真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ユーキャンの家紋大事典によると

家系のインデックス

 

高祖父の父・菊地儀平(1844~97)の実家である近藤家

昨年、矢祭町までお墓参りをした際に家紋を見たのですが、なんだか変わった家紋だったため、ネットでも家紋事典でも、見つけることができていませんでした。

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▲「隅切角に違い鷹の羽」としていた紋。

 

そうしたら、先日ゲットしたユーキャンの家紋大事典に手掛かりを見つけたのです。

 

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高澤等先生によると、まずこの枠は「隅切り鉄砲角」なるものだと。

なるほど。鉄砲の銃身がモチーフだったのか。

 

そして中身は普通の「違い鷹の羽」ではなく、「細違い鷹の羽」だということ。

合わせると、「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」。長ぇ・・・。

 

他にもさっぱり謎のままの家紋があったりします。

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宮城県柴田郡村田町の安田家の紋

 

「丸に結び木瓜」なのかと思っておりますが、あるいは釜敷紋が近いのかもなぁとも考えています。

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▲五つ結び釜敷紋

 

でも探しても探しても「四つ結び釜敷」は見つかりません。

 

もう一つはよく出てきますがこの紋です。

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▲石川県小松市菩提町の森井家紋

釧路市森井家では「丸に五三の桐」を使用しており、その前にいた八雲町の時点か、釧路に来た時点か、どこかで変わってしまったのでしょうね。

これもポピュラーな「五本骨扇」とちょっと違って、骨が四本なので「四本骨扇」なのでしょうか。

 

それにしてもこの紋もひとつ上の紋も「四」なんです。

なんだか縁起が悪そうなものなので廃れていったのかも・・・とか邪推したり。

 

最後はこちらです。

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宮城県岩沼市志賀の大久保家紋

文献やネットには「上がり藤に大の字」があるので、これは「丸に上がり藤に大の字」でしょうか。大久保家藤原氏なのかしら?

 

いや~それにしても家紋は奥が深いですね~。美しいですね~。それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~!

戸籍に関してつれづれに

家系のインデックス

 

千葉南部などでは台風のせいで大きな被害。

母方平野家のルーツ、仁右衛門島がある鴨川市もたいへんなことに。

昨年ブラックアウトを経験した北海道民とはいえ、それをはるかに上回る過酷な状況に胸が締め付けられる思いです。

なるたけ早く、被災された方々や作業に従じている方々が日常が取り戻せるようにお祈りしております。

 

そんな折、すっかり秋めいてきた今日この頃。

すでに釧路では落ち葉が舞い散っています。

 

思うとかれこれ12年にわたり、家系を追い求めていままで120通以上の戸籍・除籍謄本を見てきているわけですが、それらを見ていて気になっていた箇所について記してみたいと思います。

 

パターン①~転籍前の情報がそのまま記載されている

★北海道★

〇高祖父・平野儀三郎(1866~1939)

東京府北豊島郡大泉村(現:練馬区。廃棄のため取得できず)→明治34(1901)年転籍:北海道瀬棚郡利別村(現:今金町)→大正5(1916)年転籍:北海道斜里郡斜里村(現:斜里町)>

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養父、養母、義弟夫妻が明治28(1895)年に分家しているにも関わらず、その後に転籍した利別村、斜里村の戸籍に記載が残ったままとなっている。その情報が記載されていたおかげでおかげで高祖父の養父母(妻の父母)である平野丑松夫妻やその上の世代の名前がわかり、さらには練馬区から義弟の戸籍(丑松夫妻が記載されていた)を取得することができた。本来であれば記載が無いはずの人物が記載されていたわけで、私にとっては利別村および斜里村戸籍担当のファインプレイでした。

 

〇妻の高祖父・相木萬九郎(1848~1926)<北海道茅部郡落部村(現:八雲町)→大正7(1918)年転籍:北海道上磯郡茂別村(現:北斗市)>

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茂別村での戸籍にも、落部村の戸籍をそのまま転写したとおもわれるような記述が多くみられる(当村高谷萬蔵次男養子縁組・・・との記載だが、この「当村」は落部村)。また、転籍前の明治36(1903)年に亡くなった萬九郎の五男や、明治44(1911)年に養子へ出した次女も記載が残ったまま。

 

サンプルが少ないので何とも言えませんが、よくわからずに戸籍を書いていたのかもしれない当時の北海道各村の戸籍担当は、記載の必要が無い部分も大量に書く羽目になって、非常に大変な思いをしたのではないでしょうか。

 

パターン②~明治19年戸籍編製以前の情報が記載されている

★北海道(明治19年式戸籍~落部村のみ3件)★

〇茅部郡落部村(現:八雲町)

「明治9(1876)年9月5日当道山越郡山越内村 掛川丈八四女 当村加我吉兵エ養ニ入籍 明治17(1884)年10月10日入籍ス」、「慶應元(1865)年12月15日当村 高谷萬藏長男入籍 明治17(1884)年6月20日相続」

壬申戸籍編成前の慶應元(1865)年に発生した事由の記述あり。

 

青森県明治19年式戸籍~2件)★

下北郡関根村(現:むつ市

「明治17(1884)年4月7日相続」

 

宮城県明治19年式戸籍~5件)★

桃生郡矢本村(現:東松島市

「明治9(1876)年4月3日 宮城県桃生郡大曲村 雫石慶治次女入籍」、「明治11(1878)年8月5日 宮城県桃生郡矢本村 及川重左エ門分家」、「明治5(1872)年2月17日宮城県桃生郡川下村 千葉六助次女入籍」

刈田郡小村崎村(現:蔵王町

「明治元(1868)年8月13日 宮城県刈田郡小村崎村 亡小林慶治四女入籍ス」

名取郡志賀村(現:岩沼市

「明治16(1883)年8月10日宮城県柴田郡芦立村 斎藤治右エ門三女入籍」

※小村崎村に壬申戸籍編成前の明治元(1868)年に発生した事由の記述あり。

 

新潟県明治19年式戸籍~3件)★

西蒲原郡吉江村(現:新潟市南区

「明治12(1879)年8月19日相続」、「明治14(1881)年8月10日同県中蒲原郡戸石新田ノ内田尾 安沢乙松長女後妻ニ入籍」、「安政4(1857)年2月14日相続」、「安政4(1857)年12月20日同県同郡河間村亡如澤兵右エ門長女入籍」

中蒲原郡上高井村(現:新潟市南区

「明治9(1876)年10月20日相続」

※吉江村に壬申戸籍編成前の安政4(1857)年に発生した事由の記述あり。

 

岩手県明治19年式戸籍~3件)★

〇北九戸郡戸田村(現:九戸村

「明治7(1874)年3月5日同県同郡同村 福田三之亟孫長女入籍ス」、「明治14(1881)年2月26日相続ス」

〇北九戸郡長興寺村(現:九戸村

「明治13(1880)年12月15日相続ス」

 

福島県明治19年式戸籍~5件)★

東白川郡関岡村(現:矢祭町)

「明治14(1881)年11月5日当県西白河郡大和田村 鈴木慶之亟甥入籍ス」

東白川郡上関河内村(現:矢祭町)

「明治10(1877)年10月31日茨城県久慈郡町田村 海野辰之助附籍 亡松本辰三二女入籍ス」

 

茨城県明治19年式戸籍~6件)★

筑波郡牛縊村(現:つくば市

「明治7(1874)年12月10日茨城県筑波郡西高野村 冨田惣平長男養子ニ入籍ス」、「嘉永4(1851)年7月10日相続」、「天保4(1833)年12月21日茨城県筑波郡牛縊村 岡田与左エ門二女入籍」、「嘉永2(1849)年2月28日茨城県筑波郡牛縊村 砂山軍造二男養子ニ入籍 嘉永2年3月21日相続」、「嘉永3(1850)年正月3日相続」、「嘉永4(1851)年4月15日茨城県筑波郡上河原崎村 斉藤伊平亡二女入籍ス」

久慈郡袋田村(現:大子町

安政5(1858)年12月20日相続」

久慈郡生瀬村(現:大子町

嘉永6(1853)年10月20日相続」、「安政4(1857)年4月6日茨城県久慈郡外大野村 齊藤善治エ門長女入籍」、「明治11(1878)年2月23日福島県東白川郡真名畑村 金沢勇吉二女入籍」

久慈郡宮川村(現:大子町

嘉永4(1851)年3月15日同県同郡上郷村 村上吉三郎二女入籍」

※全村に、壬申戸籍編成前に発生した事由の記述あり。

 

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北海道、宮城、茨城、新潟に、壬申戸籍以前、おそらくは宗門人別帳?からの記録が転記されているのが確認されます。

青森、岩手、福島には壬申戸籍以降の日付しか見当たりません。

これは県単位でお達し、もしくは認識が異なっていたことになるのでしょうか?

もちろんサンプルが少ないため、推測です。

 

パターン③~天災

山形県大蔵村役場は大正4(1915)年8月2日に火災が発生し、戸籍が焼失してしまっています。

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副本や届出によってある程度は復旧したようですが、もちろん失われた記録も多かったはずです。

 

関東大震災や戦災によって戸籍が失われた自治体には縁がなかったため、難を逃れた感があります。

かつての同僚の家は、昭和初期に釧路市に来る以前は東京の旧日本橋区に本籍がありましたが、戦災で焼失してしまっていたようでした。

 

パターン④~80年廃棄

かつて除籍の保存年限は80年でした。除籍から80年が経過した謄本は公文書としての役目を終え、各自治体にその後の処遇を委ねられていました。

〇その後も保存し、発行も可能

〇80年経過後、年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄

〇80年経過後、数年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄

〇早くからシステムを導入し、80年経過後は自動的にデータ削除

・・・などなど、各自治体によって扱いはまちまちでした。
しかし、平成22(2010)年に保存年限が150年に延長され、しばらくは廃棄が行われないことになったのです。

150年に延長となったときには、もっとも不運な場合は昭和5(1930)年のものまで廃棄されていることになります。

いま(2019年)から150年前は明治2(1869)年。現状取得できる最古の明治19年式戸籍が廃棄(するかどうかは別として)可能になるのは、除籍となった年によりますが、たとえば明治19年に除籍になったものに関しては17年後の2036年。和暦でいうと令和18年です。

ずいぶんと未来のことのように感じますが、次世代の子孫たちが困らないよう、いま残っていて取得できる除籍は家で保存しておくにこしたことはありません。

 

なお、私が保存年限80年を過ぎた除籍の取得を試みた結果は以下のとおり。

★北海道★

 釧路市~平成18(2006)年の暮れに一度だけ80年廃棄

 砂川市~大正7年の除籍が最古

 岩見沢市~大正3年の除籍が最古

 八雲町~明治19年戸籍現存。明治41年の除籍が最古

 北斗市~大正15年の除籍が最古

 今金町~大正5年の除籍が最古

 せたな町~明治45年の除籍が最古

青森県

 むつ市明治19年戸籍現存。明治44年の除籍が最古

岩手県

 九戸村明治19年戸籍現存。明治20年10月5日の除籍が最古

宮城県

 東松島市明治19年戸籍現存。明治31年の除籍が最古

 蔵王町明治19年戸籍現存。明治25年の除籍が最古

 岩沼市明治19年戸籍現存。明治29年の除籍が最古

山形県

 大蔵村~前述のとおり大正4年の役場火災で焼失。大正6年の除籍が最古

福島県

 矢祭町~明治19年戸籍現存。明治22年の除籍が最古

 棚倉町明治19年戸籍現存。大正2年の除籍が最古

 白河市~80年廃棄。明治30年の除籍は取得できず

茨城県

 大子町~80年廃棄? 大正15年、昭和4年の除籍は残っていたが、明治37年の除籍は取得できず

 つくば市明治19年戸籍現存。明治32年の除籍が最古

★東京都★

 練馬区~80年廃棄。明治34年の除籍は取得できず

 西東京市~80年廃棄。明治26年の除籍は取得できず

★石川県★

 小松市~80年廃棄。明治26年の除籍は取得できず

新潟県

 新潟市南区明治19年戸籍現存。旧味方村は明治26年、旧白根市明治41年の除籍が最古

鳥取県

 鳥取市明治19年戸籍現存。明治27年の除籍が最古

 八頭町~明治19年戸籍現存。明治31年の除籍が最古

 

・・・こうしてつらつらと並べてみると、サンプルがやっぱり少ないですね。

ただ、現在でも対象自治体が町村クラスなら、昭和5年以前の除籍も残っている確率は高いような気がします。

 

もちろん、平成10年代にいわゆる「平成の大合併」があったので、合併前の自治体ごとに異なることもあるでしょうから一概には言えないですが、例えば電算システム化の際に80年経過したものは対象外としたりしたことはあったと思います。

なにせ件数によってシステム導入にかかる金額が違ってくるのは必然ですし・・・

 

あとは保管の場所がネックだったりしたのでしょうね。釧路市でも電算化されていなかった除籍は、地下に潜って埃や目に見えない虫だらけの倉庫から虫食いまくりの原本を探し出してくるという、体がむず痒くなる作業をしていたそうですから。

 

 

以下余談。私の手持ちの戸籍からのよもやま話。

 

〇いちばん生年月日の早い漢字名の女性

明治28(1895)年5月7日、山形県田川郡生まれの本間久惠さんでした。

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しかし、生年月日がわからないものの、久惠さんの母も「元」さんとおっしゃるようです。なお、久惠さんよりも早い生年月日でタ子(タネ)さんや、与祢(よね)さん、志まさん、寿い(すい)さんなどがいらっしゃいましたが、崩し字に近い感じでしたので省きました。

 

〇いちばん生年月日の早い「〇子」という名の女性

明治41(1908)年1月13日、千葉県東葛飾郡生まれの竹内朝子さんでした。

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なお、昭和に入った頃は「本名+子」で名乗る習慣?があったそうで、昭和4年生まれの祖母・ゆきは「雪子」と名乗っていたようです。祖母の姉もセツさんですが、子をつけて「節子」さん。祖母の皆川家だけではないでしょうが、「〇子」さんというのがハイカラだったのでしょうね。

 

〇いちばん生年月日が早い人物

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今から212年前の文化4(1807)年3月5日、現在の福島県東白川郡矢祭町関岡生まれである中野ハツ(1807~90)さんでした。

なお、ハツさんは高祖父の曾祖母の兄である藤田傳右衛門の奥様です。

 

〇いちばん長寿の人物

戸籍上では、曾祖母・菊地カツがいちばん長生きでした。今回気づきましたが、亡くなった記載がある戸籍は未取得。こんど取得しておかないと!

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明治28(1895)年4月19日に福島県東白川郡近津村大字下山本字松原で生まれ、平成8(1996)年3月22日に北海道斜里郡清里町で亡くなりました。亡くなった際の戸籍が無いので墓碑ですが。

あとひと月ほどで満101歳を迎えるという大往生。数えでは102歳。

なお、18歳で北海道に渡ったのちに曾祖父・菊地幸太郎と20歳で結婚しましたが、昭和11(1936)年に先立たれていまして、婚姻期間20年で未亡人期間が60年。この数字だけ見てもなかなかすごい人生だなと感じます。

それにしても、下山本村戸籍担当の人は字が小っさ!がんばって1列に書き切ろうと思ったのかしら?

 

〇最も多いきょうだい

高祖父の祖父・砂山軍造のひ孫である茨城県筑波郡牛縊村の砂山喜三郎(1889~1951)とたつ(1891~?)夫妻の子どもたちが13人きょうだい。

北海道網走生まれの最年長「よし」(明治45(1912)年生まれ)を筆頭に、牛縊に戻り、東京三河島にて昭和12(1937)年に生まれた金太郎まで13名。お母さんは46歳!うち4名は夭折しておりますが、9名は見事に成人しています。

さらに妻の高祖父・山田菊松の異父弟である山田万次郎(1885~1966)とキソ(1897~1987)夫妻も13人きょうだいをもうけています。

明治45(1912)年に青森下北の田名部でマサが生まれたのちに釧路へ渡り、昭和16(1941)年生まれの繁男さんまでで13人。こちらも3名が夭折していますが、まだご健在の方もいらっしゃいます。

 

〇もっとも若い花嫁

14歳でお嫁さんになった例が8例あります。

いちばん最近の婚姻は岩渕家のセンさん。大正9(1920)年12月23日。北海道空知郡砂川村となっています。

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〇もっとも若い花婿
逆のパターンだと、15歳で旦那さまになった例があります。

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高祖父の及川清之進ですが、婚姻日は明治20(1887)年2月24日、宮城県桃生郡矢本村で婚姻しています。奥さんは同い年。

 

 

ちょっと戸籍から離れて・・・

〇平均生存年数

あくまでも参考ですが、戸籍や墓石などで生没年が判明しているわが家系の約1400人を平均すると54.29歳。

ただし、その中には1歳の誕生日を迎える前に夭折した哀子が151名おります。たとえば20歳を迎えた人物に限って平均年齢を算出すると、67.47歳となりました。

また、20歳未満で夭折した方は約2割の280名いらっしゃいます。もちろん現代に近づくにつれてそういった方々は少なくなってきており、うち9割の249名の方が昭和20年以前に亡くなっています。

いまこうして幼児期~少年期を乗り越えるのが普通になっているのは、医療や危機管理が進歩したおかげですね。もしもこの時期に自分が親の立場だったら・・・、とても耐えられなかったでしょう。

昔の人はそういった悲しみを乗り越えなくてはならない場面が多かったんだと考えるにつけ、やはり今の日本は平和なんだと改めて思う次第です。

 

なんだか、この記事を見返すと見づらい・・・

しかもいつも通りとりとめのないお話となってしまったので、ここらで失礼いたしまする。

戦前の運動会

女々しくも相変わらず矢祭町の歴史を調べている今日このごろ。

矢祭町史を眺めていると、今から87年前の昭和7(1932)年に行われた東舘高等尋常小学校・男女青年団秋季運動会のプログラムが載っていました。

東舘は矢祭(当時は豊里村)のいちばん大きな学校。なかなか人数も多かったと思います。

内容は現在とは違う部分もあり、同じような部分もあり、ちょっと物珍しかったので表にしてみた次第。

 

当時は、現在の小学1~6年が尋常小学校1~6年に相当し、中学1~2年が高等小学校1~2年に当たります。

学校だけではなく、地元青年団の競技もあったということなので、きっと地域ぐるみで熱闘が繰り広げられたのでしょう。

今とは運動会にかける熱量が全然違ったりしたのかもしれません。もちろんそうでもない子もいっぱいいたかもしれませんけどね。

 

なお、「賞」というのは、何位まで賞が与えられるというものかと思います。たぶん鉛筆とか帳面とかでしょうか。

 №       人員 回数
1 尋1・職員 綱引      
2 5男 ハードルレース 25 4 3
3 尋1男女 鉛筆拾い 90 6 5
4 尋2男女 拾い物競争 82 5 5
5 3女 縄跳び 42 1
6 高女 リレーレース 42 1
7 6男 仰天競争 35 5 3
8 34女 メディシンボール 60 1
9 23男 日本男児      
10 青男 200m   3 3
11 尋1男女 50m 90 9 4
12 尋2男 置換競争 46 1
13 高2男 200m 29 4 3
14 3男 汽車競争 36 1
15 5女 100m 36 5 3
16 4男 200m 30 4 3
17 6女 100m 32 5 3
18 尋2女 流れ星      
19 高男 リレーレース 27 1
20 4以下女 綱引   1
21 尋1男 モダーンボーイ 45 1
22 6女 スプーンレース 32 5 3
23 3男 鰌(どじょう)取り 36 4 4
24 高女 看護競争 42 6 3
25 56男 擬馬戦 58 1
26 尋2女 バスケットボール 36 1
27 4女 100m 30 4 4
28 青女 保姆競争   2 5
29 高女 舞踏      
30 尋1女 花輪送り 45 1
31 5女 特急出荷 36 1
32 4男 赤鬼白鬼 25 1
33 高男 棒奪い 57 1
34 尋3男女 50m 83 9 4
35 尋1男女 夕焼小焼      
36 青男 400m   3 3
37 4以下男 綱引   1
38 高男 敵艦襲撃 57 1
39 選手女 紅白リレー 32 1
40 青女 バスケットボール   1
41 34男 爆弾投下 65 1
42 4以上女 御旗の光   1  
43 尋4以上   合同体操   1  
            昼食
44 5以上男 綱引   1
45 3男女 場内一周 78 8 4
46 高1男 200m 27 4 3
47 4男 毬拾い二人三脚 32 2 5
48 幼童 宝掬い   1  
49 選手女 他校選手競争   4 3
50 青男 部落対抗リレー   1 2
51 456女 美しき天然      
52 3女 毬掬い 42 3 5
53 6男 200m 35 5 3
54 4女 縄越ボール 27 1
55 5以上女 綱引   1
56 選手男 紅白リレー 32 1
57 高女 月の砂漠   1 5
58 4女 お手玉レース 31 2
59 5男 後方勤務 25 1 3
60 高1男 障碍物 27 4 3
61 5女 交通競争 36 5
62 6男 紅白リレー 35 1
63 青男 俵リレー   1
64 6女 日本晴 32 1 3
65 5男 200m 25 4 3
66 青女 100m   3
67 高女 キャプテンボール 42 1  
68 4以上女 胡蝶   1  
69 職員 運命競争   1
70 56女 落花紛々 69 1 3
71 高2男 立体障碍物 28 4 5
72 高女 100m 42 3  
73 来賓 宝拾い   1  


まず初っ端から尋常1年の綱引きですが、愛らしさでメロメロだったでしょう。

プラス職員なのが気になりますが。

 

7番の仰天競争、12番の置換競争、21番のモダーンボーイ、24番の看護競争、28番の保母競争、59番の後方勤務など、さっぱりどんな競技なのかがわからないっす。

23番のどじょう取りは、本物を捕まえるのかな?なかなか時間がかかりそう。

25番擬馬戦。騎馬戦の前身?

38番敵艦襲撃や41番爆弾投下などは、当時戦争をしていなかった頃でも軍事教育が行われていたということなのでしょう。まだ日本が血気盛んな時代だったということを感じさせられます。やだー。

 

最後に「来賓」の競技がありますが、背広とかで参加したんでしょうね。いまではなかなか考えられないかも。

そんなわけでプログラムが73番までという胸焼けするくらい盛りだくさんの内容なわけですが、いったい何時に始まって何時に終わったんでしょう。昼休みが43番終わってからですから・・・。

 

仮に1競技に準備や撤収で10分かかるとすると、朝5時スタートで7時間くらい経った12時過ぎから昼食、13時から午後の部が始まって、6時間後の19時くらいに終了・・・

マジですか!?ちっちゃい子ガマンできないっすよ!

狂おしいほど僕には悩ましい

家系のインデックス

 

あぁ、どの系統もさっぱり調査がすすまないよ~!

トニー!助けて~!

それならケロッグコーンフロスト!

・・・と、勢いだけの不安な書き出しで始めてしまいましたが、またいつものようにモヤモヤした記事を書き綴らせてください。

 

しつこいですが、私の父の父の父の父の父である菊地儀平(1844~97)は、近藤家より東舘村(福島県東白川郡矢祭町東舘字舘本)の菊地家へ婿養子として迎えられています

戸籍には「上関河内村 近藤勝右衛門 五男」とだけ書いてあり、婿入りした時期もわかりません。

長子は明治3(1870)年に生まれていますので、少なくともそれ以前ではあるでしょう

 

そうかぁ、ルーツをさかのぼると上関河内(かみせきごうど)の近藤という家になるんだなぁ、と初めて見たときには「ほほ~っ」と思ったものでした。

 

それから干支がひと廻りし、現地にも2度赴き、上関河内にお住いの2軒の近藤さんとコンタクトもとった現在・・・

いまだに7代前の祖先・近藤勝右衛門なる人物は秘密のヴェールに包まれたまま、姿を現そうとはしてくれません。

まさかこんなに苦労することとなろうとは!

 

以下に、今わかっていることをまとめてみます。

・上関河内の庄屋として、江戸末期~明治初期の古文書に近藤數右衛門なる人物が登場する

・かつて矢祭町の副議長を務めていた近藤誠さんの協力のもと、戸籍をさかのぼったらば文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」という人物が最古(父欄は空欄)

・近藤誠さんのお宅は、義冨の次男・彦雄さんの系統。近藤新右エ門なる人物の養子となっている

・義冨の長男・邦彦(1850~1914)は、明治9(1876)年に上関河内の村長を務めており、現在も子孫の方が健在(いまのところコンタクトとれず)

・上関河内にもう1軒ある近藤家は、邦彦の養子・清兵衛(実家不明。1830~96)が分家して興した家。邦彦の養子ではあったが、20歳も年上!昔はそんなこともあったのかしら

 

ここまでわかっていたところで、ついにおととしの秋、家族旅行の合間を縫って単身で上関河内の墓地を訪ねることができたのです。

まだ家族は大子町の宿で寝静まっている朝5時20分。なんとか朝日で明るくなってきました。

 

そこには近藤家の墓地が3区画。上関河内に現住している3軒の近藤家のもの。

 

総本家である邦彦家のお墓を探ると「近藤數右衛門藤原義冨」と刻まれた墓石を発見。

戸籍にあった最古の名前である義冨は、庄屋だった數右衛門と同一人物であることが確認できました!

さらには、寛保元(1741)年没の「近藤數右衛門藤原義次」や、享保3(1718)年に父母の墓石を建立した「近藤新六藤原義高」という名も。

他にも墓石があったのですが、読み切れませんでした。無念。もう少しでも時間があればぁっ・・・!

 

ここまでで勝右衛門さんは未登場。もはや架空の人物ではないのかと勘ぐりはじめました。

 

儀平は、菊地儀右衛門家の婿養子。

たまたま名前の一字が養父と同じになったのでしょうか。

それとも近藤家に居たときは違う名前で、お婿に行ったときに儀右衛門から一字もらったのでしょうか?

儀平の戒名は「儀山良心居士」。「儀」の字が大切にされていたものだと推測されます。

子どもは「初太郎」と「幸吉」という名ですけれどね。

なお、その後も菊地家では「儀」の字を使用している様子はないです。

 

話を戻して、近藤家の五男。昔はもっと多くの近藤家があったのでしょうか?
もはや知る術はありません。

ただ、ずっと「上関河内の近藤家」と言いながら、上関河内「字仲町」の近藤家を調べていたのです。

もしかすると、仲町の近藤家以外にも、上関河内に近藤家があったのかもしれません。

 

少なくとも明治18(1885)年に編纂された仲町の地籍簿には、上記の近藤家のみが存在。

しかし、近藤邦彦の養女に下関河内・藤田清助さんの長女であるチヤウさん(邦彦と同い年で、誕生日はチヤウさんのほうが早い)という方がいらっしゃるのですが、「明治41(1908)年 上関河内字上ノ臺34番地 近藤庄吉方へ入家」と記載されているのです。

ゼンリン地図を見てみると、いまは上ノ台には近藤家は存在しないので、かつては仲町以外にも近藤家が在ったのでしょう。

捜索範囲を広げればもしかして・・・という希望と、腰の重さが同時に来る感じですね。

 

また、「數右衛門義冨=勝右衛門」という説もまた考えていたわけです。

なぜなら、いちばん楽に終われるから。

 

儀平が上関河内村から東舘村へお婿に来たのは、まだ戸籍制度ができていないころ。

東舘村では曹洞宗東慶寺で宗門人別帳的なものに追記されたりしたのでしょう。

 

なお、上関河内での菩提寺は「久向山積泉寺」という曹洞宗のお寺でしたが、明治9(1876)年に火事で焼失し、そのまま廃寺になっております。

そのときに、福島(ほとんど常陸ですが)の人間ですので訛って伝わったかもしれません。

「おらのとっちゃんはこんどうかんづうぇもんってんだぁ~」みたいな感じで。
「かづ→かつ」と聞き取られ、勝右衛門になっちゃったのではないだろうか?

もうこの結論でいいんじゃないか。もうやれるだけやったじゃないか。という自問自答の日々(大げさ)。

しかし、事はそんな簡単には終われないものです。

 

近藤邦彦の謄本には「父」としてギリギリ記されていた義冨。

邦彦の母は既に謄本におらず、墓石に小田川村・佐川平左衛門の長女である義冨の妻は、明治3(1870)年に51歳で亡くなったと彫られておりました。

儀平が生まれた弘化元(1844)年9月時点では、義冨33歳、妻24歳。

とても自然な年齢に思えます。

 

しかし、儀平は「五男」なのです。

後に村長となる邦彦が、儀平よりも6歳下で「長男」。

 

さらに追い打ちをかけるのが、義冨の長女で邦彦の姉であるユキ。

ユキさんは弘化2(1845)年3月生まれ。

先に生まれた儀平と、誕生日がたった半年しか違わないのです。

例えどんなに早産でも、さすがにこれはありえないでしょう。

余談ですがユキさんがお嫁に行ったのは45歳のとき。当時の感覚だとずいぶん遅い気がします。余計なお世話ですけど。

 

この感じだと、儀平の上に4人の男子がいるとは考えづらいです。
跡継ぎが邦彦だということが不自然になってしまいますし。

邦彦の前に違う母がいた、あるいはお妾さんがいたということも無いとはいえません。
なにぶん庄屋さんですし(打ち毀しにあったこともあるらしいです)。

義冨が33歳になるよりも以前に4人の男子が絶対いなかったとも言い切れません。

しかし、勝右衛門の墓石などの証拠が見つからない以上、これが結論!とはいえないのが現実。しんどい。

もしかすると戸籍の何かが間違ってるかもしれませんが、どこが違うのかは誰も教えてくれません。

 

たすけてカツえも~ん!なんか道具出してよ~!

 

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▲ここのどこかに勝右衛門が入れば、ウチのご先祖と一気に繋がるのに~

 

戸籍地=住所とは言えない?

家系のインデックス

 

娘の吹奏楽コンクール北海道大会(小学校)が終わりまして銀賞をいただきました。

もちろん過去2年連続で金賞を受賞してきたのですから、みんなのがっかり感やショックはハンパないわけです。

でも、むしろその重圧に打ち勝ってここまでこれたのだから、これは素直にすごいこと。これからのみんなにとって意味のある銀賞だと信じています(*^-^*)

 

・・・と、いろいろあったところで、ぼんやりと考えていたのが表題のことについてです。

 

今回のお話の核となるのが、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の兄である菊地初太郎(1870~1942)。

 

菊地家福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地に置いていた明治19年式戸籍は、初太郎の父である菊地儀平(1844~1897)が戸主でした。

明治30(1897)年に儀平は53歳で亡くなり、東舘の大寄にある曹洞宗東慶寺」で葬儀が行われています。

儀平の戒名は「儀山良心居士」。儀平の人となりが伝わってくる戒名です。

でももしかすると、儀平は江戸時代の生まれであり、上関河内村の近藤勝右衛門家からの婿養子でありますので、出生時は「儀平」とは違う名前があったのかもしれません。

養父の菊地儀右衛門と一文字同じなので、婿に入る際に変名したりしたのかも。

 

そんな儀平ですが、東慶寺に遺されている過去帳には「菊池初太郎父」と記載されております。

ここで「菊地」と「菊池」の混同が見られますが、我が家は文書によって混在しているのであまり気にし過ぎないようにしています。戸籍だけ「菊地」で、土地台帳や過去帳は「菊池」だったり。

言い伝えでは本家とケンカして字を変えたとか聞かされましたが、ホントのところは不明。

このころ儀平の妻であるハツ(1852~1906)は存命ですが、喪主は今とは違って家督相続人が務めたりしたのかもしれませんね。

なお、初太郎は儀平が亡くなる8か月前に、袋田村大字久野瀬の植田庄三郎家よりシモを妻として迎えております。

 

その2年後、明治32(1899)年に儀平の養母(ハツの母)である菊地ヤス(1813~1899)が86歳で大往生。その過去帳にも「菊池初太郎祖母」と記されています。

 

・・・と、ここまでは良かったんです。調べる方としては。

 

次に起こったイベントは、初太郎と幸吉兄弟の母である菊地ハツ。

明治39(1906)年に夫・儀平と同じく53歳で逝去し、同じく東慶寺で葬儀。ここまでは自然なんですけれど、その次に記載されていた「鈴木菊池孝吉母」に尋常ではない違和感を覚えるわけです。

 

「鈴木」とは?

「幸吉」ではなく「孝吉」?

なんで初太郎ではなく幸吉の名が?

 

さらには、儀平の戒名は

「儀山良心居士」なのに対し、

ハツの戒名は

「恵光妙順清信女」。

 

「居士」と対になるのは「大姉」のはず・・・。

こういっては語弊があるやもしれないのですが、夫よりも戒名的にはランクが下の「清信女」がつけられたのはいったいなぜなのか。

 

墓石でもあればいろいろ推察できたかもしれませんが、今のところ見つけられてはいないのです。

少なくとも東慶寺には現存していないことが確認できています。

いったい儀平夫妻はどこに埋葬されているのだろう・・・?

 

そんなわけで、いろいろミステリアスな状況なのが整理できたところで、もう少し考察してみます。

 

過去帳(縦書)の「鈴木」は墨書きを縦棒で消しているので、単純に間違えたのではないかと思います。

もしやして、ハツと幸吉やその子どもたちが、どこぞの鈴木家に厄介になっていたということも絶対ないとは言い切れないですけれど。

「孝吉」になっているのは、おおよそ間違いでしょうね。なんかのゲン担ぎとかで、そう名乗っていたということもあるかもですが。

 

そして喪主?が、初太郎ではない。

これはホントに???です。

 

ただ、情報を集めていくと、なんとなくの想像が・・・

 

まず土地台帳ですが、儀平の没後に初太郎が161坪の宅地(40番地)を相続しています。

しか~し!そのわずか7か月後の明治31(1898)年11月に隣家(39番地)の藤田嘉市郎(1862~?)へ売却しているのです。

この藤田 嘉市郎ですが、当時まだ存命だった儀平の義母・ヤスの兄貴の孫。初太郎からするとハトコですね。

 

この時点で、菊地家の土地が無くなってしまいました。

隣の藤田家に売却してしまってはいるものの、縁故者の手に渡っていることから、そのまま住み続けることができていたということも考えられます。

 

このまま翌年のヤスの葬儀までは、初太郎と幸吉一家は同居していた?

初太郎は明治24(1891)年、幸吉はその2年後の明治26(1894)年に親となっています。

きっと家も手狭になってきたのでしょう。

 

その次に変化があるのが、戸籍上の日付で大正元(1912)年、幸吉一家が舘本33番地へ分家。

届け出の時期しかわかりませんけれど、少なくとも福島居住の時点で兄弟は離れて暮らしていたようです。

その翌年、幸吉一家は北海道屈斜路村の御料地へ渡りました。これは郷土史による情報。

初太郎一家はその4年後に幸吉とほど近い場所へ転籍していますが、これは戸籍上の日付ですので、あるいは弟と同時に屈斜路へ渡ったのかもしれません。

 

北海道へ渡るまでの間、兄弟の暮らしぶりや場所は知れません。

 

幸吉が北海道に渡る7年前、ハツが亡くなった際に喪主が初太郎ではなかったということは、同居していなかったということになるのでしょうか。

 

ちょっと疑っているのが、たびたび登場する国会図書館デジタルコレクションに「衆議院議員選挙有権者名鑑」という明治45(1912)年の書物がありまして、その中に「宮川村 菊池初太郎」との記載があることから。

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宮川村というのは、現在の茨城県久慈郡大子町にある大字矢田、川山、冥賀、高田、下野宮に当たる地区。

 

この中の下野宮という地は、初太郎が二女・タツ(1906~37)の婿として迎えた菊地酉松(1898~1964)の実家がある地であるのです。

 

酉松は大森寅松(1871~1914)の長男ですが、寅松が大森與三郎の三男であり、與三郎の長男である大森亥之吉(1863~1921)が家督を継いでいたうえ、寅松が若くして亡くなっていることから、酉松は家を継ぐ立場ではありませんでした。

 

しかし、例えば初太郎がその大森家と旧知であり、ヤスの没後からハツの没前の間に宮川村内の近くに転居したということも、かなり無理がありますが無いとは言えないんじゃないかとちょぴっと思ったり。土地売っちゃってるし。ふつうにまったくの別人であるという説が私の中で有力ですが。

 

酉松に関しては、「下野宮で大工を始めて函館に移住。函館大火後に美幌に移り住んで大工を務めあげた。タツとは恋愛結婚。」ということが伝わっております。

下野宮時代に菊地家と繋がりがあったかはまったくわからないですね。

 

なお大森家なのですが、戸籍を眺める限り明治37(1904)年に亥之吉の三女・すみが同じ下野宮の小室亥之介家へ養子に入ったあとはしばらく動きが無く、その次のイベントが大正10(1921)年に戸主である亥之吉が大宮町(今の常陸大宮市)で亡くなっているという記述。家督は長男の大森貞之丞が継いでいますが、のちに大宮町へ転籍しています。

大森家も居なくなってしまったのか・・・。

 

ちなみに初太郎の戸籍には、屈斜路転籍の2年前、大正4(1915)年に屈斜路で初太郎の孫が生まれるまでまったく地名の記載は無し。

 

初太郎の明治31(1898)年の家督相続以降、初太郎や幸吉には数名の子どもが産まれていますが、誰にも出生地の記載が無いので、みんな本籍(舘本40番地)で産まれたのかなぁ・・・?

 

まぁ・・・、何かと創造力ばかりが膨らんでしんどいっす(/・ω・)/

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▲上記に綴った状況をわかり易いように系図へ落とし込んだものの、余計ごちゃごちゃして失敗した例

You can do it!

ずっと気になっていた本があったわけです。

 

きっとみなさんご存知の「これ」ですね。


かの有名なユーキャンが出した全4巻の大作!

名字の本は森岡浩先生が関わっておられますし、家紋の本っていままで持ってなかったんですよね~。

 

欲しかったんですが、2まん9せんえんもするので、ちぇんちぇん買えるわけがないはずでした。

 

そんなこともすっかり忘れていたある夏の日。こないだですが。

ブックオフ20%OFFセールがありましたもので、ちょいと行ってみたんです。

 

ちなみに、ブックオフはけっこうみなさんにとって身近な存在であろうと思います。いろいろな掘り出し物の文献もあったりするでしょう。

でも、私の住んでいるあたりのブックオフは、こんな感じで点在しているのです。

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釧路には1店舗(かつてはもう1店舗あったんですが・・・)。他のいちばん近い音更店は120kmほど離れています。

音更店と帯広店は近いですが、北見や網走も130km以上離れています。

 

こんなんですので、品ぞろえもあんまり変わり映えせず、ずっと同じメンバーの本たちが居座っているわけですね。

 

そんなんなんで、いつもあんまり期待しないで訪れるのですが、その日は違いました。

店に入った瞬間に目に入ったのが例のYou canのやつ!!

 

きっと高いんだろうね、お前さんほどのものだと・・・と、心の中で独り言をつぶやきながら、ひっくり返して値札を見たら、購入決定っすよ!!しかもこっから20%OFFっすか!冗談でしょ!

 

・・・と、ひとりで静かに悶絶していたのですね。

 

そんなわけで我が家にお迎えした神々しい御本様。

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でかいほうは読み物としてバッチグーですが、事典の方は必要があれば開くといった感じでしょうかね。

人によっては2まん9せんえんの価値を見い出すのは厳しいかもしれません。

私はその13%くらいのお値打ち価格でしたので、まったく文句のつけようがありません。

初めての家紋の事典、とても見ごたえがありますね。ほとんどが一生実物を見ることがないであろう紋なのでしょうけれど。

そして森岡先生バージョンの名字事典。太田亮先生が綴った昭和初期の事典と見比べるのもまた趣がありますね。

もちろんボリュームは比べるものではないですが、森岡先生バージョンはとてもわかりやすく記述されていますし、太田亮先生の姓氏家系大辞典には記載のない名字(砂山など)についても触れられていたりしますので、一読の価値はもちろんあるわけです。

 

いや~、こんなこともあるんですね。ひさびさにブックオフでの大ヒットでした。

 

そんなこんなで、いよいよ明日は北海道吹奏楽コンクールに挑むべく、札幌Kitaraに向かいます!

6年生となり、副部長でトランペット吹きの娘。

年頃なこともあって、部内やその他もろもろいろいろな困難がありましたが、それらを乗り越えまして、ついにこの日を迎えます(本番は日曜日)。

小学校は23校中2校が金沢で行われる東日本大会に駒を進めることができるという超絶狭き門。

釧路勢2校のうちの1校の代表として、無事に悔いなく演りきって欲しいです!

You can do it!

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小生瀬石井家について再考

家系のインデックス

昨年の10月、高祖母の実家があった茨城県大子町小生瀬地区を訪れ、1時間弱でしたが石井家について調査を行いました。

 

訪れる前に事前準備。

最古の戸籍には小生瀬248番屋敷と記述されております。

小生瀬は住居表示が行われていませんので、当時と番地は変わっていないと思うのですが、番屋敷表記だと現在の番地と対応させることができませんね・・・。

小生瀬のどこいら辺なのかがさっぱりわからなかったのですが、高祖母の次兄・石井鐡之助(1867~?)の子孫の方から「寺地」という地に住んでいたと教えていただきました。今はもう屋敷跡は竹藪になっているそうで。

 

しかしながら、寺地という地名はネットで探しても存在せず、唯一バス停が残されているだけ。

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そこで、その寺地バス停付近の地図をゼンリン住宅地図プリントサービスを利用してローソンで購入。

ちなみに釧路市から一番近いファミマは、300km離れた千歳市にあります(/・ω・)/

www.zenrin.co.jp

1枚300円でございます。

 

その地図を見てみると、寺地のあたりは6000番台の番地。数字でかすぎでしょ!

その情報を基に旧土地台帳を請求してみるも、いまいちな結果でした。

かつて「寺地坪」と呼ばれていたので、ここら一帯は寺地という小字だと思い込んでいたのですが、旧土地台帳に記された小字は「シセ内」だの「岩久保」だの「芦風」だの「屋敷上」といったもの。 

これらをまとめて寺地坪と呼称していたのだろうか?

 

うむむ・・・、どうしたものかというところで、ある人物が思い浮かびました。 

高信幸男氏。苗字研究家で多くの著書があり、最近はテレビの「沸騰ワード10」という番組で、はんこ屋さんとの熱き珍名バトルを繰り広げている先生です。

実は高信先生、水戸市在住ですが出身は大子町

なにか小生瀬で庄屋を務めていた石井家についてご存知ないかというお手紙をさせていただいたのです。

 

すると、ご返事が!

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かわいいふくろうのハンコが押されています(#^.^#)

 

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石井家の墓地を撮影してくださり、送ってくださったのです。

おぉ、かなり立派なお墓!

講演などでお忙しいところ、お手間をいただき恐縮しきりでございました。

 

お墓が存在することが分かったので、今度は寺地付近の石井さんにお手紙をし、2軒の石井さんから「会ってもいいよ」というご返事をいただけたのです。

 

そんな準備をした上でいよいよ小生瀬へ。

その際にお会いいただいた2軒の石井さんはイトコ同士の方でした。

ご先祖さまは石井庄次兵衛さん。残念ながら高祖母の石井家とは繋がりません。

 

石井家のお墓が3軒集まっている墓所に案内していただきましたが、家紋が「丸に三つ柏」。

 

永らく小生瀬の横目を務めたと伝わる高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)家は、明治期に小生瀬を離れて現在は常陸大宮にお住まいですが、子孫の方から家紋は「左二つ巴」と伝え聞いております。

家紋が違うということは、同族ではないのかもしれません・・・。

そして、高信先生からいただいた写真とは違う場所・・・。

 

しかしながら、庄屋を務めていたという益子さんというお宅のお墓にもご案内いただけました。

すると!

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あら!ここは高信先生が「石井家墓地」として送ってくださった写真とおんなじ場所です!

 

でも益子さんのお墓・・・。家紋も見当たらない〰

 

風化しかかっているので判読が難しいのですが、撮影した写真を基に文字起こししてみたのが以下のもの。

 

天明八年申 正月四日 縁通遍照清信士霊位 俗名 益子庄右エ門信任(信住?)

②髙徳院壽覺明照大居士
 鏡徳院養壽妙禎

③泰德院義光淨覺孫君翁大居士
 寶珠院諦雲壽照清浄大姉
 明治三十年 益子庄之允

④寛政十二年 蓮宗白邈清信士
 文化十一年 〇然妙曉清信女

⑤廣壽院積翁道雲親孫君大居士
 法照院殿理覺妙塔清大姉
 益子正泰建之

⑥德潤軒恵泉〇性居士
 長松軒鶴影妙壽大姉

昭和14年8月7日没  益子正盛 60歳
 平成17年11月13日没 益子義教 93歳

 

①に高祖母の父と同名の庄右エ門の名があります。

天明8(1788)年没なので、1837年生まれの石井庄衛門とは3世代くらい違うのかな?

庄衛門の父は重四郎。いったいどうなんだろう・・・?

 

天狗党の乱で親子の袂を分かったというお話も伝わっていますが、1864年のことですので、それで家を出て姓を変えた・・・?

でも年代が合わないか。

 

なお④の墓碑は最近のものですが、益子義教という方は東京帝大を出て、東京で医師として世に尽くした大人物。

益子家の方々は、毎年お墓参りに見えているそうです。

 

あと、③にある「益子庄之允」という名は、請求した旧土地台帳の中に見えました。

明治39(1906)年まで、現在石井姓の方が住んでおられる土地を、「田」の地目で所有していたようです。

また、国会図書館デジタルコレクションでもこの名を確認することができました。

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▲珂北三郡名家揃:明治26(1893)年

庄之允氏は、小生瀬235番地に住んでおられたようです。

嘉永5(1852)年の生まれですので、庄衛門から見て15歳下。庄衛門の長男・酉次郎から見ると9歳上。なかなか微妙な年の差です。

石井庄衛門が住んでいたのが247番屋敷。もし仮に番屋敷表記だけど実は番地とイコールでした~となれば、この益子家とはきっとご近所さんではなかったかと思われます。今でいうとどこに当たるかがさっぱり不明ですが。

 

・・・まとめようと思ったんですが、さっぱり収拾がつかなくなりました。どうしてくれようか!

こんなに狭い地域のことだったから、すぐ解決すると思ったんですけどね・・・。

石井と益子。永遠の謎にならなければいいんですが。