真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

じいちゃんとか平野家についてとかのなんやかんや

母方平野家のじいちゃんが居なくなってから半月。

そろそろ心の整理もついてきたので、重い腰を上げてここ最近のお話を綴ってみようかなと。

 

平野家の調査について、数年前からずっと鍵になるであろうと思っていた本がありました。

その本は「大泉今昔物語」。

母の実家である平野家は現在北海道斜里郡小清水町で農業を営んでおりますが、もともとは明治38(1905)年ころに今は東京都練馬区の大泉地区となっている北豊島郡大泉村から入植しております。

その大泉村が合併する前の小榑村、橋戸村、上土支田村についての歴史を上土支田の郷土史家、加藤惣一郎氏がまとめてくださり、自費出版で作製された本。

昭和50(1975)年、加藤氏が58歳のときに初版600部を刷ったそうですが、その後も復刻され、ある程度の数はあるのかと思います。

きっとほとんどが地元にあるのでしょうけれど。

 

その本の存在を知った数年前に、図書館の相互貸借で借りようと試みたことがありましたが、その時は残念なお返事でした。

大きな市の市史などとは事情が異なり、小さな村のさらに昔の郷土史ともなると、禁帯出の本が多くなってしまうので、これは仕方のないところではあります。

さらにはたとえば国会図書館の相互貸借だと、釧路の図書館までは来るけれど図書館外には持ち出せないとか、色々制約があるそうです。

しかし地元の図書館には、たまに帯出可の本があったりします。

でも、相互貸借となるとまた事情が違ってくるようで・・・。

 

そして先月2月3日、釧路市の図書館がリニューアルオープンしたときに改めてチャレンジ!したものの、やっぱりダメ~。

練馬まで行かないと読めないのか~(-_-;)

しかし3月3日、もう一度粘り腰で司書さんに、なんとか貸してくれるところを探していただけないでしょうかと頼み込みました。もうモンスターユーザーです<(_ _)>

図書館外へ持ち出しできなくても仕方ないので、せめて読めるだけでも・・・という想いでした。

 

すると、3月8日、館外持ち出し可能な状態で練馬の図書館から釧路の図書館に届いたのです!

その待ち焦がれた本には、いままで仕入れていた情報がかすむほど、まばゆい情報がてんこ盛りでございました。

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貪り読んだ結果、平野家についてだけをかいつまんでまとめてみます。

 

・大泉の平野氏は、もともとは房州仁右衛門島(千葉県鴨川市太海)の平野家の出である

・応長元(1311)年に日蓮の弟子である日高(にちこう)上人、そして野瀬氏という人とともに、小榑村へ日蓮宗布教のためやってきた

・小榑に来た理由は、法華経寺(千葉県市川市中山)のある地の有力者だった高橋氏が、親戚のある武蔵国新座の小榑へ布教に行ってくれと頼んだため

・布教の結果、嘉祥3(850)年創立の天台宗大覚寺が、日蓮宗妙福寺となった

・平野家の本家は南大泉にあったが、総本家は既に絶家となっている

・総本家から分家した平野家は、江戸期に名主であった平野源吾右エ門や、大正期に大泉村会議員であった平野嘉平を輩出

・そこから西大泉の平野家がさらに分家し、西大泉の本家であった平野儀三郎家が北海道へ渡った(結果、分家が本家となり、現存)

・旧大泉村域から北海道に渡ったのは、平野家のみ

 

・・・と、平野家分だけをかいつまむとこれくらいの量なのですが、ここからいろいろな推測(妄想)が頭を駆け巡るわけですね。

 

鴨川市にある「仁右衛門島」は、代々平野仁右衛門という方が所有している島。
現在は38代目の平野仁右衛門さんが守っておられます。

伝説では治承4(1180)年に小田原での「石橋山の戦い」で平氏に敗れた源頼朝が、真鶴から房総半島へ敗走。

紆余曲折の末に当時は蓬島と呼ばれた島へ逃げ、平氏の追っ手から島民の仁右衛門さんに匿ってもらったということです。

蓬島から巻き返しを図った頼朝は、房総半島から兵力や援軍を募り、最終的には平氏を破って鎌倉幕府を創設したということとなっております。

 

蓬島の仁右衛門さんは、どのタイミングかはわかりませんが、頼朝から「平野」の名字と、島まるまる一つと、漁業権を賜ったというお話。

それから蓬島は仁右衛門島と呼ばれるようになったのでしょうが、江戸初期の洪水によって文献等が失われており、詳しくは不明とのこと。

また、仁右衛門島には日蓮(1222~82)が訪れたという史跡、神楽岩も遺っているそうです。

なぜ頼朝が恩人へ敵の名が入った「平野」という姓を与えたのかは知れません。

実は3月15日、NHKの「日本人のおなまえっ」という番組で、敗走中の頼朝が名字を与えまくったという話題がたまたま放送されたのです。NHKでも平野の由来についてはわからないようです。 

落ち着いたときに録画した番組を見て、なんちゅうタイミングか!と驚愕でした。

 

これらの情報をもって、ここから妄想ストーリー(*^_^*)

わが平野家の祖先は、仁右衛門島を訪れた日蓮の誘いにより、仁右衛門島を離れて法華経寺(千葉県市川市)へ入ります。

そして日蓮および弟子の日高(にちこう、1257~1314)上人と生活をともに。

寺領地である中山村の有力者は高橋氏であり、仲間には安房国金杉もしくは夏見(ともに現:千葉県船橋市)付近出身の野瀬氏(←電話帳サイトでの野瀬姓分布により推測)がいる。

その後、郷士高橋氏の要望により、日高上人および野瀬氏とともに高橋氏の親類がある武蔵国小榑へ日蓮宗布教のために向かいました。

日高上人の21日間におよぶ説法の末、天台宗であった大覚寺(850年に慈覚大師が創立)を日蓮宗へ改宗させ、妙福寺と名も改まりました。山号は「西中山」となりましたが、これは法華経寺の建つ中山村に対して西の方角にあたるからでしょう。

平野家祖先および野瀬氏は、寺檀那として土着したようです。

そして現在の南大泉に平野家は連綿と続いておりましたが、江戸初期に総本家は絶家。

しかし、分家の平野源吾右エ門家が江戸時代に長らく名主を務め、大正時代には大泉村村会議員となる平野嘉平を輩出しています。

その平野源吾右エ門よりも以前の代で、わが平野家は西大泉へ分家。

高祖父・儀三郎の代で、儀三郎の義弟となる音五郎(上土支田、加藤長蔵の二男)が婿入りして西大泉平野家を継ぎ、跡継ぎであるはずの儀三郎は北海道へ渡り、現在に至っています。

 

・・・という流れを、本の情報と妄想を織り交ぜつつ、あまり不自然な感じなく?まとめあげることができました。たぶん。

これまで源頼朝日蓮聖人など歴史上の偉人が登場しまくってますが、これだけさかのぼると仕方のないことでしょう(*´з`)

 

また「平野」という名字ですが、妻の予想だともともと「平」は違う字だったんじゃない?とのこと。

ふむ。一考の価値はあります。

 

また、リンク先はPDFですが、このように研究もなされています。

アイヌ語で「崖」を意味するピラという語に万葉仮名で「平」という漢字があてられているのでは?という研究です。

確かに仁右衛門島は崖、傾斜地だらけのような島ですから、あてはまるかもしれません。

アイヌ語といえば北海道。そんな思い込みが崩れ去りました。

はるか昔をさかのぼれば、アイヌ語は日本各地に散りばめられているのかもしれません。

でもやっぱり頼朝が「平」をくれるのはなぁ、と思いますが。

 

よし!この線でじいちゃんに話をしに行こう!と思った矢先。

3月11日の日曜日。函館の実家から妻と娘あてにホワイトデーが届いたのでお礼の電話をしたところ、じいちゃんが入院していることを聞いたのです。

どうやら肺の検査入院だそうでしたので、週末土曜日の17日にでもお見舞いがてら話をしに行こう!と思っていたところでした。

入院したのは3月8日。

きっと、セブンスターを嗜み、お酒も呑み、しょっぱい食べ物を好んだじいちゃんは、病院の薄味の食事や、タバコも酒もダメ、しかも水も制限されて・・・というのがイヤになってしまったんでしょう。

検査入院からわずか5日後の3月13日、じいちゃんは96年、35,072日の生涯に幕を下ろしてしまいました。

あっという間に魂だけが病院を抜け出していってしまいました。

 

亡くなる前日までは自分で歩いてトイレに行っていたそうですが、やはりしんどそうだったようで、

「俺はもうダメだ」とか、

「16からだぞ・・・」とかつぶやいていたようです。

そう、じいちゃんは16の時分に父も祖父も失い、平野家の家督を相続して家長となったのです。それから80年もの間、平野家を守り続けてくれました。

 

最期については、また聞きなので間違っているかもしれませんが、以下のようだったそうです。

ベッドに横たわり、最後の力を振り絞ってなにやら伝えたかったらしいじいちゃん。

何かを話していたそうなのですが、もはや力がないうえ、もともとバリトン級に低い声だったので誰も聞き取ることができず、みんなが??という顔をしていると、

「なんで俺の言っていることがわからねぇんだ、馬鹿野郎!」

・・・と言い、そのまま息を引き取ったということです。

 

じいちゃんは最後までじいちゃんだったという、まさにレジェンドとして後世に語り継がれるべき存在でした。

最期に何を伝えたかったのかは、もう知る術はありません。

 

また、じいちゃんの「政次」という名ですが、ずっと「まさじ」が正しいのに気に入らないから「せいじ」とか「まさつぐ」とか名乗っていたと思い込んでおりました。

しかし、じいちゃんの一番上の姉が「まさつぐ」と呼んでいたとか、一番下の妹は「まさじ」だと思っていたりとやはり一定しなかったのですが、しかもプライベートと仕事で使い分けていたらしいという情報も。

結局なんやかんや情報をまとめた結果、叔父曰く「まさつぐ」で決定したそうです!

今後遺していく資料は「まさつぐ」で統一することとします。

 

・・・じいちゃんがもう居ないなんて、寂しい。

平野家の歴史を優先的に繙いていたのも、じいちゃんにいろいろ教えたり教えられたりしたかったからでしたし。

これでもう、重要な記憶が天に昇ってしまいました。

あとは、じいちゃんがうまいこと私を歴史的真実へと導いてくれるといいなぁ・・・と思いにふけったりしている年度末。

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2011年5月、娘が撮影したじいちゃんの最高の笑顔。私はこんな顔見たことないです。