下北半島に渡った!①
使ってなかった残り3日の夏休みを、こないだの体育の日の3連休に絡めて6連休に。
目的は実家の函館に帰ることと、青森県の下北半島を訪れることでした。
下北は、妻の実家である山田家が1905(明治38)年に釧路に入植する以前に居た地。
ずっと行きたいと思いながらなかなか実行に至れなかったのですが、6連休もあるので実家には悪いけど1泊くらいはいいかな?と思って決行することにしました。
金曜日に釧路を発ち、函館へ。
午前4時過ぎに出たので、昼には函館に到着。
七飯町に開店したばかりのラッキーピエロで昼食。チャイニーズチキン美味すぎ!
翌日、9時半のフェリーに乗るべくフェリーターミナルへ。
私にとって初めてのフェリー乗船でしたが、波が高く、ゆれまくって非常につらい大間までの1時間40分でした。
ヘロヘロの状態で大間にたどり着き、予約していたレンタカーを借りにジャパレン大間店へ(クルマをフェリーに載せると往復3万4千円!レンタカーを借りたほうが安かったので)。
予約していたのは日産ノートだったのですが、延長になったらしく、違うクルマが用意されていました。
それはピカピカのステップワゴン!
ノートと同じ価格で良いというので、ありがたくお借りします。
大間からむつ市へ。途中、風間浦村の道が狭くてドキドキでした。
前を走っていたトラックが道路に迫る家の屋根にぶつかりそうでぶつからないテクニックを見せつけられながら走ります。
むつ市大畑で昼食。その後、妻の祖先の地であるむつ市関根の高梨へ。
なかなかの田舎道を走っていくと、集落が見えてきました。
今回は日程もないので、誰ともコンタクトを取らずにとりあえずお墓参りだけしようと思っていたのですが、なかなかお墓が見つからない!
しょうがなく、かつてお手紙の返事をいただいていた総本家の方に電話してみましたが、不在。むぅ・・・。
さらに、脇野沢にお住まいのこちらもお手紙の返事をいただいた本家の子孫の方に電話すると、「高梨の本家がそちらに向かいます」とのこと!!
しまった!何もおみやげ用意してないぞ!
ドキドキしながら10分ほど待つと、来てくださったのは60歳くらいのほんわかした女性。本家の奥さんで、ご主人はもう25年以上前に亡くなられています。
はじめましての挨拶をし、さっそく案内していただきます。
すごい坂を登りきったとことに墓地がありました!かなり旧い墓石です。
う~む・・・やっとご対面できましたが、総本家から分家した山田善四郎(1824~1897)・みの(1824~1917)夫妻の戒名しか書かれていない・・・。
この名は、妻の高祖父であり、釧路に渡った山田菊松(1875~1934)の祖父母に当たります。
ただ祖父母といっても、菊松の父は畑中家からの養子である由蔵。母も舘家からの養女であるみゑ。
この善四郎・みの夫妻との血のつながりは戸籍謄本からは見いだせていませんでした。
この由蔵さんですが、明治19年式戸籍ではすでに籍におらず、詳細がまったくわかっておりません。
菊松の父欄には「離別養子由蔵長男」と書かれておりましたが、死別なのか離婚なのか・・・。
少なくとも墓石からは何もわからず無念です。
その後にも亡くなった方はいらっしゃるのですが、特に追加で名が彫られているようなこともなさそうでした。
ちなみに墓石を建立したのは山田留蔵(1868~1930)。善四郎・みの夫妻が44歳の時に生まれた初子です。
留蔵が生まれる以前から養子に来ていた由蔵は、血を継いだ跡継ぎが産まれたことで立場が無くなってしまったらしいことを聞いたことがあります。
由蔵の息子である菊松も、どういう立場で山田家で日々過ごしていたのでしょうか・・・?
釧路に渡った理由も何となく想像つく感じです。
ただ、家紋が釧路の山田家と同じ「丸に木瓜」であるのに驚きました。
総本家は「丸に三つ柏」という話を聞いており、本家もそうなのかと思っていたものですから。
・・・本家と総本家のお墓に手を合わせた後、墓地を一回り。
畑中家や舘(山田さんの話で、ここいらの舘さんは「たて」と読むことが判明)家の墓石を見てみましたが、特に目立った情報はありませんでした。
お世話になった山田さんと世間話をしばしさせていただき、ここいら一帯は水田農家が多いことを伺うことが出来ました。山田家もかつては稲を生業としていたそうです。
別れの挨拶をして高梨を離れ、今度は妻の高祖母の実家である杉山家の墓地がある田名部に向かいます。
つづく。