真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

妻の祖先の地、下北半島

家系のインデックス 

 

下北半島

本州の最北にある、斧みたいな形の半島。

妻の実家である山田家は、高祖父・山田菊松(1875~1934)の代のとき、明治38(1905)年にその下北半島から釧路郡鳥取村(現在の釧路市北斗)へ入植してきました。


青森県下北郡田名部町大字関根字高梨川目。現在はむつ市関根高梨川目となっていますが、そこが山田家がかつて住んでいた地域の名です。

 

角川地名事典の関根村項には以下のように記されています。

下北半島先端部、津軽海峡に注ぐ出戸川下流右岸に位置する。地名の由来は、古く二道の関・大関・根古木の小村が合併した際に各村の一字をとったものという。江戸期は北郡に属し、盛岡藩領。江戸期の資料によれば、家数175。本村を除く集落別内訳は北出戸15、川代14、烏沢45、高梨11。宝暦8(1758)年創建の春日神社がある。明治元(1868)年に弘前藩取締。以後黒羽藩、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、明治4(1871)年に青森県に所属。明治元(1868)年の戸数147。」

 

その江戸期に11戸しかなかった集落・高梨川目の山田家は、山田三之丞が戸籍上では最古の名前。

文政7(1824)年生まれの次男・山田善四郎(1824~97)の父として名前が記載されています。

 

善四郎夫妻には男子が無く、跡取りとして同じ高梨の畑中家より由藏を養子に迎えます。

しかし明治元(1868)年、望外の長男・留藏を授かったのです!
時に善四郎および妻・みの、44歳の初夏でした。

 

跡取りとして迎えられたところで、立場が微妙になってしまった由藏でしたが、妻として同じ関根村の舘半六養女・みゑ(1856~?)を迎えます。みゑの実家はここからは知れません。

なお、善四郎の妻・みの(1824~1917)は舘半右エ門長女であり、同じ舘(この地域では「たて」と読むそうです)姓であることと「半」の字が共通していることから、半右エ門と半六は何らかのつながりがあると考えるのが自然かと思われます。

そして明治8(1875)年、由藏とみゑ夫妻の間に長子・菊松誕生。由藏の年齢はわかりませんが、みゑは18歳でした。

 

私の手元にあるのは、山田家の明治19年式戸籍。

山田の本家は三之丞の長男・春松が継いだようで、次男の善四郎は明治12(1879)年、55歳の時に分家。

さらにその5年後の明治17(1884)年に善四郎は隠居しており、編製時点では当時18歳の山田留藏が戸主となっています。

しかし、由藏の名前が見当たりません。

菊松の父欄には「善四郎離別養子由藏長男」とあり、何らかの理由で由藏は山田家を離れたようです。

留藏がいることで結局居づらくなり、実家の畑中家に戻ったのかもしれません。

 

山田家はどういう家なのか、なぜ下北に住んでいるのか、畑中由藏はどうなったのか、舘家とのつながり・・・

気になることがわんさかでてきたことで、高梨の山田家へとお手紙作戦を決行!

 

そうしたらば、おそらくは善四郎の兄が継いだ本家の方と、留藏の子孫の方からご連絡をいただくことができたのです(≧◇≦)

本家からのお手紙には、以下のようなことが記されていました。
「山田・田中・舘・畑中・安藤・倉田の六氏が戦に敗れて落人となり、この高梨地区に落ち延びた」

なるほど・・・、戦・・・?どの戦かしら?

 

調べてみると、高梨が属する旧関根村のお隣である大畑地区には、1615年の「大坂夏の陣」で豊臣方に附いて敗れた兵が落ち延びた末に発見したという言い伝えがある薬研温泉が!


大阪からこんなに遠い下北まで命がけで来るのですから、おそらく同じようなシチュエーションで高梨にも落ち着いたのではないかと。

しかも本家の方が教えてくださった6つの姓は、調べてみると東海や関西地方に多い姓。

そういう断片的な情報を以ていろいろ勘ぐると、高梨の人々の下北以前のルーツは東海や関西となるのではないかと推察。ずいぶん範囲が広いですけれど、これが精いっぱいかなぁ・・・


その後、2012年に実家の函館にへ帰省ついでについでにフェリーで下北半島に渡り、高梨で墓参をするという野望を果たせたのです。

まさに高梨は秘境ともいえる雰囲気の集落であり、敗走から落ち延びるのにちょうど良かったのでしょうか。

 

本家の家紋は「丸に三つ柏」。

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分家の善四郎家は「丸に木瓜」。

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なぜ変えたかは知れませんが、釧路の山田家は善四郎家と同じ紋を使用しています。

 

善四郎家ですが、40年位前までは稲作農家だったそう。

もしかすると釧路に渡った菊松もノウハウを活かして釧路で稲作を試みたかもしれません。

でも釧路は寒くて海沿いで塩分の多い不毛な土地なので、農業はとても無理なのです。
最終的には馬のブリーダーとなりました。

 

そして菊松の母・みゑ。

由藏が山田家を去ったのち、奥内・鳥山万右エ門家より次男の丑松を婿として迎えました。みゑとは同い年。

丑松とみゑの間には、万次郎(1885~1966)、伊與松(1887~1954)、多三郎(1893~1955)という三人の男子が生まれ、その後は菊松とともに丑松一家も釧路に渡ったのです。

伊與松家の墓石には、「丸に三つ柏」紋が彫られていますが、本家と同じくした紋なのか、あるいは丑松の鳥山家の紋なのかは不明。

なお、万次郎と多三郎の家の家紋は現在わかっていません。

 

万次郎家には子どもたちとともに2014年に訪問したことがあり、その時は万次郎の息子さんの奥さんがいろいろお話してくださいました。

主に馬の話でしたが、釧路の山田家にとって馬はそれほど大切な存在だったのだなと改めて思った次第。

馬産王国ともいわれた釧路を支えていた誇りが感じられました。

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鳥取神社にある馬の像


しかしその翌年、その奥さんが亡くなり、さらに息子さんと息子さんの奥様もその翌年、翌々年に相次いで亡くなってしまい、もはやお話を聞くことができなくなってしまいました。。。

 

ところで、菊松の母であるみゑの没年がいまのところわからないのです。

万次郎家では、みゑは多三郎家に住んでいたはずといわれ、多三郎家には万次郎家に住んでいたはずといわれ・・・

大正時代のことなのに~と思ったのですが、大正も遥か昔のことなんですよね。200年くらい前のこととか考えていると感覚が麻痺してしまいます。

戸籍で確認しようにも、釧路市の除籍は80年廃棄。

取得できる最古の戸籍、大正12(1923)年に編製された多三郎が戸主の謄本に、隠居した丑松は記載されていますが、みゑについての記載はありません。

青森から鳥取村に転籍したのが大正5(1916)年12月。

この7年の間におそらく亡くなったのだろうと推測されます。そうなると没年齢は60歳~67歳の間ということに。

 

なにせみゑは直系の祖先。

供養のためにもどこに眠っているか知っておきたいです。


また、この記事を綴るにあたってネットでいろいろ調べていたところ、こんな本が出ていたのを知りました。

その名も「大坂の陣 豊臣方人物事典」(宮帯出版社)

関係者1,000人以上の豊臣方人物について記されているようです!

高梨の祖先についての記載があるかも・・・どきどき💓

読みたいけど2まんえんもするのか~💦

 

うん、ここは図書館だな。

でもほとんどの所蔵図書館が禁帯出扱い・・・

北海道だと江別の道立図書館と、私の実家がある函館の市立図書館にあるみたいだ!遠いなぁ。。。

 

以下は、いままで綴った山田家についてのブログ記事です。

2008/05/12 青森県下北郡田名部村→鳥取村【山田家】

2009/07/05 総本家からのお便り【山田家・畑中家・舘家】

2011/06/16 旅館を営んでいた山田家

2011/07/07 またまた戸籍謄本

2011/07/26 山田家からのお電話

2011/08/20 むつ市からの電話

2011/08/27 故郷を離れること

2012/07/22 釧路入植後の山田本家を訪問

2012/10/13 下北半島に渡った!①

2012/10/15 下北半島に渡った!②

2018/02/24 下北時代の山田家年表