真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

2008年1月20日の出来事

ちょうど10年前の今日はこんな日でした。

f:id:dotouttan:20180120091745j:plain

当時生後3か月の娘を連れて、釧路空港から飛行機に乗って函館へ向かいます。

実家に帰ると、誰も居ませんでした。

f:id:dotouttan:20180120091832j:plain

ちょうど10年前の今日は、ばあちゃんのお通夜の日。

 

もうそんなに時間が経ったんだなぁ。

 

私がついたころには、ばあちゃんの部屋から介護ベッドが消え、すっかりお迎えモードに入っておりましたね。

 

ばあちゃんは大正3(1914)年に茨城県筑波郡吉沼村牛縊(現:つくば市上里)の太田家に次女(第3子)として生を受け、10歳ころに一家で北海道網走郡女満別村本郷(現:大空町女満別本郷)に入植。

その後は野付牛町の野付牛女子職業学校(現:北見柏陽高校)を卒業し、教員の免許を取得。裁縫の先生をしておりました。

そして肋膜炎の湯治のために訪れていた弟子屈川湯で3学年年下のじいちゃんと出会います。

f:id:dotouttan:20180120094721j:plain

結婚にあたって、いろいろ両家であったような話も聞いたような気がしますが、昭和14(1939)年に25歳で結婚して菊地家に入り、4男3女の子宝に恵まれます。

f:id:dotouttan:20180120095707j:plain

▲これは末っ子である昭和26(1951)年生まれの父ちゃんが3歳くらいのときかな?

しかし、弟子屈の町で写真屋を営んでいたじいちゃんが借金の保証人になってしまい、夜逃げ同然でオホーツク上斜里村(現:清里町)へ移住。

その後は女満別や北見を転々とし、再び弟子屈へ戻り、じいちゃんは写真屋を再興。

昭和45(1970)年、子どもたち全員が独立してホッとしたのもつかの間、9月にじいちゃんが脳溢血で急逝。

ばあちゃんは突如未亡人となり、一人暮らしとなってしまいました。

 

翌年、弟子屈を引き払ったばあちゃんは、子どもたちの暮らす釧路市に転居。

私も家が近かったために、よく遊びに行ったり、おつかいにいったりしましたね。

ネコが大好きで、飼い猫とは別に半ノラの猫たちも家にいっぱいいたので、私がネコ好きなのはばあちゃんの仕業です。

釧路では伯父一家と暮らしておりましたが、平成13(2001)年に末っ子である私の父が住む函館に移住。

奇しくも太田の家紋である桔梗紋と同名の桔梗町で晩年を過ごしました。

f:id:dotouttan:20180120094835j:plain

それから7年弱。94歳の誕生日目前の旅立ちでした。

まだまだひ孫たちも小さいので、目を離さずに空から見守っていてほしいものです(*‘∀‘)

先達の旅立ち

私が家系の探求をはじめてから、さまざまな出会いがありました。

遠い血縁の方から、父母世代まではお付き合いがあった方など・・・。

私のガチな思いをくみ取ってくださりご協力をしていただいたことで、ここまで来ることができたわけです。

その中で、親類で数少ない同胞の方がいらっしゃいました。

妻の母の実家である森井家について、私なんかよりももっともっと深く調べていらっしゃった、母の従兄弟の方です。

釧路の高校を出た後は神戸市にお住まいでしたので、なかなかお会いするチャンスが無かったのですが、私なんぞの若輩者にもメールでいろいろと森井家についての歴史や考察をご教示くださったのは非常に重要なことでした。

そして、遂に2012年の4月に法事で釧路にいらっしゃった際、一度だけおソバをご一緒することができました。

時間にしてわずか40分。

しゃべりっぱなしで、忘れられない密度の濃い40分でした。

 

その後も日本のお城巡りや、富士登山などアクティブに過ごされているという近況を年賀状などでお伝えくださっており、またお会いできるのを楽しみにしていたのですが・・・。

その方が昨年11月に亡くなったとの報が本日届きました。

もう一度お会いしたいという願いは、永久に叶わないものに・・・。

最後にコンタクトをいただいたのはおととしの9月。あのときにメールでお話したのが今生の別れとなるとは思いもしておりませんでした。

71年の生涯。

今ごろは天国で、一足お先に行っていた奥様とまたアクティブに暮らしていらっしゃるのでしょうね。

幹男さん、本当にありがとうございました。ご親切にいろいろ教えてくださったこと、一生忘れません!

久慈市荷軽部に祖先が住んでいたのだが・・・

かつて、妻の曾祖母の更に母方曾祖母・小野寺ハル(1814~90)について記したことがありました。

ハルさんは戸籍の情報だと、岩手県にある九戸郡九戸村長興寺の小野寺家へ嫁いで来る前は、現在の久慈市荷軽部に住んでいたようです。

しかし、その実家の姓が解読不能。あれから10年近く経過してもいまだに判明せず、非常に悶々とした状態なのです。

 

候補だと睨んでいる内の一つである小右エ門姓について、かつて相互貸借で借りた山形村誌には以下のように記述がありました。

資料的にはきっと貴重なのですが、私の知りたいことについてはあまり関連がなさそうなうえに読みづらいので、ぜんぜん解読する気になりませんが、せっかく打ち込んだので自己満足でコピペしてみます。

 

小右衛門家(現当主 小右衛門熊雄氏)収集文書

山立之秘伝之事と山神祭文の二点である。
マタギ(猟師)をしていた小右衛門家の先祖が、猟をしながら遠出をしたときに集めた文書である。
久慈地方のマタギの系統は、久慈三日町熊次郎に伝えられた「山立根元巻(やまだてこんげんまき)」の先をたどれば小久慈の和野友吉、藪川村の勝之丞,
田子村、夏坂一人マタギ源左衛門となる。年号は宝暦10(1760)年で当地方では最も古くまとまった内容といわれ、蘇民将来派の系統で他に類を見ないものである。小右衛門家の山立記は同じく蘇民将来派系であるが、一部かけている部分があるようである。年号は正徳5(1715)年とあるので、さらに古く45年さかのぼる久慈地方で最古のマタギ文書である。

 

(表書)
1「山立旧記全」

   山立之秘伝之事

抑山立之本地言善喜三歳酉虎伊勢天照皇大神宮御子七大師七観音、山神御子拾弐人内蘇民将来之末子小舟ト申尊也、是即狩人山立初、国土諸嶽野狐野辺発万民耕作不、持道具弓鉄砲鈕御教免也、依て今世ニ至迄女何成名山高山之貴神前ニて給候共御免成、依之鳥類ニハ一切構不申礼法也、夫より以来民安全ニ納千秋万歳

 正徳五歳未ノ四月五日
    山立旧記
  天照大神
  観世音菩薩
  七大師山之神

 さいもん
つらつらをもん見ルニ山の神御本地ハ、天照大神宮の御子ニマシマセハ、十二らせつまつり、月の七日ト申レさせ給、七たいし七観音のそりの之御子マシマセハ、神そをりの御大いしやう山神そらをう神トそないたてまつり、をのをの乃戸山ニさきニ御こし遊給、そをうの神々も、そらなる神の御力をやト一度ニ御こし給たニ、わがはらを入也ニかさらせ給へ、よきニなをし給、扨てもつくりやたてたる神の御大い十二、八がしや八ツ、七合ハ神みの尊よりもまんざニいろいろ神をたつとみ奉ハ、神上ハほん天・下ハたいしやくはたい天王たいしやく、ほん天トうやまい
   敬白
 正徳五歳未五月五日

 

2 山神祭文
抑山神の御本地を委クよん奉る、山神の父親ならば大王と申奉り、山神の母親ヲハこんひらさんせ御前と申され給え、東方ニ向て妻を尋給へともまたにつまハ定らす、南方ニ向て妻を尋給へともまた妻ハさたまらす、西方北方中央下界降きよてんニ向テ妻を尋給へ共またニ妻ハさたまさす、おこつの前ハつよく早ク御悟り有て、おこつの前の取引を以て、龍王浄土の一人姫をこんひらさひよし姫前と申させ給へ、山ノ神ハ何時より早ク御悟り有、山ノ神と申神目て見つる事ハなけれとも、せいハ小ク眼ノけたかく、心はらわしきかみたと聞からに、我等か一人姫をハ叶しものよと申され給、本はづ白金はき立、うらはず白金とてはき立テ、関の〆なわよって山鳥の拾弐ふ切れたる漆羽の矢を四ツ堅、はぎ立日光月光とて月日ヲ二体書顕したるたか笠ヲ召させ給ふ、芦毛の駒に金ふぐりんのくらはかせ、我身をかるけにゆらと乗り、あやか浦にしきや浦のこきんのあやをめしよせて、龍王浄土の一ノ姫をこんぴらさいよし姫御前、八十二人のおちやめえのとを打連て、白金のおん御座船に還らせ給え船遊被召さむらうそ、山神も一目急云風を一もミもまよきよと思召おでうずを取てからりと打つかへ、本はづたかはず一ツになれと、しわりきりと引しおり、河の瀬ばたに寄ゆり掛りよつ引せめてはなす矢ハ白金のおん御座船にうつらせ給へ、姫は是ハ是ハとハと山の神と申神目て見つる事ハなかれ共、せハ小く眼け高く心のはらわしき神だと聞からに、まして添て其身にて何のおろかハ可有ものをと、早ク是を知て有なら山神の夫妻にも成るへきものをと、心の内ては御慶めされてさむらふが、山ノ神ハいつより早ク御悟り有て、三年三年三とせか其間御かよハせ給ふ、御腹姫めされてさむらふ西山ト外山か崎のたんどくせんのすもとにて御産の緒を御ときあってさふろう、かせごか千人戌子十疋大音響にて通らせ給ふ、おごつの前爰通らせ給ふ誰や誰そと問給ふ、我等は大なんじか子孫の者、大なん申か子孫の者なら山の神の十二人の御子を持たせ給ふ、早く取上拝ミ申セと有けれハ我等ハ千人か狩子に大将の者なれハ、爰に見た何者やれ七日七夜の忌と在る、ましてえ何分血なんとにまぶれる事ハ叶わじものと申され給へ、大山七ツふミよkて大音起定にてとふらせ給ふ、其跡よりせこか千人戌五十疋て大音響にて通らせ給ふ、おこつの前爰通らせ給ふハ誰やたそと問給ふ、我等か小なんぞが子孫の者なら山ノ神ノ十二人の御子を持たせ給ふ、早く取揚拝ミ申せとありけれハ、進て夫レ社目出度キと云侭に弓矢・やなくい・太刀・やり持・爰やかしこにからりからりと打捨て能日能時ヲえらミさすと、むな木に青の木を取三時や内に七間四面からのこくそを造立、産湯なんとをまへらする、産飯シ申也と有けれハ、粟のよねを三石三斗三升の祝いの飯とて参らする、産着申せと有けれバ、袖ニ七尋御長ケニ九尋裁着せまいらする、山の神の十二人の御子に十二の御諱を付セせ給ふ、太郎をハ子二郎・丑三郎・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥と、山神の十二人の御子ニ十二の御諱を付させ給ふ、山神の御前におし懸参らする五丁の車ニずんばと積ミ、山ノ神の西へ向てえミをにんごとふぐませ給ふ、其所キハ七十日ノ舟遊と此度五日重なって七十五日ふね遊ビぜんふ日和りも結構して今社与へ事をさふらふもの、大なんドハ子孫の者、大なんちハ子孫の者なら山をなら山の子を一つも与えて取らすべし、海を狩なら赤き屏風ニ魚を壱本与えて取すべし、造り田宅めやうこかへに付ても、半とふにしてとらすへし、小なんちか子孫の者小なんとて子孫の者なら、山を狩なら山の子を心の侭与へてとらすへし、河を狩なら指たるアミの目毎に心の侭に与えて取らしへし、海を狩ならあミの目毎に心の侭に与えてとらすへし、造田宅さミやうこかへに付ても心の侭に与へて取スへし神の神の御本地を委く読上奉る
        山神祭文終り

 

・・・よし!ぜんぜんわからないぞ!

とりあえず文化11(1814)年にハルさんが生まれており、小野寺家に嫁いだ時のハルさんちの戸主は兄である巳之松さん。当時の長興寺村での手続きが間違ってなければですが。

f:id:dotouttan:20180117200553j:plain

荷軽部村に住んでいた文化11年以前生まれの「〇〇 巳之松」さんをルーツに持つ方、いらっしゃいましたら私に力を分けてください!!!!

小出家と新潟市江南区嘉瀬のあゆみ

突然ゆうべから調べ始めた、母方祖母のさらに祖母(ひいひいばあちゃん)の家・小出家

きのうはひいひいばあちゃんのお婿さん、小出福松が校長先生を務めていたと聞いていたのが真実だったのが判明。満足して眠りにつくことができました。

きのうの資料は国会図書館のデジタルコレクションの中の「中蒲原郡誌 上編」。その本には、嘉瀬村が合併ののちに属していた「両川村」は収録されていませんでした。

上編があるのだから、下編もあるのだろうと思って探してみると、なんとデジタルコレクションの中には存在しないではないですか!

嗚呼、無料なので文句は言えないけど、無念なことには違いありません(*´Д`)

 

しかし、かつて図書館の相互貸借で借りた本がありました。それは昭和30年に発刊された「両川村のあゆみ」という本。

嘉瀬村は小出家が加賀より移住後、明治34(1901)年に4ヶ村の合併により両川村大字嘉瀬となり、昭和32(1957)年に新潟市へ編入され、平成19(2007)年に新潟市政令指定都市に移行してからは、江南区に属しています。

せっかくあるのに今までまともに読んでいなかったのですが、「両川村のあゆみ」は新潟市への編入直前に編纂された資料。非常に重要な情報が記されていました。

 

以下、引用させていただきます。

 

〇嘉瀬
『村史に「本村は誰開発ナルヤ不詳 天文年間(1532~1555年)開発の由云伝フ」とある。
古老の言によれば、一応の開墾もでき、村の体裁も整ったので、時の18軒で嘉瀬八町(村の長さ)を平等割にして(間口は30間、奥行きは丸潟まで)、各自の持地にしたという。

そのうち今も明らかなものは次の12軒である。

新茶屋(江部)、太治右衛門(豊岡)、平左衛門(坂井)、小八(豊岡)、助右衛門(小出)、伝二右衛門(町田)、利右衛門(小林)、孫右衛門(江部)、牧野様、専念寺(田村)、安兵衛(石附)、弥右衛門(渡辺)』
※表記は「屋号(姓)」

このうち、屋号が助右衛門である小出家が祖先の家かと思われます。職業は農。備考欄には「嘉瀬小出一族の本家で、昔のままの屋敷を有している家は、18軒中こことお寺だけである。」

小出家に口伝で伝わっている「家の回りは堀で囲まれ、殿様が泊まられる立派な家だった」というのは、どうやらガチのような感じです。

 

そして小出家とともに加賀より入ったと伝わっている専念寺の備考欄には、「慶長元(1596)年この地に入り、今日に及ぶ。」とのこと。
言い伝えのとおりならば、おそらくは専念寺と同時期に小出家も嘉瀬に移住したのかと思われます。それから420年経過しているのですね。

専念寺について「両川村のあゆみ」には、
『嘉瀬村字中村にあり。真宗大谷派、山号は「祇見」。永禄2(1559)年、浄了は柏崎市一宇(一棟の家・建物)を創立したが、のち加茂(南蒲原郡の加茂?現:加茂市)・保田(刈羽郡安田村?現:柏崎市安田)へ移り、慶長年間さらにこの地に移った。浄了は本山八世蓮如の弟子、善西の孫と云う。維新前は柏崎開光寺の末寺であったが、のち本山に直属した。
同寺経蔵の由来については、大江山村大字大淵(現在の江南区大淵)東陽寺(禅宗)本堂の天井板の上に、何のいわれか釈迦如来が安置されてあった。ある夜、同寺の法丈に「われは嘉瀬の専念寺の経蔵へ行きたいから、そこへ送るべし」と夢知らせがあった。当時嘉瀬の専念寺においては、八代住職成栄師(水原無為信寺、香樹院沙龍(徳龍?)講師の義兄)が宗学に志し、一切経を各地より寄附願をなし、たまたま経蔵建立中であったが、ある夜不思議にも「貴僧は誠に奇特の想いなり。われを経蔵に安置すべし。われ明朝大淵より来るべし」と釈迦如来のお告げあり。即ち明朝使いをやり、大淵から如来をお迎えにいったが、その途中偶然にも大淵より釈迦如来のご尊像を供奉する者に出逢い、いろいろ話し合ったところ、大淵の寺でも昨夜かくかくの夢知らせあり、今朝奉移するところであるということがわかった。なお証牘(しょうとく?)として一通の書類があるから次に掲げる。

 一、釈迦如来 御木像
 右者不思議之随因縁、今般貴寺ニ奉移尊座候
 尚永世御信仰可給候以上
         大淵邑東陽寺
 文化二乙丑年五月十日  東  旭 印
 (※文化2年=1805年)

 嘉瀬村 専念寺殿

なお専念寺では、毎朝香華供物を供え、恭しくお祀りをしているが、その供物は「オコリ(マラリアの別名)」の妙薬なりとて戴きに参る人々もあるということである。』

ちなみに余談ですが、専念寺のある中村という地は、もともと中谷内村だったのが、明治10(1877)年に嘉瀬村へ合併した地だそうです。

また、庄屋の系譜という項もあり、そこには
嘉瀬村
 元禄15(1702)年 庄左衛門(小出氏)
 宝暦13(1763)年 助右衛門(小出氏)
 安永3(1774)年 〃
 天明8(1778)年 庄左衛門(小出氏)
 明治14(1881)年 戸長 小出為吉

・・・と、小出家が庄屋や戸長の立場にあったという記録も遺されていました。

さらに明治22(1889)年の町村制発布により、行政機関としての中蒲原郡嘉瀬村が発足。
その初代助役兼収入役、のちに二代目村長を、かつて戸長もしていた小出為吉という人物が務めていたようです。おそらくは小出総本家の人でしょう。

そして明治34(1901)年11月1日、嘉瀬村は割野村、酒屋村、和舞村と合併して両川村となり、両川村大字嘉瀬となります。

しかし、その合併が一筋縄ではいかなかったという当時のことが「両川村のあゆみ」にこう邂逅されていました。
明治34年の四ヶ村の合併はなかなか大変であった。即ち割野と嘉瀬が猛烈に反対し、民衆は蓑笠姿で莚旗(むしろばた)を押立て、途中警官の阻止に備えて、水陸両方面から県庁へ陳情に押し掛けた。陸の一隊が山二つの橋のところで警官隊に阻まれて激昂し、小競り合いを演じたなどは有名な話である。反対の理由は、
 一、割野、嘉瀬は概して経済状態がよいので、合併となれば負担は過重となる
 二、合併後も人口が五千に満たないので、村会議員の定数が12人となり、これを選挙によれば割野、嘉瀬が5名で酒屋、和舞に7名とられるという予想がはっきり出てくる
 三、酒屋、和舞に優れた人物が揃っているので、重い公課を負担した上に、下通りの人達に牛耳られるのが忍びない
・・・というのである。
揉みに揉んだ結果、次のごとき事項を申し合わせ、監督官庁も又これを諒としたので、明治34年10月6日合併の実現を見るに至った。このような経緯で本村(両川村)の合併は他町村より遅れているし、村会議員選挙の如きも他町村では大体1月20日であったが、本村は3月18日となっている。

申し合わせ事項の内容
 一、村長と名誉職助役は割野もしくは嘉瀬から出し、有給助役と収入役は酒屋、和舞の方から選出すること
 二、村会議員の定数を18名とし、割野、嘉瀬から9名、酒屋、和舞から9名を選出すること
 三、学区は従前通り割野、嘉瀬、酒屋、和舞の4学区とし、共通にしないこと

明治34(1901)年11月1日、村役場を酒屋494番地に置き(借館)、村長職務管掌として中蒲原郡書記・田中久作氏を迎えたが、波乱万丈の村情勢を収拾することが出来ないため、同年暮れに職を解かれた。後任に同郡書記・田中廉平氏が就任して卓抜した手腕を振ったとのことである。
さて合併になっても、物情騒然としてとにかく落ちつかないので、村長を引き受ける者がない。村長詮考の協議会は幾度も続行せられ、ついに白羽の矢は割野の田中荘三郎氏に立てられた。氏は衆望もだしがたく一ヶ月一回くらい(後には三ヶ月に一回くらいになった)の出勤を条件として、明治35(1902)年4月、初代村長に就任した(←いまいち理解ができませんが、仕方なく引き受けたということでしょうか?)
当時割野は
 一、二本木及び木津と合併するか
 二、早通につくか
 三、嘉瀬、酒屋、和舞と合併するか
・・・の三案があったので比較的安易の立場にあったが、嘉瀬の場合は酒屋、和舞と合併する以外に方法がなく、合併すれば村が小さいので酒屋と太刀打ちができないので、是が非でも割野を引き入れて酒屋、和舞に当たりたいところであった。そこで嘉瀬の坂井小三郎(嘉瀬村の初代村長)氏が、親戚にあたる割野の有力者・斎藤峰三郎氏にはたらきかけ、とうとう割野を抱きこんだといわれている。』

紆余曲折あって両川村がやっと発足し、学校問題の勃発や水害の復興などを経て軌道に乗り始めたところで、第5代村長として小出四郎太氏が大正8(1919)年1月に就任。大正12(1923)年1月までの4年間務めた。

f:id:dotouttan:20180110215122j:plain


小出四郎太は、前述した小出為吉(明治初期の嘉瀬村戸長)の養子とのこと。
「各部落の提携も固く、治績大いに挙がった」と記されており、さらには昭和2(1927)年4月~昭和11(1936)年7月にも再び村長を務めていたようで、村民の信頼がうかがえます。

 

ここまで室町時代の小出助右衛門、江戸中期の小出庄左衛門、江戸中期の小出助右衛門、明治期の小出為吉、大正~昭和初期の小出四郎太。

 

小出姓の人物が5名登場しましたが、私の祖先であるひいひいばあちゃんの小出ノヤ(1875~1964)、その父である小出石五郎(1847~1919)、さらにその父、小出傳平の名前へと繋げることは叶いませんでした。

 

しかしながら、ほぼ確実にこの小出家と私の祖先はどこかで繋がるはずですので、またのんびりと探求を進めていきたいと思います。気分次第ですが~(;・∀・)

 

・・・ん?そういえば加賀の地名が出てこないぞ?ほとんど柏崎付近の地名だなぁ・・・(;・∀・)

久しぶりの発見

きょう、行政書士で家系図作製のプロフェッショナルである丸山学先生の著書、ご先祖様、ただいま捜索中!」を書店員である妻に注文してあったのを買ってきてもらい、読んでおりました。

 

そしたらば、読んでいる途中なのにもうなんか熱意が湧いてきちゃいまして、ネットで何かやみくもに調べないと!という気になりました(#^^#)

 

何を調べようかと考え、パッと思いついたのが、母方祖母の祖父(私のひいひいじいちゃん)の家である新潟県江南区嘉瀬の小出家について。

 

ばあちゃんが逝ってしまってから、しばらく手を付けていなかった家です。

 

判明している最古の祖先は小出傳平。傳平は嘉瀬村の専念寺に眠っておりますが、その長男である小出石五郎(1847~1919)は、中蒲原郡上高井村(明治22年に根岸村となり、現在は新潟市南区高井興野)に移住後、造り酒屋を営んでおりましたがコレラ一家壊滅。遺された次女であるひいひいばあちゃんのノセ(1875~1964)を上高井に残し、なぜか現在の福島県いわき市平豊間で没しています。

そのノセ(本人曰く、ほんとは「ノヤ」だったらしい)の夫が、小出へのお婿さんとなる鹿嶋福松(1871~1937)。

f:id:dotouttan:20180109231243j:plain

 

ばあちゃんが健在の時分、新潟で校長をやっていたらしいと聞いていました。

 

さっそくいつもお世話になっている国立国会図書館デジタルコレクションにて、当時の嘉瀬村が属していた中蒲原郡を検索。

 

おぉ、「中蒲原郡誌 上編」という本を発見!

あら?嘉瀬村が載ってない。下編に載ってるのかな?ということで、まずは上高井村が明治の大合併で属していた根岸村の項があったので紐解いてみました。

そしたらば、

・・・おっ!!

f:id:dotouttan:20180109231837j:plain小出福松の名前めっけたぁぁぁ!!!

 

高井尋常小学校(現在は松橋小学校と合併して新潟市立根岸小学校)の校長および学務委員を務めていたという記述!月俸16円。

ひいひいじいちゃんは明治4年生まれなので、39歳で校長に就任していますね。今の私と同い年です(;・∀・)ガビ~ン

このくらいの年齢で校長というのは、今だったら考えられないですが・・・当時はどうだったのでしょう?

 

・・・ということで、(勝手に)丸山先生に触発され、ひとつ事実を知ることができました。

 

嘉瀬村についてはまた今度にして、今宵は満足して眠りにつきますzzz

菊地と菊池の混同(+_+)

菊地家および菊池家について引き続きぼんやり考え中~

 

我が家は菊地姓ですが、6代前の祖先・菊地儀右衛門(1810~1890)の実家は菊池姓。

菊地家の最古の戸籍がある現在の福島県矢祭町東舘ですが、電話帳によると44:1という圧倒的な割合で菊池姓が多いのです。

 

そして悪いことに、今まで集まった資料にも混同が見られます。

▼戸籍謄本(たびたび登場)は菊地

f:id:dotouttan:20171228225930j:plain

 

▼旧土地台帳は菊池

f:id:dotouttan:20180105070157j:plain

 

菩提寺である東慶寺過去帳菊池

f:id:dotouttan:20180105070526j:plain

しかも、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の名前の記載について、不審なことに最初は鈴木と書かれたのが消されて菊池となっており、しかも名が「孝吉」となっています。

以前書いたとおり、幸吉の祖父・儀右衛門の実名は孝昭と推測しておりますので、もともとは孝吉だったのかも?という疑惑も湧きます。

また、喪主?の欄にも不思議な点が。明治30年の儀平のときは幸吉の兄である初太郎なのに、9年後のハツのときは次男である幸吉となっている点。

戸籍上は幸吉(大正2年転籍)のあとに屈斜路へ転籍している初太郎(大正6年転籍)ですが、もしかするとこの9年の間に東舘を離れたのかも…?

土地台帳によると、儀平が世を去った翌年に土地を手放していますし(@_@)

 

・・・話が脱線してしまいました( ;∀;) 

 

そして、

▼儀右衛門の兄(と思われる)菊池友輔の墓石

f:id:dotouttan:20180105071210j:plain

 

▼友輔と儀右衛門の母(友元の妻)のものと思われる、嘉永年間建立のお墓に刻まれた文字は菊地

f:id:dotouttan:20180105071347j:plain

 

・・・というわけで、もうわたしなにがどうなっているのかわからないわ!

 

嘉永年間のお墓と、戸籍だけが菊地で、そのほかは菊池なのです。

 

ついでですが、屈斜路に転籍したあともこんな現象が。

▼1ページ目は普通に菊地

f:id:dotouttan:20180105072246j:plain

▼3ページ目右と4ページ目左の父名が菊池幸太郎

f:id:dotouttan:20180105072346j:plain

f:id:dotouttan:20180105072437j:plain

 

これは見開きのページになります。ただの間違いでしょうね。。。

こういったことも、混乱に拍車をかけてくれちゃっております。

 

事情があって時代時代で変えていたのか、間違いなのか。一体どうだったんだろう???

今年も(きっと)モヤモヤしっぱなし?

みなさま、あけましておめでとうございます。

元旦、近所の鳥取神社へ初詣へ行った際、娘に菊地家の運命を懸けておみくじを引いてもらったらば、見事に大吉でございました。

f:id:dotouttan:20180103080037j:plain

今年も穏やかにすごしたいですね。

 

お休み中、去年はいろいろ家系の探求に動きがあったものの、ぼんやりと我が菊地家の謎についてはまるで進捗がないことに気づいてしまいました。

 

そこで、ここに断片的な情報を記してみて、まとまるかどうかを実験してみます。

 

〇入手できる最古の戸籍は、現在の福島県東白川郡矢祭町(当時は豊里村東舘)、高祖父の父・菊地儀平(1844~97)が戸主のもの

f:id:dotouttan:20171228225930j:plain

〇儀平は上関河内村近藤家からの婿養子(近藤勝右衛門家も未だ不明)。

〇儀平の養父・儀右衛門も関岡村・菊池家からの養子。

〇儀右衛門の実父は菊池友輔と記されているが、異なるような気がしている。

 

そして以前も書かせていただいた記憶がありますが、2008年に菊池友輔の子孫とお会いすることができました。

その子孫とは、矢祭町関岡、大正13(1924)年生まれの菊池玄さん。棚倉小学校の校長など、教育に生きてきた方です。

玄さんにはそのときいろいろな資料をいただきました。

f:id:dotouttan:20180103081135j:plain

▲菊池友輔の絵。裏には「神医の如し」と書かれていました。

f:id:dotouttan:20180103081422j:plain

▲菊池友輔の父・友元(菊池道恒)についての記事。

友元の記事については、以下のように記されています。

<先賢をたずねて>
菊池友元の医術済生

 菊池友元先生は、天明元(1781)年に陸奥国白川郡関岡村字飯野102番地菊池家に生まれました。家業は農業であったが済世の志をたて、和漢の学をおさめ、特に不屈の研究によって漢法医学に通じました。後に生家の隣り飯野80番地に医師として開業、郷土の医術済生の基礎を築きました。
 安政2(1855)年、病のため75才の生涯をとじたのでありますが、先生の医術は一代で終わることなく、長男・友輔(ゆうほ)先生に引きつがれ、徳川末期から明治にかけて、はなばなしい開花結実を見ました。
 明治中期には令孫・政恒、政恒の弟・一得など、東都済生学舎に学び西洋医術を導入してきました。内科・外科・産科・耳鼻咽喉科等、可ならざるは無く乾唱堂医院の隆昌を見ました。曾孫・仁一先生また地方きっての外科名医としてうたわれましたが、昭和に至って病没。一世紀有半にわたる医術済生を閉じました。しかしながら一門多数の門弟、またその流れをくむ開業医・助産婦等各地にあって宗家の徳を今なおたたえています。
 関岡字飯野145番地の旧墓地に菊池友元先生の墓碑があります。その碑文を書きくだしてみましょう。

■ 友元菊池先生墓の碑文

 「先生菊池氏の諱(いみな=実名)は道恒、字(あざな=呼び名)は三寿、友元と称す。陸奥白川郡関岡村の人なり。其の先は蓋(けだし=おおかた)肥後の菊池氏の族ならんと云う。
 十世祖某、始めて関岡に来たり、世農を業とす。関岡六氏の一祖なり。友元の君、済世の志あり。因って黄岐の術(こうぎのじゅつ=黄帝を祖とする神仙術を黄といえ、それからわかれた漢法医術)を治む。
 考(こう=亡父)は知仙の君、母は鈴木氏なり。知仙の君早く没し。先生王父(おうふ=祖父)の後を承襲(うけつ)ぎ、友元と称し其業を継げり。人と為り剛毅物に屈せず。而して技術に恵志たり。是を以て門を踵(たず)ね、治を請う者日に益す多し。
 初め先生の家甚だ貧なりしも後に頗る饒富(じょうふ=財産がゆたかになる)たり。而して自ら菲薄(ひはく=貧しいもの)に奉(ほう=衣食の一切を自分でととのえる)じ、能く小民の自在なること能わざるものを済(さい=すくう)す。人も亦馬に頼りて倚る。
 安政2年3月13日疾に没す。享年七十有五なり。葬るに宅を距る百歩の先とす。塋(えい=美しい)の側(そく=妻)は高沢氏より娶り、二男二女を生む。女の一(ひとり)は菊池某に適(とつぎ)、一(ひとり)は湯岐(ゆじまた)村大森某に適(とつ)ぐ。長男孝恒は友輔と称し箕裘(ききゅう=家督)を継ぎ、次男孝昭は出でて本宗(ほんそう=一族中の本家)の嗣(し=跡継ぎ)となる」。

 この碑文の選者は不詳ですが、男孝恒立石とありますので、或は友輔先生の選文かとも思われます。
 墓碑のかたわらに薬師様の御堂があって、薬師如来が安置されています。年代も古く立派な尊像と見受けました。おそらく乾唱堂隆昌のころこの御堂は、医院の境内にあって衆生の除病や安産の祈願がこめられた昔を語る史跡でありましょう。

昭和43(1968)年8月25日発刊の「広報やまつり」より

 

・・・この文章を鵜呑みにすると、友輔は菊池孝恒という名。父・友元の本名である菊池道恒から「恒」の文字を引き継いでいます。そして友輔の弟・菊池孝昭(兄と「孝」の字が同じ)は、総本家を継いだことになっております。

なお、玄さんが持っていた政恒の戸籍謄本▼には、政恒の父欄に「菊池友甫」と書かれています。墓石には友輔なので、どちらが正式なのかしら?

f:id:dotouttan:20180103083929j:plain

 

以前、推察させていただいた際はこの孝昭が私の祖先である儀右衛門だという結論に達しました。

しかしながら、友輔(友甫とも)の墓石には、「明治18年12月13日 享年74歳」と書かれており、明治18年は1885年。それから73を引くと、生まれ年は1812(文化9)年。弟・儀右衛門が1810(文化7)年生まれですから、兄弟の年齢が逆転してしまう・・・。

そんなわけで、確信まで至らずになんとなく迷宮入りしていたのです。

ちなみにご教示くださった玄さんは、友元(道恒)→友輔(孝恒)→政恒(1843~1897)→仁一(1868~?)→友輔(?~?)→玄と繋がる系統です。

そんな折、玄さんが2016年5月に逝ってしまい、もはや矢祭に頼れる人がいなくなってしまいました・・・。結局、血族なのかはわからないままでした。

 

最近、2008年に矢祭で撮影してきた写真を眺めていると、友輔の墓石にちょっとした発見をしました。

f:id:dotouttan:20180103082619j:plain

日付が没日だと思い込んでいたのですが、日付の後に「立」という字。

これは、もしかすると友輔の没日ではなく、お墓を立てた日?

もしも没日がこれよりも2年以上前ならば、友輔孝恒と儀右衛門孝昭の生年月日逆転が解消できるかも!という希望がでてきました。

 

しかし、没日はわからないままですから、これ以上はなんとも・・・

 

ちなみにその逆側には

f:id:dotouttan:20180103082915j:plain

「軍医総監 松本順 書」と刻まれています。

菊池友輔が軍医であったことを示すものかと思いますが、どういった人がこのような文字を彫られていたのか。これもまた謎のままです。

 

菊池道恒の二人の息子が、玄さんの祖先と私の祖先だと仮定し、これからも調査をすすめていこうと思います。

でも現地に行かないと何も進まない・・・(;・∀・)

友輔さんがもう少し長生きしててくれれば、明治19年式の戸籍に記されていて、こんなにも悩まなかったのに~(ノωノ)

とか、どうしようもないことを思ってみたり。

 

そんなわけで、今年も拙ブログをよろしくお願いいたします<(_ _)>