新たなトライ
妻の母方である森井家。
昭和10年代に釧路市に来る前は、現在の八雲町東野や野田生あたりに住んでおりました。
そして八雲に残っていた最古の戸籍によると、明治26(1893)年に石川県江沼郡那谷村菩提から転籍ということで、現在の小松市菩提町で生活していたようです。
しかしながら、小松市の戸籍謄本は既に廃棄済み・・・。もうひとまずここまでか~というところで、神戸に住む妻の母のイトコさんがずっと森井家の祖先調査をしていたことが判明。
いろいろとご教示いただき、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の母・スエさん(生年不明~1876)が、坂下という家から森井半四郎(生年不明~1868)のお嫁さんに来たということを聞いておりました。
まだまだ聞いておきたいことはいっぱいあったのですが、そのイトコさんはおととし急に亡くなってしまい、それも叶わなくなってしまいました。
そしてこないだ突然思い立ち、森井家、そして坂下家についての情報を求め、小松市菩提町の坂下さんにお手紙作戦を実行。
すると、なんとステキなことか!本家の方からお電話をいただくことができました(*´▽`*)
坂下さんは森井家については存じ上げないご様子。というのも、半左エ門の兄貴である半四郎(生年不明~1922)さんは、大正15(1926)年に山中温泉へ移住してしまっているのです。
菩提には森井の人間は誰もおりませんので無理もありません。
ただ、子どもの時分に菩提の墓地で親御さんから「ここも親戚だから」と言われ、参っていたお墓があったそうです。
それはどのお宅のお墓かはわかりませんが、森井のお墓もまだ菩提に残っているので、もしかすると・・・という気はします。
▲平成6(1994)年に義母のイトコである森井幹男さんが来訪した際に撮影された写真。森井家のお墓は、菩提の墓地では一番大きなお墓だそうです。
坂下さんのお宅で判明している一番古いお名前は文久2(1862)年生まれの坂下亀松さんで、奥さんはリセさんとおっしゃるそうです。
もともとは福井県の吉崎御坊(現在のあわら市吉崎)に住んでいたそうですが、おそらくは江戸後期に木こりか何かの仕事で菩提に移り住んだと伝わっておりました。
名字である坂下も、菩提に来てから坂の下に住んでいたので坂下となったのでは・・・と、はっきりとはわかりませんが、そういうことになっているようです。
そして家紋である桔梗紋も、いつから使用しているかは不明とのこと。
貴重な情報をいただけてたいへん嬉しくも、恐縮する時間でした。
あぁ、よかった(#^.^#)
・・・と、そこで吉崎御坊について調べてみると、森井家とも共通項がやはり見えてきたのです。
森井家の菩提寺は義母のイトコさんによると浄土真宗本願寺派の牛鼻山但馬興宗寺。
坂下家が居たという吉崎御坊は、興宗寺と密接なつながりがあったのです。
以下、wikipediaから要約。
・開基は越前長畝郷田島(現在の坂井市坂井町田島)あたりにて、行如(円善の弟子)による。
・行如と同じく円善の弟子であった如道が大町道場(後の大町専修寺)を開いたのが1290年であることから、開基は同時期と考えられる。
・1311年に大町道場へ本願寺の覚如が20日余り滞在し、如道とともに行如も勧化を受け、本願寺系の僧となった。その際に興宗寺の寺号を覚如より賜ったものと思われる。
・田島の地にあったが、なぜか「タジマ」が「但馬」と変化。但馬興宗寺となっている。※追記:もしかすると(後に登場する)朝倉氏がもともと但馬(現在の兵庫県養父市八鹿朝倉)の出だったというのが関係あるかもしれません。
・行如は北条時政の孫である時村であったという。そのため興宗寺の住職は北條姓を名乗る。
・興宗寺第5代円慶のころ、蓮如が吉崎に下向。興宗寺に滞在し、文明3(1471)年に吉崎に一宇を建立(吉崎御坊)。建立にあたり、朝倉氏に許容され、御山の土地と材木の寄付を受けたとされている。
・吉崎御坊建立後、円慶は48もの多屋(寺)を並べた。その功が認められ、蓮如から「牛鼻山」の山号を拝領。牛鼻山とは、吉崎付近にあった牛山村に多屋を建てたためとも、円慶が隠居した月津(現在の石川県小松市月津)の牛ヶ鼻に掛所(休泊所)があったためとも。
・北ノ庄城主であった堀秀政が北庄柳町の寺地を寄進したことから、天正15(1587)年に興宗寺を含めた越前の大寺院が集められた。柳町御坊と呼ばれる。
・1600年代後半、城下の2度に渡る大火を機に、興宗寺は城下の北端1,500坪の土地へと移転。
・戦災と昭和23(1948)年の福井地震のため、興宗寺の建物は壊滅。復興や区画整理のため、現在の福井市松本3丁目に移転し現在に至る。
・・・というのが福井興宗寺の歴史を簡単にまとめたものです。
そして円慶が隠居した月津の掛所。
当初は太子堂と称されておりましたが、円慶の息子の一人が継ぎ、なんやかんやでこちらも興宗寺の寺号を授けられたのです。
当初は福井興宗寺も月津興宗寺も良好な関係を保っていたそうですが、本願寺が東西に分かれた際に福井興宗寺は西(本願寺派)、月津興宗寺は東(大谷派)となってしまったらしいです。
森井家の過去帳は月津興宗寺にあるそうなので、菩提寺は月津ということになるでしょうか。
推測ばかりですが、森井家も菩提村の前は越前吉崎の人だったり・・・?
でもどっちみち石川にも福井にも森井姓は少ない。。。
そして坂下家。
興宗寺との関係を勘繰るならば、この月津と7キロしか離れていない菩提村に移り住んだのは、必然だったのかもしれません。まったくの推測ですけれど。
あぁ、また何かディープな世界に足を踏み入れてしまったような気がする。
浄土真宗は歴史が複雑すぎる!
また、いままで子どもたちに繋がる家が61系統判明!と書いておりましたが、坂下家を漏らしていたのに今気づきました。結果、62系統に(*^▽^*)
2018/5/29追記:妻の祖母の法名、釋のあとに「尼」の文字がありまして、この文字が入っている場合は真宗大谷派だそうです。またまたwikipediaより。
また、浄土真宗の場合は菩提寺ではなく「手次寺」というそうですね。知らないことばかりだ~(*´Д`)
あとまたまた推測ですが、但馬から越前に来た朝倉氏。
もしかすると出自は関西ではないかと目している森井家と、動きがシンクロしているのでは・・・とか考えたりしています。