平野駒の出自を探求~その③
相も変わらず、平野駒について調査中。
以前の調査内容については、以下のような感じです。
前回からさらに判明したことを備忘録的に綴ってみます。
あのあと、平野威馬雄氏の著作をもう一冊入手。「平野威馬雄二十世紀」という本。
その中には、先日いただきました横浜市立図書館からのレファレンス結果について、より詳細な情報が記述されていました。
まずは平野駒の父・平野伊左エ門についての記述。
著者の威馬雄にとって、おじいちゃんにあたります。
横浜村の名主であった石川家の家来で、武術や剣術は免許皆伝。
刀を棄てたのち、アメリカ三番屋敷で茶番頭をしていたと。
このアメリカ三番屋敷について調べてみたらば、「アメリカ三番館」として歴史に遺っていました。
これは万延元(1860)年に鹿島建設が建てた建物で、現在の山下町72番地に在ったようです。
そこで、アメリカの「スミス&ベーカー商会」が茶葉の貿易のために蔵として、そして茶葉の選別のために女工を100名単位で雇っていたそう。
伊左エ門は、その女工たちを監督するという要職に就いていたということです。
伊左エ門についての情報は、ここまででした。
スミス&ベーカー商会・・・。
当時は横浜での製茶輸出の最大の商社。
茶聖と呼ばれた大谷嘉兵衛が支配人格を務めていたり、高島屋と取引があったり、神戸にも倉庫があったりという記載をネットで確認できますが、今は果たしてどうなっているのか、資料は遺っているのかなどはわかりませんでした。
そして、駒の兄貴である平野伊三郎。
幼いころはずば抜けて賢い子で、17,8歳のころは外国人も顔負けするほど英語が達者だったそうです。
しかし病により、足腰が立たなくなってしまったそうで、横浜の近代医学の基礎を築いたジェームス・カーティス・ヘボン(ヘプバーン。1815~1911)医師にもみてもらったものの快方に向かわず、ほぼ寝たきりで介護を必要とする生活だったそう。
そんな中でも桐野利秋(1839~77。幕末維新期きっての剣客「人斬り半次郎」として知られる・・・らしい)などの武士が、伊三郎から英語の手ほどきを受けるべく通っていたそうです。
ただ、駒が1870(明治4)年生まれで、伊三郎はその兄なので1860年くらいの生まれでしょうか?
桐野利秋に教えていたとすると年代がちょっと合わない気がしますが・・・。
伊三郎には妻・りんがいましたが、妻はまだ若かったこともあり、父・伊左エ門により病に伏した伊三郎のもとから離され、風間安五郎という出入りの職人の妻になったとのこと。
その後、伊三郎は駒のおなかが大きくなってきて、甥っ子(威馬雄)が生まれるのを楽しみにしていたものの、顔を見ずして世を去ってしまったと。
このことから、伊三郎は威馬雄の生まれた1900(明治33)年5月5日よりもちょっと以前、1899~1900年に亡くなったと推察されます。
この本から得られた情報は以上でした。
そして異なるアプローチで進めていた、東京市下谷区龍泉寺町350の平野儀三郎について。
1930(昭和5)年の「武蔵野」という雑誌に「武蔵野会」に入会した方々の名があり、そこに「龍泉寺町350平野儀三郎方 平野元三郎」とあった件について追っていました。
この平野元三郎(げんざぶろう)氏は、1933(昭和8)年に早稲田大学の史学科を卒業。その後の1952(昭和27)年に千葉県教育委員会に入庁し、考古学の専門として活動していた方です。
元三郎氏の出自がわかれば、平野儀三郎につながるきっかけになるのではないかと思い、千葉県立図書館にレファレンスをかけていました。
レファレンスの結果をまとめると、以下のようになります。
・1910(明治43)年1月21日、下谷区龍泉寺町342番地生まれ。
・1928(昭和3)年4月、早稲田の新入生同士、滝口宏氏と席を並べる。
・1933(昭和8)年6月、早稲田大学文学部史学科を卒業。大学時代は会津八一教授に師事。
・1937(昭和12)年には27才で、千葉県史蹟名勝天然記念物調査委員および県立中央図書館郷土資料室調査委員を委嘱される。
・一方では海産物商を営んでおり、1939(昭和14年)には中国大陸に渡る。
・終戦後の1946(昭和21)年5月に引き上げ、千葉県に住む。
早稲田の同級であった滝口氏によると、「阿佐美が当時の姓。父は平野を名乗り、千葉の人。千葉がまだ町であったころに市内バスを走らせて失敗したという。母は群馬の富岡と聞いた」という記述があります。
当時の姓は阿佐美・・・?
調べてみると阿佐美姓は、同じ群馬の前橋に多い姓のようです。
儀三郎は千葉の人で、母は富岡・・・?
また、「中国から帰国後、龍泉寺に小さな家を建て、母を群馬から呼び、新妻を得た」との記述も。
んもう、知らないことばかりですし、高祖父・平野儀三郎と繋がる事柄も一切ございません。。。
以上を踏まえて、それでも【高祖父儀三郎=元三郎の父】とむりっくり邪推してみたのが以下ですが、
・儀三郎は富岡の女性の間に子どもをもうけ、北海道と龍泉寺を行き来し、龍泉寺には断続的に住んでいた。
・元三郎の母は阿佐美姓で、龍泉寺に元三郎と一緒に住んでいたが、どこかの時点で群馬に戻った。
・千葉のバス事業は、親の財産で始めたが、失敗した。
ここまで掘り下げても平野駒とも繋がりませんし、高祖父とも繋がりませんし、おそらくはこの三家はまったく別々の家なのでしょう。
・・・無理があるのはわかってはいるものの、まだ断定はできないのかなって思いこませています。
高祖父に繋げていこうとするのは明らかに苦しい局面ですが、まだまだ攻めていきますよ!!
平野駒の出自を探求~その②
前回に引き続き、平野駒について勉強しています。
前回まではこんな感じでした。
まずは平野駒の長男である平野威馬雄(1900~86)の著作を2点入手し、手掛かりを探してみました。
最初は「アウトロウ半歴史」。
1978(昭和53)年発行の、威馬雄が自らの半生(というかほぼ大部分)を綴った自伝的な著作。
おそらくこの本を書いた当時、威馬雄氏は77歳くらい。
氏の文章を読むのは初めてですが、とても柔らかで、きれいな日本語によって綴られています。すごく読みやすいのです。
内容についてはとんでもない(?)部分もあるのですが、威馬雄氏の文才のせいか、そんなに強い表現に感じられないのが不思議。
その中で駒が登場する場面は少ないのですが、威馬雄が暁星中学校を放校された際に横浜から呼び出されたエピソードがあります。
『「うちのせがれがいったいどのような恐ろしい罪を犯したのでしょうか?長年お世話になった学校を追い出されるような、そんな恐ろしい悪事を働いたのでしょうか?」母は冷厳な校長や教頭の前で、卓を叩いて放校の理由をたずねた。』
これは威馬雄がミサの時に破廉恥なことをしでかしたからなのですが、威馬雄がこのような駒を見たのは初めてだったそうです。
次に「レミは生きている」。
1959(昭和34)年から、幾度か出版社を変えて刊行されていた本。
わたしは1979(昭和54)年の講談社文庫版を入手。婿さんの和田誠氏が装丁を手掛けられています。
この本と「アウトロウ半歴史」には一部重複する部分があるのですが、こちらは「アウトロウ半歴史」よりも20年ほど前に書かれた、同じく自伝的な著書です。
こちらには、父の死と母の死について記述があります。
父・ヘンリーは帰国後の1920年にニューヨークでの演説中に急死してしまったこと。
母・駒は1937(昭和12)年ころに、おそらくは心臓の病気で亡くなってしまったこと。
また、幼少時は横浜で祖母と暮らしていたという記述もありました。
この祖母というのは駒のお母さんですが、ヘンリーと時を前後して亡くなられたとのこと。
祖母は「武士の娘」と。威馬雄氏にとっては厳しいおばあちゃんだったようです。
また、駒さんについての記述がとてもたくさん!
わたしなんかが評するのが憚られますが、混血児の母として、とても心労の多い人生を送ってきたことが偲ばれます。
そして、駒さんの出自につき横浜市立図書館にレファレンスをかけていたのですが、たいへんありがたいことにいくつか情報をいただくことができました。
・駒さんの父は、代官石川家の家来で、アメリカ三番屋敷のお茶場で蔵番頭を務めていた「平野伊左衛門」という人物であった。
・駒さんの兄である平野伊三郎は、病で足腰が立たなくなっていたが、英語が達者で、武士たちが手ほどきを受けに来ていた。
・駒さんは界隈でも評判の女性だった
・(大正9年の電話帳では)料亭「花の家」は見つけることはできなかった
代官石川家・・・
調べてみますと、石川家当主の名は石川徳右衛門豊八(1804~89)。
石川家は久良岐郡横浜村(いまの横浜市西区元町)の名主だったそうで、なんでも黒船来航時にペリーの接待をしたとか。なかなかなエピソードを誇るお宅です。
横浜は開港とともに神奈川奉行の支配下となり、石川家は総年寄として名主の上に位置付けられたそうです。
その後もこちらで調べてみましたが、どうやら神奈川奉行についての資料は非常に乏しいらしく、石川家に仕えた方々についての情報はまったくみつけることができませんでした。
アメリカ三番屋敷とはいったい・・・?
そんな折、国会図書館のデジタルコレクションより「横浜開港場の都市形成」という資料が目につきました。
1862(文久2)年、横浜港付近についての地割図が載っているのですが、その中に「平野屋惣次郎」という名を見つけることができます。
これは平野伊左衛門の関係者なのか・・・?
・・・と、今回はここまで。
まだまだ道半ば。少しずつ明らかになってきている気がします!
平野駒の出自を探求~その①
平野駒。
私の高祖父・平野儀三郎(1866~1939)について、真実を手繰るためのキーパーソンになるかもしれない女性です。
以下のリンクは、ここまで至った経緯を綴ったもの。
これまでに得た、ネット(緑文字)および駒さんのお孫さんからの情報(赤文字)をまとめると、以下のようになります。
① 1870(明治3)年、横浜代官所詰めであった元武士の娘として出生。
② 横浜にあった料亭「花の家」の養女となる。
③ 明治天皇に女官として仕えるが、28歳のときに暇を出され、柳原愛子(大正天皇の生母)に引き取られる。
④ 柳原愛子の仲人により、アメリカ人のヘンリー・パイク・ブイと結婚。
⑤ 1900(明治33)年、30歳。東京市赤坂区青山北町の柳原愛子邸にて、長男・平野威馬雄誕生。ヘンリーはアメリカへ戻る。
⑥ 横浜市西区老松町において琴の講師として過ごす。
⑦ 1907~09(明治40~42)年の間にヘンリーが再来日。二男・武雄誕生。ヘンリーは再びアメリカに戻る。
⑧ 1918~20(大正7~9)年の間にヘンリー最後の来日。
⑨ 没後、横浜市西区の久保山墓地に埋葬される。
⑩ カトリックであるが、いつからなのかは今のところ不明。
ネットの情報に関しては、ほとんどがWikipediaの「平野威馬雄」項から。
自分で探した情報ではないので参考までですが、威馬雄氏の著書等に出典を求めていますので、おおよそは合っているのではないかと思われます。
そこで、お孫さんである平野悠氏(氏のHP)からうかがった情報について、今のところの推測を綴ってみます。
私は釧路に住んでおりますので、なかなか現地調査というわけにはいきません。
そこで、「国会図書館デジタルコレクション」を利用いたします。
まず②の『料亭「花の家」に養女に入った』ということについて。
そういう名の料亭があったかということを調べるため、明治14(1881)年6月発行の「横浜商人録」を当たってみます。
すると、「料理商の部」という欄に、「横浜区常盤町五丁目74番地 月の家 平野よし」という記載を見つけました。
むむ、主が平野姓のうえ、料亭(?)の名前も似ている!
もしかすると言い伝えが「月→花」と、ちょっと違っていたりはしないだろうか?
常盤町5丁目というと、どこなのかと調べてみたらば、現存しておりました。
関内駅、そして私の敬愛する横浜ベイスターズの本拠地近くですな。うれしい♪
しかし、これもまた国会図書館の資料ですが、明治17年の地図(横浜全図)には5丁目は見つけられないのです。4丁目で終わっています。
拡大しても見づらいですが、常盤町1丁目1番地から4丁目83番地までしか無いような記述です。
少なくともこの「月の家」は現存しておりませんので、ここで暗礁に乗り上げました。
のちほどあらためて、資料を当たってみることにします。
そして⑨の、駒が埋葬されているという久保山墓地。
仮に調査に行ったとしても、なんということか東京ドーム2.5個分の広さということで、探しあてるのも奇蹟な感じです・・・(+o+)
話はとつぜん変わりますが、平野レミさんが聞いたことがあるという「平野儀三郎」の名。
家系探求の同胞・渡邊さんからいただいた情報によると、龍泉寺350の平野儀三郎方に平野元三郎という人物が住んでいたとのこと。
元三郎氏は1930(昭和5)年に、武蔵野会というグループに入会しています。
そこで平野元三郎なる人物についてネット検索をしてみると、1910(明治43)年生まれで、早稲田大学卒業後、1952(昭和27)年に千葉県教育委員会に入庁。「青木昆陽伝」等を著し、考古学の権威となった方がいらっしゃるようです。
なるほど、早稲田大学か・・・
卒業生名簿が国会図書館資料に無いかと思い探してみると、無事に発見できました!
1933(昭和8)年卒業、史学専攻の平野元三郎氏。住所は下谷区龍泉寺町342!(番地はちょっと違いますが)ビンゴです!
「けんぞう」さんと「ごろう」さんに挟まれているので、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」でしょう。
この書物は1935(昭和10)年のものですが、この時点ではどこに勤めているかは記載がありませんね。
ともあれ、これで考古学者の平野元三郎=龍泉寺の平野儀三郎の(おそらく)息子という図式が確信に近い状態に。
次は元三郎氏の縁故者が見つかると嬉しい!というところまでになりました。
・・・と、今回はここまで。
いずれまた続きを綴れたらよいのですが。。。
平野儀三郎と平野儀三郎
高祖父・平野儀三郎(1866~1939)。
慶応2(1866)年5月、武蔵国多摩郡田無(現在の西東京市南町)において、質屋等を営む新倉治兵衛とふじ夫妻の二男として生まれる。
明治12(1879)年3月、公立田無学校下等小学第4級を卒業。
明治16(1883)年4月16日、明治天皇が田無を行幸された際、妹のまつが天皇のお茶のみにお付き合いする。
その8日後、16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉)の平野丑松・はつ夫妻の長女であるいちの婿養子として、平野家に入る。いちは3歳上の姉さん女房。
儀三郎を迎えた平野家は、もともと鴨川の仁右衛門島に在り、源頼朝より平野姓を賜ったのち、千葉を経て日蓮宗とともに小榑に入ったと伝わる。家紋は「丸に抱き茗荷」。
明治17(1884)年1月、丑松の隠居により、弱冠17歳の儀三郎が平野家の家督を継ぐ。
その3か月後、長男である留五郎が誕生したのを初めとして、五男二女をもうける。
明治26(1893)年3月、実兄で新倉治兵衛の長男でもある庄藏が分家するにあたり、立会人としてサインをする。
明治27(1894)年12月9日、失踪届出。
翌年2月17日、復帰届出。
この間、何があったのか知れず。
明治30年代に北海道瀬棚に入植するも、農耕に適した土地が無く、利別村メップ(今の今金町種川)に移住。
明治38(1905)年、39歳時にオホーツクの斜里郡止別村(今の小清水町止別)へ移住。
昭和10(1935)年、68歳にして樺太恵須取町上恵須取へ移住。
昭和14(1939)年2月22日、脳出血のような症状により急逝。満72歳。
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そしてもうひとりの平野儀三郎。
大正5(1916)年、水産に関する「碇ウインチ」についての特許を取得。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺町379。【大正7年発刊の「水産界425号」より】
大正9(1920)年、当時は西巣鴨村にあった滝乃川学園で発生した火災より、米田久興を救出する。久興は、北海道興部(おこっぺ)村の有力者である米田常作の息子。
なお、滝乃川学園にも確認したところ、儀三郎については「米田氏友人」としかわからないとのことでした。
滝乃川学園を創設した石井亮一氏は、この火災の際に閉園を考えたそうですが、大正天皇の后である後の貞明皇后に再建を促されたそうです。
大正11(1922)年、貴族院議員の柳原義光伯爵が北海道に行きたいということで、儀三郎が米田氏を紹介。伯爵は三室戸敬光子爵とともに興部へ赴く。
米田氏、伯爵、子爵、儀三郎は発起人、賛助員として興部村の浄土真宗隆興寺の建立に携わる。
昭和2(1927)年、米田氏に手紙を送る。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺350。
昭和5(1930)年、平野儀三郎方の平野元三郎なる人物が「武蔵野会」に入会。住所は同上。【昭和5年発刊の「武蔵野 第15巻第5号」より】
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「水産界」に載っている碇ウインチの特許取得、「武蔵野」に載っている平野元三郎の名。
この2件の情報につきましては、家系探求同朋の渡邊氏にご提供いただきました。誠に感謝です。
この2件の情報を得たことで、高祖父と龍泉寺の平野儀三郎は別人であろうという方向にシフトしていっているところです。
特に、武蔵野に記載がある元三郎氏。
おそらくは儀三郎の息子さんではないかと想像しておりますが、同名の著名人がいらっしゃるのです。
平野元三郎(ひらの・もとさぶろう、1910~90)。
「日本人名大辞典」によると、東京出身の氏は、早稲田大学卒業後、昭和27(1954)年より千葉県教育委員会に勤務。考古学者として「青木昆陽伝」など著書が多数。
※10/13追記:早稲田大学の卒業生名簿には平野健造と五郎の間に記載があるため、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」かと思われます。昭和8(1933)年史学科卒。
高祖父の戸籍情報とは少しもかすりません。
しかしながら、真偽が確定しているわけでもありません。
祖父が言っていたことが頭をよぎります。
「じさまは東京にちょいちょい行っていた」。
「樺太に居たころ、徳川の紋が入ったいろいろなものがあった」。
そして東京とオホーツクという2つの地に関わりがあるという共通点…
しかし数百年も日蓮宗なのに浄土真宗の寺院建立に携わるのはなかなか考えにくいですし、元三郎氏の存在やずっと龍泉寺に家があったということを鑑みると…
んもう、こうなったら別人でも構わないから腑に落ちるような情報が欲しい!
藁をもすがる思いでいろいろと調べてみました。
そこで思い当たったのが、柳原家。
儀三郎と懇意であった柳原義光伯爵は、典侍(天皇のお世話役、女官の監督)であった柳原愛子(やなぎわら・なるこ。1855~1943)の甥。
愛子は大正天皇の生母でもあります。
その愛子を仲人として、24歳年上のアメリカ人、ヘンリー・パイク・ブイ(Henry pike Bowie)と婚姻した女官が、横浜代官所詰めだった武家の娘、平野駒(1870~?)。
そのふたりの長男で、フランス文学者でもあった平野威馬雄(1900~86)は、言わずと知れた料理愛好家である平野レミさんのお父さん。
次男の平野武雄氏は翻訳家として活動し、武雄氏の息子さんはライブハウス、ロフトプロジェクト代表の平野悠氏。
悠氏は、お祖母さんのことをブログに綴ってらっしゃいました。
少しでも興味がおありなら、何かご存じなのではないだろうか・・・!!?
そのような乱暴な図式により、平野悠氏に連絡をとってしまうという暴挙に出てしまいました。ご迷惑にもほどがあります。
しかし、心優しい悠氏は、ご返事をくださったのです。
『私の婆様は「駒」といいました。天皇家で側近を務め、柳原愛子の家で私の祖父、ヘンリーパイクブイと出会って結婚して、平野威馬雄、武雄が生まれたといいます。
平野駒さんのことはほとんど知りませんし、平野儀三郎さんも初めて聞く名前です。もし駒婆さんの生涯がわかれば楽しいのですが、全く手がかりはないと思います。その点では平野レミさんの方が詳しいかも』
そんな悠氏に私は無理なお願いをしました。レミさんに聞いていただけないでしょうか?・・・と。
すると、しばらくして再びご返事をくださった悠氏!
『平野レミさんに聞いたところ、平野儀三郎の名前は自分の父から聞いたことがあるそうですが、それ以上のことは全くわからないので、連絡をくれても仕方がないと申しておりました。平野駒さんは私たち平野一族にとっては全くのミステリアスな人で、もしそちら様で何か発見したら教えてくださいとのことでした。』
!!!儀三郎の名を聞いたことがある!!!?
でもそうですか・・・やはりレミさんでも詳しくはわからないのですね・・・
どこの馬の骨ともわからない男に優しくしていただいた平野悠さん、ほんとうにありがとうございました!
・・・ということで、これからはちょっと思考をシフトして、平野駒および龍泉寺の平野儀三郎について調べていこうと思います。
平野駒については悠氏曰く家紋も没年もわからないとのこと。
明治3年生まれではありますが、特殊な経歴なので情報が残っていてしかるべき人物だとは思いますけれど・・・、お孫さんが何もわからないのですから、ほんとうに何も遺っていないのですね。
この目線から、真実にたどり着けるよう、精進していきます!
そしてレミさんや悠さんをはじめとする平野家に、なにか少しでもお伝えできる情報を探し出したいです。本気ですよ!
2021/10/5追記:平野悠氏より、貴重な情報をいただくことができました。
「平野駒さんはどこぞの下級武士の娘だったそうで、横浜の料亭『花の家』に養女に入って天皇家の側近に仕えて、それから天皇家から駒さんは柳原愛子さんの家で過ごし私の祖父ヘンリー・パイク・ブイさんと知り合って結婚したそうです。ヘンリーさんは渋沢栄一とも親交があったそうです。」
平野駒が横浜の元武士の家に生まれた・・・ということは、そこはかとなくいろいろなwebページで見たことがありましたが、料亭に養女に入っていたというのは初めて知りました。この「花の家」(ネットで探しても出てこない💦)で皇室関係者に見初められたとかなのでしょうか・・・?
また、ヘンリーが渋沢栄一と親交があったのもうなずけます。
渋沢栄一は滝乃川学園が火災に遭った後、教育に全力を注ぎたいという石井夫妻の意思をくみ取り、理事長に就任しました。
滝乃川学園は大正天皇より今の天皇に至るまで、幾度となく行幸啓されている施設。
平野儀三郎とヘンリーが面識があったかはわかりませんが、平野家と滝乃川学園に何らかの繋がりがあったと考えると、リンクするような気がします。
以下は今まで綴った平野家に関する記事です。
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる
北前船と森井家
江戸時代から明治期にかけ、「北前船」という日本国内の交易になくてはならない存在がありました。
端折って言うと、大阪から北海道まで日本海側ルートを航行し、各地の港で特産物などを売買していた船です。
当時は日本各地の特産物についての相場を知ることなぞ一般的には不可能でありましたが、ここで安く買ってあそこで高く売る!ということが、船乗りたちには可能だったんですね。
どうやら海峡を通るのは厳しいとの判断から、この比較的安全な西回りのルートが開発されたそう。
それでも遭難は多かったそうですが、それ以上に一攫千金を夢見て、この世界に入る人は多かったらしいです。
北前船のことを調べてみると、ここに綴るのがもったいない面白い話が多いので、ぜひお時間があれば調べてみてくださいね。
話は変わって、妻の母の実家である森井家。
昭和10年代に妻の曾祖父・森井半次郎(1882~1964)が釧路に来る前は、道南の落部村野田追(現在は八雲町東野地区)で漁業を営んでいたようです。
半次郎の父・半左エ門(1853~1922)が落部の漁業組合で組合長をしていたとの記述を、八雲町史に見つけることができます。
その落部に来る前、森井家の本籍は石川県江沼郡菩提村にありました。
落部への転籍は明治27(1894)年。
菩提村は現在の小松市菩提町ですので、小松市へと除籍の請求をしてみましたが、80年廃棄の罠が発動。。。がっくし。
ちなみに、落部村に来たときに編成された、現存する森井家最古の戸籍がこちら。
なんぼよく見ようとしても、達筆とは言えない・・・(>_<)
なにせ半左エ門の分家した日や、転籍前の地名がよめませんからね。
ここいらあたりはイ・ロ・ハ・・・という小字がつく、石川県特有の地名の箇所。
おそらくは「江沼郡那谷村字菩提 ○(カナ) ○○○番地」と書かれているのでしょうが、んもうさっぱりわかりません。
当時、ここまでの情報を手土産に、義母に「森井家は石川県から来たみたいだよ!」と得意満面で教えたらば、「うん、そうだよ」と。
それまで知らなかったのですが、義母のいとこである神戸在住の森井幹男さんという方が家系図を昔から作っていたそうなのです。聞いてないよ~!
伯父から幹男さんの作製された系図を見せてもらうと、けっこう調べられている!
菩提町にある森井家のお墓や、菩提寺である福井市の牛鼻山興宗寺(浄土真宗)にまで足を運んでいます!
たまらず幹男さんにお便りをしてみると、最新版の調査記録と家系図を快くご提供くださいました。
幹男さんによると、菩提町の森井家は、半左エ門の兄である半四郎が継いだものの、大正時代に山中温泉(今の加賀市)に移住。
そこで子孫の方は喫茶店を営んでいるということでした。でも昭和8(1933)年の生まれだそうで、もうさすがに引退してるかな・・・と思い、コンタクトはとっていない状態で今に至ります。
それが12年くらい前の話。いまとなっては後悔しきり。
その後、幹男さんが同窓会で釧路に里帰りした際、一度だけお会いすることができました。
会社の昼休みにいっしょにソバをすすりながら、「何で調べようと思ったの?」みたいな話をした・・・のかな?もう忘れてしまったのですが。。。
そのうち、またいろいろ聞く機会があるだろうと、なんとなく思っていたのですが・・・
2018年のお正月、一通の寒中見舞いが届きました。
それは幹男さんの息子さんから。
幹男さんが亡くなったことが書かれていました。満71歳。山登りが大好きだったそうです。
幹男さんの頭の中にあった断片的なまとまっていない記憶がこの世から失われたということです。
なんという喪失感。
まさか一度しか会えないなんて考えてもみませんでした。
結局、未だに私は小松に行ったことがないのですが、幹男さんが遺してくれた資料をたまに眺めます。
こういう資料とにらめっこしながらいろいろ聞きたいことがあったんですよね・・・
資料に森井家の本籍地が「江沼郡那谷村字菩提85松番地」って書いてあるんですが、松番地って何??っていうこととか。
菩提町にある森井の墓石に彫られている家紋が、釧路の「丸に五三の桐」とは異なり、「四本骨扇」であることとか。
しかも四本骨扇なぞ、どの家紋図鑑にもネット上にもみつかりません。
しかしもう誰も答えてはくれません。。。
森井家が「但馬興宗寺」と呼ばれている寺を菩提寺としていたということは、もともと但馬地方からやってきたのではないだろうか?
但馬地方の兵庫県豊岡市出石町には、ずばり森井という地名がありますし。
ジャパニーズドリームを夢見て船に乗るようになり、北前船で寄港地であるこの小松付近に住み着いたのではないだろうか?
でもすべては推測でしかありません。
・・・と、あらためて興宗寺のことを調べていると、「但馬」は当て字で、福井市の「田島」地区にあったから「タジマ」とつけただけみたいなことが書いてあるのを見つけてしまいました。
なんじゃそりゃ!たまたまか~!!普通に田島ってついてたら誤解しなかったのに・・・
ところで、半左エ門の兄も父も同じ森井半四郎という名。
そして父・半四郎は、同じ菩提村の坂下家からスヱを妻として迎えています。
いまも菩提町に住んでおられる坂下家の子孫の方から伺ったお話なのですが、坂下家はもともと福井の吉崎御坊に居を構えていて、なんでか菩提村に移り住んだということ。
わざわざ菩提村という辺鄙なところに移住するのには理由があるはずですが、ひとつ思い浮かぶのが、この興宗寺。
菩提村から2里ほど北に、月津村という地があります。
そこは興宗寺の第五世・円慶が隠居した地であり、のちにその隠居した掛所も興宗寺の寺号が与えられたそう。
使い分けとして、但馬興宗寺、加州興宗寺と呼ばれているらしいのです。
そして、菩提村にある花山神社の由来の碑によると、菩提村は平安時代のころ蛙子村(読み方は不明)と呼ばれており、戦国時代には山口宗永の領→1600年に前田家の領→1639年大聖寺藩領となり、その当時は100戸に近いほどの人口があったそうで、当時の石高は453石と記録されています。
しかしながら山村で、土もよくなく、不便な地であったために7戸しか残らないまでに荒廃してしまったそう。
そこで月津村から由右エ門ら何戸かが移住し、13戸まで村を建て直したと。
うむ、関西地方→吉崎御坊→月津→菩提・・・と、このような感じで移住していったのかもしれません。
幹男さんの資料には、「福井の興宗寺には過去帳は無し。月津にあるのかも」との記載があり、月津までは行かなかったことがわかります。
わたし、跡を継ぎますから!!いつか月津に行きます!いまや過去帳を見せてもらうのは高い壁になってしまいましたがね。。。
また、北海道に渡ってきた時期も不明な半左エ門。
転籍は明治27(1894)年ですが、明治19(1886)年に生まれた半次郎の弟・小太郎が、のちに半左エ門の妻となる髙谷タケ(1845~1922)の子として落部で生まれているのです(弟は最初、髙谷家の戸籍に入っていました)。
ですので、少なくともそれ以前には北海道にいたのだと思うのですが・・・
戸籍上では明治15(1882)年生まれの半次郎、どこで生まれたのか知れません。
大正7(1918)年に、父・半左エ門が隠居していまして、その際に編製された同じ落部村の戸籍には、母欄にタケと書かれています。
最古の戸籍には母についての記述は一切ないのですが、隠居の届を出すときにきっといろいろと書かされたと思うので、母が髙谷タケなのはほぼほぼ間違いないのかなと思っております。
そうすると、半次郎が生まれる1年前の明治14(1881)年には落部に移住していたのか?
あるいはもしかすると、出稼ぎ先でのロマンスだったとか・・・?それで移住を決意したとか・・・?
半左エ門の戸籍に半次郎は出生時から入っているようですし、でも弟の小太郎は髙谷の戸籍に入っているし・・・
むむぅ、妄想が暴走気味に💦
半次郎が生まれたとき、半左エ門は29歳、タケは37歳。この年齢差も、なんだか時代背景を考えるだに不思議に思うのです。
ちなみに半左エ門、隠居して2か月後に分家し、さらにその1か月後には森井家を廃家。
タケの子(タケですが、半左エ門と結婚する前は髙谷重太郎氏と結婚していました)である玉藏が継いだ髙谷家に夫婦そろって入籍という、説明がないのでまったく意図がわからないことになっています。
こういう場合は名字も髙谷になるのかな?髙谷半左エ門になっちゃったんでしょうか?
高谷家の戸籍では、続柄「継父」となっています(タケは「母」)。
その後、大正11(1922)年にタケが亡くなり、そのわずか11日後に半左エ門も68歳の生涯を終えました。
きっと仲良し夫婦だったんでしょうね。
少なくとも道立公文書館に所蔵されている明治6(1873)年の落部村戸籍簿(目次みたいなの)に髙谷家は載っていましたが、森井家は載っていないのは確認できました。その時点では半左エ門は菩提村に本籍があったのですから当然なのでしょうが。
ちょいちょいもやもやが残っている森井家。
八雲の髙谷家や加賀の山中温泉にアプローチをしてみたいところですが、時間をおいてしまったためにちょっと及び腰。
北前船についても、調べたい調べたいと思っていて、数年来ほっぽったままです。
以下は、森井家についての調査進捗状況です。
妻の祖先の地、下北半島
下北半島。
本州の最北にある、斧みたいな形の半島。
妻の実家である山田家は、高祖父・山田菊松(1875~1934)の代のとき、明治38(1905)年にその下北半島から釧路郡鳥取村(現在の釧路市北斗)へ入植してきました。
青森県下北郡田名部町大字関根字高梨川目。現在はむつ市関根高梨川目となっていますが、そこが山田家がかつて住んでいた地域の名です。
角川地名事典の関根村項には以下のように記されています。
「下北半島先端部、津軽海峡に注ぐ出戸川下流右岸に位置する。地名の由来は、古く二道の関・大関・根古木の小村が合併した際に各村の一字をとったものという。江戸期は北郡に属し、盛岡藩領。江戸期の資料によれば、家数175。本村を除く集落別内訳は北出戸15、川代14、烏沢45、高梨11。宝暦8(1758)年創建の春日神社がある。明治元(1868)年に弘前藩取締。以後黒羽藩、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、明治4(1871)年に青森県に所属。明治元(1868)年の戸数147。」
その江戸期に11戸しかなかった集落・高梨川目の山田家は、山田三之丞が戸籍上では最古の名前。
文政7(1824)年生まれの次男・山田善四郎(1824~97)の父として名前が記載されています。
善四郎夫妻には男子が無く、跡取りとして同じ高梨の畑中家より由藏を養子に迎えます。
しかし明治元(1868)年、望外の長男・留藏を授かったのです!
時に善四郎および妻・みの、44歳の初夏でした。
跡取りとして迎えられたところで、立場が微妙になってしまった由藏でしたが、妻として同じ関根村の舘半六養女・みゑ(1856~?)を迎えます。みゑの実家はここからは知れません。
なお、善四郎の妻・みの(1824~1917)は舘半右エ門長女であり、同じ舘(この地域では「たて」と読むそうです)姓であることと「半」の字が共通していることから、半右エ門と半六は何らかのつながりがあると考えるのが自然かと思われます。
そして明治8(1875)年、由藏とみゑ夫妻の間に長子・菊松誕生。由藏の年齢はわかりませんが、みゑは18歳でした。
私の手元にあるのは、山田家の明治19年式戸籍。
山田の本家は三之丞の長男・春松が継いだようで、次男の善四郎は明治12(1879)年、55歳の時に分家。
さらにその5年後の明治17(1884)年に善四郎は隠居しており、編製時点では当時18歳の山田留藏が戸主となっています。
しかし、由藏の名前が見当たりません。
菊松の父欄には「善四郎離別養子由藏長男」とあり、何らかの理由で由藏は山田家を離れたようです。
留藏がいることで結局居づらくなり、実家の畑中家に戻ったのかもしれません。
山田家はどういう家なのか、なぜ下北に住んでいるのか、畑中由藏はどうなったのか、舘家とのつながり・・・
気になることがわんさかでてきたことで、高梨の山田家へとお手紙作戦を決行!
そうしたらば、おそらくは善四郎の兄が継いだ本家の方と、留藏の子孫の方からご連絡をいただくことができたのです(≧◇≦)
本家からのお手紙には、以下のようなことが記されていました。
「山田・田中・舘・畑中・安藤・倉田の六氏が戦に敗れて落人となり、この高梨地区に落ち延びた」。
なるほど・・・、戦・・・?どの戦かしら?
調べてみると、高梨が属する旧関根村のお隣である大畑地区には、1615年の「大坂夏の陣」で豊臣方に附いて敗れた兵が落ち延びた末に発見したという言い伝えがある薬研温泉が!
大阪からこんなに遠い下北まで命がけで来るのですから、おそらく同じようなシチュエーションで高梨にも落ち着いたのではないかと。
しかも本家の方が教えてくださった6つの姓は、調べてみると東海や関西地方に多い姓。
そういう断片的な情報を以ていろいろ勘ぐると、高梨の人々の下北以前のルーツは東海や関西となるのではないかと推察。ずいぶん範囲が広いですけれど、これが精いっぱいかなぁ・・・
その後、2012年に実家の函館にへ帰省ついでについでにフェリーで下北半島に渡り、高梨で墓参をするという野望を果たせたのです。
まさに高梨は秘境ともいえる雰囲気の集落であり、敗走から落ち延びるのにちょうど良かったのでしょうか。
本家の家紋は「丸に三つ柏」。
分家の善四郎家は「丸に木瓜」。
なぜ変えたかは知れませんが、釧路の山田家は善四郎家と同じ紋を使用しています。
善四郎家ですが、40年位前までは稲作農家だったそう。
もしかすると釧路に渡った菊松もノウハウを活かして釧路で稲作を試みたかもしれません。
でも釧路は寒くて海沿いで塩分の多い不毛な土地なので、農業はとても無理なのです。
最終的には馬のブリーダーとなりました。
そして菊松の母・みゑ。
由藏が山田家を去ったのち、奥内・鳥山万右エ門家より次男の丑松を婿として迎えました。みゑとは同い年。
丑松とみゑの間には、万次郎(1885~1966)、伊與松(1887~1954)、多三郎(1893~1955)という三人の男子が生まれ、その後は菊松とともに丑松一家も釧路に渡ったのです。
伊與松家の墓石には、「丸に三つ柏」紋が彫られていますが、本家と同じくした紋なのか、あるいは丑松の鳥山家の紋なのかは不明。
なお、万次郎と多三郎の家の家紋は現在わかっていません。
万次郎家には子どもたちとともに2014年に訪問したことがあり、その時は万次郎の息子さんの奥さんがいろいろお話してくださいました。
主に馬の話でしたが、釧路の山田家にとって馬はそれほど大切な存在だったのだなと改めて思った次第。
馬産王国ともいわれた釧路を支えていた誇りが感じられました。
しかしその翌年、その奥さんが亡くなり、さらに息子さんと息子さんの奥様もその翌年、翌々年に相次いで亡くなってしまい、もはやお話を聞くことができなくなってしまいました。。。
ところで、菊松の母であるみゑの没年がいまのところわからないのです。
万次郎家では、みゑは多三郎家に住んでいたはずといわれ、多三郎家には万次郎家に住んでいたはずといわれ・・・
大正時代のことなのに~と思ったのですが、大正も遥か昔のことなんですよね。200年くらい前のこととか考えていると感覚が麻痺してしまいます。
戸籍で確認しようにも、釧路市の除籍は80年廃棄。
取得できる最古の戸籍、大正12(1923)年に編製された多三郎が戸主の謄本に、隠居した丑松は記載されていますが、みゑについての記載はありません。
青森から鳥取村に転籍したのが大正5(1916)年12月。
この7年の間におそらく亡くなったのだろうと推測されます。そうなると没年齢は60歳~67歳の間ということに。
なにせみゑは直系の祖先。
供養のためにもどこに眠っているか知っておきたいです。
また、この記事を綴るにあたってネットでいろいろ調べていたところ、こんな本が出ていたのを知りました。
関係者1,000人以上の豊臣方人物について記されているようです!
高梨の祖先についての記載があるかも・・・どきどき💓
読みたいけど2まんえんもするのか~💦
うん、ここは図書館だな。
でもほとんどの所蔵図書館が禁帯出扱い・・・
北海道だと江別の道立図書館と、私の実家がある函館の市立図書館にあるみたいだ!遠いなぁ。。。
以下は、いままで綴った山田家についてのブログ記事です。
2008/05/12 青森県下北郡田名部村→鳥取村【山田家】
高祖母の実家、小生瀬石井家もまた・・・
私の高祖母・菊地すゐ(1874~1931)。夫である菊地幸吉(1874~1959)とは同じ年。
茨城県久慈郡大子町にある小生瀬という村から、明治26(1893)年に隣町の福島県東川郡矢祭町の東舘に嫁いできました。おたがい19歳の年でした。
その石井家、戸籍を手繰りますとすゐの父である石井庄衛門(1837~1902)が隠居し、その長男である石井酉次郎(1861~?)が戸主のものが最古。
庄衛門の父欄には、亡祖父(戸主である酉次郎から見て)重四郎長男と。
その後、庄衛門と二男の鐡之助は酉次郎家より分家し、娘の嫁いだ東舘に移住しています。
弟子屈町に住んでいる大叔父(すゐの孫)が、石井家について伝え聞いていることがあります。
「石井家、久慈郡一帯の庄屋・庄右衛門として代々治める」
なるほど・・・、これはあれですね、大風呂敷というやつ。
信じないわけではありませんが、おおげさな感じが否めません。
しかしそう伝わっている以上、ご先祖様にとっては余計なことかもしれませんが、調べなくては納得がいかないのですね。
まず、図書館の相互貸借で大子町史を紐解いてみます。
石井重衛門という名がたまに出てきますが、庄衛門や重四郎という名は出てきませんでした。
でも似てますね。庄衛門と重四郎が混ざったみたいな名前です。
そんなことをブログに綴らせていただいたらば、当時筑波大学の学生だった大子町出身の青年から、一通のメールをいただきました。
どうやら彼が実習している施設に、石井家の縁故者がいらっしゃるという話!
こうして、奇跡的に石井庄衛門の次男である鐡之助の曾孫さんとコンタクトをとることができたのです。
この方によると・・・
・すゐの存在は初めて知った(最古の戸籍からは既に除籍となっているため)
・小生瀬村の庄屋であったことは語り継がれている
そして、貴重な歴史の声である石井さんのメール原文を以下に載せさせていただきます。
『水戸藩内の幕末の政争「天狗諸生の乱」で、親子が天狗派と諸生派に分かれ、天狗派であった息子が小生瀬の家を出てしまい、一時は原戸籍からも抜かれていたことなど、断片的に聞いておりましたが、出てきてしまった土地での昔のことは、何とでも良いように話を作ることもできるから、と一笑に付しておりました。
このたび、菊地さんのブログを拝見して、同じような伝承があることを知り、少し真面目に父の思い出話を聞いてみました。おかげで、今までごちゃ混ぜになっていた曽祖父と祖父の話を、少し整理することができました。
天狗諸生の乱で家を出てしまった子というのが庄衛門、当時31歳。父が聞いている話では、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念し、妻と赤子だった次男鐵之助を連れて谷底に身投げしようとしたところ、赤子が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、東館付近に潜伏したとのことです。当時、7歳ほどになっていた長男酉次郎は父重四郎に託し、小生瀬の家に残したのだと思われます。鐵之助の生まれ年から考えると、明治元(1868)年のできごとのようです。
そのまま東館に腰をすえ、鱗(うろこ)屋(わが家の屋号はウロコヤといいます)という旅館を開業して大いに儲けたそうです。鐵之助の妻 アキや長男一(はじめ)から、大きな池のある立派な旅館だったと、私の父は聞いているようです。しかし、鐵之助が将棋に現を抜かし、一が5才位の時に破産したとか。庄衛門の死をきっかけとして、家財道具を大八車に乗せ、夜逃げ同然に東館をあとにしたようです。』
・・・ということを教えていただきました。
また、家紋は「二つ巴」、家があった小字は「寺地」だということも。
さらには、
『小生瀬の屋敷跡は、父が子供時分は竹薮になっていると聞いていたとのこと。酉次郎らが岩間に移ったとの(戸籍の)記載を見て、父は祖父一に、東京からの帰り、親戚がいるのだと岩間で途中下車して訪ねたことがある、と思い出しました。祖父の代までは、行き来があったようです。
現在の我が家の墓地は、市内近所の寺院にあり、墓誌に「小生瀬で横目を長年務めた」と刻してあります。「横目」とは村内の取り締まりを兼ねた庄屋のことのようです。父によりますと、この墓地を造るに当たり、東館の東慶寺にあった墓を移し、庄衛門夫妻の遺骨も納めたそうです。』
・・・と、やっぱり大叔父が言っていた「久慈郡一帯」は大げさだったにしても、小生瀬の庄屋さん的立場だったんだ!ということが判明し、何だか一安心でした。
後日、小生瀬に伺えることになったことで、石井家についてより一層の調査をすべく、お手紙をしたことがありました。
そして、お会いできるとおっしゃってくださったお宅が2軒あり、スケジュールが合えばお会いできることとなったのです。
さらに、大子町出身の名字研究家で、日本テレビの番組「沸騰ワード10」でのハンコバトルでも有名な髙信幸男先生にも石井家について質問のお手紙をしてみましたところ、ご返事をいただくことができました!
髙信先生のお手紙には、細かい字とかはぜんぜん読めませんが、石井家のものだというたいそう立派な墓石の写真。
これはぜひともお参りしたい!
ということで、2018年10月に行ってきました。小生瀬に。
実は10年ぶり2度目の訪問ですが、前回は一切の収穫が無く、後ろ髪ひかれる思いで去っていた過去があります。
そういえば、小生瀬という名にもしかすると聞き覚えがある方がいらっしゃるかもしれません。
飯嶋和一先生の小説「神無き月十番目の夜」の題材にもなった、「小生瀬の乱」あるいは「生瀬騒動」などという名がつけられている事件があった場所です。
詳細ははしょりますが、詳しくはネット上にたくさんの情報がありますので、ご覧いただければと思います。幕府がひた隠しにしていた非常に興味深い事件です。
小生瀬で最初に伺った石井家。最古の祖先は石井庄次兵衛氏。
お話を伺ったのですが、接点が見いだせません・・・。
そこで、お墓に連れて行ってもらえることに。
石井さんの軽トラの後を追うフィット(レンタカー)!
そこにあったのは、髙信先生が送ってくださった写真とは異なり、真新しいお墓が4基。家紋も異なります。
どうやら庄次兵衛さんを祖とする一族のお墓を纏めたそうです。
むむむぅ・・・という顔をしていると、
「庄屋だった益子さんのお墓にもいってみっかい?」とのご提案。
益子さん?庄屋?庄屋は石井家じゃないの?え?
・・・と思う間もなく石井さんは軽トラで動き出しました。追わないと!
すると、目の前には髙信先生に送っていただいた写真と同じおっきな墓石が!!!!!
え?石井家の墓石じゃなかったの?これ??益子さん?確かに益子って書いてある!?
んもう釧路から遠い小生瀬で大混乱の極み。
なんとかがんばって心を落ち着かせ、まじまじと見てみました。
いろいろとみてみると、家紋は見つけられません。キリーク文字が彫ってあるので真言宗でしょうか・・・?
石井さんによると、水戸藩の廃仏毀釈が激しかった地域のようで、寺は廃寺になり、その後の石井家は神道になったそうな。
また、益子家の子孫の方は東京で病院を営んでおり、年に一度は墓参に来られるとのこと。
そんな話をしていると、ん?天明8(1788)年正月と彫られた俗名・益子庄右エ門信任?のお墓がある!
しょうえもん!石井じゃくて益子だけど・・・!?
これはどういうことかしら?
いままで益子という名は聞いたことがありませんし。
しかし、石井家のものだとおもって写真を送ってくださった髙信先生のこともありますし、なんらかの形でかかわりがあると考えるのが自然?
石井さんは庄衛門の名にどうやらぴんと来ない様子でしたし、謎のままに終わってしまいました。
そして、もう1軒お邪魔するはずだったりんご園の石井さんへは、タイムアップでお邪魔できず・・・
ちょうどりんご狩りのピークで、めちゃめちゃ混んでましたし、またいつの日か閑散期を狙ってコンタクトをとろうと画策しています。
石井家の謎はもうひとつ。
万延元(1860)年3月、井伊直弼大老が襲撃された「桜田門外の変」。
その実行隊長である水戸藩士・関鉄之介をかくまっていた中に、石井家の人物がいるのです。
その人は石井重衛門。
町史にも名前が出てきていた人物。
その重衛門とのかかわりがあるものかどうかについても調査しておりました。
石井重衛門の親戚であり、同じく関を匿った地元の名士である櫻岡家。
そちらの子孫の方にお話を伺うことができたのです。
しかしながら、私の祖先の名はまったくご存じなく、お持ちの文献にも載っていないようでした。
重衛門の子は、兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。
きょうだいに菊池佐一兵衛妻のとり、佐藤五郎衛門妻、伝重郎(平八郎とも)。
父は石井源治兵衛義房(義国とも)。
祖父は石井久治衛門義教。
まったく知らない名ばかり・・・。
こちらもまた、ぼちぼちと調査していきたいと思いますが・・・なかなか厳しそうです。
今回ももやもやする感じでおわってしまってすみませんです。
でも同志の方ならわかっていただけると思いますが、こんなのばっかりですよね。答えはあってないようなものですし。道は厳しい。
以下は石井家についての調査に係るブログ記事です。心に余裕がおありでしたらご一読をいただけるとうれしいです!
2008/05/24 茨城県久慈郡生瀬村→福島県東白川郡豊里村【石井家】