名のとおり海沿いの地区。

そして北前船の寄港地である三国港とも目と鼻の先でした。

 

薮野姓は関西に割と多めに分布しているため、もともとは関西住まいで、北前船をきっかけとして越前に移住し、北前船ブイブイいわせていたのではないでしょうか。

北前船が衰退してきた明治中期、夫は既に亡く、もしかすると誰かを頼ってニシンで潤っていた利尻島へと移住を決意したのかもしれませんね。

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左の記載が右のように変化!

釧路の人に限り、懐かしいと思われそうな記事

今回は、ぜんぜん家系と関係ないお話です。

 

かつて23万人も人が居たため、30万人くらいまで対応できそうな街として形成された釧路市

いまは阿寒町音別町の面積が加わったにも関わらず16万人台の人口となってしまいましたので、すっかり余裕の広さです。みんな移住してきてください。もしくはナウなヤングに受けそうなテーマパークが進出してくれても良いです。

…と、欲望を吐いてしまいましたが、話を戻します。

 

私は昭和53年に釧路市のほぼ東端である白樺台で生まれ育ち、中学3年生で網走市へ転校。

高校を卒業してからまた舞い戻ってきましたが、高校時代の私にとって釧路といえば郷愁の対象であったのです。

 

そんな釧路の街並みもずいぶん子どもの頃と変わってしまいました。

 

どこからか怒られるかもしれませんが、昭和58年お正月の新聞より、かつて釧路には無くてはならなかった存在について綴らせていただきたいと思います。

 

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まずは石黒ホーマ。今はホーマックとして、本州にも進出しておりますね。

石黒ホーマ自体のマークはこんなんだったかな?という感じですが、右端のピノキオが懐かしいです。少なくとも千代ノ浦の石黒は、このピノキオが看板に描かれていました。

なお、この記事中の「福工具箱」にとてもそそられます。ホントにこんなデザインの工具箱使ってたら一目置かれそうです。

 

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そして今井ランド。

クリスマスプレゼントのおもちゃがこの包装紙だったのは、サンタさんも御用達だったということでしょう。おもちゃはマリオネット今井だったかもしれませんが。

 

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本州製紙(今の王子製紙)と、その社宅の方々御用達だった本州ハイマート。

本州製紙の熱を社宅に持って行っていたことと、本州からの転入者(の荷物)が多かったということから、コードネームGが大量に生息していたそうです。

ハイマートにはゴキブリホイホイが売っていたそうな。

外に出たら寒さで自然に死にますけどね。

寒さに耐えられるように進化しなくて良かったですよ。

余談ですが、私は未だに生きているGを見たことがない幸せな人生を送っています。

 

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伯父が勤めていたニシムラ。食パンといえば、いつもここのでした。銘菓のユカタンとかもありました。

潰れるギリギリ前に、伯父は察して脱出。

 

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私が住んでいた白樺台ではおなじみだったセオさん。野球帽はいつもここで買っていたような記憶があります。

最後は一店舗ずつなくなっていったという寂しい思い出・・・。

 

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んもう、休日といえば私はここ、太平洋スカイランドでした。

太平洋炭鉱の福利厚生施設ですが、ぜんぜん炭鉱とは関係ない父ちゃんと2階の喫茶店に行き、いつも週刊少年ジャンプを読んでいました。

ボウリング場やプール、ゲームセンター、銭湯、そして夏祭り。

ワクワクすることがたくさんありましたね。

 

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丸ト北村は、3歳下の妹が産まれた時に私が居た場所らしいです。丸トのゲームセンターでムーバーに乗って遊んでいたそうな。

その右の釧路フードセンターは白樺台の子どもにとってはよくわかんないです。

 

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駅前一等地にあった金市館。

ここは母ちゃんが一張羅を買いに行く場所という認識でした。

子ども的にはつまんなかったかも。

 

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スーパーまつだは、セオとともに最後までがんばってくれましたね。

けっこうな支店があったようですが、中園くらいしか記憶にない・・・

桜ケ岡にあったっけ?

 

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街中にあったスーパータイスイは根室の大洋水産が経営していたんだったかな?。

鳥取や愛国は、私の子どもの時分は未知の世界だったので、わかんないっす。

まちなかの地下にあったところはお馴染みでしたが、看板のマークが怖かった記憶があります。

このタイスイのロゴマークは何がモチーフなのかしら?

 

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街の中にあったマルカツは、緑の階段を下っていったところでお茶碗とかを買っていましたね。

あとはおにぎり屋さんがあって、すんごく美味しかった思い出。

 

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くしろデパートは、じつはあんまり記憶になかったり。

平成になったころ、KOM(コム)になりました。

 

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そして、私的にザ・モースト・ファンだった長崎屋。

語りたいことは山ほどありますが、釧路初の中古ファミコンショップやブックスいせやなどが思い出深いですね。

ファミコンカセットの多くは、ここで買っていました。

この記事のころはまだファミコン前夜だったため、カセットビジョン13,500円が一番メインに記載されていますね。次はいまだにロングセラーの黒ひげ危機一髪ですか。

 

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十條サービスセンターではなくなったあとも、建物そのままでビッグハウスとして営業していましたが、ついこないだ建物がすべて取り壊されました。寂しい。

十條時代の思い出は実はあまりなかったりします。白樺台からは遠いですからね。

そして、よくよく左下をよく見ると、おそらく「十條しろやま店」と書いてあります。城山にもあったんですね。どんな形態で、どこいら辺にあったのかしら?

 

最後、こんなのがありました。

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答えはここに載ってないのでわかりませんが。

 

・・・というわけで、釧路市民以外置いてけぼりでごめんなさいな記事でした。

とりあえず見た感じ元旦はどこも開いてないので、現代もそうあって欲しいと思うわけです。みんな元旦くらいは休もうよ。

バイバイまたね

私が今の会社に就職してから約1か月経ち、いろいろと疲れていた2002年5月。

カノジョの実家に2匹の子猫がやってきました。

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近所のクリーニング屋さんで5匹産まれたうちの2匹。

「どっちがいい?」とクリーニング屋さんに聞かれたお義母さんは、この愛らしい2匹を選べるはずもなく、どちらも家に迎えることとなったのです。

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チョロチョロしている男の子の白黒は「ちょろ」と、そしてちょうど義妹が青森の弘前大学へ入学したばかりだったので、女の子の黒猫は「りんご」という名に。りんごは「りんちゃん」ともっぱら呼ばれていました。

ただ、亡くなった祖父は名前を覚えることも無く、「シロ」、「クロ」と呼んでおりましたね。

 

猫大好きだった私は、仕事に疲れた心をずいぶんと癒されたものです。

 

写真を撮ろうも、りんちゃんはなかなかピントが合わず、黒猫を撮るのは難しい!って苦心したりしました。

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最近、調子の悪かったりんちゃん。すっかりボケてしまったようで、何度もご飯をせびり、耳も遠くなって鳴き声も大きくなりました。

ここのところは歩くのもしんどかったようで・・・。

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きのうの14時ころ、17歳8か月の天寿をまっとうし、お空へ旅立っていきました。

たまたま11月25日。いいニャンコの日(こじつけ)でありました。

人間でいえば98歳くらいとのこと。まさに大健闘の大往生。

 

病気知らずで丈夫だったので、お骨はとてもしっかりとしていて、きれいな白色。

お義母さんの食事のチョイスが良かったのでしょうね。

 

今ごろは、きっと小さい時のようにダッシュでお空を駆け回っているのが想像できます。

いままで子どもたちのお姉ちゃんでいてくれたこと、忘れません。ありがとう。またね。

 

でもまだちょろがふてぶてしくも元気でいますので、ここまで来たらギネス記録、もしくは猫又を狙って欲しいですよ。