真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

おもえば変だけど・・・な戸籍謄本

家系のインデックス

 

あれは13年前になりますか。

娘が生まれるとわかった時から、子どもに祖先のことを伝えるべく家系探求を始めたばかりの頃でした。

母方平野家の戸籍や除籍を取得するべく、身重の妻に留守を託し、夏休みを利用して小清水町役場を訪れたのです。

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その時点では、わたしの知識もピカピカの一年生。

出してもらった戸籍を見て、おぉ・・・知らない情報がわんさか載ってる~~(◎_◎;)と、大興奮していたものです。

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2007年当時はまだ戸籍が電算化されておらず、原本からのコピーだったのでけっこう待たされましたね。保存のしづらいB4サイズでしたし。

 

小清水町の戸籍でもっともさかのぼることができたのは、高祖父・平野儀三郎(1866~1939)が筆頭のもの。

大正5(1916)年6月に小清水村へ転籍してきており、その際に編製された戸籍になります。

小清水以前には、明治34(1901)年4月8日に道南の利別村(現在の今金町)に転籍してきており、さらにその前は東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区西大泉地区)に籍があったことが記載されていました。

 

そしてこの頃はまったく疑問に思わなかったのですが、この戸籍には儀三郎の義父母(儀三郎は婿養子なので)や義妹夫婦が在籍しています。

しかし、なんということか・・・父母も義妹夫婦も、東京に戸籍を置いていたころにすでに分家して、籍を離れているのですよ(; ・`д・´)

 

義父・平野丑松(1827~1903)の欄には、こう記されています。

『明治17(1884)年1月24日隠居
明治28(1895)年2月23日東京府北豊島郡大泉村大字小榑1582番地へ妻子携帯分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・

 

また、義母・はつ(1819~1910)の欄には、

東京府北多摩郡田無町  下田忠藏長女
明治28年2月23日夫丑松に従い分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・

 

丑松夫妻については東京時代の明治28年に分家しておりますので、その後の明治34年に転籍した利別村、そして大正5年に転籍した小清水村の戸籍に記載される必要のない人物であったのではないかと思われます。

また、丑松夫妻とともに義妹(儀三郎の妻である「いち(1863~1953)」の妹)夫妻も丑松に従って分家。

この、妹である「かの」の夫で、加藤家からの養子である音五郎が、本家を継いでおります。

この音五郎夫妻も、利別村、そして小清水村の戸籍に在籍しているのです。

 

当時はこういうものなんだなっていう理解だったのですが、その後、他にそのような除籍になった人が転籍後にも載っている戸籍を見ることがなかったため、この戸籍が特別おかしいんだなと思った次第です。

 

しかしながら練馬区は80年廃棄のため、儀三郎の戸籍は残っておらず、もしも利別や小清水の戸籍に丑松たちの名前がなければ、永遠にわからないままだったのです。

これは非常に幸運なことであったと思います。

本来であれば載せなくてもよい人物を、わざわざ記載してくれていたのですから。

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おそらく当時は戸籍係の方も慣れていなく、持ってきた戸籍を基にしてベタに新たな戸籍を編製したため、このようなことになったのでは・・・?と想像しています。なお、利別村の戸籍は、滅失の虞ありということで2度にわたり再製されていますが、丑松たちの記載は残ったままでした。

出会えたことが奇跡だった丑松夫妻、そして最古の名として記載のある丑松の父・平野仙之助。

当時のどたばた、もしくは業務の勘違いにより、たまたま後世に遺された祖先の名。

奇跡に感謝し、もっと後世に伝えていきたいと思います。

 

丑松の父の名ですが、練馬区にギリギリ遺されていた昭和6(1931)年除籍の音五郎の戸籍には、以下のような書かれ方をしています。

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両親の名が空っぽ・・・

たまに旧い戸籍には載っていて、次代の戸籍で父欄が空白になっているものが散見されますが、これはいったいどういうことなのでしょうね・・・?

 

なお、戸主である儀三郎の欄、

『明治16(1883)年4月24日 東京府北豊島郡田無町  新倉治兵衛次男養嗣子入籍

明治17(1884)年1月24日 養父丑松隠居に付き相続

明治27(1894)年12月9日失踪(!)

明治28(1895)年2月17日復帰す

東京府北豊島郡大泉村大字小榑1583番地より転籍届出 明治34(1901)年4月8日受付入籍

北海道瀬棚郡利別村字メップ番外地より転籍届出 大正5(1916)年6月13日受付入籍

斜里郡清水村大字止別村字止別16線29番地に転籍届出 大正13(1924)年3月31日受付

樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に転籍届出 昭和13(1938)年8月20日受付)

昭和14(1939)年2月22日午前3時 樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に於いて死亡 同居者平野とよみ(私のひいばあちゃん。長男の妻)届出 昭和15年5月2日受付
昭和15(1940)年5月20日平野政次(私のじいちゃん)家督相続届出ありたるに因り本戸籍を抹消す』

・・・?

樺太への転籍がカッコ書きになっており、無かったこととされているようです。そのおかげでこれ以後のことがわかったため、これも幸運でした。

 

その翌年、波乱の開拓人生を送った儀三郎は、脳卒中で急逝。

家督を継ぐのは長男・留五郎のはずだったのですが、儀三郎よりも2年前に、罠にかかった熊を始末しようとしたところ、返り討ちに遭って急逝してしまっています。

そのため、若干18歳だったじいちゃんが家督を継ぐことに。

 

儀三郎の失踪や復帰などは、利別の再製されていた戸籍では記載がありませんでした。抹消されたのでしょうね。

 

そんな戸籍と序盤に出会っていたんだなって思うと、ご先祖さまのお導きなんじゃないかなと考えさせられます。