真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

皆川家②

家系のインデックス

 

しばらく菊地家のことを書き綴ってきましたが、久しぶりに菊地家以外のことも掘り下げてみようと思います。
以前、書かせていただいた母方の祖母の実家・皆川家についてです。

一部前回と内容が重複しますが、皆川家には家系図が残されており、筆者は曾祖父・征露久の長兄・皆川新八(1888~?)でありました。


その冒頭に、「一説によると、信州長沼城主山城守皆川より出づる。関が原の戦いで豊臣に味方し敗れ、其後一万石の小大名に免さる。尚、其後消息を絶つと伝う」という一文があります。
最初はこれを素直に、長沼城主・皆川山城守広照(1548~1628)が祖先!?・・・なのかと思いました。


しかし、皆川広照が治めていた長沼は下野国(栃木)にあり、信州ではありません。インターネットで調べてみると、千葉県成田市や、福島県須賀川市、そして信州(長野県長野市)にも長沼城が在ったことを知りました。


この信州の長沼城は、島津→上杉→武田→森→上杉→島津→佐久間と主が変わり、1688年に幕領となり廃城となっているようです。皆川の名前は出てきませんでした。
祖父の話では、明治期に皆川に「復姓」したと言っておりましたので、戦国期には皆川であったと考えると、信州というのが間違っているのかもしれません。
そもそもこの言い伝え自体が怪しく思えまてきますが、まだまだ望みは捨てられません。


尚もあきらめずに調べてみると、徳川忠輝の後見人としても有名な皆川広照は関ヶ原とは関係なく、忠輝の家老の行いを幕府に進言した結果、信濃飯山藩1万石に改易されたとの記述が!言い伝えと石高がぴったりです。
さらに長男・隆庸も山城守でありますが、皆川隆庸は徳川氏に仕えており、関が原の戦いでも当然豊臣方ではなく徳川方についております。
・・・知識が無いなりにいろいろと調べた結果、断片的に合っている部分があったりして、全く信憑性が無いとも言い切れないような言い伝えであることがわかりました。

とりあえず「関ヶ原で西軍について1万石に改易された大名」の中にはそれらしき人物はいないようです。


しかし、言い伝えにはなにかしら子孫に伝えたいことが含まれているとは思っていますので、これから出来る限り真実に近づけるように歴史の勉強をしていかないと!

 

皆川家家紋:丸に蔦

f:id:dotouttan:20140430063316j:plain