真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

新たなトライ

妻の母方である森井家

昭和10年代に釧路市に来る前は、現在の八雲町東野や野田生あたりに住んでおりました。

そして八雲に残っていた最古の戸籍によると、明治26(1893)年に石川県江沼郡那谷村菩提から転籍ということで、現在の小松市菩提町で生活していたようです。

 

しかしながら、小松市の戸籍謄本は既に廃棄済み・・・。もうひとまずここまでか~というところで、神戸に住む妻の母のイトコさんがずっと森井家の祖先調査をしていたことが判明。

いろいろとご教示いただき、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の母・スエさん(生年不明~1876)が、坂下という家から森井半四郎(生年不明~1868)のお嫁さんに来たということを聞いておりました。

 

まだまだ聞いておきたいことはいっぱいあったのですが、そのイトコさんはおととし急に亡くなってしまい、それも叶わなくなってしまいました。

 

そしてこないだ突然思い立ち、森井家、そして坂下家についての情報を求め、小松市菩提町の坂下さんにお手紙作戦を実行。

 

すると、なんとステキなことか!本家の方からお電話をいただくことができました(*´▽`*)

 

坂下さんは森井家については存じ上げないご様子。というのも、半左エ門の兄貴である半四郎(生年不明~1922)さんは、大正15(1926)年に山中温泉へ移住してしまっているのです。

菩提には森井の人間は誰もおりませんので無理もありません。

ただ、子どもの時分に菩提の墓地で親御さんから「ここも親戚だから」と言われ、参っていたお墓があったそうです。

それはどのお宅のお墓かはわかりませんが、森井のお墓もまだ菩提に残っているので、もしかすると・・・という気はします。

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 ▲平成6(1994)年に義母のイトコである森井幹男さんが来訪した際に撮影された写真。森井家のお墓は、菩提の墓地では一番大きなお墓だそうです。

 

坂下さんのお宅で判明している一番古いお名前は文久2(1862)年生まれの坂下亀松さんで、奥さんはリセさんとおっしゃるそうです。

 

もともとは福井県吉崎御坊(現在のあわら市吉崎)に住んでいたそうですが、おそらくは江戸後期に木こりか何かの仕事で菩提に移り住んだと伝わっておりました。

 

名字である坂下も、菩提に来てから坂の下に住んでいたので坂下となったのでは・・・と、はっきりとはわかりませんが、そういうことになっているようです。

そして家紋である桔梗紋も、いつから使用しているかは不明とのこと。

 

貴重な情報をいただけてたいへん嬉しくも、恐縮する時間でした。

あぁ、よかった(#^.^#)

 

・・・と、そこで吉崎御坊について調べてみると、森井家とも共通項がやはり見えてきたのです。

 

森井家の菩提寺は義母のイトコさんによると浄土真宗本願寺派の牛鼻山但馬興宗寺。

坂下家が居たという吉崎御坊は、興宗寺と密接なつながりがあったのです。

 

以下、wikipediaから要約。

 

・開基は越前長畝郷田島(現在の坂井市坂井町田島)あたりにて、行如(円善の弟子)による。

・行如と同じく円善の弟子であった如道が大町道場(後の大町専修寺)を開いたのが1290年であることから、開基は同時期と考えられる。

・1311年に大町道場へ本願寺覚如20日余り滞在し、如道とともに行如も勧化を受け、本願寺系の僧となった。その際に興宗寺の寺号を覚如より賜ったものと思われる。

・田島の地にあったが、なぜか「タジマ」が「但馬」と変化。但馬興宗寺となっている。※追記:もしかすると(後に登場する)朝倉氏がもともと但馬(現在の兵庫県養父市八鹿朝倉)の出だったというのが関係あるかもしれません。

・行如は北条時政の孫である時村であったという。そのため興宗寺の住職は北條姓を名乗る。

・興宗寺第5代円慶のころ、蓮如が吉崎に下向。興宗寺に滞在し、文明3(1471)年に吉崎に一宇を建立(吉崎御坊)。建立にあたり、朝倉氏に許容され、御山の土地と材木の寄付を受けたとされている。

吉崎御坊建立後、円慶は48もの多屋(寺)を並べた。その功が認められ、蓮如から「牛鼻山」の山号を拝領。牛鼻山とは、吉崎付近にあった牛山村に多屋を建てたためとも、円慶が隠居した月津(現在の石川県小松市月津)の牛ヶ鼻に掛所(休泊所)があったためとも。

・北ノ庄城主であった堀秀政が北庄柳町の寺地を寄進したことから、天正15(1587)年に興宗寺を含めた越前の大寺院が集められた。柳町御坊と呼ばれる。

・1600年代後半、城下の2度に渡る大火を機に、興宗寺は城下の北端1,500坪の土地へと移転。

・戦災と昭和23(1948)年の福井地震のため、興宗寺の建物は壊滅。復興や区画整理のため、現在の福井市松本3丁目に移転し現在に至る。

 

・・・というのが福井興宗寺の歴史を簡単にまとめたものです。

 

そして円慶が隠居した月津の掛所。

当初は太子堂と称されておりましたが、円慶の息子の一人が継ぎ、なんやかんやでこちらも興宗寺の寺号を授けられたのです。

当初は福井興宗寺も月津興宗寺も良好な関係を保っていたそうですが、本願寺が東西に分かれた際に福井興宗寺は西(本願寺派)、月津興宗寺は東(大谷派)となってしまったらしいです。

森井家の過去帳は月津興宗寺にあるそうなので、菩提寺は月津ということになるでしょうか。

推測ばかりですが、森井家も菩提村の前は越前吉崎の人だったり・・・?

でもどっちみち石川にも福井にも森井姓は少ない。。。

 

そして坂下家。

興宗寺との関係を勘繰るならば、この月津と7キロしか離れていない菩提村に移り住んだのは、必然だったのかもしれません。まったくの推測ですけれど。

 

あぁ、また何かディープな世界に足を踏み入れてしまったような気がする。

浄土真宗は歴史が複雑すぎる!

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また、いままで子どもたちに繋がる家が61系統判明!と書いておりましたが、坂下家を漏らしていたのに今気づきました。結果、62系統に(*^▽^*)

 

2018/5/29追記:妻の祖母の法名、釋のあとに「尼」の文字がありまして、この文字が入っている場合は真宗大谷派だそうです。またまたwikipediaより。

また、浄土真宗の場合は菩提寺ではなく「手次寺」というそうですね。知らないことばかりだ~(*´Д`)

 

あとまたまた推測ですが、但馬から越前に来た朝倉氏。

もしかすると出自は関西ではないかと目している森井家と、動きがシンクロしているのでは・・・とか考えたりしています。

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兵庫県豊岡市出石町森井と養父市八鹿町朝倉は約16キロ(約4里くらい)と近いですし・・・。

荷軽部のご先祖の姓について、またまた

う~む。もう10年以上経つのに、未だ進展をみない妻の父の父の母の父の母の父の母の実家の姓

このハルさんは、文化11(1814)年に現在の岩手県久慈市山形町荷軽部に生を受けます。
そして弘化2(1845)年、31歳の時に長男・亀吉が誕生しておりますので、おそらくはそれ以前に隣りの長興寺村に住む6歳年上の小野寺辰之助と婚姻していると思われます。
小野寺家の最古の戸籍によると、ハルさんは荷軽部村の??沢巳之松妹という身分だったようです。
その??沢が読めない!と、これまでしつこく呟いていたところでした。

そして前回、荷軽部に存在する○○沢という姓を羅列してみて、
いちばん多い姓である苅間沢で(納得した方がよいので)はないかと仮定。

ぜんぜんスッと落ちませんが、これで終わろうと、自分を納得させようとしています。

そんな折、ネットで荷軽部に関する資料を見つけました。

北三陸ヒストリア」というサイトです。

その中に、平成2(1990)年に建立された荷軽部地区の英霊碑的なものが紹介されております。
出征したのであろう75名の名前が彫られていまして、非常に興味深いものでしたので、考察してみることにしました。

荒野惣太郎
荒谷兼蔵
荒谷惣蔵
石渡清吉
大畑佐太郎
大畑冶一
大畑四郎
大畑文次郎
大畑末子松
大畑龍吉
大峯清造
大峯仁三郎
大谷地仁八
小笠原武夫
小笠原道夫
小笠原興三郎
落安佐太郎
落安末太郎
落安末松
落安清治
落安彦三郎
落安彦蔵
落安孫之一
落安興八郎
苅間沢信一
苅間沢末吉
苅間沢清造
苅間沢留吉
苅間沢寅蔵
苅間沢寅太郎
苅間沢酉蔵
苅間沢直治
苅間沢初五郎
苅間沢義雄
苅間沢喜三
木藤古一太郎
木藤古徳太郎
木藤古松蔵
小右エ門岩蔵
拙家兼蔵
拙家富治
田代末造
田代由太郎
泥崎申松
中川原権太郎
韮沢徳蔵
韮沢福蔵
韮沢八十吉
火石三次郎
火石末吉
火石大次郎
火石徳蔵
火石虎蔵
火石百太郎
火石政三
室沢政一
八木巻熊五郎
八木巻佐一
八木巻仁八
八木巻善作
八木巻宗作
谷地兼松
谷地定雄
谷地定
谷地三次郎
谷地政造
谷地長五郎
谷地留吉
谷地初太郎
谷地福次郎
谷地松太郎
谷地興吉
谷地興三郎 
横葉惣一郎
横葉虎松

・・・以上の75名の名が彫られています。

彫られている姓を集計すると、

谷地 12
苅間沢 11
落安 8
火石 7
大畑 6
八木巻 5
小笠原 3
木藤古 3
韮沢 3
荒谷 2
大峯 2
拙家 2
田代 2
横葉 2
荒野 1
石渡 1
大谷地 1
小右エ門1
泥崎 1
中川原 1
室沢 1

・・・と、なりました。

この中で、苅間沢、落安、火石、八木巻、木藤古(きとうご)、拙家、横葉、大谷地、小右エ門、泥崎といった姓は、荷軽部で局地的にみられる姓。
きっと、古くから居住している方々が、ずっとこの荷軽部という地を守っているんだということが強く感じられます。

話は戻って、ハルさんの兄は巳之松という名。干支が入っています。
もし、代々干支を名前に入れる家だとすると、上記のリストから拾うと・・・、

・大畑末子松(大畑未子松(みねまつ)?)
・苅間沢寅蔵
・苅間沢寅太郎
・苅間沢酉蔵
・泥崎申松
・火石虎蔵
・横葉虎松

・・・という7名が当てはまり、一番多い姓は苅間沢。

前回も苅間沢という姓で納得しようとしていたのですが、これでまた苅間沢説が有力となりました。というか、早く完全に納得したい。
しかし、字面的に「火石」という姓も怪しい気がしてきました。たとえば「火石沢」とか・・・。ネットによると火石沢は同じ岩手の遠野や紫波あたりに地名があるんですね。
あぁ、これじゃあまた妄想にふけることになってしまう。。。

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矢祭出身の有名人PARTⅡ

私の祖先の地である福島県東白川郡矢祭町。

何度もしつこいようですが、菊地家の祖先は大正2(1913)年に当時の豊里村東舘舘本より北海道川上郡屈斜路村へ入植してきました。

 

その矢祭ですが、かつて同郷?の有名人として「あばれる君」がいるということを書かせていただきました。

あばれる君はいまも安定して活躍中なので、安心です(#^.^#)

 

そして、最近もうひとり有名人がいるということを知りました。

 

その方はミュージシャンの「菊池常利」氏。

 

Wikipediaなどのメディアによると、横浜生まれであるものの、育ちは矢祭町。

5歳から平成元(1989)年に隣町の棚倉高校を卒業するまでは矢祭で過ごされていたようです。

 

年齢は公表されていないものの、逆算すると昭和45(1970)年度生まれなのかと想像します。

 

そして高校卒業後、横浜で吉川正己氏とともにフォークデュオグループ「LA-LA Deux」を結成。

平成13(2001)年に吉川氏がジャニーズ事務所のプロデューサーになったのを機に解散して、常利氏はシンガーソングライター「TWUNE」として活動を開始したそうです。

 

吉川氏との繋がりの関係か、嵐のデビュー曲「A・RA・SHI」の作詞もしているそうですが、クレジットが「J&T」なので、名前は出てないのですね(Johnny's & TWUNEのJ&Tらしい)。

 

常利氏は現在東京在住。東京を拠点として活動されておられますが、年に数回は矢祭でライブを開催されているようです。

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勝手(!)に氏のFacebookより転載させていただいてしまいましたが、しっかり冒頭に「関岡字天神沢出身」と記述されています。

 

この関岡は、菊地家のさらに祖先である菊池家のルーツの地。

我が家は天神沢にも親戚がありますので、数百年さかのぼれば常利氏と同じ祖先にあたったりするのかもしれません。ロマンですなぁ。

 

また、常利氏の実家は現在も関岡に健在のようで、たびたびFacebookに実家やお母さまの様子が出てきたりしています。

 

常利氏はブログも開設しており、たびたび登場する矢祭Loveがひしひしと伝わってきます(*´▽`*) いいなぁ。

 

そして私と同じ横浜ベイスターズファンなのでございます(余計)。

 

そして常利氏は3人の子宝に恵まれておりますが、長男はSexyZoneの菊池風磨くん。

私の妻が一押しのジャニーズメンバー。なんとウチの息子と名前が似ているからです。

 

仮に常利氏とルーツが繋がっていたとすると、風磨くんとも繋がっていることになります。

あぁ、やっぱりロマンですなぁ。

帰省がてらの家系探求

5月3日から6日まで、久しぶりに函館へ帰省。

最近は妻の社会復帰や娘の部活でなかなか遠出が出来ず、函館への帰省も丸1年ぶりとなりました。

 

3日は妻の仕事が終わってからだったので、14時半ころに釧路を出発。

十勝平原と樽前での2回のトイレ休憩をはさみ、出発時間が遅かったので渋滞にもはまらず、約6時間で実家からほど近い七飯町峠下のラッキーピエロ本店へ到着。

そしたらば、店からはみだすほどに飢えた人々の列が!

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なんということでしょう。せっかくスピーディーに七飯まで着いたのに、テイクアウトできるまでそれから1時間20分ほど待つことになりました。

その後はガソリン補給をしつつ実家に向かったので、結局22時に到着。さすがに腹ペコでございました。

 

翌日、桜が散りかけているのにもかかわらず大混雑の五稜郭へ。

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駐車場から私だけ別行動です。

事前の調査で、五稜郭の隣りにある函館市立図書館に渡島国第六大区二小区茅部郡落部村戸籍簿(1875年、66丁)」というストレートな題名の蔵書があるのを知り、チャンスを狙っていたのです。

落部村は、妻の母方祖父が生まれ育った地。さっそく閲覧の申し込みをし、ドキドキしながら約20分ほど別室で待機。

すると、ついに司書さんの手に神々しい戸籍簿原本が!

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10年以上も家系探求をしておりますが、これほど旧い書物に触れるのは恥ずかしながら初めての経験です。

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さすが日本が誇る和紙。明治8(1875)年の冊子ですから140年以上経つのに、しっかりとした手触り。少しも脆さを感じさせません。

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そんなことに感動しながら、一枚一枚、ゆっくりと自分をじらすようにめくっていきます。

探している祖先の名である相木高谷森井といった姓がなかなか出てきません。

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そのまま最後のページをめくり終わってしまいました・・・。

 

ブフォォォォ・・・・。

しばし、外の桜をみながらノーミソを休ませます。

なぜ載っていないのでしょうか?

詳細は理解できておりませんが、標題が「落部村戸籍簿」。私はてっきり村の全員が載っているものだと思いこんでおりました。

しかし、ページ数は66丁。

1丁は1枚の紙を半分に折ったもの(A3の用紙を半分にして綴じるとA4の裏表ができるような感じ)。

ひとつの家について記載するのに、最低1丁、人数が多ければ2丁が必要。

66丁ですと、多く見積もっても60くらいの家についてしか記されてないことになります。

明治8(1875)年当時、落部村にどれくらいの戸数があったかはわかりませんが、八雲町史に記載がある一番近い年である明治12(1879)年については、
 戸数~146
 人口~797
・・・とありますね。

ちなみにこの時点では、落部村のほうが八雲村よりも人口が多かったようですが、明治20年代前半にぶっちぎられています。

それをふまえて戸籍簿を撮影したものを改めてみてみると、1番屋敷~52番屋敷しか記載がありません。

ぜんぜん足りませんな(*_*;

おそらくこれは、何冊か綴りがあったうちの一冊なのでしょう。

もろくも野望は潰えたり・・・。

 

しかし、当時の物質に触れることが出来たのは貴重な体験ではありました。せめてもの思い出です。

 

そんな失意の中でもちゃんと桜は見てきましたよ。五稜郭タワーに登る行列がハンパなかったので、お堀の周りを散歩しただけですが。早く咲いた枝は、もう葉桜になっておりました。

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その日と翌日は実家とともに行動し、激混みの函館と七飯を周遊。あっという間に釧路へ帰る日となってしまいました。

 

その道すがら、もう一つ目的が。

妻の母方祖父が生まれ育った落部の村社である落部八幡宮の参拝、

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と、御朱印をいただくこと。

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由緒書きを読むと、妻の祖父が育ったころとは場所も社殿も変わってしまったようですが、やはり感慨深いものです。

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そしてもう一つ。

9年前に探したものの見つけられなかった、相木家と高谷家のお墓を捜索!

既に妻の祖父が、落部にあった森井家の墓は仕舞っており、釧路に移しています。

残るはその上の世代である相木家と高谷家なのですが、かつて「落部墓地」という場所を捜索したものの、見つけられなかった過去があります。

今回は、八雲町のホームページで見つけた「野田生墓地」を捜索します。

ちょっとややこしい話になりますが、妻の祖父が育ったのは茅部郡落部村野田追(のだおい)という地。

森井家も相木家も高谷家も、すべて本籍はこの野田追でした。

この野田追という地は、野田追川から見て東側に存在。

 

そしてもうひとつ。

明治45(1912)年の旧土地台帳には、妻の曽祖父である森井半次郎の住所として「山越郡山越内村字ガンビ岱52番地」と記されております。

このガンビ岱という地名は道内各地にあり、ガンビとは白樺の木のこと。おそらくは白樺が多く自生していた地なのでしょう。

その山越内のガンビ岱は、昭和31(1956)年にもともと存在した地名である野田生(のだおい)の一部となります。

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この山越内村野田生は、落部村野田追と野田追川を境にして西に存在しています。

 

 野  野  野
 田  田  田
 生  追  追
    川

 

・・・なぜか上記のような状況に。

自治体が異なるのでこういったことになってしまったのかもしれませんが、落部村も八雲村に合併され、八雲村野田追と八雲村野田生が隣り合うという、まさに混沌とした状態になってしまったのです。

あまりにもややこしいので、いつの日にか先に命名されたはずの野田追のほうが東野と地名を改称されてしまいました。

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詳しくはどこ探しても書いてないので、なぜこんな事態になったのかは不詳でございます。

 

話は戻って野田生墓地ですが、雨の降る中駆け回った結果、まったく収穫なし!

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いったいお墓は何処へ・・・?

相木家は釧路、高谷家は函館に多く移っているようなので、森井家と同じく墓仕舞いをして、他所にお墓があるのかもしれません。

さぁ、また暗礁に乗り上げたぞ!

きょう

現在3台のクルマがある我が家。

1台はステップワゴン。壊れたヴォクシーからおととしレンタカー3年落ちの個体へと乗り換えました。

実家の家族全員で乗れることが大前提なので、8人乗りは必須です。

 

2台目は軽四のステラ。主に妻の通勤や子どもの送迎に必須です。

 

3台目は昨年購入した5速マニュアル+4WDの軽四ラピュタSターボ。

これは完全に趣味のクルマ。

他に趣味が無いぼくにとって、このクルマは大事なおもちゃ。

 

3台もクルマが家にあるので、まるでお金持ちのようです。

 

そんな折、町内会の雑務のひとつである新年度班長さんへのおねがい行脚をしていたきのう。

おとといに会合の中で新年度の班長さんについて諮り、すぐ来週の総会に向けて議長さんへ総会資料を渡さなくてはならないことから、その結果を以て新年度の班長さんへのおねがいへあがるのはきのうが唯一のチャンスでした。

本来であれば、ことし小学校に上がった息子の入学祝のお祝い返しをすべく遠方へ行こうとしていたのですが、それを犠牲にして町内会の雑務をしなくてはならなくなりました。

 

きのうの朝は雪から雨に変わって激悪な天候。

新しい班長さんへは5個パックのティッシュを渡すことにしているので、ステップワゴンで9班分のティッシュを買い込み、一家でおねがい行脚を開始しました。

 

いらっしゃらないお宅もあってなかなかスムーズに進まない中、班長は忙しいからムリだと罵声を浴びせられたお宅もありました。

タイミングが悪かったということもあるのでしょうが、会長とも話し合った結果、ことしはそのお宅を飛ばすこととしました。

何度か行き来して、やっと残り1軒というところでお昼になり、お昼ご飯を買った帰り、先ほど罵声を浴びせられたお宅へお詫びのお手紙を出そうと思い、その文面を考えながら、残り1軒に一応寄ってみるといらっしゃいまして、なんとかひととおりおねがい行脚を終えることができました。

頭の中ではまだ謝罪文の文面をかんがえながら、最後のお宅から家に帰ろうと道路にでようとしたときです。

死角のうえに雪で隠されたブロック塀で造られた花壇に、ステップワゴンをフロントからつっこませてしまい、バンパーは破壊され、ラジエーター、エアコンもひしゃげてしまいました。

 

自宅はすぐそこだったので、そのまま帰ってステップワゴンをみると、たいへんな惨状。

みぞれが降る中、我を忘れて号泣しながらバンパーを嵌めようとしているぼくがいました。

 

10分後くらいに妻になだめられて自宅へもどり、あんぱんを食べてすぐ町内会の会計担当のお宅へ向かい、町内会で加入している保険について聞いてみようと思いましたが、あいにく不在とのこと。

奥様が会長ならなにかわかるかもということで、びしょ濡れになりながら会長宅へ向かいまして、一連のお話をしたところ、自動車に関しては保険の対象にならないんじゃないかという回答。

いちおう連合町内会に聞いていただけるということで、一縷の望みを以て本日を迎えました。

 

しかし、連合町内会に確認していただいたところ、やっぱり対象外とのこと。

なんで自動車は対象外なのか。

町内会の活動に自動車を使うなとは一言も言われたことはありません。

どんな状況でも歩いて行けということなのでしょう。

 

連合町内会の部屋で大暴れして多大なご迷惑をかけたうえ、なだめていただき、落ち着きを取り戻して職場にもどりました。

 

ひとまず保険屋さんに連絡し、保険を使用する手配をしました。

保険を使用すると、3等級下がるうえ、3年間は事故を起こした人用のペナルティ保険料となります。

計算してもらうと、だいたい3年間で9万5千円。プラス免責が5万円なので、合わせて14万5千円の損失となります。

 

なんでこんな目にあわなくてはならないのか。

俺がいったい何をしたというのだ。

町内会の役員じゃなかったらこんなことにならなかったのに。

班長さんをお願いして回るという仕事はものすごい気苦労。

それでなくてもいろいろ犠牲にして町内会活動しているのに。

大借金生活なので14万5千円なんて大金どこにもない。

我慢して我慢して節約してるのにこの仕打ち。

誰のせいでもないので頭の中はずっと自責で気が狂う。

 

もう心が無理だったので、申し訳なくも早退させていただきました。

そこでひとつひらめき、修理の見積もりが14万5千円以下だったら保険を使わないほうが良いのではないかということで、バンパーを養生テープで何とか固定して自動車工場にステップワゴンを持って行ったところ、見積もりは30万円弱。

もう保険を使う以外にはありません。

 

市役所勤め=金持ち

クルマが3台ある=金持ち

 

みんなそんな風におもっています。

でもぜんぜん給料はあがんないし、賃貸住宅だったら補助がでるけど持ち家だったら補助ほとんど出ないし、昔のいい時に役人だった人のイメージがそのまま残っちゃってるからすげぇ損してるきがしてならない。

団塊の世代の人たちは子ども達とのかかわり方も今と違うし、お金の感覚も今と違うし、同じ尺度で語られるのがめちゃめちゃ腹立つ。

 

えらいと思われる順が サービス残業多い人>>残業多い人>>普通に帰る人・・・とかになってるし、土日でたらえらいような風潮だし、日中がんばって普通の時間に帰ったら使えない人間みたいになってる。

 

公務員たたきはひどすぎるし、他の業種はそんなことないのに。

 

そしてぼくが買った3台目のラピュタは、23万円。

ほかにまったくお金を使わないぼくにとっての唯一の趣味。

ランニングコストは車検やタイヤ代を含めて均して月5千円強くらい。

こづかいは自分で家計をやりくりして全部わかってるから、出ないのは明白。

せめて月5千円くらいのクルマの趣味くらい許されてもいいじゃないかと思う。

だめなの?ただめだってるだけでお金はそんなにかかってないし、小遣い5千円なのとおんなじなのに。

パチンコで1回負けたり、飲み会に1回行ったくらいの金しかかかってないのに、バーンと家の前にあるから目立って余計にそう思われる。ほかになんにもぜいたくとかしてないのに。なんでこんなに周りの目からの視線を損してるんだ。

どうせわかってもらえないけど

 

会長もステップワゴン修理の免責の5万を「たった5万」とぬかしやがる。

もうラピュタ売ろうかと思って、買取サイトに登録しようと全部入力して決定ボタンのところで手がとまった。

こんななんの楽しみもなく町内会のボランティア活動を何年もがんばってやっているのにこんな目に遭わなきゃならないなんて理不尽すぎる。

だれも周りにぼくの状況を分かってくれる人がいない。

子育てがどれほど大変か。子どもに救われることはたくさんたくさんあって、いっぱい思い出作ってあげたいのに、それがぜいたくととらえられるし、あんまり理解されないし。

ぼくがずっと大好きなTUBEが釧路に来るのに、仕事だしおかねもないし我慢しなきゃならない。

もうあたまがぐるぐるよくわかんなくなって破裂しそうだ。

 

そもそも精神がおかしいのは、8年前に同僚の先輩が死んじゃって、その仕事が全部のしかかってきたのがそもそもの原因で、そのときにろくに解決策を講じてくれなかったのがにくい。

お金についてはほんとは若い時の浪費がひどかったせいでいまそのツケがきてるんだけど、今は心を入れ替えてまじめにやってるのに一向に上昇しない。

昔のことはもうどうにもならないから今はもうずっとがんばってるのにどうにもならない。

実家もまったく頼れないから、頼ってる人にとやかくいわれる筋合いもない。

よのなか理不尽なことだらけだ。公務員はどんなにがんばっても給料あがるわけじゃないし、おかねがなかったらどうすればいいのさ。

 

さっき、罵声を浴びせられたお宅に真心を込めて謝罪したお手紙を投函してきました。

 

お金が無いとなにもならない。真心とかだってだいじだけど、どうしてもうけいれられないときもある。ひとりならいいけど、ぼくには大事な家族がある。ぼくしかまもってあげられないんだ。

ヤクルト風張、プロ入り初勝利!

きのうのヤクルトx巨人戦は乱打戦となりました。

そんな試合で勝利投手となったのは、プロ入り4年目、岩手県九戸村長興寺出身の風張蓮(かざはり・れん)

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おそらく、妻のひいばあちゃんの実家である千葉家の近所で育ったのではないかな~と思われる風張くん。

これをきっかけに自信をつけて、大きく飛躍していってほしいです!

 

私の応援する横浜は、相変わらずのスロースタートですけれど(*´з`)

じいちゃんとか平野家についてとかのなんやかんや

母方平野家のじいちゃんが居なくなってから半月。

そろそろ心の整理もついてきたので、重い腰を上げてここ最近のお話を綴ってみようかなと。

 

平野家の調査について、数年前からずっと鍵になるであろうと思っていた本がありました。

その本は「大泉今昔物語」。

母の実家である平野家は現在北海道斜里郡小清水町で農業を営んでおりますが、もともとは明治38(1905)年ころに今は東京都練馬区の大泉地区となっている北豊島郡大泉村から入植しております。

その大泉村が合併する前の小榑村、橋戸村、上土支田村についての歴史を上土支田の郷土史家、加藤惣一郎氏がまとめてくださり、自費出版で作製された本。

昭和50(1975)年、加藤氏が58歳のときに初版600部を刷ったそうですが、その後も復刻され、ある程度の数はあるのかと思います。

きっとほとんどが地元にあるのでしょうけれど。

 

その本の存在を知った数年前に、図書館の相互貸借で借りようと試みたことがありましたが、その時は残念なお返事でした。

大きな市の市史などとは事情が異なり、小さな村のさらに昔の郷土史ともなると、禁帯出の本が多くなってしまうので、これは仕方のないところではあります。

さらにはたとえば国会図書館の相互貸借だと、釧路の図書館までは来るけれど図書館外には持ち出せないとか、色々制約があるそうです。

しかし地元の図書館には、たまに帯出可の本があったりします。

でも、相互貸借となるとまた事情が違ってくるようで・・・。

 

そして先月2月3日、釧路市の図書館がリニューアルオープンしたときに改めてチャレンジ!したものの、やっぱりダメ~。

練馬まで行かないと読めないのか~(-_-;)

しかし3月3日、もう一度粘り腰で司書さんに、なんとか貸してくれるところを探していただけないでしょうかと頼み込みました。もうモンスターユーザーです<(_ _)>

図書館外へ持ち出しできなくても仕方ないので、せめて読めるだけでも・・・という想いでした。

 

すると、3月8日、館外持ち出し可能な状態で練馬の図書館から釧路の図書館に届いたのです!

その待ち焦がれた本には、いままで仕入れていた情報がかすむほど、まばゆい情報がてんこ盛りでございました。

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貪り読んだ結果、平野家についてだけをかいつまんでまとめてみます。

 

・大泉の平野氏は、もともとは房州仁右衛門島(千葉県鴨川市太海)の平野家の出である

・応長元(1311)年に日蓮の弟子である日高(にちこう)上人、そして野瀬氏という人とともに、小榑村へ日蓮宗布教のためやってきた

・小榑に来た理由は、法華経寺(千葉県市川市中山)のある地の有力者だった高橋氏が、親戚のある武蔵国新座の小榑へ布教に行ってくれと頼んだため

・布教の結果、嘉祥3(850)年創立の天台宗大覚寺が、日蓮宗妙福寺となった

・平野家の本家は南大泉にあったが、総本家は既に絶家となっている

・総本家から分家した平野家は、江戸期に名主であった平野源吾右エ門や、大正期に大泉村会議員であった平野嘉平を輩出

・そこから西大泉の平野家がさらに分家し、西大泉の本家であった平野儀三郎家が北海道へ渡った(結果、分家が本家となり、現存)

・旧大泉村域から北海道に渡ったのは、平野家のみ

 

・・・と、平野家分だけをかいつまむとこれくらいの量なのですが、ここからいろいろな推測(妄想)が頭を駆け巡るわけですね。

 

鴨川市にある「仁右衛門島」は、代々平野仁右衛門という方が所有している島。
現在は38代目の平野仁右衛門さんが守っておられます。

伝説では治承4(1180)年に小田原での「石橋山の戦い」で平氏に敗れた源頼朝が、真鶴から房総半島へ敗走。

紆余曲折の末に当時は蓬島と呼ばれた島へ逃げ、平氏の追っ手から島民の仁右衛門さんに匿ってもらったということです。

蓬島から巻き返しを図った頼朝は、房総半島から兵力や援軍を募り、最終的には平氏を破って鎌倉幕府を創設したということとなっております。

 

蓬島の仁右衛門さんは、どのタイミングかはわかりませんが、頼朝から「平野」の名字と、島まるまる一つと、漁業権を賜ったというお話。

それから蓬島は仁右衛門島と呼ばれるようになったのでしょうが、江戸初期の洪水によって文献等が失われており、詳しくは不明とのこと。

また、仁右衛門島には日蓮(1222~82)が訪れたという史跡、神楽岩も遺っているそうです。

なぜ頼朝が恩人へ敵の名が入った「平野」という姓を与えたのかは知れません。

実は3月15日、NHKの「日本人のおなまえっ」という番組で、敗走中の頼朝が名字を与えまくったという話題がたまたま放送されたのです。NHKでも平野の由来についてはわからないようです。 

落ち着いたときに録画した番組を見て、なんちゅうタイミングか!と驚愕でした。

 

これらの情報をもって、ここから妄想ストーリー(*^_^*)

わが平野家の祖先は、仁右衛門島を訪れた日蓮の誘いにより、仁右衛門島を離れて法華経寺(千葉県市川市)へ入ります。

そして日蓮および弟子の日高(にちこう、1257~1314)上人と生活をともに。

寺領地である中山村の有力者は高橋氏であり、仲間には安房国金杉もしくは夏見(ともに現:千葉県船橋市)付近出身の野瀬氏(←電話帳サイトでの野瀬姓分布により推測)がいる。

その後、郷士高橋氏の要望により、日高上人および野瀬氏とともに高橋氏の親類がある武蔵国小榑へ日蓮宗布教のために向かいました。

日高上人の21日間におよぶ説法の末、天台宗であった大覚寺(850年に慈覚大師が創立)を日蓮宗へ改宗させ、妙福寺と名も改まりました。山号は「西中山」となりましたが、これは法華経寺の建つ中山村に対して西の方角にあたるからでしょう。

平野家祖先および野瀬氏は、寺檀那として土着したようです。

そして現在の南大泉に平野家は連綿と続いておりましたが、江戸初期に総本家は絶家。

しかし、分家の平野源吾右エ門家が江戸時代に長らく名主を務め、大正時代には大泉村村会議員となる平野嘉平を輩出しています。

その平野源吾右エ門よりも以前の代で、わが平野家は西大泉へ分家。

高祖父・儀三郎の代で、儀三郎の義弟となる音五郎(上土支田、加藤長蔵の二男)が婿入りして西大泉平野家を継ぎ、跡継ぎであるはずの儀三郎は北海道へ渡り、現在に至っています。

 

・・・という流れを、本の情報と妄想を織り交ぜつつ、あまり不自然な感じなく?まとめあげることができました。たぶん。

これまで源頼朝日蓮聖人など歴史上の偉人が登場しまくってますが、これだけさかのぼると仕方のないことでしょう(*´з`)

 

また「平野」という名字ですが、妻の予想だともともと「平」は違う字だったんじゃない?とのこと。

ふむ。一考の価値はあります。

 

また、リンク先はPDFですが、このように研究もなされています。

アイヌ語で「崖」を意味するピラという語に万葉仮名で「平」という漢字があてられているのでは?という研究です。

確かに仁右衛門島は崖、傾斜地だらけのような島ですから、あてはまるかもしれません。

アイヌ語といえば北海道。そんな思い込みが崩れ去りました。

はるか昔をさかのぼれば、アイヌ語は日本各地に散りばめられているのかもしれません。

でもやっぱり頼朝が「平」をくれるのはなぁ、と思いますが。

 

よし!この線でじいちゃんに話をしに行こう!と思った矢先。

3月11日の日曜日。函館の実家から妻と娘あてにホワイトデーが届いたのでお礼の電話をしたところ、じいちゃんが入院していることを聞いたのです。

どうやら肺の検査入院だそうでしたので、週末土曜日の17日にでもお見舞いがてら話をしに行こう!と思っていたところでした。

入院したのは3月8日。

きっと、セブンスターを嗜み、お酒も呑み、しょっぱい食べ物を好んだじいちゃんは、病院の薄味の食事や、タバコも酒もダメ、しかも水も制限されて・・・というのがイヤになってしまったんでしょう。

検査入院からわずか5日後の3月13日、じいちゃんは96年、35,072日の生涯に幕を下ろしてしまいました。

あっという間に魂だけが病院を抜け出していってしまいました。

 

亡くなる前日までは自分で歩いてトイレに行っていたそうですが、やはりしんどそうだったようで、

「俺はもうダメだ」とか、

「16からだぞ・・・」とかつぶやいていたようです。

そう、じいちゃんは16の時分に父も祖父も失い、平野家の家督を相続して家長となったのです。それから80年もの間、平野家を守り続けてくれました。

 

最期については、また聞きなので間違っているかもしれませんが、以下のようだったそうです。

ベッドに横たわり、最後の力を振り絞ってなにやら伝えたかったらしいじいちゃん。

何かを話していたそうなのですが、もはや力がないうえ、もともとバリトン級に低い声だったので誰も聞き取ることができず、みんなが??という顔をしていると、

「なんで俺の言っていることがわからねぇんだ、馬鹿野郎!」

・・・と言い、そのまま息を引き取ったということです。

 

じいちゃんは最後までじいちゃんだったという、まさにレジェンドとして後世に語り継がれるべき存在でした。

最期に何を伝えたかったのかは、もう知る術はありません。

 

また、じいちゃんの「政次」という名ですが、ずっと「まさじ」が正しいのに気に入らないから「せいじ」とか「まさつぐ」とか名乗っていたと思い込んでおりました。

しかし、じいちゃんの一番上の姉が「まさつぐ」と呼んでいたとか、一番下の妹は「まさじ」だと思っていたりとやはり一定しなかったのですが、しかもプライベートと仕事で使い分けていたらしいという情報も。

結局なんやかんや情報をまとめた結果、叔父曰く「まさつぐ」で決定したそうです!

今後遺していく資料は「まさつぐ」で統一することとします。

 

・・・じいちゃんがもう居ないなんて、寂しい。

平野家の歴史を優先的に繙いていたのも、じいちゃんにいろいろ教えたり教えられたりしたかったからでしたし。

これでもう、重要な記憶が天に昇ってしまいました。

あとは、じいちゃんがうまいこと私を歴史的真実へと導いてくれるといいなぁ・・・と思いにふけったりしている年度末。

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2011年5月、娘が撮影したじいちゃんの最高の笑顔。私はこんな顔見たことないです。