家系探求方法②~身近な戸籍を遡る②
・・・前回の続き。
前回は両親までの戸籍謄本を取得しましたが、次は祖父母の戸籍謄本です。
2007年夏、私は夏休みを利用して、両親の実家の戸籍がある父方の弟子屈町と母方の小清水町に行くことにしました。
朝5時半に家を出て、まずは車で約2時間の小清水町に向かいます。
小清水町役場の戸籍係で親の戸籍謄本を見せて、
「母の実家・平野家の戸籍謄本を遡ることができるだけ出していただけますか?」とお願いしました。
・・・待つこと30分。なんかずいぶん古めかしい戸籍謄本が出てきました。しかもB4版で。ちなみに釧路はA4版でした。
明治30年代に作製された戸籍を筆頭に、3部の戸籍謄本および除籍謄本。
この小清水にあった最も古い明治30年代の戸籍謄本は、高祖父・平野儀三郎が戸主であるもの。
それはお墓に刻まれている、私の知った名でした。
しかし、儀三郎の「養父」として記載されている平野丑松の名を知るのは初めて。
しかも生年月日に「文政」の元号。
この作業を始めて、「江戸時代」を感じたのはこれが初めてでした。異様な興奮を覚えたものです。
さらには小清水以前の地名が記載されていました。
儀三郎が北海道に来る前に居たと思われる「東京都北豊島郡大泉村小榑」、
小清水の直前に居たと思われる「北海道瀬棚郡利別村」。
そして、儀三郎の別のもう1部の謄本には「樺太恵須取郡恵須取町」という地名。
明治30年代に小清水に来てから、さらに昭和10年に樺太に渡った記録。
祖父から樺太時代の話は良く聞いていましたが、公文書に確かに記された「樺太」の文字は、なにか歴史の重みを圧倒的な強さで感じさせるものでした。
もう1部は祖父が戸主で、樺太から小清水に戻ってきてからの戸籍謄本。これに母の名が記載されていました。
曽祖父が戸主である謄本が無いのは、樺太に渡ったのちに高祖父よりも先に逝ってしまったためです。
高祖父・儀三郎も、樺太恵須取で命を落としました。
結果、祖父が16歳で家督相続を行ったことも記載されていました。
また、昭和30年代に戸籍法が改正されて戸籍が「家族」単位になる前は、戸籍は「家」単位でしたので、
おじおばの出生地などが判明したのも面白いですね。戦中とかはバラバラ。一定してなかったんだなぁ。当時の苦労が偲ばれます。
小清水でできるのはここまででした。
次は、これらの謄本に記載されている利別村、大泉村、恵須取町の戸籍を取得します。
帰ってから今はどこの市区町村になっているかを調べなくてはなりません。
そして急いで弟子屈町役場へ向かいます。釧路~小清水のちょうど中間に位置する町です。
私の姓である菊地家。
しかし、弟子屈以前はどこにいたのかは少なくとも父は知りませんでした。
ついにそれを知ることができる瞬間が来るのです。
また30分ほど待つと、やっぱりB4版の謄本が出てきました。
田舎はB4なのかな~?見やすくていいのかもしれませんが、保存にはちょっと不便かも。
こちらももっとも遡れて、高祖父・菊地幸吉が戸主の除籍謄本。
大正2年に「福嶋県東白川郡豊里村東舘」より当時の屈斜路村御料地に転籍したとの記載。
そうか~福島だったんだ~。
なんでかすごく意外な気分でした。
帰ってから調べてみたら、限りなく茨城だったのも意外でしたけど。
そして「御料地」っていう地名は何だ?不思議な地名・・・。
高祖父が戸主の除籍謄本が2通、もう1通は祖父の戸籍謄本。
まだ当時は祖母が健在だったので除籍謄本ではありませんでしたが、2008年に祖母が他界したのでその時点で除籍謄本になっちゃいました。
小清水の平野家と同様、菊地家も曽祖父が高祖父より先に他界しているので、曽祖父が戸主の謄本はありませんでした。
平野家と違うのは、福島からダイレクトに弟子屈だったので、これから調べる手間が少なくて済むなぁ・・・と思ったこと。
さぁ、家に帰って次の段階に向けての調査。
もうクルマで行けるようなところは無さそうだぞ!