真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

平野駒の出自を探求~その①

平野駒。

私の高祖父・平野儀三郎(1866~1939)について、真実を手繰るためのキーパーソンになるかもしれない女性です。

 

以下のリンクは、ここまで至った経緯を綴ったもの。

 

これまでに得た、ネット(緑文字)および駒さんのお孫さんからの情報(赤文字)をまとめると、以下のようになります。

 

① 1870(明治3)年、横浜代官所詰めであった元武士の娘として出生。

② 横浜にあった料亭「花の家」の養女となる。

③ 明治天皇に女官として仕えるが、28歳のときに暇を出され、柳原愛子(大正天皇の生母)に引き取られる。

④ 柳原愛子の仲人により、アメリカ人のヘンリー・パイク・ブイと結婚。

⑤ 1900(明治33)年、30歳。東京市赤坂区山北町柳原愛子邸にて、長男・平野威馬雄誕生。ヘンリーはアメリカへ戻る。

⑥ 横浜市西区老松町において琴の講師として過ごす。

⑦ 1907~09(明治40~42)年の間にヘンリーが再来日。二男・武雄誕生。ヘンリーは再びアメリカに戻る。

⑧ 1918~20(大正7~9)年の間にヘンリー最後の来日。

⑨ 没後、横浜市西区の久保山墓地に埋葬される。

⑩ カトリックであるが、いつからなのかは今のところ不明。

 

ネットの情報に関しては、ほとんどがWikipediaの「平野威馬雄」項から。

自分で探した情報ではないので参考までですが、威馬雄氏の著書等に出典を求めていますので、おおよそは合っているのではないかと思われます。

 

そこで、お孫さんである平野悠氏(氏のHP)からうかがった情報について、今のところの推測を綴ってみます。

 

私は釧路に住んでおりますので、なかなか現地調査というわけにはいきません。

そこで、「国会図書館デジタルコレクション」を利用いたします。

 

まず②の『料亭「花の家」に養女に入った』ということについて。

 

そういう名の料亭があったかということを調べるため、明治14(1881)年6月発行の「横浜商人録」を当たってみます。

 

すると、「料理商の部」という欄に、「横浜区常盤町五丁目74番地 月の家 平野よし」という記載を見つけました。

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むむ、主が平野姓のうえ、料亭(?)の名前も似ている!

もしかすると言い伝えが「月→花」と、ちょっと違っていたりはしないだろうか?

 

常盤町5丁目というと、どこなのかと調べてみたらば、現存しておりました。

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関内駅、そして私の敬愛する横浜ベイスターズの本拠地近くですな。うれしい♪

 

しかし、これもまた国会図書館の資料ですが、明治17年の地図(横浜全図)には5丁目は見つけられないのです。4丁目で終わっています。

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拡大しても見づらいですが、常盤町1丁目1番地から4丁目83番地までしか無いような記述です。

少なくともこの「月の家」は現存しておりませんので、ここで暗礁に乗り上げました。

のちほどあらためて、資料を当たってみることにします。

 

そして⑨の、駒が埋葬されているという久保山墓地。

仮に調査に行ったとしても、なんということか東京ドーム2.5個分の広さということで、探しあてるのも奇蹟な感じです・・・(+o+)

 

話はとつぜん変わりますが、平野レミさんが聞いたことがあるという「平野儀三郎」の名。

家系探求の同胞・渡邊さんからいただいた情報によると、龍泉寺350の平野儀三郎方に平野元三郎という人物が住んでいたとのこと。

元三郎氏は1930(昭和5)年に、武蔵野会というグループに入会しています。

 

そこで平野元三郎なる人物についてネット検索をしてみると、1910(明治43)年生まれで、早稲田大学卒業後、1952(昭和27)年に千葉県教育委員会に入庁。「青木昆陽伝」等を著し、考古学の権威となった方がいらっしゃるようです。

 

なるほど、早稲田大学か・・・

卒業生名簿が国会図書館資料に無いかと思い探してみると、無事に発見できました!

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1933(昭和8)年卒業、史学専攻の平野元三郎氏。住所は下谷区龍泉寺町342!(番地はちょっと違いますが)ビンゴです!

「けんぞう」さんと「ごろう」さんに挟まれているので、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」でしょう。

 

この書物は1935(昭和10)年のものですが、この時点ではどこに勤めているかは記載がありませんね。

 

ともあれ、これで考古学者の平野元三郎=龍泉寺の平野儀三郎の(おそらく)息子という図式が確信に近い状態に。

次は元三郎氏の縁故者が見つかると嬉しい!というところまでになりました。

 

・・・と、今回はここまで。

いずれまた続きを綴れたらよいのですが。。。