真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

菊地家について、多くの謎のうちのひとつ

家系のインデックス

 

本日19:30から、NHKで放送される「日本人のおなまえっ」にて、ついに菊地と菊池の違いについてのことが話題に上がるようです(*^^)v

なんかもうワクワクしますねっ!

 

そんな折、我が家・菊地家の祖先について、戸籍上の不審点があるのを思い出し、ちょっと表にしてみたのです。

 

    儀右衛門 ヤス  

儀右衛門

長女

儀右衛門

三女

     
        儀平 ハツ シモ 儀平長男 儀平次男 儀平長女
              初太郎 幸吉 シナ
                                   
文化7 1810 関岡 0                            
文化10 1813 関岡 3 東舘 0                        
弘化1 1844 34 東舘 31 上関 0                    
嘉永5 1852 東舘 42 東舘 39 上関 8 東舘 0                
慶應2 1866 東舘 56 東舘 53 22 東舘 14 東舘 0            
明治1 1868 東舘 58 東舘 55 24 東舘 16 東舘 2            
明治3 1870 東舘 60 東舘 57 東舘 26 東舘 18 東舘 4 東舘 0        
明治7 1874 東舘 64 東舘 61 東舘 30 東舘 22 東舘 8 東舘 4 東舘 0    
明治23 1890 東舘 80 東舘 77 東舘 46 東舘 38 東舘 24 東舘 20 東舘 16    
明治24 1891     東舘 78 東舘 47 東舘 39 東舘 25 東舘 21 東舘 17 東舘 0
明治26 1893     東舘 80 東舘 49 東舘 41 東舘 27 東舘 23 東舘 19 東舘 2
明治28 1895     東舘 82 東舘 51 東舘 43 徳田 29 東舘 25 東舘 21 東舘 4
明治30 1897     東舘 84 東舘 53 東舘 45  婚姻   東舘 27 東舘 23 東舘 6
明治31 1898     東舘 85     東舘 46     東舘 28 東舘 24 東舘 7
明治32 1899     東舘 86     東舘 47     東舘 29 東舘 25 東舘 8
明治34 1901             東舘 49     東舘 31 東舘 27 東舘 10
明治35 1902             東舘 50     東舘 32 東舘 28 東舘 11
明治39 1906             東舘 54     東舘 36 東舘 32 東舘 15

 

戸籍上では、儀右衛門の子どもは長女・ハツと三女・シモしか確認できません。

しかし、子どもたちが生まれたときの両親の年齢が、長女ハツのときは42歳と39歳、三女シモのときに至っては56歳と53歳なのです。

ハツのときはまだしも、シモについては、もしかするとハツの妹ではなく、当時22歳と14歳だった儀平とハツの子なのでは?という疑念もわくわけです。何かしらの事情で戸籍上は儀右衛門の子として登録したのかもしれません。

また、儀平・ハツの長女シナも、両親が47歳と39歳。もちろんありえなくはないですが、さきほどからの流れでこちらも当時21歳の初太郎と、23歳の妻・植田シモの子ではないか?という穿った見方をしてしまうわけです。

なんでこんな想像になるかというと、曾祖父・幸太郎の長女である大伯母が、幸太郎夫妻の子ではなく、幸太郎の父・幸吉の子として記載されているということがあったことから。

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大伯母の場合は、吹雪の日に通りすがりの人に出生届出を頼んだら、なぜか幸吉じいさんの子にされてしまった(!)という伝説を大叔父から聞きました。本人はめっちゃ嫌だったそうです。今では考えられないエピソードですが、屈斜路から弟子屈の役場は遠いですから、そういうこともあったのでしょう。しかも、ヨノセさんではなく、本来はセツヨさんだそうで、全然違うことだらけ(;・∀・)

・・・そんなわけで上記のような想像に至るわけですが、もう誰も答えてはくれません。

久慈市荷軽部のご先祖さまの姓は・・・?再び

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こないだ、現在の岩手県久慈市荷軽部(昔は九戸郡荷軽部村)のご先祖さまが、姓すらわからないということを訴えまして、その後もちょいちょい気になって調べておったのです。

 

小右エ門という姓なのではないか?と思ってはいたのですが、電話帳サイトをみてみると以下のような姓もあり得るかと感じているところです。

 

2000年現在の電話帳のデータを拝借しました。

山形村荷軽部の件数(カッコ内は最近のデータ)
刈間澤~1(全国1)
十良沢~1(全国23。内岩手13、その内久慈2、九戸1)
桜 沢~1(全国620。内岩手2、その内久慈1)
苅間沢~12(全国25。内岩手25、その内久慈13、九戸3)
韮 沢~2(全国421。ほぼ新潟。内岩手11、その内久慈8
※荷軽部には、苅間沢と韮沢の小字あり。近くの葛巻には十良沢の小字あり。

 

ダントツで地名姓である苅間沢さんが多いのですよね。

しかも岩手率100%ですし。

確率的には苅間沢さんのような気がしますが、くずし字にしても苅間沢とは読めない・・・。

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なんか間違えてませんか?昔の長興寺村戸籍係の方~(*´Д`)

大子の石井家はもともと・・・?

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矢祭町史を改めて読んでおりましたところ、大子町小生瀬に在った高祖母の実家・石井家に近い、以下のような記述がありました。

 

年不詳【秋田藩家蔵文書】
石井兵庫伝来文書写

つくし(筑紫)豊後国より下候〇兄弟四たり名字は〇成、うち(氏)
 ちゃくし石井(矢祭町石井)へ落着、
 二番め山本(棚倉町山本)へおち付、
 三番め田さき(茨城県那珂郡田崎村?。現:那珂市田崎)
 四番め井上(茨城県行方郡井上村?。現:行方市井上)
石井安藤太郎生瀬(茨城県久慈郡大子町生瀬)に落着、
 舎弟安藤二郎高倉(茨城県久慈郡高倉村。現:常陸太田市内)ニ、
 三番め蔵主小里(茨城県久慈郡小里村。現:常陸太田市内)ニ、

 

・・・最後が読点で終わっているのがミステリアスですが、生瀬に落ち着いたという石井安藤太郎さんが石井家の祖なのかしら?

年不詳ですが、周りの文章が天正年間(安土桃山時代の1573年から1592年)なので、その頃の文書なのかもしれません。

だとすると、大子に来る前は福岡方面に住んでいて、本姓は「平」ということに。

いままで調べてきた中で、源平藤橘が出てきたことはありませんでした。

初めてのことですので、かな~り興味深い内容です(#^.^#)

 

しかも秋田藩家蔵文書というあたり、ますます不思議。

 

ちなみに矢祭町史の注釈だと、「田さき」と「井上」はどこだか不詳ということになっております。

カッコ内は私が勝手に一番近いところを探してみただけですので違うかもしれません。那珂はまだしも行方とかは遠すぎますし。

岩手県九戸郡九戸村戸田【福田家】

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今までブログにて触れてこなかった家について、ちょぴっとだけ足を踏み入れようと思い、最近大活躍の太田亮先生著「姓氏家系大辞典」をまたまた紐解いてみました。

 

今日は、妻から見ると父の父の母の母の母である岩渕ハツ(1857~1920)の実家である福田家について。

 

安政4(1857)年、陸奥国九戸郡戸田村(現:岩手県九戸郡九戸村戸田)の福田三之亟の長孫として生をうけた福田ハツさん。

この長孫という表記は、ハツさんでしか見たことがないのですが、後年の戸籍を見ても両親の欄は空っぽなのです。

明治7(1874)年、16歳で同じ戸田村岩渕家に嫁ぎます。

夫の岩渕石松(1853~1938)は3歳年上。戸籍にすべてが記載されているかは不明ですが、10人の子宝を授かります。

 

その石松・ハツ夫妻の三女が、妻の高祖母にあたる岩渕サワ(1891~1973)。

サワさんは九戸村長興寺の千葉家に嫁ぎまして、妻が生まれる5年前までは九戸にてご健在だったようです。

その千葉家、本家は1000年以上前から九戸神社の神主さんの一族。

九戸神社は九戸一族が代々戦勝を祈願した神社。かの九戸政実もここに祀られています。

 

そこで「姓氏家系大辞典」が登場するわけですが、このような記述がありました。


陸奥の福田氏
二戸郡福田邑より起る。旧指録に「(南部)光行公が八戸着岸の時、福田云々等来りて随い奉る」と。その後、天正十九(1591)年三月、福田掃部あり、九戸政實方に属す。また参考諸家系図に福田次郎兵衛祐道等見ゆ。

・・・と、最近抜粋ばかりで手抜きもいいとこですが、福田家は、当初南部家、そして後年は九戸一族に従ったようです。

 

現状では、戸籍での戸田村・福田三之亟さんという情報しか存じ上げておりませんが、なにか壮大な歴史がありそうな匂いがします(#^^#)

2008年1月24日の出来事

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ちょうど10年前の今日はこんな日でした。

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当時生後3か月の娘は、頭の後ろがハゲておりますね。生えなかったらどうしようと思っていたあの頃が懐かしいです。

 

5日前の19日にばあちゃんが世を去り、函館で一連の儀式を見届けて帰ってきたのが23日。

釧路空港へお義母さんに迎えに来ていただき、そのまま山田家で夕食をいただいておりました。

じいちゃんとも、ばあちゃんのお葬式はこんな感じだったよ~とかの話をしたりなんかして。

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ひ孫とも触れ合い、それはそれは普通の夜でございました。

 

翌日、久しぶりに仕事へ行き、忌引の間にたまっていたものをうだうだいいながらやってから帰ると、山田のじいちゃんが死んじゃった!とのにわかには信じられない報。

心筋梗塞からの心不全でした。

あまりのショックでなにがなんだか・・・という感じで、とりあえずは忌引から復帰して、わずか1日でまた忌引しないばならんのです~という電話を課長にしたのを覚えてます。

 

じいちゃんの名は山田幹(かん)。

昭和4(1929)年10月25日に釧路郡鳥取村平戸前(現:釧路市北斗)にて、父・綱吉(つなきち)と母・ハルノとの間に、長男(第2子)として生を受けました。

じいちゃんがまだ9歳だった昭和14(1939)年1月、母・ハルノ(享年29)、2月に父・綱吉(享年35)が相次いで他界。両親を失ったじいちゃんは、姉妹とともに綱吉の弟である山田五郎松さんの家で暮らすようになります。

昭和19(1944)年、14歳のときに鳥取村立平戸前国民学校高等科(2年制)を卒業。太平洋炭鉱に入社しますが、曰く坑内に入るのが怖かったとのことで、すぐ退社したとのこと。炭鉱夫というのは事故が多い仕事ですからね。

その後は阿寒町にあった雄別炭鉱鉄道に入社。おなじ炭鉱関係の会社ですが、今度は石炭を輸送するための線路保線が主務なので大丈夫です。

 

昭和25(1950)年11月、親戚の紹介で出会った2歳下の佐藤洋子と婚姻。届出はその時点ではしておりませんでした。

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翌年9月にやっと婚姻届を提出し、その翌月に長子となる義父が誕生。

その後は息子と娘を一人ずつ授かり、三人きょうだいとなって、にぎやかな家庭に。

昭和37(1962)年、阿寒町雄別に転勤となり、一家で転居。その2年後にふたたび釧路市内へ転勤となります。

 

しかし昭和45(1970)年2月、40歳の時でした。

石炭から他の資源へのエネルギー転換、そして炭鉱内でのガス爆発による事故などが重なり、雄別炭鉱が閉山に追い込まれてしまったのです。

じいちゃんは、旧雄別鉄道より貨物運行路線を一部引き継いだ釧路開発埠頭に入社。変わらず線路の保線員として業務に就くことができました。

しかし雄別炭鉱の閉山は、雄別という栄えていたマチが、映画館も病院も、なにもかも跡形もなく消え去ってしまうという、非常に大きな出来事であったそうです。

 

同時期に山田家は釧路市南大通に転居。

当時、釧路といえば全国一の港町。

どういう経緯かは解かりませんが、漁船向け旅館「福助旅館」を自宅で開業します。切り盛りしていたのは主にばあちゃんでした。昼も夜もない生活だったそうです。

昭和62(1987)年、釧路開発埠頭を定年退職ののち、市内の建設会社に再就職。そこではケーソンの製作を主務としておりました。

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▲じいちゃんと妻&妹

 

そのころより、若い時分の無理が祟ったのか、ばあちゃんが病床に伏してしまいました。

じいちゃんはばあちゃんを病院に連れていくのに便利だからと、齢60前にして運転免許を取得。超がつくほどの安全運転ドライバーでした。

仕事をしながら献身的な看護の日々を送っていましたが、昭和63(1988)年末に妻・洋子が57歳の若さで逝去。

その半年後から、長男一家(初孫である私の妻も)との同居生活が始まりました。

そして平成9(1997)年に68歳で退職するまで、じいちゃんは現場を貫き通しました。かっこいいです(#^.^#)

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平成14(2002)年8月、愛車シビックフェリオとの一コマ。

その2年後、脳梗塞で倒れましたが、若干の麻痺がのこるものの見事に復活。

平成19(2007)年には初ひ孫(私の娘)が生まれますが、麻痺が残っていたため、おっかなくて抱っこできたのは一度きりでした。

 

翌平成20(2008)年1月24日、普段は自分で起きてくるじいちゃんが、朝なかなか起きてこなかったらしく、おそらくすでにその時は本調子ではなかったのでしょう。

夕飯時に倒れたじいちゃんは、救急車で市内の病院に運ばれる間、そして着いた後も1時間以上蘇生を試みていただいたものの、そのまま息を吹き返すことはありませんでした。

 

78年の生涯。戒名は「温潤院篤実日幹居士」。人柄が如実に表されている、素晴らしい戒名を授けていただいたと思います。

幼くして両親を亡くし、若くして妻を亡くし、辛いことが多かった人生ではあったと思いますが、周りの人々に慕われ、頼りにされていた立派なじいちゃん。

最後の最後でひ孫を抱かせてあげられたのが、私にとっては唯一のじいちゃん孝行でした。

 

・・・というわけで、10年前のこのころ、私は5日間でばあちゃんとじいちゃんを亡くすという、非常に忘れられない、憔悴した時期であったのです。

菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?

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私の菊地家、そして祖先の菊池家も、ともに鷹の羽がモチーフとなった家紋を使用しております。

何らかの形で「鷹の羽」を家紋としている家の数は、かつて何かで調べた時には、全世帯の9%くらいだった記憶があります。もちろんダントツの1位でした。

 

他の家はどういった謂れがあるかは存じないのですが、キクチ家については、太田亮先生の姓氏家系大辞典を紐解いてみます。

 

以下引用。若干読みやすいように手直ししています。

 

 

菊池氏の紋章
もと日足の紋にて、肥前大村氏、藤原隆家高木氏に同じ。

隆直(則隆-経隆-経頼-経宗-経直-隆直と繋がる、肥後菊池氏6代目)に至り、鷹の羽の紋とす。

隆直出陣のとき、霊鷹が兜に止まり、羽毛二枚を落とす。

故に取りて吉瑞(きちずい:めでたいしるし)を視し「揃い鷹の羽」を紋とし、また違い鷹の羽に改む(国史)と。

また曰く、文永二(1265)年八月、隆能(前述の隆直の孫。肥後菊地氏8代目)初めて鷹の羽を用う。或はまた經直(前述の隆直の父、菊池氏5代目)の代と為す(事蹟通考)。

蒙古戦(1293年ころ?)絵巻物・既に鷹の羽なり。

また菊池風土記「幕本紋・三亀甲、左巴、雪折篠、三篠松、開扇、鷹羽、鶴の紋。幕紋当紋・嫡子は揃鷹羽、左巴。庶子は違鷹羽、向鶴。幕紋出事・嫡子は五布掛、脇四布掛。庶子は三布掛、脇二布掛。幕縄・嫡子は左縄の定。庶子は右縄の定。同縄之色・青白黒、天地人の三才也。旗長四尺八寸、或七尺八寸、同竿長一丈三尺、或は一丈に尺八寸。手長旗三尺七寸、広一尺八寸。鎌倉伝来紋、嚞、吉文本紋也。云々。右の旗・隆直以前に用いしなるべし。隆直以後よりは、鷹の羽也。因りて太平記箱根合戦(十四巻目)の所に、鷹の羽の紋の旗一流差し揚げて、菊池肥後守武重三百騎にて馳せ参り給うと云々。春日、若宮、稲荷の三社は代々尊崇也」と見ゆ。

また見聞緒家紋には、菊池は「並び鷹の羽」。また菊の紋は後醍醐天皇より賜りたりと云うも、その実氏名によるべし。

 

むぅ。見栄切った割には読みづらいし意味が分からないところが多い(+_+)

・・・大事なのは、菊池隆直が戦に行くとき、鷹が二枚の羽を落としたというトコですね!

 

キクチ家が鷹の羽を紋とするのは、この故事からきているそうです。

 

そして嫡子ということは本家ですか、揃い鷹の羽、いわゆる並び鷹の羽ですね。

庶子というのは分家ですね、違い鷹の羽を用いていたようです。

もうそのころから、そんな感じだったのですね。

 

それから750年くらい経っているのに、それが脈々と引き継がれているのにロマンを感じるのを禁じ得ない39歳の冬。

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2008年1月20日の出来事

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ちょうど10年前の今日はこんな日でした。

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当時生後3か月の娘を連れて、釧路空港から飛行機に乗って函館へ向かいます。

実家に帰ると、誰も居ませんでした。

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ちょうど10年前の今日は、ばあちゃんのお通夜の日。

 

もうそんなに時間が経ったんだなぁ。

 

私がついたころには、ばあちゃんの部屋から介護ベッドが消え、すっかりお迎えモードに入っておりましたね。

 

ばあちゃんは大正3(1914)年に茨城県筑波郡吉沼村牛縊(現:つくば市上里)の太田家に次女(第3子)として生を受け、10歳ころに一家で北海道網走郡女満別村本郷(現:大空町女満別本郷)に入植。

その後は野付牛町の野付牛女子職業学校(現:北見柏陽高校)を卒業し、教員の免許を取得。裁縫の先生をしておりました。

そして肋膜炎の湯治のために訪れていた弟子屈川湯で3学年年下のじいちゃんと出会います。

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結婚にあたって、いろいろ両家であったような話も聞いたような気がしますが、昭和14(1939)年に25歳で結婚して菊地家に入り、4男3女の子宝に恵まれます。

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▲これは末っ子である昭和26(1951)年生まれの父ちゃんが3歳くらいのときかな?

しかし、弟子屈の町で写真屋を営んでいたじいちゃんが借金の保証人になってしまい、夜逃げ同然でオホーツク上斜里村(現:清里町)へ移住。

その後は女満別や北見を転々とし、再び弟子屈へ戻り、じいちゃんは写真屋を再興。

昭和45(1970)年、子どもたち全員が独立してホッとしたのもつかの間、9月にじいちゃんが脳溢血で急逝。

ばあちゃんは突如未亡人となり、一人暮らしとなってしまいました。

 

翌年、弟子屈を引き払ったばあちゃんは、子どもたちの暮らす釧路市に転居。

私も家が近かったために、よく遊びに行ったり、おつかいにいったりしましたね。

ネコが大好きで、飼い猫とは別に半ノラの猫たちも家にいっぱいいたので、私がネコ好きなのはばあちゃんの仕業です。

釧路では伯父一家と暮らしておりましたが、平成13(2001)年に末っ子である私の父が住む函館に移住。

奇しくも太田の家紋である桔梗紋と同名の桔梗町で晩年を過ごしました。

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それから7年弱。94歳の誕生日目前の旅立ちでした。

まだまだひ孫たちも小さいので、目を離さずに空から見守っていてほしいものです(*‘∀‘)