真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

山形からのお便り

家系のインデックス 

 

3年前の秋、東北4県旅行のときに訪れた山形県最上郡大蔵村

妻の母の母・森井チヨ(1921~81)が生まれ育った、柿﨑家のある地です。


大蔵村の戸籍を辿ると、1915(大正4)年に村役場の火災により、それ以前の戸籍は焼失してしまっているという残念な状況でした。

現存している最も古い戸籍の戸主はチヨの曾祖父である柿﨑権兵衛(1846~1929)。

その実父として柿﨑五三郎、養父として柿﨑権兵衛の名が記されています。

おそらくは、五三郎の三男として生まれ、権兵衛家へ養子に入った際に同名を襲名したのだと考えます。


おととし、権兵衛の実父である柿崎五三郎のご子孫宅にお邪魔した際、焼失する以前に取得した1906(明治39)年に取得した戸籍謄本を見せていただくことができました。

その戸籍の戸主は柿﨑榮助で、実父は柿﨑兵三郎。養父として五三郎(1826~1911。ちなみにその父も五三郎)がご隠居として記載されています。

 

年代を鑑みるに、ご隠居の五三郎は権兵衛の父、榮助の実父である兵三郎はおそらく兄にあたると思われました。

なので、柿﨑五三郎の息子が五三郎、兵三郎、権兵衛というように想像。

襲名しているとややこしくなります。。。


訪問の際、いろいろと振舞ってくださった柿崎家のご当主でしたが、その1年後に妹さんよりお便りをいただきまして、ご当主が70代前半で急逝されたとの報。

ショックを受けると同時に、お会いすることが間に合ったことが奇跡だとも思いました。

その妹さんが、親戚に私の知る限りで作製した系図を配布してくださったおかげで、もうひとりの人物と知り合うことができました。


山形市の石澤さん。

80に近い年齢ながら、私の系図を基に、さらに踏み込んだ調査をしてくださった女性。

子どものことから謎だった親戚関係が、私の系図で明確になったとおっしゃられるのです。

祖先の探求をしているところで、こういった形でお役に立てるとは、こんなにも嬉しいことはないですね♪


石澤さんに伺うと、五三郎家は庄屋であった「柿﨑弥左衛門」の子孫だとのこと。

弥左衛門は、天保の大飢饉の際に私財を投げ打って民衆を助けたということが遺されています。

しかし残念ながら、五三郎からどのように弥左衛門に繋がるかは不明・・・

そうなのか~!そこを解き明かすのはかなりむつかしそうです。


石澤さんにはいろいろな資料をいただきまして、その中にはお墓に入っている人の一覧もありました。

大蔵村の墓石には、「○○家」と家紋と建立者くらいしか刻まれておらず、いかにも隠れ里といった趣きだったので、これは貴重な資料でした。

ぜひまた山形に行って、石澤さんにお会いしたいものです。


そのときは、ヘクサンボ(大蔵村ではカメムシのことをそう呼ぶらしい)のあんまりいない季節に行きたいな。

芋煮もまたたべたいし!

菊地家の長老

家系探求という趣味をもって、早15年。

興味を持つきっかけとなった長女も、今や中学3年生。来年には高校受験が待っています。

 

その長女が生まれる前でした。家系のことを父に聞いたとき、父は自分のじいさんの名前もわからないくらいでしたので、誰か詳しい人はいないかと聞いてみたのですね。

 

それで紹介されたのが、祖父・菊地幸松(1916~70)の末の弟である高幸。通称、高おじさん。

 

じいちゃんよりも9歳下の高おじさんは、わたしの住む釧路市から北に70kmほどの弟子屈町在住。菊地家が北海道で初めて鍬を下ろしたマチに住んでいました。

 

高おじさんを訪ねてみると、わたしが産まれたときに釧路にちょうど居て、抱っこしてもらったり、おむつを替えてもらったこともあるとのこと。

すでにじいちゃんが亡くなっているいま、まさにじいちゃん代わりとなる存在になってくれました。

 

耳が遠いせいか、声がやたらとでかい元気な高おじさんは、屈斜路の墓参りに付き合ってもらったり、長女の発表会に来てくれたり、家を新築したときはお祝いに駆けつけてくれました。

なにより、高おじさんがおぼえていることをたくさん伝承してもらうことができました。

 

そんな高おじさんが調子を崩しているのを知ったのは、今年の1月。

弟子屈に住んでいた伯父(父の長姉の夫)が亡くなった際、高おじさんの家に寄ると、おばさん(高おじさんの妻)しかおらず、「じいちゃん意識なくて危ないんだ」とのこと。

何かあったら教えてね、とおばさんに伝えて帰ったのですが、その後、ハトコ(高おじさんの孫)からSNSを通じて情報があり、「じいちゃん復活したみたいです!」と。

 

その後は連絡がなかったので、きっと元気になったんだなって思っておりました。

 

しかしこないだの土曜日、盆の墓参の際に高おじさんの家を訪問すると、高おじさんは仏さんになっておりました。享年97。数えでいうと98歳。

あと2年がんばったら100でしたね。

 

たくさんのぬくもりと知識をくれた菊地家の長老。

 

いつか来るのはわかっていましたが、ショックでした。ショックというかがっかり?そんなあっけなく逝ってしまうなんて、おじさんらしくないですもん。

 

最後にあったのは、コロナが世の中を席巻する前、令和元年の秋。

曾祖母の実家である屈斜路の藤田家へ、高祖父の遺影を見せてもらいに行った際に付き合ってくれたのが最後でした。

 

 

最後まで協力を惜しまずにくれた高おじさん。

じいちゃんはわたしが産まれる前にすでに亡かったことから、ほんとのじいちゃんのように思い、そして高おじさんもそれがわかっているかのように応えてくれました。感謝しかありません。

 

天国で安らかに過ごしてほしいという思いと、天国でいろいろ情報を仕入れて、わたしが新たな事実に向かえるように導いてほしいな!っていう勝手な思いがよぎります。

これからもよろしくね高おじさん!

 

8年前の2014年4月12日撮影

血縁者が甲子園で完投勝利!

きのうの

第104回全国高等学校野球選手権大会

いわゆる甲子園。

 

 

なんということか、母方平野家のイトコの長男坊(私の母の姉の長女の長男)が出場したのです。

 

しかも、エースとして⚾

 

きのうの第2試合は、トーナメント1回戦最後の試合として組まれていました。

聖望学園(埼玉)—能代松陽(秋田)のカード。

 

その聖望学園のエース・岡部大輝(3年)がその人。

 

親等でいうと5親等になります。

 

 

埼玉県大会の決勝戦では春4強の浦和学院を相手に、味方の挙げた1点をわずか4被安打でしのぎ切り、学校としては13年ぶり4回目の甲子園切符を手に入れました。

 

sportiva.shueisha.co.jp

 

そして甲子園初戦となったきのう。

5回まで能代松陽打線をノーヒットに抑え、6回に2点を失ったものの、江口主将の好リードや、バックのノーエラーという堅い守備にも助けられ、9回110球という打たせて取る省エネピッチングで完投勝利!

www.hb-nippon.com

 

岡部大輝の父は東京都檜原村の出身。

 

名字研究家の森岡浩先生にお尋ねしたところ、

檜原村の「岡部」は藤原南家の末裔と伝え、戦国時代は甲斐武田氏に仕えていました。武田氏滅亡後、檜原村で帰農した旧家で、一族は周辺に広がっています。」

 

・・・とのこと。

 

戦国最強の武田家に仕えていたという歴史が凝縮されているような、どっしりとしたマウンドさばきはまさに風林火山

 

 

聖望学園の次戦は、その前の試合で旭川大学高(私の地元であり、大輝の母の出身地でもある北北海道代表)を破った絶対王者大阪桐蔭との対決!!!

 

大阪桐蔭にもいつものポーカーフェイスのまま挑んで、すばらしい仲間たちと1試合でも多く楽しんでほしいです。

 

2022/8/20追記:聖望学園0-19大阪桐蔭

大阪桐蔭の強さは認識していましたが、まさかここまで差がつくとは・・・

www.nikkansports.com

大輝の落差のあるスライダーも捉えられてましたし、打線は大阪桐蔭の先発・前田くんのテンポのいい勢いのあるピッチングに翻弄されてしまいましたね。

しかも、その大阪桐蔭も準々決勝で下関国際(山口)に敗れるという!

あとは菊地のルーツ、福島県代表・聖光学院を応援するしか!

あれからずいぶん経った気がする・・・

嗚呼、最近はなんだか仕事に忙殺されている・・・

去年の秋、そんな状況になりかけの時に無理やり休暇を取って関東に行った話をできずじまいのまま、こんな時期になってしまったなぁ・・・

 

もう忘れかけてることもあるので、その思い出を備忘録的につらつらと綴ってみます。

 

その日は仕事や学校など、日常を送ったのちに釧路から羽田空港へ。

羽田で電車に乗る時は、もうこんな時間でした。

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そして電車を乗り継いで中野坂上まで行き、23時台で唯一営業してくれていたニコニコレンタカーでフィットをレンタル。

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初めての練馬ナンバーです。

そしてこれも初めて。中野長者橋から高島平まで首都高に乗ります!!

めちゃめちゃ緊張して乗ったんですが、思ったよりも走りやすかったかも・・・(;'∀')

 

日付が変わってしまったあと、初めて埼玉に足を踏み入れました。

初埼玉は朝霞市北朝霞駅の近くの宿に。

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翌日は、寝不足のまま小江戸・川越に。

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川越市役所の駐車場に停めて、川越城~七五三でごった返す氷川神社熊野神社と訪れ、街へ。

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風が強くてちょっと寒かったですが、晴れていて気持ちの良い川越食べ歩きでした。芋ばっかり食べてたような気がしますが。

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なお、この日は朝霞~川越~練馬西大泉~田無~川崎が目的の地。

17時に千葉市に住む義妹一家と川崎市で待ち合わせをしています!

 

予定通り12時半ころに川越を出た菊地一家。

そこから祖先の地へ向かいます。

 

まずは東京練馬区の西大泉でわたしの母方・平野家の墓参。

ここには私から見ると、母の父の父の母の父とその前の世代が眠っています。

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8年前はセブンイレブンの敷地内だったんですが、いまは空き店舗になっておりました。

ほんとはここで菩提寺に寄りたかったのですが、時間が無くてパス!

 

14時にお邪魔する約束をしていたのですが、10分遅れで西東京市田無の新倉家に向かいます。

新倉さんは、わたしの母方高祖父の兄の子孫。

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こんな感じで、いうなれば「またまたハトコ」。親等でいうと10親等ですね。

都内で有数のハーブ農家ニイクラファームとして、都内の有名レストランをはじめ、新倉家で生産したハーブは、全国で消費されています。

 

新倉さんに、墓地を案内していただきました。

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さらには田無神社の案内も。

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最後はハーブ畑で収穫体験をさせてくださいました!

娘は「ずっとここに居たい~」と、良い香りのする畑を堪能。

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この時点で時計を見ると16時。

事前にGoogleマップで調べて田無から川崎までの所要時間は見ていたのですが、75分ほどかかる見込みだと思っておりまして、ちょっと待ち合わせには間に合わないかな?と聞いてみたところ・・・、新倉さん曰く「2時間で行けるかなぁ?」と、私的にびっくり情報!

やっぱり土地勘がないとこういう強行軍はスケジュールが狂ってきますね💦

せっかくの邂逅でしたが、後ろ髪ひかれる思いで新倉家を後に。川崎へ急ぎます!

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首都高からきぬた歯科の看板がそこかしこに見え、なんじゃこりゃ?と思いながら走っていました。

そんなこんなでしっかり2時間かかりましたね。さすがに地元の人。経験値が違います。
義妹夫婦も川崎に着くのが遅れたので、なんとかそんなには待たせずに済んだのが幸いでした。

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この日は、ヤクルトがオリックスを破って日本一を決めた日に!

最下位から日本一・・・。今年は我が横浜DeNAも続いてほしいなって思います(*'▽')

 

翌日は、息子待望の藤子・F・不二雄ミュージアムへ。

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そして、ここでお別れだねと、あっという間に義妹夫婦との別れのとき。

事件が起きました。

クルマをミュージアム近くの駐車場に停めたのですが、金額をみてなかったんですね。

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10分300円!?

この際の駐車料金は6,000円!

あまりの衝撃でしたが、都会じゃこんな相場なのですかね・・・(+_+)

でも時間はお金じゃ買えませんから、仕方ない!!

 

義妹夫婦と別れた後は、渋谷へ向かいます。

渋谷区役所の駐車場に停め、明治神宮の参道のあまりの広さに辟易したり、

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渋谷のパルコにあるニンテンドートーキョーに行ったりしました。

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そして中野坂上まで行って約166kmを共にしたフィットを返却。

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中野ブロードウェイに初潜入し、少しでしたが懐かしの「まじかるタルるートくん」展を堪能!

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その翌日は六本木ヒルズでの「鬼滅の刃」原画展(私はマンガもアニメも見たことないですが)。

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スカイツリーカービィカフェ。

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関東を満喫して日常へ帰ってきました。

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そのあとからは忙殺されてしまう運命なのはうすうす感じておりましたが・・・。

そのせいもあり、新倉さんに案内してもらったお墓などの整理もぜんぜんできていないまま、今に至ります。

はやく時間と心の余裕が欲しいなぁ。。。

平野駒の出自を探求~その③

相も変わらず、平野駒について調査中。

以前の調査内容については、以下のような感じです。

 

前回からさらに判明したことを備忘録的に綴ってみます。

あのあと、平野威馬雄氏の著作をもう一冊入手。「平野威馬雄二十世紀」という本。

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その中には、先日いただきました横浜市立図書館からのレファレンス結果について、より詳細な情報が記述されていました。

 

まずは平野駒の父・平野伊左エ門についての記述。

著者の威馬雄にとって、おじいちゃんにあたります。

 

横浜村の名主であった石川家の家来で、武術や剣術は免許皆伝。

刀を棄てたのち、アメリカ三番屋敷で茶番頭をしていたと。

このアメリカ三番屋敷について調べてみたらば、「アメリカ三番館」として歴史に遺っていました。

これは万延元(1860)年に鹿島建設が建てた建物で、現在の山下町72番地に在ったようです。

そこで、アメリカの「スミス&ベーカー商会」が茶葉の貿易のために蔵として、そして茶葉の選別のために女工を100名単位で雇っていたそう。

伊左エ門は、その女工たちを監督するという要職に就いていたということです。

伊左エ門についての情報は、ここまででした。

 

スミス&ベーカー商会・・・。

当時は横浜での製茶輸出の最大の商社。

茶聖と呼ばれた大谷嘉兵衛が支配人格を務めていたり、高島屋と取引があったり、神戸にも倉庫があったりという記載をネットで確認できますが、今は果たしてどうなっているのか、資料は遺っているのかなどはわかりませんでした。

 

そして、駒の兄貴である平野伊三郎。

幼いころはずば抜けて賢い子で、17,8歳のころは外国人も顔負けするほど英語が達者だったそうです。

しかし病により、足腰が立たなくなってしまったそうで、横浜の近代医学の基礎を築いたジェームス・カーティス・ヘボン(ヘプバーン。1815~1911)医師にもみてもらったものの快方に向かわず、ほぼ寝たきりで介護を必要とする生活だったそう。

そんな中でも桐野利秋(1839~77。幕末維新期きっての剣客「人斬り半次郎」として知られる・・・らしい)などの武士が、伊三郎から英語の手ほどきを受けるべく通っていたそうです。

ただ、駒が1870(明治4)年生まれで、伊三郎はその兄なので1860年くらいの生まれでしょうか?

桐野利秋に教えていたとすると年代がちょっと合わない気がしますが・・・。

 

伊三郎には妻・りんがいましたが、妻はまだ若かったこともあり、父・伊左エ門により病に伏した伊三郎のもとから離され、風間安五郎という出入りの職人の妻になったとのこと。

その後、伊三郎は駒のおなかが大きくなってきて、甥っ子(威馬雄)が生まれるのを楽しみにしていたものの、顔を見ずして世を去ってしまったと。

このことから、伊三郎は威馬雄の生まれた1900(明治33)年5月5日よりもちょっと以前、1899~1900年に亡くなったと推察されます。

 

この本から得られた情報は以上でした。

 

そして異なるアプローチで進めていた、東京市下谷区龍泉寺町350の平野儀三郎について。

1930(昭和5)年の「武蔵野」という雑誌に「武蔵野会」に入会した方々の名があり、そこに「龍泉寺町350平野儀三郎方 平野元三郎」とあった件について追っていました。

 

この平野元三郎(げんざぶろう)氏は、1933(昭和8)年に早稲田大学の史学科を卒業。その後の1952(昭和27)年に千葉県教育委員会に入庁し、考古学の専門として活動していた方です。

元三郎氏の出自がわかれば、平野儀三郎につながるきっかけになるのではないかと思い、千葉県立図書館にレファレンスをかけていました。

レファレンスの結果をまとめると、以下のようになります。

 

・1910(明治43)年1月21日、下谷区龍泉寺町342番地生まれ。

・1928(昭和3)年4月、早稲田の新入生同士、滝口宏氏と席を並べる。

・1933(昭和8)年6月、早稲田大学文学部史学科を卒業。大学時代は会津八一教授に師事。

・1937(昭和12)年には27才で、千葉県史蹟名勝天然記念物調査委員および県立中央図書館郷土資料室調査委員を委嘱される。

・一方では海産物商を営んでおり、1939(昭和14年)には中国大陸に渡る。

終戦後の1946(昭和21)年5月に引き上げ、千葉県に住む。

 

早稲田の同級であった滝口氏によると、「阿佐美が当時の姓。父は平野を名乗り、千葉の人。千葉がまだ町であったころに市内バスを走らせて失敗したという。母は群馬の富岡と聞いた」という記述があります。

当時の姓は阿佐美・・・?

調べてみると阿佐美姓は、同じ群馬の前橋に多い姓のようです。

 

儀三郎は千葉の人で、母は富岡・・・?

また、「中国から帰国後、龍泉寺に小さな家を建て、母を群馬から呼び、新妻を得た」との記述も。

んもう、知らないことばかりですし、高祖父・平野儀三郎と繋がる事柄も一切ございません。。。

 

以上を踏まえて、それでも【高祖父儀三郎=元三郎の父】とむりっくり邪推してみたのが以下ですが、

・儀三郎は富岡の女性の間に子どもをもうけ、北海道と龍泉寺を行き来し、龍泉寺には断続的に住んでいた。

・元三郎の母は阿佐美姓で、龍泉寺に元三郎と一緒に住んでいたが、どこかの時点で群馬に戻った。

・千葉のバス事業は、親の財産で始めたが、失敗した。

 

ここまで掘り下げても平野駒とも繋がりませんし、高祖父とも繋がりませんし、おそらくはこの三家はまったく別々の家なのでしょう。

・・・無理があるのはわかってはいるものの、まだ断定はできないのかなって思いこませています。

 

高祖父に繋げていこうとするのは明らかに苦しい局面ですが、まだまだ攻めていきますよ!!

平野駒の出自を探求~その②

前回に引き続き、平野駒について勉強しています。

 

前回まではこんな感じでした。


まずは平野駒の長男である平野威馬雄(1900~86)の著作を2点入手し、手掛かりを探してみました。

最初は「アウトロウ半歴史」。
1978(昭和53)年発行の、威馬雄が自らの半生(というかほぼ大部分)を綴った自伝的な著作。

f:id:dotouttan:20211025204700j:plainおそらくこの本を書いた当時、威馬雄氏は77歳くらい。

氏の文章を読むのは初めてですが、とても柔らかで、きれいな日本語によって綴られています。すごく読みやすいのです。

内容についてはとんでもない(?)部分もあるのですが、威馬雄氏の文才のせいか、そんなに強い表現に感じられないのが不思議。

 

その中で駒が登場する場面は少ないのですが、威馬雄が暁星中学校を放校された際に横浜から呼び出されたエピソードがあります。

『「うちのせがれがいったいどのような恐ろしい罪を犯したのでしょうか?長年お世話になった学校を追い出されるような、そんな恐ろしい悪事を働いたのでしょうか?」母は冷厳な校長や教頭の前で、卓を叩いて放校の理由をたずねた。』

これは威馬雄がミサの時に破廉恥なことをしでかしたからなのですが、威馬雄がこのような駒を見たのは初めてだったそうです。

 

次に「レミは生きている」。
1959(昭和34)年から、幾度か出版社を変えて刊行されていた本。
わたしは1979(昭和54)年の講談社文庫版を入手。婿さんの和田誠氏が装丁を手掛けられています。

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この本と「アウトロウ半歴史」には一部重複する部分があるのですが、こちらは「アウトロウ半歴史」よりも20年ほど前に書かれた、同じく自伝的な著書です。

 

こちらには、父の死と母の死について記述があります。

父・ヘンリーは帰国後の1920年にニューヨークでの演説中に急死してしまったこと。

母・駒は1937(昭和12)年ころに、おそらくは心臓の病気で亡くなってしまったこと。

また、幼少時は横浜で祖母と暮らしていたという記述もありました。

この祖母というのは駒のお母さんですが、ヘンリーと時を前後して亡くなられたとのこと。

祖母は「武士の娘」と。威馬雄氏にとっては厳しいおばあちゃんだったようです。

 

また、駒さんについての記述がとてもたくさん!

わたしなんかが評するのが憚られますが、混血児の母として、とても心労の多い人生を送ってきたことが偲ばれます。

 

そして、駒さんの出自につき横浜市立図書館にレファレンスをかけていたのですが、たいへんありがたいことにいくつか情報をいただくことができました。

・駒さんの父は、代官石川家の家来で、アメリカ三番屋敷のお茶場で蔵番頭を務めていた「平野伊左衛門」という人物であった。

・駒さんの兄である平野伊三郎は、病で足腰が立たなくなっていたが、英語が達者で、武士たちが手ほどきを受けに来ていた。

・駒さんは界隈でも評判の女性だった

・(大正9年の電話帳では)料亭「花の家」は見つけることはできなかった

 

代官石川家・・・

調べてみますと、石川家当主の名は石川徳右衛門豊八(1804~89)。

石川家は久良岐郡横浜村(いまの横浜市西区元町)の名主だったそうで、なんでも黒船来航時にペリーの接待をしたとか。なかなかなエピソードを誇るお宅です。

横浜は開港とともに神奈川奉行支配下となり、石川家は総年寄として名主の上に位置付けられたそうです。

 

その後もこちらで調べてみましたが、どうやら神奈川奉行についての資料は非常に乏しいらしく、石川家に仕えた方々についての情報はまったくみつけることができませんでした。

アメリカ三番屋敷とはいったい・・・?

 

そんな折、国会図書館のデジタルコレクションより「横浜開港場の都市形成」という資料が目につきました。

1862(文久2)年、横浜港付近についての地割図が載っているのですが、その中に「平野屋惣次郎」という名を見つけることができます。

これは平野伊左衛門の関係者なのか・・・?

 

・・・と、今回はここまで。

まだまだ道半ば。少しずつ明らかになってきている気がします!

平野駒の出自を探求~その①

平野駒。

私の高祖父・平野儀三郎(1866~1939)について、真実を手繰るためのキーパーソンになるかもしれない女性です。

 

以下のリンクは、ここまで至った経緯を綴ったもの。

 

これまでに得た、ネット(緑文字)および駒さんのお孫さんからの情報(赤文字)をまとめると、以下のようになります。

 

① 1870(明治3)年、横浜代官所詰めであった元武士の娘として出生。

② 横浜にあった料亭「花の家」の養女となる。

③ 明治天皇に女官として仕えるが、28歳のときに暇を出され、柳原愛子(大正天皇の生母)に引き取られる。

④ 柳原愛子の仲人により、アメリカ人のヘンリー・パイク・ブイと結婚。

⑤ 1900(明治33)年、30歳。東京市赤坂区山北町柳原愛子邸にて、長男・平野威馬雄誕生。ヘンリーはアメリカへ戻る。

⑥ 横浜市西区老松町において琴の講師として過ごす。

⑦ 1907~09(明治40~42)年の間にヘンリーが再来日。二男・武雄誕生。ヘンリーは再びアメリカに戻る。

⑧ 1918~20(大正7~9)年の間にヘンリー最後の来日。

⑨ 没後、横浜市西区の久保山墓地に埋葬される。

⑩ カトリックであるが、いつからなのかは今のところ不明。

 

ネットの情報に関しては、ほとんどがWikipediaの「平野威馬雄」項から。

自分で探した情報ではないので参考までですが、威馬雄氏の著書等に出典を求めていますので、おおよそは合っているのではないかと思われます。

 

そこで、お孫さんである平野悠氏(氏のHP)からうかがった情報について、今のところの推測を綴ってみます。

 

私は釧路に住んでおりますので、なかなか現地調査というわけにはいきません。

そこで、「国会図書館デジタルコレクション」を利用いたします。

 

まず②の『料亭「花の家」に養女に入った』ということについて。

 

そういう名の料亭があったかということを調べるため、明治14(1881)年6月発行の「横浜商人録」を当たってみます。

 

すると、「料理商の部」という欄に、「横浜区常盤町五丁目74番地 月の家 平野よし」という記載を見つけました。

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むむ、主が平野姓のうえ、料亭(?)の名前も似ている!

もしかすると言い伝えが「月→花」と、ちょっと違っていたりはしないだろうか?

 

常盤町5丁目というと、どこなのかと調べてみたらば、現存しておりました。

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関内駅、そして私の敬愛する横浜ベイスターズの本拠地近くですな。うれしい♪

 

しかし、これもまた国会図書館の資料ですが、明治17年の地図(横浜全図)には5丁目は見つけられないのです。4丁目で終わっています。

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拡大しても見づらいですが、常盤町1丁目1番地から4丁目83番地までしか無いような記述です。

少なくともこの「月の家」は現存しておりませんので、ここで暗礁に乗り上げました。

のちほどあらためて、資料を当たってみることにします。

 

そして⑨の、駒が埋葬されているという久保山墓地。

仮に調査に行ったとしても、なんということか東京ドーム2.5個分の広さということで、探しあてるのも奇蹟な感じです・・・(+o+)

 

話はとつぜん変わりますが、平野レミさんが聞いたことがあるという「平野儀三郎」の名。

家系探求の同胞・渡邊さんからいただいた情報によると、龍泉寺350の平野儀三郎方に平野元三郎という人物が住んでいたとのこと。

元三郎氏は1930(昭和5)年に、武蔵野会というグループに入会しています。

 

そこで平野元三郎なる人物についてネット検索をしてみると、1910(明治43)年生まれで、早稲田大学卒業後、1952(昭和27)年に千葉県教育委員会に入庁。「青木昆陽伝」等を著し、考古学の権威となった方がいらっしゃるようです。

 

なるほど、早稲田大学か・・・

卒業生名簿が国会図書館資料に無いかと思い探してみると、無事に発見できました!

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1933(昭和8)年卒業、史学専攻の平野元三郎氏。住所は下谷区龍泉寺町342!(番地はちょっと違いますが)ビンゴです!

「けんぞう」さんと「ごろう」さんに挟まれているので、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」でしょう。

 

この書物は1935(昭和10)年のものですが、この時点ではどこに勤めているかは記載がありませんね。

 

ともあれ、これで考古学者の平野元三郎=龍泉寺の平野儀三郎の(おそらく)息子という図式が確信に近い状態に。

次は元三郎氏の縁故者が見つかると嬉しい!というところまでになりました。

 

・・・と、今回はここまで。

いずれまた続きを綴れたらよいのですが。。。